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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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大山積神社・石井町(今治市・近見地区)

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近見山のふもと、今治市石井町の緑深い里山に鎮座する「大山積神社・石井町(おおやまづみじんじゃ)」 は、古くから災厄を鎮め、土地を守り、民の暮らしを見守り続けてきました。

時代背景

大山積神社・石井町(おおやまづみじんじゃ) は、奈良時代初期・神亀五年(728年)八月二十三日、聖武天皇の勅命を受け、伊予の豪族 越智玉純(おちたますみ) が大三島の大山祇神社から御祭神・大山積大神を勧請し、創建されたと伝えられています。

大山積大神の神威と御神徳

大山積大神 は古くから「山の神」「海の神」「戦の神」として崇められ、
山々や海を司り、国土の守護、五穀豊穣、航海安全、そして武運長久をもたらす神として信仰されてきました。
その神威は、国を護り、民を守り、災厄を退ける大いなる力とされ、特に海と山に生きる人々から篤い崇敬を集めていました。

大山積神社・石井町は、この御神威に国の安寧を託し、国土の鎮護と民の安寧を祈る国家的事業の一環として、伊予国の地に 大山積大神の神威 を広めるために築かれたものでした。

時代背景

当時の日本は、律令国家としての体制を整えようとする一方で、さまざまな試練に直面していました。

若くして即位した聖武天皇のもと、国家の政治は不安定でした。朝廷では藤原氏と他の貴族たちの対立が続き、その争いが政治の混乱を招いていたのです。国をまとめる力は弱まり、民の暮らしも平穏とはほど遠いものでした。

さらに、自然災害や飢饉が各地で繰り返し起こり、人々を苦しめました。特に西日本では洪水や干ばつ、地震などが相次ぎ、民の心には不安が広がっていたのです。

このような時代の中で、聖武天皇は国の安泰と人々の平和を願い、神や仏の力で災厄を鎮めようとしました。神社や寺院を各地に建て、神祇祭祀を強め、鎮護国家の思想を国家の柱としたのです。神亀年間に出された神社創建の詔勅は、こうした国家的祈りの表れであり、大山積神社・石井町 の創建もその一環に位置づけられます。

その後、神亀年間の終わりから天平年間にかけて、天然痘の大流行(735〜737年)や大規模な天災が日本を襲いました。しかし、大山積大神をはじめとする神々の力に国土を託す信仰は、すでにこの時代の祈りの中に深く根づいていたのです。

「古別宮」と呼ばれる格式

大山積神社・石井町は、古くから「古別宮(こべつぐう)」と称されており、陸地部における別宮の中で最も高い社格を与えられました。

「別宮」とは、本宮に次ぐ格式で神を祀る社のことであり、¥本宮である大三島の大山祇神社と極めて近い神威を帯びた場所とされていたことを意味しています。

「古別宮」という呼称は、制度上の明確な定義があるわけではありませんが、この神社が早い時期に正式な形で勧請され、長く地域の信仰を集め続けてきたことを示す尊敬と誇りを込めた地域独自の伝承的な称号と考えられます。

一本松の記憶と扁額の記録

大山積神社・石井町 には、かつてこの地で命を落とした人々の魂を悼み、その記憶を大切にしてきた村人たちの深い思いが、今も 扁額(へんがく) に静かに刻まれています。

近見山の戦いと一本松

天正十一年(1583年)三月、近見山城主・重見氏は、土佐の長宗我部元親の軍勢と近見山の麓、狭間の原で激戦を繰り広げました。

戦況は河野勢にとって厳しく、重見氏の兵たちは石井村へと撤退しましたが、力尽き、ほとんどの兵が討たれてしまいました。

戦の後、村人たちはその戦で命を落とした兵たちの亡骸を手厚く葬り、塚を築き、その塚の上に一本の松を植えました。

この松はやがて「一本松」と呼ばれるようになり、年々大きく育ち、村人たちの祈りとともに静かにこの地を見守り続けました。

「野津子(のずこ)」戦乱と祈りの記憶を宿す地名

さらに、この塚とその周辺の地は 「野津子(のずこ)」と名付けられました。

この地名には、戦で命を落とした人々の霊を鎮め、忘れぬようにという村人たちの思いが込められていると考えられます。

戦の後、村人たちはその戦で命を落とした兵たちの亡骸を手厚く葬り、塚を築き、その塚の上に一本の松を植えました。

この松はやがて「一本松」と呼ばれるようになり、年々大きく育ち、村人たちの祈りとともに静かにこの地を見守り続けました。

「ノツゴ(ノヅコ)」妖怪と祈りの交錯

「野津子」という地名は、単なる地理的呼称にとどまらず、ノツゴ(ノヅコ) と呼ばれる妖怪伝承と深く結びついていると考えられます。

ノツゴは、四国西南部、特に愛媛県や高知県の山間・農村地帯に古くから伝わる妖怪で、御霊信仰の色濃いこの地ならではの存在です。

ノツゴの正体は、戦国の戦乱、飢饉、間引き、堕胎などで非業の死を遂げた人々や幼子の魂が、成仏できずにこの世をさまよい続ける存在だと信じられてきました。

無念の死を遂げた霊・怨霊が、夜の闇にまぎれて人の心に訴えかけ、時にその歩みを妨げる。

それは単なる妖怪ではなく、村人たちにとって「鎮魂の声」でもありました。

このためノツゴは、御霊として畏れられるとともに、ただ恐れるだけではなく、その魂を鎮め、祀り、安らかに成仏していただこうと願いを込め、さまざまな祈りの行為を行ってきました。

この地に塚を築き、松を植え、扁額を掲げ、神前に手を合わせたことは、こうした霊魂への鎮魂と祈りの行為であり、村人たちの切なる思いの表れでもあったのです。

ノツゴの姿と伝承

ノツゴの特徴は地域によりさまざまに語り継がれていますが、共通するのは「夜道で遭遇する不気味な存在」であるという点です。

  • 赤子の声のノツゴ
    夜道で「オギャアオギャア」と赤子の泣き声が響き、足がすくんで動けなくなるとされました。特に高知県幡多郡や愛媛南部でよく語られます。
  • 草履を求めるノツゴ
    「草履をくれ」と声をかけ、足が重くなる、動けなくなると恐れられました。草履の乳や草鞋の鼻緒を切って投げると解放されるとされます。
  • 歩行を妨げるノツゴ
    姿を見せず、足をもつれさせ、船の漕ぎ手なら手足をしびれさせ、漁をできなくしてしまうとも言われます。

これらの現象は、単なる迷信ではなく、戦乱の死者、間引かれた子、堕胎された命など、社会の暗部の記憶が妖怪の姿となって語り継がれたものといえます。

高知・愛媛に残るノツゴの地名と風習

四国各地には、ノツゴにまつわる地名がいまも残っています。

  • 高知県佐川町丙「野津ゴ」
  • 高知県佐川町黒畑「野津午」
  • 高知県日高村本郷「野津子」
  • 高知県土佐市谷地「野津後」
  • 愛媛県東予市(現・西条市)にも小字として「野津子」が確認されています。

また、愛媛南部の御荘町(現・愛南町)では、非業の死を遂げた幼子の墓に、近親者の草履の乳を一緒に埋め、霊が家族への未練を断ちあの世へ旅立つことを願う風習がありました。

このため、ノツゴに出会ったとき草履の乳を投げると霊が消えるという言い伝えが生まれたとされます。

さらに、松山地方では5月5日に牛馬の守り神「ノツゴ神」を祀る風習があり、ノツゴは元来「野神(のかみ)」であり、田畑や家畜を守る神であったとする説もあります。

祇園牛頭天王の御神木

時は流れ、寛政年間(1789〜1801年)、村人たちはこの松を 祇園牛頭天王 の御神木として祀るようになりました。

牛馬の守護神として信仰され、毎年 五月四日 には神事が行われるようになり、この松は地域の守り神、祈りの象徴となっていったのです。

祇園牛頭天王は、古くから日本において疫病除け、厄除け、牛馬の守護神として広く信仰されてきた神です。

元来、祇園社(現在の八坂神社)で祀られていた神で、疫病や災厄を退け、民を守る力を持つとされました。

平安時代以降には、神仏習合が進む中で、祇園牛頭天王は日本神話の須佐之男命(スサノオノミコト)と同一視されるようになりました。

須佐之男命は、荒ぶる神でありながらも国土を守り、災厄を退ける力を持つ神として、牛頭天王の性質と重ねられました。

この習合により、祇園祭(京都八坂神社の祭礼)などが全国に広まり、牛頭天王信仰は日本各地へと広がっていったのです。

牛馬神としての信仰と村落共同体

祇園牛頭天王は、特に牛馬の守護神としても強く信仰されました。

農村社会において、牛や馬は田畑を耕し、人々の暮らしを支える大切な働き手であり、その健康や無事を願うことは、村落全体の繁栄を願うことそのものでした。

四国や西日本の農村では、御神木や神事を通じて牛頭天王への祈りが捧げられ、牛馬の息災と村の安寧を願う祭祀が大切に守られてきたのです。

こうした信仰と祈りが根付いた風土の中で、、野津子の一本松が祇園牛頭天王の御神木とされたのは、ただの偶然だとは考えられません。

この松は、戦乱で犠牲となった魂を鎮めるために植えられた記憶の木であり、同時に、村人たちが牛馬をはじめとする村の生業を守り、災厄を遠ざけようとする祈りの象徴でもあったのです。

明治の伐採と記憶を繋ぐ扁額

しかし、時代の流れは大きな転換点を迎えます。

明治維新後、新政府は国家の近代化と中央集権化を進める中で、宗教制度も整理・統制しようとしました。

その一環が神仏分離令(1868年) です。これは、長く習合してきた神道と仏教を明確に分離し、神道を国家の精神的支柱とする「国家神道」の確立を目指すものでした。

この流れの中で、全国の神社は大規模な再編や整理の波に飲まれ、多くの小さな社や神仏習合の名残をとどめる祭祀対象が排除され、古くから守られてきた御神木や社有林も「不要」とみなされ、失われていきました。

こうした政策の影響で、この一本松 にも、明治三年(1870年)、伐採の命が下されたのです。

この時、樹齢288年。

高さ約23.5メートルにも及ぶ大木は、村人たちの祈りと記憶の象徴でした。

伐採の命は、まるでその祈りや歴史までも断ち切るかのように感じられたことでしょう。

そして、伐採の知らせを受けた村人たちは、「せめてその記憶を後世に伝えよう」と心をひとつにし、二面の扁額を作り、大山積神社の神前に奉納したのです。

これこそが、今も大山積神社・石井町の社殿に掲げられ、静かに訪れる人々に語りかけている扁額 です。

その扁額は、時を越えて村人たちの祈りと記憶、そしてこの地に生きた人々の心を今に伝え続けています。

神社名

大山積神社・石井町(おおやまづみじんじゃ)」

所在地

愛媛県今治市石井町5-421

電話

0898-22-3532

主祭神

大山積命

主な祭礼

5月第2日曜日(例大祭)

境内社

杵築神社

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