「大山積神社・石井町(おおやまづみじんじゃ)」は、奈良時代・神亀五年(728年)八月二十三日、聖武天皇の勅命により創建されたと伝えられています。
この年、天皇は国家の安泰と五穀豊穣を強く願い、伊予の国・九四郷(くしのごう)に九四社(くしのやしろ)を建立するよう命じました。
これは、災いが多発し始めていた当時の日本において、神々の力によって土地を鎮め、民を守ることを目的とした国家的事業でした。
勅命を受けた国司の祈り
この大事業を担ったのが、伊予国司であった小千宿弥玉興(おちのすくねたまおき)と、その子・越智玉純(おちたますみ)父子でした。
聖武天皇の命を受けた二人は、伊予の九四の郷それぞれに社を建て、大三島に鎮座する大山祇神社の御祭神「大山積大神(おおやまつみのおおかみ)」を分霊し、勧請していきました。
こうして建てられた神社の中の一つが、今治市石井町の大山積神社になります。
「古別宮」と呼ばれる格式
大山積神社・石井町は、古くから「古別宮(こべつぐう)」と称されており、陸地部における別宮の中で最も高い社格を与えられました。
「別宮」とは、本宮に次ぐ格式で神を祀る社のことであり、とりわけ本宮である大三島の大山祇神社と極めて近い神威を帯びた場所とされていたことを意味しています。
「古別宮」という呼称は、制度上の明確な定義が存在するわけではありませんが、この神社が早い時期に正式な形で勧請され、長く地域の信仰を受け継いできたことを示す、尊敬と誇りを込めた地域独自の伝承的な称号と考えられます。
背景にあった国難と信仰の変化
大山積神社・石井町の創建から約7年後、日本を襲ったのが天然痘の大流行でした。
735年から737年にかけて、朝鮮半島を経由して上陸したこの疫病は、日本列島を一気に覆い尽くし、数多くの貴族や官僚が命を落としました。
地方でも多くの民が亡くなり、田畑は荒廃し、朝廷機能までもが麻痺する大惨事となりました。
こうした時代において、聖武天皇は仏教の力に国家再建の希望を託すようになります。大仏の建立や国分寺の設置とともに、神仏の力を全国に分かち、鎮護国家を実現するための神社勧請政策が進められていったのです。
その初期段階とも言えるのが、伊予の九四社の設置であり、大山積大神の勧請であり、そしてこの石井町の大山積神社の創建でだったのです。
一本松の記憶と扁額の由来
大山積神社・石井町の扁額には、かつてこの地で命を落とした人々を悼み、その記憶を大切にしてきた村の人々の思いが、静かに刻まれています。
天正十一年三月、近見山城主であった重見氏は、土佐の長宗我部元親の軍勢と、近見山の麓・狭間の原で戦いました。
戦は河野勢にとって厳しく、重見氏の兵たちは石井村へと撤退しましたが、力尽き、ほとんどの兵が討たれたと伝えられています。
その後、村の人々は亡くなった兵たちの遺骸を一所に葬り、その塚の上に一本の松を植えました。
この松は時を経て「一本松」と呼ばれるようになり、その場所は「野津子(のずこ)」と名付けられました。
松は年々大きく育ち、人々の暮らしの中で静かに守られてきました。
やがて寛政年間に入ると、村人たちはこの松を祇園牛頭天王の御神木として祀るようになりました。
牛馬の守り神として信仰され、毎年五月四日には神事が行われるようになりました。この松は、地域の人々にとって大切な神さまの象徴になっていったのです。
しかし、明治三年、明治政府による神社制度の再編が進められる中で、この松にも伐採の命令が出されました。
当時、この松は樹齢二百八十八年、高さ十三間(約23.5m)、東西十九間、南北十八間に及ぶ大木でした。
ただの木ではなく、人々の記憶と祈りが宿った木だったのです。
伐採の知らせを受けた村人たちは話し合い、どうにかしてこの木の記憶を残そうと考えました。
そして、二面の扁額を作り、大山積神社の神前に奉納することにしました。
それが、今も神社に掲げられている扁額です。
近見山のふもとに生きる信仰
大山積神社は、今も近見山のふもとに静かに佇む小さな社として、その歴史を今に伝えています。境内には大山積大神を祀る本殿のほか、稲荷神社や杵築神社(大国主命を祀るとされる)などがあり、木々に包まれた境内には神聖な空気が漂っています。