13世紀、日本列島はかつてない恐怖に包まれていました。世界最強を誇るモンゴル帝国が襲来し、国の存亡をかけた戦いが始まったのです。
人々は武力だけでなく、神仏の加護にも勝利を託しました。
その祈りの中心のひとつとなったのが、武の神「八幡神(はちまんしん)」でした。
ここ今治にも、当時の人々が勝利と平安を願い、祈りを捧げた場所が存在します。
それが、「男山八幡大神社(おとこやまはちまんだいじんじゃ)」です。
人類史上最大最強の帝国「モンゴル帝国」
13世紀当時、モンゴル帝国は史上最大級の領土を誇る超大国として、ユーラシア大陸を東西にまたぎ、アジアとヨーロッパを呑み込んでいました。
これを現在の国名でたとえるなら、中国・モンゴル・韓国・ロシア・カザフスタン・ウズベキスタン・イラン・イラク・トルコ・ウクライナ・ポーランド・ハンガリーなど、実に30か国以上の領土を一挙に支配していたことになります。
総面積はおよそ3300万平方キロメートル。これは、現代のロシアとアメリカと中国を足してもなお及ばない規模です。
当時の世界人口の半分近くが、モンゴル帝国の支配下にあったとも言われています。
では、なぜモンゴル帝国はこれほどまでに広い領土を手に入れることができたのでしょうか?
その答えは、軍事・組織・思想の三つの面で、当時の他国を圧倒していたからです。
① 驚異的な機動力を持つ騎馬軍団
- 幼い頃から馬に乗り、身体の一部のように馬を操る習慣を持っていた。
- 一日に100キロ以上を駆け抜けながら弓を放ち、敵を翻弄した。
- 「逃げるふりをして敵を誘い込み、包囲する」など、戦術も非常に巧みだった。
② 組織力と柔軟さ
- 軍隊は厳格な編制に従い、命令系統も明確に整っていた。
- 征服地の技術者を積極的に活用し、実用的な知識や技術を吸収。
- 火薬、投石器、造船など、当時の最新技術を即座に導入する柔軟性を持っていた。
③ 絶対的な征服思想
- 「服属しない国は滅ぼす」という強硬な理念を掲げていた。
- 降伏しない国や都市に対しては容赦なく侵攻・殲滅を行った。
- あらゆる国・民族に対して妥協のない征服戦争を続けた。
このような軍事力・組織・思想の三拍子が揃っていたからこそ、モンゴル帝国は当時、当時どの国も逆らえないほどの「最強国家」だったのです。
「フビライ・ハン」
そして、この巨大帝国の頂点に立ち、世界を見据えて指揮を執っていたのが「フビライ・ハン」です。
1271年、フビライは中国に「元」という新たな王朝を打ち立てました。
当時、中国南部にはまだ南宋(なんそう)という漢民族の王朝が存在し、激しい抵抗を続けていましたが、フビライはそれを徐々に追い詰めながら、中国全土の支配を着々と進めていきました。
そんな中で、次に彼が目をつけたのが、海の向こうの日本列島でした。
モンゴル帝国の脅威
フビライは、まずは外交によって日本を服属させようと考えました。
何度も手紙を送って、日本に「元の支配を受け入れ、友好関係を結ぶよう」求めましたが、鎌倉幕府はこれを無視し、返答を一切行いませんでした。
やがてフビライは、外交を諦め、力によって日本を屈服させることを決意します。
「文永の役」最初の襲来と武力による威圧
1274年(文永11年)、元は朝鮮半島の高麗を従えて大艦隊を編成し、日本への出兵を命じました。
これが、日本史上初の本格的な異国からの侵略「文永の役(ぶんえいのえき)」です。
元軍はまず対馬・壱岐を攻め、島の守備兵や民間人を容赦なく討ち取りながら進軍。
まもなく博多湾に上陸し、数に勝る兵力と火薬兵器を用いて、日本の武士たちを圧倒しました。
元軍の戦い方は、日本の伝統的な一騎討ちとはまるで異なっていました。
太鼓や銅鑼を打ち鳴らし、集団で一人を取り囲む戦法、さらには「てつはう(鉄砲の語源)」と呼ばれる火薬爆弾や毒矢といった未知の兵器を駆使し、日本側に大きな衝撃を与えました。
しかし、元軍はわずか一日で博多を撤退します。
これは、当初から日本を滅ぼすことが目的ではなく、実力を誇示して日本に恐怖と従属を促すことが狙いだったと考えられています。
しかし、日本はこの圧力に屈することはありませんでした。
「弘安の役」大群で日本に進行
1275年、フビライは再び日本を服属させようと使者を派遣しました。
しかし、鎌倉幕府はこれに応じるどころか、使者を捕らえ、鎌倉の竜ノ口で斬首するという強硬な対応に出ます。
これを知ったフビライは激怒し、全面戦争によって日本を屈服させることを決意します。
1279年、元は長年の宿敵・南宋をついに滅ぼし、中国全土を完全に掌握。
そして1281年、元は高麗軍に加え、降伏した南宋の軍勢までも動員され、数千隻の軍船と十数万の兵力をもって、日本に再び進軍を開始しました。
これが、後に「弘安の役」と呼ばれる、二度目の蒙古襲来です。
この大軍は、東路軍(元・高麗)と江南軍(旧南宋)に分かれて出発し、日本を挟み撃ちにする計画でした。
日本の武士たちは、九州各地の海岸で防衛線を築き、激しい戦闘が繰り広げられました。
しかし、兵力・装備・軍事技術において大きく劣る日本側は、圧倒的な侵攻軍の前に、いつ陥落してもおかしくない状況に追い込まれていきます。
八幡神の神風
圧倒的な戦力で元軍が対馬・壱岐を経て博多湾から次々と上陸してくる中、最前線で戦っていた九州の武士たちは、国の滅亡が現実のものとなる恐怖と向き合っていました。
その極限状態の中で、筑前国の「筥崎八幡宮」に祀られる武神・八幡神にすがるようにして勝利を祈りました。
すると、まるでその祈りに応えるかのように、異変が起こりはじめます。
突如として激しい風が吹き荒れ、雷鳴が鳴り響き、波は荒れ狂い、一気に嵐となって、海上の元軍を襲ったのです。
容赦ない暴風にさらされた船は、次々に転覆し、帆柱はへし折れ、兵たちは荒波にのまれていきました。
指揮系統が混乱した元軍は壊滅状態に陥り、日本に上陸していた部隊は補給線は断たれたことで孤立。
やがて一人また一人と、討ち取られていったのです。
こうして日本は、国家滅亡の危機 、まさに神の加護とも思える奇跡によって救われたのでした。
そして、人々はこの暴風の事を、八幡神がもたらした神の加護「神風(かみかぜ)」と呼ぶようになりました。
伊予に勧請された八幡神
この神風の奇跡は、武士たちの八幡神への信仰をさらに深めることとなり、その信仰は全国へと広がっていきました
そして翌年の弘安5年(1282年)8月15日。
伊予国(現:愛媛県)でも、八幡神への信仰の高まりを受けて、国守・河野対馬守通有と河野備後守通純の主導により、筥崎八幡宮から神霊を勧請し、東・中予地域(西条市・今治市・松山市周辺)を中心に、二十八社の八幡宮が創建されました。
その一社が、男山八幡大神社の前身「樹下鎮守八幡宮」になります。
そして、暦応二年(1339年)。
南北朝の戦乱のさなか、武将・鳥生貞実がこの地に石清水八幡宮に祀られている八幡神(男山八幡大神)をあらためて祀り、鎮守としたことにより、社号は現在の男山八幡大神社となりました。
災害を越えた八幡神の祈り
実は、現在の男山八幡大神社は再建されたものです。
明治26年(1893年)10月14日午前4時頃、数日来の風雨と豪雨により、蒼社川、頓田川、谷山川などの河川が決壊し氾濫、全市域に壊滅的な被害をもたらしました。
この大水害により、男山八幡大神社の社殿も壊滅的な被害を受け、継獅子の発祥の地として知られる「三嶋神社・祇園神社(みしまじんじゃ)」に一時的に合祀されました。
しかし、地域の人々の信仰は失われることなく、明治37年(1904年)には、わずか24戸の氏子たちの手で社殿が再建されました。
その後も整備は続けられ、昭和15年(1940年)には紀元2600年を記念して境内が拡張され、平成13年(2001年)には市道の新設に伴い、境内の模様替えも行われました。
その後、昭和15年には紀元2600年記念として境内が拡張され、平成13年には市道新設に伴う境内の模様替えが行われました。
そして男山八幡大神社は今もなお、地域の守護神として親しまれ、例年の祭事では多くの地域住民が参拝し、神社の伝統と文化を守り続けています。