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大山祇神社(今治市・大三島)

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瀬戸内海のほぼ中央、穏やかな波に抱かれるように浮かぶ大三島。

その中心に鎮座するのが、日本有数の古社として名高い「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」です。

豊かな自然に囲まれ、太古の昔より人々の祈りを受けとめてきたこの神社は、愛媛県最古の神社にして、全国に約1万社を数える山祇神社・三島神社の総本社にあたります。

大山祇神社は、古代より「日本総鎮守」とも称され、日本全土の氏神様としてその神威を仰がれてきました。その神聖なる存在感は、時代を超えて多くの人々から篤く敬われ、圧倒的な歴史と格式を誇ります。

御祭神「大山積大神」

本殿に祀られている御祭神「大山積大神(おおやまづみのおおかみ)」は、神話において天照大神の兄神にあたり、『古事記』『日本書紀』では山の神とされています。

しかし、その神格は単に「山の神」にとどまらず、自然の循環全体を司る存在として崇められてきました。

山に降り注いだ雨は、やがて清らかな湧水となって谷を下り、川となって平野を潤し、やがて穏やかな瀬戸内の海へと注がれていきます。そしてその水は再び蒸気となって天へと還り、雲を呼び、再び雨となって山を潤す。

古代の人々は、この自然の流れの中に神の力を感じ、山と海を切り離せない一体のものと捉えました。

そして、農業に従事する人々にとっては、恵みの水をもたらす神として豊作を、漁業者や航海者にとっては、海の神として航海安全や大漁を祈る対象「自然神」となったのです。

現代においても、自然との共生を願う多くの人々によって、その御神徳は大切に受け継がれています。

神名の由来と表記の多様性

大山積大神は、古来よりさまざまな文献や神社において多様な名称・表記で伝えられてきました。

これらの表記の違いは、時代や地域、神の性格への理解の変遷を反映しています。

  • 『古事記』:大山津見神(おおやまつみのかみ)
  • 『日本書紀』:大山祇神(おおやまづみのかみ)
  • 『釈日本紀』が引用する『伊予国風土記』逸文:大山積神(おおやまづみのかみ)

さらに、奈良時代初期(8世紀前半)に編まれた『伊予国風土記』の逸文には、「御島(大三島)に鎮まる。神の名は大山積大神、またの名を和多志大神なり」とあります。

この「和多志大神(わたしのおおかみ)」という名は、「渡し」や「航(わた)る」といった語義を持ち、古代の人々が大山積神を単なる山の神にとどまらず、海を越えて神がやって来る「渡来神」あるいは「航海神」として崇めていたことを示しています。

また、大三島そのものが、神の宿る神聖な「御島(みしま)」として、古くから特別な敬意をもって扱われてきたことが、この記述から読み取れます。

このほかにも「三島神(みしまのかみ)」や「三島大明神(みしまだいみょうじん)」。

山から湧き出る清らかな水が酒となって神前に供されるという自然観に基づき、「酒の神・醸造の神=酒解神(さかとけのかみ)」としても信仰されてきました。

さらに、こうした自然信仰に加えて、近年では産業や工業を支える神としての側面も重視されるようになり、商売繁盛や事業の成功を願って、全国各地から多くの参拝者が訪れています。

「武神」戦いの神様としての信仰

さらに、大山積大神の信仰において重要な側面のひとつが、「戦の神」、すなわち武神としての信仰です。

伊予国の有力な豪族であった河野氏や、村上水軍の御三家のひとつである来島村上氏は、瀬戸内海を舞台にした数多の海上戦において、大山積大神を深く信仰してきました。

戦に明け暮れた当時の武将たちは、出陣のたびに「山と海の神」である大山祇神のもとへ戦勝祈願に訪れました。

大三島の大山祇神社は、まさにその祈りの拠点であり、武運を授かる場として崇敬されていたのです。

こうした信仰は、戦乱の世を生き抜くための精神的な支えとなり、大山積大神は「勝利をもたらす武神」としての神格を一層高めていきました。

神話から現代まで続く戦勝祈願

現代においても、大山積大神は勝負運や戦勝祈願の神として、数多くの参拝者に崇敬され、日本を守る立場の重要人物たちが、この神社を篤く信仰してきました。

たとえば、三笠宮殿下や浩宮殿下(現・天皇陛下)をはじめ、初代内閣総理大臣・伊藤博文など歴代の政治家たちが参拝に訪れた記録が残されています。

また、旧日本海軍の連合艦隊司令長官として名高い山本五十六も、大山積大神への深い敬意を抱き、出征の折に戦勝を祈願して神前に頭を垂れたと伝えられています。

今日では、海上自衛隊や海上保安庁の幹部たちも、大山積大神を「海の守護神」として篤く信仰し、その加護を願って足を運んでいます。

さらに、元日本代表監督である岡田武史さんがオーナーを務めるFC今治も、2015年からシーズン前に大山祇神社で必勝祈願を行っています。

大地と水を司る神々

大山積大神の御神徳を補佐するように、境内の上津社には「大雷神(おおいかづちのかみ)」が、下津社には「高靇神(たかおかみのかみ)」がお祀りされています。

大雷神は雷を司る神であり、天地のエネルギーを象徴します。その雷鳴は大地を潤す雨を伴い、豊かな作物をもたらすとされ、農耕において重要な神格とされています。

高靇神は、水の流れを司る水神です。雨や川、海の流れなど、自然界の「水のめぐり」を掌るとされ、田畑を潤す農業の守護神であると同時に、海を生活の場とする人々にとっては漁業や航海の安全を守る海神として信仰されてきました。

このように、雷・水・山という自然の恵みを象徴する神々が一体となって祀られることで、大山祇神社は「自然と共に生きる」人々の暮らしを支える神聖な場所として、古来より深い崇敬を集めてきたのです。

神紋「折敷に揺れ三文字」

大山祇神社の神紋は、「折敷に揺れ三文字(おしきにゆれさんもじ)」、あるいは「隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもんじ)」と呼ばれ、古来よりこの神社の象徴として用いられてきました。

神紋とは

神紋(しんもん)とは、神社において神格や祭祀の性格、由緒などを視覚的に表す紋章であり、いわば家における家紋に相当するものです。

社殿や神輿、幟(のぼり)、神具、社務所の印章などに用いられ、神の存在とその威光を象徴します。

デザインの特徴

「折敷に揺れ三文字(隅切折敷縮三文字)」は、四隅が切り取られた八角形の「折敷(おしき)」の中に、波型の「三」の文字があしらわれたものです。

折敷とは、神事や儀式で供物を捧げる際に用いられる白木の台で、神聖な場面で使用されることから、神紋としてもその神聖さが表現されています。

折敷には形状によって呼び名が異なり、四角いものを「傍折敷(おしき)」、八角形のものを「隅切折敷」、内側に角が入り込んだものを「隅入折敷」と呼び分けることがあり、大山祇神社では八角形の隅切り折敷が採用されています。

「神紋から家紋へ」神を背負った伊予の武士

ここの神紋は、大山祇神社の氏子であった越智氏に始まり、その子孫である河野氏、さらに来島村上氏へと受け継がれ、家紋として用いられるようになりました。

これはただの紋ではなく、大山積大神の御加護を受けてこの地を護り、戦場に臨んだ武士たちの誇りと覚悟を映し出す象徴でもあったのです。

例えば、平安時代末期の源平合戦では、河野通信(こうの みちのぶ)は一族の三島水軍を率いて源氏側に付き、壇ノ浦の戦いにおいて源氏の勝利に大きく貢献しました。

壇ノ浦の戦いは源平合戦の決定的な戦いであり、源氏が平家に勝利することによって日本の新たな時代が切り開かれた重要な局面です。

河野通信が率いた三島水軍は、瀬戸内海の地形や潮流を熟知しており、源氏にとって大きな力となりました。

この戦いにおける河野通信の奮戦は、神の加護を信じて戦う武士としての忠誠と勇敢さを象徴しており、神社への崇敬が源氏の勝利に貢献した象徴的な出来事とされています。

今治に息づく大山積大神の神紋

こうした大山積大神への篤い信仰は、河野氏や来島村上氏の拠点各地にも波及し、多くの分霊社や三島神社が祀られるようになりました。

現在も今治の各地には、大山祇神社からの分霊を祀る神社が点在しており、地域の守護神として人々の暮らしに根ざしています。

そして、それらの神社には「折敷に揺れ三文字(隅切折敷縮三文字)」の神紋が掲げられ、大山積大神の神威とこの地の歴史を今に伝えています。

【創建伝説①】神武天皇と乎知命

大山祇神社の創建には、古代神話に由来する複数の伝承が伝えられています。

その中の一つが、初代天皇・神武天皇(じんむてんのう)による「神武東征(じんむとうせい)」にまつわるものです、

神武天皇と日向の地

神武天皇(神倭伊波礼琵古命・かむやまといわれびこのみこと)は、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の遠い子孫として、日向の国(現在の宮崎県)に生まれました。

この日向の地は、高千穂峰(たかちほのみね)をはじめとする天孫降臨の舞台とされる、神聖な場所です。

神武天皇は、兄弟たちとともに日向で地域を治めていましたが、やがて「この地は西の果てであり、天下を治めるにはふさわしくない」と考えました。

そこで、中央の地・大和(奈良県)を目指すことを決意し、兄弟や皇子たちとともに船出しました。

『日本書紀』によれば、このとき神武天皇は45歳だったと伝えられています。

苦難の東征と八咫烏の導き

神武一行は、宇佐(大分県)、安芸(広島県)、吉備(岡山県)を経て瀬戸内海を東進し、難波(大阪)、河内(東大阪)へと進みました。

しかし、大和の地にはすでに長髄彦(ながすねひこ)という土着の勢力が存在し、神武たちは激しい抵抗を受けます。この戦いで、神武の兄・五瀬命(いつせのみこと)が命を落とし、一行は苦境に立たされました。

そのとき神武は、「我々は太陽の昇る東から、西へ向かって進んでいる。これは天照大神の御心に反しているのではないか」と思い至ります。

進軍の方向を見直した神武は、南回りの道を選び、紀伊(和歌山県)から熊野の山々を越えて大和を目指すことにしました。

熊野では深い山中で道に迷いますが、そこへ天照大神の使いである八咫烏(やたがらす)が現れ、一行を導きました。そのおかげで神武たちは無事に大和の地へとたどり着きます。

橿原での即位と建国

再び大和に入った神武は、長髄彦との決戦に臨み、ついにこれを討ち果たしました。

大和を平定した神武は、畝傍山(うねびやま)のふもとにある橿原(かしはら)の地に都を築き、翌年に即位します。これが日本の初代天皇の誕生とされる出来事です。

明治時代の暦法に基づく計算では、神武天皇の即位は西暦紀元前660年2月11日とされ、現在の「建国記念の日」はこの日に由来しています。

神武天皇は、大物主神(おおものぬしのかみ)の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を皇后に迎え、二人の間には神八井耳命(かんやいみみ)と、のちの第2代天皇・綏靖天皇(神渟名川耳尊・かんぬなかわみみ)が誕生しました。

神武天皇は76年間の在位の後に崩御し、奈良県の橿原神宮に祀られています。現在も建国を祝う祭りが毎年行われています。

大山祇神社の創建と小千命

日本建国の礎を築いた神武天皇の東征の旅路において、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)にも伝承が伝えられています。

それが、大山祇神社の創建にまつわる伝承です。

神武天皇が大和を目指して東征を進めようとしていた頃、すでに乎知命(小千命・おちのみこと)が、先駆けて伊予二名島(四国)に渡って、瀬戸内海の治安維持と航路の守護にあたっていました。

そのなかで、小千命は芸予海峡の要衝である現在の大三島「御島(みしま)」を神域と定め、祖神にあたる大山積大神を祀りました。

これが、大山祇神社の創祀として、今に語り継がれているのです。

御神木「乎知命(小千命)御手植の楠」

現在も大山祇神社の境内には、この伝承を象徴する御神木「乎知命(小千命)御手植の楠」がそびえ立っています。

この楠は、およそ2,600年前に小千命が祖神を祀った記念として自ら手植えしたと伝えられ、樹齢2,600年を数える神木として崇敬を集めています。

さらに、「息を止めたまま木のまわりを三周すると願いが叶う」という古い言い伝えも残されており、現在でも多くの参拝者がその霊験を信じ、静かに祈りを込めながら御神木を巡る姿が見られます。

小千命と神武天皇は親戚関係にあった?

さらに、他の伝承によると、乎知命(小千命・おちのみこと)と神武天皇は遠い親戚関係にあったとも伝えられています。これは、古代神話における系譜をたどることで明らかになります。

大山祇神社の御祭神・大山積大神には、二柱の娘がいたとされます。

そのうちの一人が、吾田津姫(あたつひめ)、あるいは木花開耶姫(このはなさくやひめ)と呼ばれる女神です。

この吾田津姫は、天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、三柱の御子神(三人の子供を)をもうけました。

この三柱のうちの一柱である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と結婚し、「鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」が生まれます。

大山積大神には二人の娘がおり、そのうちの一人、吾田津姫(あたつひめ/木花開耶姫)は、天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、三人の子供をもうけました。

さらに、鵜葺草葺不合尊は、自らの乳母であり叔母でもある玉依姫命(たまよりひめのみこと)と結ばれ、以下の四柱の子を授かりました。

  1. 五瀬命(いつせのみこと)
  2. 稲氷命(いなひのみこと)
  3. 御毛沼命(みけぬのみこと)
  4. 神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと)

このうち末子の神倭伊波礼琵古命こそが、後に初代天皇として即位する神武天皇になります。

この神々の系譜をたどると、大山積大神は神武天皇にとって「祖父の祖父(高祖父)」にあたる存在となります。

一方で、乎知命(小千命)もまた大山積大神の子孫とされています。

つまり、乎知命(小千命)神武天皇は、どちらも大山積大神を共通の祖先に持つ血縁関係にあり、遠い親戚同士であったと考えられるのです。

【創建伝説②】百済からの渡来と「三島信仰」

大山祇神社の創建にまつわるもう一つの由緒として、『伊予国風土記』の逸文に記された伝承が知られています。

それによれば、大山積神(おおやまづみのかみ)は仁徳天皇(在位:4世紀末〜5世紀初頭)の御代に、百済(くだら)から日本へもたられたとされます。

「古墳時代」の百済との関係

当時の日本列島は、古墳時代中期(5世紀前後)にあたり、ヤマト王権による政治的統合が進展しつつありました。

各地の豪族を服属させながら、大王(おおきみ)を中心とした中央集権的な体制が形づくられていく時代です。

この時期、日本は朝鮮半島との外交・交易を活発に展開しており、なかでも百済(くだら)との関係はとりわけ深いものでした。

百済は、古代朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)のひとつで、先進的な文化と高い技術を有する国家として、日本にとって重要なパートナーでした。

百済からは、多くの渡来人が日本列島へとやって来ました。

彼らは、建築・土木・製鉄・織物・陶芸などの高度な技術に加え、文字(漢字)・儒教・仏教・暦法・医薬・音楽といった多彩な文物や知識を携えており、ヤマト政権の発展に大きな役割を果たしました。

その中には、単なる技術者や職人にとどまらず、王族や貴族階級の出身者も多く含まれており、日本の王権や地方豪族と婚姻関係を結んで地位を築いた者もいました。

さらに、百済を通じて伝わった仏教は、6世紀に正式に受容される以前から、渡来人の信仰や文化の中で、徐々に日本社会へと浸透していきました。

こうした百済との関係は、単なる交易にとどまらず、文化と信仰の交流、そして人的融合というかたちで、日本列島の文明形成に深く関わっていたのです。

茨田堤の築造と「御島」への鎮座

こうした国際的な時代背景の中で、仁徳天皇は大阪平野の治水と農業の安定を図るため、淀川の治水工事「茨田堤(まんだのつつみ)」の築造を命じました。

この事業は『日本書紀』にも記される日本最古の堤防建設として知られ、王権の威信を示す公共事業の先駆けでもあります。

そしてこの工事の際、百済から渡来した大山積神が淀川の鎮守神として祀られたことが、信仰の起源とされています。

大山積神が最初に鎮座したのは、現在の大阪府高槻市三島江(みしまえ)付近にあった「御島(みしま)」という川中の小島であり、この地はのちに「三島の社」として崇敬を集めました。

この御島は、淀川の清流に囲まれた神聖な場所であり、神霊が降臨する聖なる地として、水害の鎮静、農耕の加護、王都・難波の守護を願う人々から信仰されていたと伝えられます。

大三島への勧請と「三島信仰」への発展

やがて、この「三島の神」は、瀬戸内海交通の要衝であり、自然豊かな霊地でもある大三島(現在の愛媛県今治市)へと勧請されたとされています。

大三島も古くから「御島(みしま)」と呼ばれ、山と海に囲まれた聖域として知られており、航海安全や国家鎮護を司る神を祀るにふさわしい場所でした。

遷座の諸説と「三島信仰」の広がり

一方で、大山積神の遷座には諸説あり、古くは、安芸国(現在の広島県)霧島から大三島へと遷されたという説や、崇峻天皇2年(589年)に越智益躬(おちのますみ)が播磨国から神を勧請したという説などがあります。

これらの説に共通しているのは、大山積神はもともと別の地で祀られていた神であり、やがて瀬戸内海の要衝・大三島に遷座して、現在の「大山祇神社」として鎮まったという点です。

このように、大山積神の遷座に関する説は一つではなく、多くの地域的・時代的背景を映し出す豊かな伝承の積み重ねの中にあります。

そして、それらの歴史的背景が、後の「三島信仰」の広がりに深くつながっていくのです。

遠土宮の建立と「三本の矢」の神託 伝説

推古天皇2年(594年)になると、天皇の勅命により、大山祇神を祀るための社殿「遠土宮(おんどのみや・現:横殿宮跡)」が、大三島の東海岸に建立されました。

以来、この地は大山祇信仰の拠点として、多くの人々が海の神に祈りを捧げる場となりました。

しかし、この場所は海がすぐそばにあり、海抜も低かったため、潮の干満による影響を強く受け、何度も津波が発生して、社殿や鳥居が大きな被害を受けていました。

この状況を憂いた当時の伊予国司・越智玉澄(おちの たまずみ)は、より安全で広い場所への移転を決意しました。

「三本の矢」

その際、玉澄は神の御心を仰ぐため、「三本の矢」による神託を試みたと伝えられています。

まず、一本目の矢を遠土宮から放つと、それは大三島の中腹にある大原の地に落ちました。

玉澄はその矢を追って大原に向かい、そこから二本目の矢を放つと、今度は島の霊峰・鷲ヶ頭山(わしがとうざん)の頂上に突き刺さりました。

そして山頂に登った玉澄は、最後の三本目の矢を放ちます。

その矢が落ちたのが、現在の大山祇神社の境内社・宇迦神社が鎮座する池(神池)であったとされます。

大蛇との戦いと「尾道」伝説

玉澄は、この地こそ神が選んだ場所であると確信し、神池へと向かいました。

しかし、そこで玉澄が目にしたのは、思いもよらぬ光景でした。

なんと、神聖なるその池には、一体の大蛇(龍)が棲みついていたのです。

神の御意を受けた玉澄は、神の使いとしてこれと対峙し、ついに大蛇を三つに切り裂きました。

そして、その尾は空を舞って遥か備後国へと飛びある場所へ落ちたといいます。

そのことから、その場所は「尾道(おのみち)」と呼ばれるようになったという伝説も残っています。

「越智玉澄腰懸石」

大蛇を討ち倒した玉澄は、そばにあった一つの大きな石に腰を下ろしたといいます。

また、玉澄はこの石に座って社殿をどこに建てるべきか考えていたとも伝えられています。

この石は後に「越智玉澄腰懸石(こしかけいし)」と呼ばれるようになり、今もなお神域の由緒を今に伝える霊石として、多くの人々の信仰を集めています。

五龍王と三体山の神威

大宝元年(701年)、ついに建築場所を定め、御神体の遷座に取りかかった越智玉澄でしたが、さらなる困難が待ち受けていました。

遠土宮からの遷座に際し、安神山に棲むと伝えられる大蛇(龍)の激しい霊的抵抗に遭い、御神体を思うように遷すことができなかったのです。

この事態を受けた玉澄は、安神山の山頂に「五龍王」を祀り、その神威をもって大蛇の霊威を鎮め、ついにはこれを追い払うことに成功したと伝えられています。

この安神山は、鷲ヶ頭山・小見山と並び、「大山祇神社」の神体山(三体山)の一つに数えられています。

正殿の完成と格式の確立

その後造営が進み、霊亀2年(716年)にはご神体が新しい正殿に遷されます。

この遷座は、日吉の地に別宮(別宮大山祇神社)が完成した和銅5年(712年)から7年後、養老3年(719年)のことでした。

その後、天平神護2年(766年)には神階を授けられ、神戸(神社直属の民)も置かれたと記録されています。

また、平安時代に編纂された『延喜式(927年)』では名神大社に列せられ、国家の祭祀において重要な神社のひとつとして定められました。

「伊予国一の宮」伊予国最高の神威

大山祇神社は、中世以降(鎌倉時代~南北朝・室町時代)にかけて、伊予国一の宮として朝廷や武家から篤く崇敬されました。

「一宮」とは、律令制度のもとで各国において最も社格の高い神社を指し、国司が任地に赴任した際にはまず参拝すべきとされた、国家的にも重要な存在です。

大山祇神社は、伊予国における最高の神威をもつ神社として、国家的な祈願や、軍事・交通の守護神としての役割を担い、朝廷・武家・庶民を問わず広く信仰を集めました。

特に、瀬戸内海の制海権を握っていた村上水軍や、伊予国を本拠とした河野氏は、大山祇神を武運長久・海上安全の守護神として崇め、奉納や祈願をおこなったと伝えられています。

「日本総鎮守」国を護る名号

この頃、朝廷より「日本総鎮守」の尊号が下賜されたと伝えられており、社殿の神額にその名が記されています。

「日本総鎮守」とは、単なる地方鎮守ではなく、全国的に国土安泰・武運長久・海上安全を司る総守護神としての意味を持ちます。

この尊称は、全国に三島神社を分祀する「三島信仰」の中心地としての格式を明示するものでもありました。

藤原佐理による「日本総鎮守大山積大明神」神額

平安中期には、大山祇神社がすでに全国的な霊験を誇る神社として知られ、その名声は都にも届いていました。

この名声を今に伝える象徴の一つが、「日本総鎮守大山積大明神」と記された神額(しんがく)です。

これは、平安中期の能書家として名高い藤原佐理(ふじわらのすけまさ)によって揮毫されたと伝えられるもので、現在も大山祇神社に大切に保管され、国指定重要文化財となっています。

書道史上の巨匠・藤原佐理

藤原佐理は天慶7年(944年)から長徳4年(998年)にかけて活躍した能書家で、小野道風・藤原行成と並んで日本書道史にその名を残しています。

書の名手であるだけでなく、正三位・兵部卿という高位高官にも登りつめた貴族であり、文化・政務の両面で活躍しました。

実務にも通じた才人であり、当時の貴族社会からも一目置かれ、朝廷内でも高い信任を受けていました。

『大鏡』に記された神額奉納の逸話

平安後期の説話集『大鏡』に、この神額にまつわる逸話が記されています。

藤原佐理が太宰府の大弐(副長官)としての任を終え、京への帰路にあったときのこと。

伊予の沖合にさしかかったところで、突如、海が荒れ、船が動かなくなってしまいます。

不安のなかで迎えた夜、夢の中で大山積大神(三島明神)が現れ、佐理にこう語りかけました。

「そなたを引き留めているのは、私である。額(がく)を揮毫して、我が社に奉納してほしい」

目覚めた佐理はこの夢を神の啓示と悟り、すぐに船を大三島へと向かわせました。

そして、島に渡った佐理は神前で祈りを捧げ、持ち合わせていた舟板に「日本総鎮守大山積大明神」と記して奉納したといいます。

信仰の記憶をとどめる弓削島の碑

このようにして生まれた神額は、今に至るまで「神威が人を導いた逸話」として語り継がれ、信仰と芸術が交差する貴重な文化遺産となっています。

また、佐理が漂着したとされる弓削明神(弓削島)には、今も記念碑が建てられ、地域の人々によって今も大切に守られています。

十七神社の創建と歴史

鎌倉時代末期の正安四年(1302年)、大山祇神社の境内に、のちに「十七神社」と呼ばれる社が創建されました。

当初は十六柱の神々を祀る「十六王子社」として設けられましたが、のちに主祭神・大山積大神を含めた十七柱の神々を奉斎するかたちに整えられ、「十七神社」と総称されるようになります。

この社殿は南北朝時代の永和四年(1378年)に再建され、以後、改修を重ねながら現在に至ります。

その歴史的・文化的価値の高さから、現在では愛媛県指定有形文化財に指定されています。

楠の傍らに鎮まる長棟造の社殿

十七神社は、大山祇神社の総門を抜けてすぐ、乎知命(小千命)御手植と伝えられる大楠の左手に鎮座しています。

社殿は、平安時代の建築様式を色濃く受け継ぐ「長棟造(ながむねづくり)」と呼ばれる造りで、屋根が長く横に広がることで、空間全体に荘厳な広がりと神聖な雰囲気を与えています。

特筆すべきはその屋根構造にあります。

一方の屋根には「入母屋造(いりもやづくり)」、他方には「切妻造(きりづまづくり)」を採用し、段違いに配置された造りとなっている点です。

この複雑かつ独自の意匠は、建物全体に立体的で重厚な印象をもたらしており、建築史の観点からも極めて貴重です。

改修を重ねる中で、桃山時代や江戸時代の建築技術や装飾が随所に加えられ、異なる時代の匠の技が融合された建造物としても高く評価されています。

十七柱の御神像

社殿の内陣には、十七神社の名の由来となる十七柱の神々を表す木彫の御神像が安置されています。

これらの御神像は、表情や装束の細部まで精緻に彫られ、神々の威厳と温かみをあわせ持つその姿は、訪れる者の心を静かに打ちます。

現在では、十七体すべてが国の重要文化財に指定され、信仰の対象であるとともに、日本宗教美術の貴重な遺産として大切に守られています。

十七神社の前身「十六王子神社」とは

十七神社の前身「十六王子神社」は、周辺の越智諸島や伊予国一円に点在する大山祇神社ゆかりの末社の神々を一堂に集めて祀るために設けられたものであり、信仰の中心である大山積大神と関係の深い十六柱の神々が奉斎されました。

十六王子という名称の意味

「十六王子」という名称は、単なる神の数を示すものではなく、中世日本における神仏習合の宗教思想、とりわけ「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という重要な観念に根ざしています。

本地垂迹とは、「日本の神々は仏が衆生を救うために姿を変えて現れたものである」とする神仏習合の代表的な思想です。

この考えの中で、 主祭神・大山積大神(大山祇神)は、仏教の経典『法華経』に登場する大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)を本地仏とされました。

大通智勝如来には、成仏前に十六人の王子があり、のちにそれぞれが以下の仏となったとされます。

  1. 阿閦仏(あしゅくぶつ)
  2. 須弥頂仏(しゅみちょうぶつ)
  3. 師子音仏(ししおんぶつ)
  4. 師子相仏(ししそうぶつ)
  5. 虚空住仏(こくうじゅうぶつ)
  6. 常滅仏(じょうめつぶつ)
  7. 常相仏(じょうそうぶつ)
  8. 梵相仏(ぼんそうぶつ)
  9. 阿弥陀仏(あみだぶつ)
  10. 度一切世間苦悩仏(どいっさいせけんくのうぶつ)
  11. 多摩羅跋栴檀香神通仏(たまらばつせんだんこうじんつうぶつ)
  12. 須弥相仏(しゅみそうぶつ)
  13. 雲自在仏(うんじざいぶつ)
  14. 雲自在王仏(うんじざいおうぶつ)
  15. 壊一切世間怖畏仏(えいっさいせけんふいぶつ)
  16. 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

このように、十六王子の物語は仏教思想に由来し、それが神道における御子神・眷属信仰と重ね合わされることで、「十六王子」という神名に転化されたと見られます。

また、伊予国(現在の愛媛県)の有力豪族であった河野氏の系譜を記した史料『河野家譜』には、「三島明神(大山祇神)が十六丈(約48メートル)の大蛇となって現れた」とする伝承が記されています。

この逸話からも、「十六」という数字が、大山祇神の神秘性や霊力の大きさを象徴する特別な数とされていたことがうかがえます。

諸山積神社との合祀

後年、この十六王子社に対し、「諸山積神社(もろやまつみじんじゃ)」が合祀されることとなり、現在の「十七神社(じゅうしちじんじゃ)」となりました。

諸山積神社には、大山祇命・中山祇命・麓山祇命・正勝山祇命・志藝山祇命の5柱の神が祀られており、いずれも大山積大神の分霊的神格とされ、山の霊威を象徴的に五つの形に分かち、それぞれの側面を司る神々とされます。

五柱の山祇と神話の由来

これら五柱の神々はいずれも、『日本書紀』に記される神話に由来します。

天地開闢ののち、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が多くの神々を生み出す中、火の神・軻遇突智命(かぐつちのみこと)の誕生により、母・伊奘冉尊は焼かれて命を落とします。

怒りに震えた伊奘諾尊は、軻遇突智命を十握剣(とつかのつるぎ)で斬り殺しました。

その際、軻遇突智命の身体から次の五柱の山の神々が生まれたとされます。

  1. 頭からは「大山祇命(おおやまつみのみこと)」
  2. 胴からは「中山祇命(なかやまつみのみこと)」
  3. 手からは「麓山祇命(はやまつみのみこと)」
  4. 腰からは「正勝山祇命(まさかやまつみのみこと)」
  5. 脚からは「䨄山祇命(志藝山祇命・しぎやまつみ)」

さらに、このときに斬られた軻遇突智命の血が地に注ぎ、石や砂、草木を赤く染めたと伝えられています。

これが「草木や石、砂が自ら燃える」という現象の起源であるとされ、自然界の物質に神聖な霊力が宿るとする日本古来の信仰にもつながっています

「元亨二年の兵火」本殿・拝殿の再建

やがて時代は下り、日本全国が不安と動乱に包まれる中、大山祇神社でも新たな信仰のかたちが形づくられていくことになります。

鎌倉時代末期の戦乱と焼失

鎌倉時代末期、日本全国が不安と動乱に包まれていた時代。

幕府の権威は次第に陰りを見せ、元寇による国家の疲弊、御家人たちの困窮、そして倒幕運動の胎動が各地で高まる中、人々の心は乱れ、各地で戦火が相次いでいました。

このような激動の中、元亨二年(1322年)、大三島に鎮座する大山祇神社もまた、戦乱の波に巻き込まれました。

本殿・拝殿・総門・といった主要な建物はすべて焼失し、社殿は無残な姿となりました。

御神体を祀る場を失うという危機は、単なる建築物の喪失ではなく、島の信仰の中核を揺るがす未曾有の出来事でした。

しかし、信仰の灯は消えませんでした。大山積大神への祈りと敬意は、大三島の人々、そして瀬戸内の海人たちのあいだに脈々と息づき続けていました。

「南北朝時代」本殿と拝殿の再建

時代はやがて、南北朝時代(1336年〜1392年)へと移っていきます。

この時代、日本全土は朝廷が二分される異例の政争に突入していました。

京都の「北朝」(足利尊氏が擁立)と、吉野に朝廷を構えた「南朝」(後醍醐天皇とその子孫)という二つの王権が対立し、半世紀以上にわたって激しい戦乱が続きます。

伊予国もまた例外ではなく、守護・河野氏を中心とした在地の武士層(国人層)が、南朝・北朝のいずれかに分かれて戦いを繰り広げました。

中でも河野氏は、初めは南朝方として後醍醐天皇を支援していたものの、途中で北朝・足利方に転じるなど、時代の変転の中で翻弄されていきます。

そのような政治的混迷と戦乱の渦中にあっても、大山祇神社の再建に向けた信仰の熱は失われることはありませんでした。

焼失から半世紀あまりを経た天授四年/永和四年(1378年)、ついに本殿・拝殿を含む社殿群の本格的な再建が開始されました。

南北朝の騒乱をくぐり抜けながらも、人々の篤い信仰は途絶えることなく続き、再建は粘り強く進められていきます。

そして、約50年の歳月をかけて応永三十四年(1427年)、現在も残る本殿と拝殿が完成。

これらの社殿は、中世建築の粋を凝らした見事な造営であり、神社はかつての荘厳さを取り戻しました。

「江戸時代」修復と門前町の形成

江戸時代の慶長7年(1602年)には大規模な修理が施されました。

このように度重なる改修が行われた過程で、桃山期や江戸時代初期の建築技術が加えられ、異なる時代の特色が反映された貴重な建造物としての価値を高めました。

続く寛永十二年(1635年)には、大三島が伊予松山藩・松平氏の所領となり、神社は藩政と結びついた新たな発展の道を歩み始めました。

松山藩は「御国潤(おくにうるおい)」政策の一環として、神社の四月大祭を「大市日」に定め、神社前に市(いち)を開設。

これを機に門前町「宮浦村」が形成され、やがて「大三島市」として、信仰と商業が交錯する賑わいの場が生まれました。

人市税・運上金・場床賃といった収入は地域経済に潤いをもたらし、大山祇神社を中心とする門前町文化が定着していったのです。

国の重要文化財に指定

こうして、室町時代から江戸初期にかけての複層的な再建・修復の歴史をもつ本殿・拝殿は、今日では国の重要文化財に指定されています。

文化庁の文化財データベース上では、「応永三十四年(1427年)」の中世建築でありながら、江戸前期の様式的特徴も併せ持つ貴重な社殿建築として評価されています。

刻まれた信仰と時の記憶

現在の社殿は、木造の切妻造り・素木(しらき)造りを基本とし、拝殿正面には唐破風(からはふ)の向拝が優美に張り出す、風格ある佇まいを見せています。

屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で葺かれ、時を重ねた木肌の風合いが、重厚な静謐さを醸し出しています。

本殿と拝殿の間には石階段を伴う割拝殿形式が採られており、これは中世以降の神社建築にみられる特有の構造です。

また、建物の随所には、室町期の細部意匠と、江戸初期の補修痕跡が調和するように残されており、建築史的にも極めて価値の高いものとなっています。

神仏分離や戦災を経ながらも、これらの社殿は現在まで良好に保存され、訪れる人々を厳粛な空気の中へと誘います。

信仰の中心として、また建築遺産としても歴史的意義を深く刻む大山祇神社の本殿・拝殿は、まさに瀬戸内の宝ともいえる存在です。

「末社合祭殿」

天正年間(1573年〜1592年)、戦国の争乱とともに荒廃していた境内の整備が進められる中で、大山祇神社では三つの末社「祓殿神社」「伊予国総社」「葛城神社」を一社にまとめて祀るという大きな転換が行われました。

それまでそれぞれ独立した社殿を有していたこれらの末社は、いずれも由緒ある神々を祀っていたものの、天正期には社殿の老朽や管理の困難さから荒廃が進んでいたと考えられます。

そのため、三社を一か所に合祀する「末社合祭殿」が新たに設けられ、社殿の再編成と神事の合理化が図られました。

末社合祭殿は、「乎知命(小千命)御手植の楠」の右手、境内南側の手水舎のすぐそばに鎮座しており、戦国の世における信仰の再構築と、大山祇神社のたゆまぬ再生の歩みを今に伝えています。

伝統と新たな歴史を刻む「神門」

寛文元年(1661年)、伊予国松山藩主・松平定長の寄進により、大山祇神社に壮麗な「神門(しんもん)」が建立されました。

この神門は、素木(しらき)造りに檜皮葺(ひわだぶき)の切妻屋根を備えた格式高い建築であり、以後350年以上にわたり、神域の正門として参拝者を迎え、祈りの場を守り続けてきました。

「随神門」として

しかし、長い歳月の風雪にさらされた神門は、やがて老朽化が著しく進み、修復では対応できないほどの損傷を抱えるようになりました。

そのため、実に355年ぶりとなる建て替えが決断され、平成28年(2016年)12月4日には、新たな神門の竣工式が厳かに執り行われました。

新しい神門には、左右両脇に初めて随身像が配され、これにより神門は「随神門(ずいしんもん)」として新たな姿を得て、参拝者を迎え入れることとなりました。

この随身像は、古式の武官装束に身を包んだ二体の像で、神社を守護する役割を持ち、堂々たる立ち姿で参拝者に威厳を感じさせます。

旧神門の移築と「分霊社」への継承

旧神門は新たな場所でその歴史を生かすため、平成29年(2017年)に岡山県高梁市川面町の大山祇神社へと移築されました。

移築に際しては屋根も銅板葺きに改められ、元の役割を大切にしつつ、新たな地で神社の歴史を伝え続けています。

旧神門は、平成29年に岡山県高梁市川面町にある大山祇神社へと移築され、大切に保存されています。

この移築に際し、屋根も新しく銅板で葺き替えられ、再び人々の目に触れる場でその歴史を伝え続けています。

「明治時代」国家神道体制での国幣大社

明治時代に入ると、日本は「富国強兵」「殖産興業」のスローガンのもと、近代国家への道を歩み始めます。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や神仏分離令に象徴されるように、宗教の再編が急速に進められ、「国家神道」という新たな体制が確立されていきました。

この国家神道体制のもとで、神社は単なる地域の信仰の場ではなく、天皇を中心とした国家イデオロギーを支える中核的な存在とされていきます。

戦争の時代に突入していく日本において、神社は「皇国」の精神を育む場として再定義され、多くの神社が軍事的・国家的色彩を強めていきました。

四国唯一の「国幣大社」へ

大正4年(1915年)11月10日、こうした流れの中で、大山祇神社は四国で唯一の「国幣大社(こくへいたいしゃ)」に昇格し、格式を高めました。

国幣大社とは、国家によって選定され、維持・祭祀がなされる特別な神社であり、国家の平安と天皇の安泰を祈願する、いわば「国家のための神社」です。

これにより、大山祇神社は地域の信仰拠点を超えて、日本全体の軍事・統治の精神的支柱としての役割を担うようになります。

それまで「三島」「御島」「大三島大明神」など様々に呼ばれていた当社は、明治期に入って正式に「大山祇神社」と改称されました。

しかし、祭神の表記には古来の名残が残り、現在も鳥居の扁額には「大山積神社」と刻まれています。

伊藤博文の参拝と「社号石」・記念楠樹

明治42年(1909年)3月22日、日本初代内閣総理大臣・伊藤博文が大山祇神社を参拝しました。

伊藤博文は越智氏の血筋を引いており、先祖と縁の深い大山祇神社を特別な場所と考えていたのかもしれません、

この参拝の記念として、伊藤博文は境内にクスノキを植樹(伊藤博文公記念楠樹)し、現在もその若木は幹周約1メートルの姿で残っています。

境内の入り口にある「日本総鎮守 大山積大明神」という神額が掲げられた二ノ鳥居のそばには、伊藤博文が書き残した社号石が立っています。

この石には「大日本総鎮守大山祇神社」と刻まれており、参拝者たちは今日に至るまで、その文字を通じて大山祇神社の威厳と長い信仰の歴史を感じ取っています。

海の玄関「一ノ鳥居」

ちなみに、一ノ鳥居は宮浦港のそばにあり、かつてしまなみ海道がなかった時代には、大山祇神社に参拝するための海からの正式な入口としての役割を果たしていました。

海上から大三島に上陸した参拝者は、まずこの一ノ鳥居をくぐることで、神聖な領域への第一歩を踏み入れることができました。

一ノ鳥居は、参道の起点となる場所に立ち、創建当初は日本一の高さを誇ったとされ、その荘厳な姿は遠くからも確認できるほどだったと伝えられています。

「別表神社」戦後神社制度の再編

1945年、第二次世界大戦の敗戦とともに、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に入りました。

その直後、GHQは「神道指令(Shinto Directive)」を発令し、国家が宗教とくに神道に関与することを全面的に禁じました。

これにより、「国家神道」は廃止され、神社はすべて民間の宗教法人として再出発を余儀なくされます。

神社本庁の成立と「別表神社」

こうした混乱の中、1946年には伊勢神宮を本宗とする「神社本庁」が設立され、日本全国の神社を統括する包括宗教法人の枠組みが築かれました。

神社本庁に所属する神社は、「被包括法人」として登録され、神職の任免や祭祀の執行、伝統の保持について神社本庁の指導を受ける体制が整えられました。

そしてこの制度のなかで、特に歴史的・文化的に重要な神社は、神社本庁の定める「別表」に記載され、「別表神社」として特別な位置づけを受けることになります。

その多くは、かつての官幣社・国幣社であり、神社制度の中心的存在を担ってきました。

「大社」を称する流れと特異性

戦後、官幣・国幣社の序列が解体された後、多くの旧官幣・国幣社は、自らの由緒や格式を広く示すために社号を「○○大社」と改めるようになりました。

  • 出雲神社 → 出雲大社
  • 春日神社 → 春日大社
  • 熱田神社 → 熱田大社(現在は熱田神宮)

そうした中にあって、大山祇神社(愛媛県今治市・大三島鎮座)は、旧国幣大社であるにもかかわらず、現在に至るまで「大社」を称していません。

これは、旧国幣大社の中でも唯一の例とされています。

では、なぜ大山祇神社だけが「大社」と名乗らなかったのでしょうか?

その理由は定かではありませんが、「大山祇」という神名そのものが、すでに信仰の象徴として完成されており、他の修飾を必要としなかったからなのかもしれません。

復元された「大山祇神社の総門」

平成22年(2010年)、大山祇神社にかつて存在した「総門(そうもん)」が、実に688年ぶりに甦りました。

この総門は、元亨二年(1322年)に起きた兵火により焼失して以来、長きにわたりその姿を失っていましたが、室町時代の古図や歴史資料をもとに、往時の姿を忠実に再現すべく、2年の歳月と総工費約3億2000万円をかけて復元されました。

境内の入口、二の鳥居をくぐる直前にそびえ立つ総門は、高さ約12メートル、総ヒノキ造りの荘厳な姿で、参拝者を神域へと導きます。

門の左右には、高さ約2.5メートル、重さおよそ250kgにも及ぶ随身像(ずいしんぞう)が、武士の姿で威風堂々と立ち並び、神社を守護する存在として凛とした気配を放っています。

細部まで精緻に彫られたその姿は、まさに神域を守る象徴にふさわしく、訪れる人々に深い敬意と畏怖の念を抱かせます。

また、この復元には境内で育った貴重な檜材が用いられ、日本建築の伝統技法を駆使して建てられたことにより、古の意匠と現代の匠の技が見事に融合。

大山祇神社の荘厳さを一層際立たせる、歴史と信仰の象徴としての存在感を放っています。

拝殿へと導かれる静謐な空間

総門をくぐり、さらに神門を進むと、目前に現れるのが大山祇神社の拝殿です。その左右には、優美な屋根をいただく廻廊が長く伸び、神域ならではの厳かな空気に包まれます。

この廻廊には、歴代天皇や皇族、著名な武将、文化人など、時代を超えてこの地を訪れた参拝者たちの写真が整然と並び、脈々と続く信仰の重みを静かに伝えています。

時代ごとの装束や風貌からも、その信仰がどのように継承されてきたかを感じ取ることができます。

神域を彩る「隼人舞の像」

神門左側の北回廊には「隼人舞(はやとまい)の像」と呼ばれるブロンズ像があります。

この像は、古代の隼人族が踊った「隼人舞」をテーマに、文化勲章を受賞した彫刻家の中村晋也氏が制作し、2010年に今治造船株式会社の寄進によって奉納されたものです​

「隼人舞の像」は、高さ2.53メートルで、狩衣に鳥兜をかぶり、右手に扇子、左手に鉾を持って舞う姿を再現しています。

神々しさと威厳を兼ね備えたこの像は、拝殿へとつながる神門の左側の北回廊に設置され、来訪者の目を引きつけます。

2010年11月3に行われた奉納式の際には、今治造船の檜垣俊幸会長や菅良二今治市長も出席し、参拝者たちは新たなシンボルとしてこの像にカメラを向けるなどして熱心に見入っていました。

「神札授与所」

拝殿の右手には、神札授与所(しんさつじゅよしょ)が設けられており、毎日午前9時から午後5時まで御守・御朱印・数珠などの授与が行われています。

また、ご祈祷の受付は午前9時30分から午後4時まで。家内安全、交通安全、心願成就、商売繁盛、厄除けなど、さまざまな願いを神前に託すことができます。

授与所に立ち寄れば、旅の記念だけでなく、心の拠り所となるご加護の象徴を持ち帰ることができるでしょう。

一遍上人の「宝篋印塔」

神札授与所を抜け右側に向かうと、一遍上人(いっぺんしょうにん)に縁のあると伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が3基並んでいます。

一遍上人は、鎌倉時代の延応元年(1239年)に伊予(現在の愛媛県松山市)の豪族・河野家の次男として誕生し、幼名を松寿丸といいました。

父は河野七郎通広、祖父は河野四郎通信という武家に生まれましたが、10歳の時に母を亡くしたことがきっかけで父の命を受け仏門に入ることになりました。

その後、一遍上人は仏教修行を積み、「時宗」を開いた僧として多くの人々に信仰を集めました。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、仏教に由来する石塔で、主に鎌倉時代から室町時代にかけて多く建てられました。

その目的は、経典や遺品などの供養や、亡くなった人々の成仏を願うもので、一種の供養塔としての役割も果たしています。

宝篋印塔の「宝篋印」とは、仏教の経典のひとつ「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」に基づく名称で、この塔を建てることで多くの功徳を得て、人々が安寧に導かれると信じられてきました。

塔の構造は、四角い基壇の上に複数の層を重ね、最上部には「相輪(そうりん)」と呼ばれる金属製の飾りを持つことが多く、全体にわたって彫刻や装飾が施されています。

山祇神社にある3基の宝篋印塔は、一遍上人の来島を記念して建てられたと伝わっています。

特に中央の塔は、鎌倉時代の文保2年(1318年)に建立されたものとされ、3基の中でも最も大きく存在感があります。

すべての塔は花崗岩で作られており、鎌倉時代の彫刻技術と美意識が見事に反映されています。

中央の塔は、高さ約394cmにもおよぶ堂々たる造りで、基部とその上部に三段にわたる蓮弁(れんべん)の彫刻が施されています。

この構造は極めて精巧で、鎌倉時代の技術の高さを示しています。

さらに、この塔の特徴的な部分は、相輪の上部にある「請花(うけばな)」が逆向きに垂れ下がっている点です。

この独特な形状は他に例が少なく、大山祇神社の宝篋印塔をより印象的なものにしています。

中央の宝篋印塔の両側には、やや小ぶりの2基が並んでおり、左端のものは3基の中でも特に簡素な造りです。

しかし、これら2基もまた極めて均整のとれた美しい形を保っており、鎌倉時代特有の技法や様式を備えています。

大山祇神社に息づく「祈り」と「自然」の風景

大山祇神社の境内には、荘厳な社殿や歴史ある神門のほかにも、訪れる人々の目と心を惹きつける多くの見どころがあります。

方策を祈願する「斎田と儀式」

入り口の二ノ鳥居をくぐって右側には、神に供える米を栽培するための神聖な田んぼ、斎田が広がっており、隣には「御桟敷殿(おさじきでん)」と呼ばれる母屋造(もやづくり)の建物が建てられています。

ここでは毎年、春の御田植祭(おたうえさい)や秋の抜穂祭(ぬきほさい)といった伝統的な祭りが行われます。

御田植祭

御田植祭は旧暦5月5日の端午の節句に行われるもので、神様に捧げる稲の豊作を祈願するための儀式です。

神職が拝殿で荘厳な式典を行った後、三基の神輿が本殿から御桟敷殿へと渡御し、神様が斎田へと迎え入れられます。

斎田には、島内の13地区から選ばれた16人の早乙女が集まり、白い上衣に緋色の袴、赤い手甲・脚絆という清らかな姿で整列し、神聖な田植えが始まります。

抜穂祭

御田植祭と対をなす秋の儀式が抜穂祭であり、旧暦9月9日に行われます。

この祭りでは、春に田植えを行った早乙女たちが再び斎田に集まり、稲の初穂を刈り取ります。収穫された初穂は神輿に供えられ、神様に豊作の感謝が捧げられます。

この一連の流れにより、春から秋まで続く稲作が神事として成り立ち、神社の伝統が守られています。

一人角力

御田植祭や抜穂祭の際には、一力山(いちりきざん)と呼ばれる力士が目に見えない稲の精霊を相手に相撲を取る一人角力(ひとりずもう)が奉納されます。

この神事は大山祇神社の伝統的な豊作祈願の儀式で、愛媛県の無形民俗文化財にも指定されており、地域の信仰と伝統を象徴する特別な行事となっています。

一人角力では、一力山が目に見えない稲の精霊と三番勝負を行います。

第一番では精霊が勝利し、次の取り組みで一力山が奮闘し勝利、そして最終の第三番で再び精霊が勝利を収めるという流れで進行します。

この結果をもってその年の豊作が約束されるとされ、一人角力は神様からの恵みを祈願し、参拝者に豊かな実りを約束する重要な神事です。

力士と行司が繰り広げるこの一人角力は、真剣な所作と同時に、時折ユーモラスな動作も見せ、観客にとっては楽しみながらも神聖さを感じさせるひとときとなります。

目に見えない稲の精霊と力士が取り組む様子は、豊作への祈りを捧げるとともに、地域の人々が神と自然の力に対する感謝を込めて見守るものとなっており、大山祇神社の御田植祭や抜穂祭を象徴する儀式として大切に受け継がれています。

「国の天然記念物」神域に息づくクスノキ群

豊穣を祈る神事の舞台となる田んぼの風景を抜け、さらに境内を進むと、そこには太古の息吹を宿す深い緑の森が広がっています。

昭和26年(1951年)、この境内に広がるクスノキ群は「日本最古の原始林社叢」として国の天然記念物に指定されました。

このクスノキ群は、神社の中心を取り囲むように生い茂り、大山祇神社の神域を物理的にも精神的にも包み込む存在となっています。

特に注目されるのが、大山積大神の御子である乎知命(おちのみこと)が自ら手植えしたとされる御神木「乎知命(小千命)御手植の楠」です。

樹齢二千年以上とも伝わるこの御神木をはじめ、境内には樹齢数百年を超えるクスノキが何本もそびえ立ち、訪れる人々を圧倒する荘厳な雰囲気を醸し出しています。

地域の人々にとっても、これらの木々は単なる自然の一部ではなく、神が宿る「生きた信仰の象徴」として崇められてきました。

しかしこの原始林社叢も、悠久の時の中で数々の災厄に晒されてきました。

元亨2年(1322年)兵火、そして享保7年(1722年)には境内一帯を襲った大洪水により、多くの巨木が倒壊しました。

それでもなお、現在に至るまで38本のクスノキが原始の姿をとどめ、荘厳な森として参拝者を迎え入れています。

樹齢3000年「能因法師 雨ごいの楠」

その中でもとりわけ存在感を放つのが、社務所の西側にそびえる「能因法師 雨ごいの楠(のういんほうし あまごいのくす)」です。

このクスノキは、樹齢3000年を超える日本最古のクスノキといわれ、かつては生きたままその威容を誇っていました。そ

の名の由来となった伝説は、平安時代中期、後冷泉天皇(在位1045~1068)の御代にさかのぼります。

当時、伊予国が大旱魃に見舞われ、国守・藤原範国(ふじわらののりくに)は、名高い歌人で修行僧でもあった能因法師に雨乞いを命じました。

能因はこの地を訪れ、大山祇神に向かって「天の川 苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神」と幣帛(へいはく)に記し、祈祷を捧げました。

するとその祈りに応えるかのように、三日三晩にわたって雨が降り続き、干ばつが解消されたといいます。

その時、能因が幣帛をかけて祈ったのが、このクスノキであると伝えられており、以来「雨ごいの楠」として人々の崇敬を集めてきました。

現在、この楠は残念ながら枯死してしまっていますが、その霊験と歴史的・文化的価値は失われることなく、国の天然記念物として保護されています。

「宇迦神社」

「雨ごいの楠」の裏手には、越智玉澄が大蛇を三つに切ったという伝説が残る神池が静かに広がっています。

その池の中央、小さな島にひっそりと鎮座するのが、宇賀神(うかのかみ)を祀っている宇迦神社(うがじんじゃ)です。

宇賀神とは、日本において五穀豊穣や財福をもたらす神として信仰されてきた神霊であり、その名は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」に由来すると考えられています。

「宇迦(うか)」は、稲や食物を意味する古語であり、宇賀神は元来、稲の霊=穀霊としての性格を持っていました。

しかし、後世になるとその姿は独特な神像として造形されるようになり、人頭蛇身(頭が人、体が蛇)で蜷局(とぐろ)を巻いた姿で表されることが多くなります。

この神像は、仏教との習合の影響を強く受けたもので、特に天台宗の教義において、弁才天(弁財天)と習合・合体して信仰されるようになりました。

この弁才天と融合した宇賀神は、「宇賀弁才天(うがべんざいてん)」とも呼ばれ、さらにその姿は白蛇として描かれることもあり、水神・龍神・財神としての性格を帯びていきます。

こうした複合的な信仰の中で、宇賀神は福徳・知恵・音楽・弁舌・商売繁盛の神としても広く祀られるようになりました。

特に神仏習合の時代には、宇賀神は弁才天の頭上に乗る蛇神として仏像に刻まれることも多く、日本各地の神社仏閣で尊崇を集めてきました。

大山祇神社の宇迦神社においても、龍神信仰や三嶋神信仰と重なりながら、神地の守護神として祀られてきたと考えられ、かつては「三嶋龍神」の祭祀が行われていたとも伝えられています。

「河野通有兜掛の楠」

そして、境内をさらに進むと、神門の右手にもう一つの歴史の証人ともいえる大樹が根を張っています。

それが、鎌倉時代の名将、河野通有(こうの みちあり)にまつわる伝承を今に伝える、堂々たる大楠「河野通有兜掛の楠」です。

河野通有は、13世紀後半、伊予国(現在の愛媛県)を本拠とした名門河野氏の当主であり、鎌倉幕府の御家人でもありました。

通有の生きた時代の鎌倉時代中期は、内政的にも外交的にも激動の時代でした。

国内では、源頼朝の創設した鎌倉幕府がすでに三代将軍・実朝の死を経て将軍不在の時代へと入り、実権は北条氏による執権政治(得宗専制)へと移行していました。

北条時宗が執権として政権を握るこの時期、御家人たちは次第に中央集権化する幕府政治と向き合わざるを得なくなり、かつてのような独立性を失いつつありました。

一方、そのころ世界では、世界史を塗り替えるような大きなうねりが発生していました。

それが、13世紀に興ったユーラシア最大の征服国家・モンゴル帝国(のちの元)です。

チンギス・ハンの指揮のもとで急速に勢力を広げたモンゴルは、その後もその子孫たちによって拡大を続け、やがて中国本土をも制圧し、元(げん)王朝を建てました。

そして、その勢力は中央アジアから中東、さらにはロシア、ポーランド、ハンガリーにまで及び、ヨーロッパ世界にも「タルタル人(Tartars)」として恐れられる存在になりました。

当時のモンゴル軍は、機動力に優れた騎馬軍団と高度な戦術、そして火薬を用いた兵器や大型艦船による海軍力を有し、アジア諸国を次々と屈服させていた世界最強の軍隊でした。

そんな大帝国が、ついに日本に矛先を向けたのです。

この国家存亡の危機とも言うべき非常時、日本は総力を挙げてこれに立ち向かいました。

幕府の命により、九州や西国の武士たちは総動員され、博多湾沿岸には石築地(せきちくじ)と呼ばれる防塁が築かれ、来るべき決戦に備えました。

伊予国司であり、瀬戸内を掌握していた三島水軍の棟梁・河野通有(こうの みちあり)は、文永の役の後、再度の襲来となる「弘安の役」(1281年)に備えて一族を率い、北九州へと出陣します。

通有は戦地へ向かう前に、代々の河野氏が氏神として篤く崇敬してきた、大三島の大山祇神社を訪れました。

大山積大神(おおやまづみのおおかみ)への感謝と祈願は、河野一族の変わらぬ習わしであり、とりわけ一大事の前には、神前に誓いを立て、神意を受けてから戦に臨むのが常でした。

このとき、通有は神門の脇にそびえる大楠に、自らの兜を掛けたと伝えられています。

これこそが、現在も神社の境内に雄々しく根を張る「河野通有兜掛の楠」です。

迎えた弘安四年(1281年)。

モンゴル(元)・高麗の連合軍による東路軍に加え、南宋の降兵を吸収した江南軍が、数千隻にも及ぶ大艦隊を編成し、日本へ襲来しました。

しかし、通有率いる三島水軍は、瀬戸内海で鍛え上げられた機動力と水戦術を武器に、夜襲・奇襲をもって果敢に挑みます。

特に志賀島の戦いでは、通有が元軍の将・劉復亨(りゅう ふくこう)を討ち取るという戦功を挙げ、その名を歴史に刻みました。

激戦の末、日本軍は突如として襲った暴風雨「神風」にも助けられ、巨大な外敵を撃退することに成功しました。

こうして、まさに国家滅亡の危機ともいえる難局を乗り越えたのです。

河野通有の奮戦は、今も伊予の地に数多く語り継がれています。

伝承によれば、出陣の途上、通有のもとに一羽の白鷺が舞い降り、進むべき方角を示したといいます。

この白鷺は、大山積大神の神使であり、神意の現れとして受け止められました。

風に乗って舞い、空を渡る白鷺の姿に、自然そのものが神の声を伝える使者として現れたと感じたのでしょう。

そして、通有が兜を掛けて戦勝を祈願したと伝わる大楠は、長い歳月を越えて今もなお、大山祇神社の境内にそびえ立っています。

その力強い幹と枝は、河野通有の武運と、大山積大神への厚い信仰を象徴する存在であり、風雪に耐えながらも静かに人々を見守り続けています。

「生樹の御門」樹齢約3000年の大樹

大山祇神社の本殿をあとにして、静かな参道を歩くことおよそ10分。島の奥深く、木々のざわめきに包まれるような山道を進むと、ひときわ目を引く巨大な楠(クスノキ)が参道脇にそびえ立ちます。

このクスノキは、樹齢約3000年ともいわれる壮大な老樹で、根回りは約30メートルにも達します。

その貴重さから、愛媛県の天然記念物にも指定されており、長い歳月をかけて育まれてきた自然の奇跡として、多くの人々に親しまれています。

この老楠の最大の特徴は、幹の根元に自然にぽっかりと開いた大きな空洞があることです。その空洞の下には、

かつて神宮寺と呼ばれた奥の院へと続く石段が伸びており、まるで神域への入口のような神秘的なたたずまいを見せています。

この空洞を「門」に見立ててくぐり、奥の院を目指す風習から「生樹の御門(いききのごもん)」と呼び、古くから信仰と畏敬の対象として大切にされてきました。

空洞の中を抜けて石段を登ると、老楠から大いなるエネルギーがあふれ出すように感じられ、訪れる人々の心と体を静かに包み込んでくれます。

その風格ある姿と悠然たる佇まいは、まさに時を超えた存在感を放ち、大三島屈指のパワースポットとして、今も多くの参拝者を惹きつけています。

「宝物館」日本最大の国宝博物館

このように長い歴史の中で、大山祇神社には、数多くの宝物が神々への奉納品として寄進され、今日に至るまで大切に守り伝えられてきました。

それらは単なる歴史資料にとどまらず、祈りと武勇、信仰と美の結晶であり、まさに“生きた文化遺産”と言えるものです。

こうした貴重な文化財を後世に伝えるために、大山祇神社の境内には「宝物館」が設けられました。

宝物館は、「紫陽殿(しようでん)」、「国宝館」、そして「大三島海事博物館(葉山記念館)」の三館で構成されており、それぞれが異なる視点から神社の歴史と信仰、そして島とともに歩んできた人々の営みを今に伝えています。

“国宝の島”に集う武の記憶

紫陽殿と国宝館には、日本最古とされる平安中期の甲冑をはじめ、鎌倉時代から戦国時代にかけての各時代を代表する名品が並び、甲冑の保存数とその質の高さで全国一と評されています。

驚くべきことに、収蔵されている宝物は国宝8点、国重要文化財469点、県重要文化財14点にもおよび、全国に現存する国宝や国の重要文化財に指定された武具類の約8割がここに保存・展示されており、その質と数は他と比較できないほど圧倒的です。

さらに、所蔵されている品々は収集や発掘によるものではなく、すべてが歴史の中で神社に奉納され、大切に守られてきた「本物」の宝で、大三島は「国宝の島」とも称されています。

源義経の「八艘飛びの鎧」

なかでも「八艘飛びの鎧(はっそうとびのよろい)」として知られる「赤絲威鎧・大袖付」は、源義経が壇ノ浦の戦い(1185年)で平家に勝利した際に奉納したもので、あの「八艘飛び」伝説の時に着用していた鎧とされています。

壇ノ浦の戦いでは、平家の猛将・平教経(たいらの のりつね)が義経を討ち取ろうと猛追しました。

しかし義経は、教経の攻撃をかわすために、船から船へと8艘を次々と飛び移り、教経の追撃を見事にかわしました。

この勇壮な戦法は「八艘飛び」として知られ、義経の卓越した戦闘技術と俊敏さを象徴するエピソードです。

この勝利を記念し、義経は大山祇神社に「赤絲威鎧・大袖付」を奉納しました。この鎧は現在も国宝として神社の宝物館に展示され、義経の勇姿を後世に伝えています。

現存する貴重な武具群

さらに、鎌倉時代に源頼朝が奉納した「紫綾威鎧・大袖付」や、木曽義仲が奉納した「熏紫韋威胴丸・大袖付」も所蔵されています。

この胴丸は、現存する最古かつ唯一のものであり、平氏追討の準備を進める義仲が河野通信を介して奉納したものと伝えられます。

これらの武具は、日本の武士文化と信仰の深い結びつきを示しており、大山祇神社はその象徴的な収蔵品を通して、日本の武士たちの信仰心や戦の歴史を伝える貴重な場所となっています。

国宝である「禽獣葡萄鏡」は、7世紀半ばの白村江の戦いの前、伊予国の豪族で大山祇神社の神職であった小千守興(おちもりおき・越智守興)が出陣する際、斉明天皇が奉納されたものと伝えられています。

これら一つ一つの宝物は、古の人々が大山積大神に捧げた信仰の証です。

そしてそれは、単なる歴史的な遺物ではなく、時代を超えて人々の心を伝える貴重な文化遺産として、日本の歴史に受け継がれているのです。

国宝館そのものも歴史的建造物

また、「国宝館」自体もRC(鉄筋コンクリート)造がまだ黎明期だった大正15年(1926年)に竣工されたもので、日本におけるRC建築の初期の試みの一つとされています。

当時の新しい建築技術と、伝統的な和風美が見事に融合した貴重な作品であり、展示品のみならず、建築そのものも文化財的価値を持つ空間として訪れる人々を魅了しています。

「大三島海事博物館(葉山記念館)

大三島海事博物館(通称・葉山記念館)は、学術・歴史・自然文化を多角的に伝える、小規模ながら内容豊かな総合博物館です。

鉄筋コンクリート造りの2階建てで、延べ床面積はおよそ762平方メートル。大山祇神社に隣接し、穏やかな瀬戸内の風景とともに、地域の自然と人々の営みを静かに伝えています。

この博物館は、昭和天皇が海洋生物学の研究に用いられた御採集船「葉山丸(はやままる)」を記念し、永久保存する目的で昭和43年(1968年)に設立されました。

「葉山丸(はやままる)」は、昭和天皇の海洋生物研究のために建造された特別な小型採集船です。

1934年(昭和9年)、旧横須賀海軍工廠において建造され、神奈川県葉山の御用邸近海で、昭和天皇自らが乗船し、生物採集を行うために使用されました。

船名の「葉山丸」は、御用邸の所在地である葉山にちなんで名付けられたものです。

この船の主な仕様は以下のとおりです。

  • 全長:15.5メートル
  • 幅:4.2メートル
  • 排水量:15トン
  • 速力:およそ8ノット
  • 構造:木造船(御採集用として設計)

葉山丸は小型ながら、研究活動に適した設備が整えられていました。

船尾には生物採集網を投入・回収するためのワイヤーリールとダビッド(小型クレーン)が設置され、船首側には日除けの下に観察台や保存用器具など、海上での研究を支える設備が整備されていました。

昭和天皇はこの船を用いて、海ではヒドロゾア(刺胞動物の一種)、陸上では変形菌(粘菌)の観察・研究に熱心に取り組まれていたことが知られています。

使用期間は昭和初期の6〜7年間に及びましたが、太平洋戦争の戦局の悪化とともに、一時的に旧海軍に移され、江田島の海軍兵学校で訓練用の船として使用されるようになりました。

終戦後、海軍はこの船を伊予国一宮である大山祇神社に奉納し、保管を依頼しました。

ところがその直後、進駐してきた連合軍(英・豪軍)によって接収されてしまいます。

後に接収は解除され、葉山丸は再び昭和天皇の御採集船としての役割を果たし、一時は海上保安庁の巡視艇としても使用されました。

最終的には、1956年(昭和31年)に大山祇神社に正式に払い下げられ、奉納されるかたちで神社に安置されることとなりました。

この歴史を背景に、昭和天皇の研究と葉山丸を記念する博物館が設立されることとなり、現在は展示・保存の中心として、大三島海事博物館で保存公開されています。

また、館内では「葉山丸」実物の保存・展示を中心に、昭和天皇の研究と瀬戸内の歴史文化に関する豊富な資料が公開されています。

  • 葉山丸の実船展示
  • 昭和天皇が使用した顕微鏡・観察ノート・研究資料
  • 三島水軍に関する古文書や精密な模型
  • 瀬戸内海の海洋生物標本
  • 真珠養殖や製塩業に関する民俗資料
  • 全国の鉱山から奉納された鉱石標本

これらの展示にはすべて手書きの解説板が添えられ、温かみのある資料解説によって訪れる人々に瀬戸内の歴史と自然、そして昭和天皇の学問的探究心を伝えています。

展示構成は「海」「塩」「水軍」「天皇の研究」「鉱石」といった多面的なテーマに分かれており、単なる船の記念館にとどまらず、総合的な地域文化・自然史博物館としての性格を強く持っています。

特に「山と海の神」を祀る大山祇神社の境内にあるという点が、この博物館の意味をより一層深いものにしています。

しまなみ海道開通直後の1999年頃には年間約70万人の来館者を記録したこともありましたが、現在は落ち着いて約7万人程度となっています。

それでも、学術的価値の高い展示と地元の歴史文化を丁寧に掘り起こした構成は、今なお多くの人々の関心を引き続けており、大山祇神社の「もうひとつの顔」として静かな存在感を放ち続けています。

一年を彩る大山祇神社の神事

大山祇神社では、古代から受け継がれてきた神事が、今なお年間120件以上も厳かに執り行われています。

これらの祭典は、自然の恵みや五穀豊穣、国家安寧、そして祖先への感謝の心を形にしたものであり、地域に根ざした信仰と文化の中核をなしています。

中でも、特に重要視される六つの神事は「大祭式(たいさいしき)」と呼ばれています。

大祭式には、「御田植祭」や「抜穂祭」をはじめ、春夏秋冬の節目ごとに執り行われる五穀豊穣と国家安泰を祈願する儀式が含まれています。

大祭式
  1. 祈年祭(きねんさい):2月17日
    春を迎える前に、その年の農作物の豊かな実りを祈願する祭典です。「としごいのまつり」とも呼ばれ、古代から続く日本の農耕儀礼を色濃く残しています。神に先んじて願いを届けることで、自然のめぐみへの感謝と期待が込められています。
  2. 例大祭(れいたいさい):旧暦4月22日
    大山祇神社で最も重要な祭礼で、神社の創建・遷座を記念する荘厳な儀式です。御本殿・後宮・上津社・下津社を巡って神事が行われ、島内外から多数の参拝者が訪れます。併せて「後宮祭」も斎行され、神への報恩と国家・民の安寧を祈ります。
  3. 御田植祭(おたうえさい):5月5日
    境内の斎田にて、早乙女による神前での田植え儀礼が行われます。神に捧げる初穂作りの始まりを告げる祭りで、「一人角力(ひとりずもう)」という神と人が相撲を取る伝統的な神事も奉納されます。農耕の原点と、神との交歓を象徴する行事です。
  4. 産須奈大祭(うぶすなたいさい):旧暦8月22日
    大山祇大神の御子神を祀る産須奈神社の例祭であり、かつての生贄信仰に代わって始まった獅子舞と神輿渡御が見どころです。一遍上人による改革の後、勇壮で賑やかな祭礼として島の人々の心に根づいています。
  5. 抜穂祭(ぬいぼさい):9月9日
    春に植えた稲を刈り取り、神に初穂を奉納する秋の収穫祭です。斎田での鎌入れ儀礼の後、神前に新米が供えられ、感謝の祈りが捧げられます。自然の恵みへの感謝と、来年の豊作を願う静かな祈りのひとときです。
  6. 新嘗祭(にいなめさい):11月23日
    国家行事としても重要な新嘗祭は、その年に収穫された新穀を神に捧げる最終の節目となる祭典です。五穀豊穣の成就に感謝を捧げ、農業をはじめとした地域経済の安泰を祈ります。
その他の主要な神事
  1. 歳旦祭:(1月1日)
    元旦の早朝に行われる新年最初の神事で、皇室の弥栄と国土安寧を祈願します。初詣の参拝客も多く、静けさの中に新たな一年の希望が満ちる時間です。
  2. 生土祭・福木神事(1月7日)
    赤土を額に塗る「赤土拝戴」の神事や、福木の枝を奪い合う儀式が特徴です。一年の無病息災と福を願う勇壮な神事で、安神山の霊力を取り入れる意味も込められています。
  3. 紀元祭(2月11日)
    初代天皇・神武天皇の即位を記念し、建国の精神を顕彰する祭典です。皇室のご加護を仰ぎつつ、国家の平和と繁栄を祈ります。
  4. 天長祭(2月23日)
    天皇誕生日にあたるこの日は、皇室のご長寿と安泰を祈願する儀式が執り行われます。
  5. 昭和祭(4月29日)
    昭和天皇の御誕生日にちなみ、近代国家の礎を築いた昭和期の歩みに感謝を捧げます。
  6. 全国鉱山工場安全祈願大祭(6月27日)
    鉱工業の繁栄と作業の安全を願う産業振興の神事です。全国からの企業・団体が参列し、現代社会における神社の役割の広がりを感じさせます。
  7. 秋季祖霊社祭(秋分の日)
  8. 祖先の御霊を慰め、感謝の心を新たにする秋のお彼岸の神事です。祖霊信仰と神道的自然観が交差する大切な時期でもあります。
  9. 明治祭(11月3日)
    明治天皇を偲び、近代化の原動力となったその御徳を讃える神事です。明治憲法や文明開化の精神にもつながる儀礼です。
  10. 大祓式・除夜祭(12月31日)
    一年の穢れを祓い、新たな年を清浄な心で迎えるための大切な神事です。「形代(かたしろ)」によって自らの罪穢れを移し、神前で祓い清めます。

これらの神事は、古代から現在に至るまで、大山祇神社とともに地域の人々が歩んできた歴史の証でもあります。

一つひとつの祭りの背後には、自然や祖先への感謝、未来への祈りが込められており、大三島の人々の心と文化の礎となっています。

大山祇神社と三つの神体山

大山祇神社には、社殿の背後に三つの神体山(しんたいさん)が存在します。

神体山とは、神社において神そのものが鎮まる山を指し、社殿の奥に位置することが多い神聖な存在です。

社殿に神像や神体を置かず、自然そのものを神と見なして拝む「自然崇拝」の形を残すものであり、古代祭祀の姿を今に伝える重要な要素といえます。

大山祇神社では、「鷲ヶ頭山(わしがとうざん)」「安神山(あんじんさん)」「小見山(おみやま)」の三山が、神の依代(よりしろ)として特別な信仰を集めてきました。

これら三山は、それぞれ御本社・摂社である上津社(かみつやしろ)・下津社(しもつやしろ)の御神体とされており、神が宿る場所として古来より信仰を集めてきました。

鷲ヶ頭山(わしがとうざん)

鷲ヶ頭山は大三島の最高峰であり、標高は436.5メートルあります。大山祇神社の御本社における主たる神体山として、最も重要な位置を占める山です。

古くは「神野山(こうのやま)」とも呼ばれ、神が住む霊地として長い間立ち入りが禁じられていましたが、昭和48年(1973年)に登山道が整備され、現在では一般の登山者や参拝者も山頂まで登ることができるようになりました。

山頂からは、瀬戸内海の多島美や遠く石鎚山系までを見晴らすことができ、神域ならではの清らかで荘厳な空気を感じることができます。

また、山全体は花崗岩で構成されており、兜岩や烏帽子岩といった奇岩が点在しています。

こうした自然の造形そのものが神聖な姿として、人々の信仰を深めてきました。

このように鷲ヶ頭山は、地理的にも精神的にも大山祇神社の中心をなす存在であり、島の守護神・大山積大神(おおやまつみのおおかみ)の御神徳が宿る山として、今なお多くの人々から厚く信仰されています。

安神山(あんじんさん)

鷲ヶ頭山の東に連なる安神山は、摂社である上津社(御祭神:大雷神)の御神体とされています。

その山名に「神」の字が含まれていることからもわかるように、安神山は古くから霊力が宿る特別な山として崇められてきました。

毎年1月7日に執り行われる「生土祭(うぶすなさい)」では、山のふもとで「赤土拝戴(せきどはいたい)神事」が行われます。

ここで採取される赤土は、神事の中で神前に供えられ、地域の人々にとって重要な意味を持つ神聖なものとされています。この赤土には山の霊力が宿るとされており、土地の守護神に感謝を捧げるための象徴でもあります。

また、安神山の山頂には「竜王大権現」が祀られた龍神の祠があり、かつては雨乞いの祈祷が行われていました。

山中には石鎚大神を称える石碑や、鎖場(くさりば)と呼ばれる修行場も残されており、山岳信仰や石鎚信仰が今なお息づいています。修行者たちが霊験を受ける場所としても大切にされてきました。

小見山(おみやま)

三つ目の神体山である小見山は、下津社(御祭神:高靇神)の御神体とされています。「お宮の山」が転じて「小見山」という名が付けられたと伝えられており、神社との深い結びつきを持つ霊峰です。

小見山は、三山の中では比較的標高が低いものの、神域に属することで特別な役割を果たしています。

生活に密着した守護の山としても親しまれており、農耕や日々の営みを見守る神の山として信仰されてきました。

御田植祭や抜穂祭などの農事神事にも、小見山の象徴性が込められていると考えられています。

また、比較的登りやすい地形のため、古くから多くの人々が足を運び、祈りを捧げてきた山でもあります。

こうした信仰の姿は、鷲ヶ頭山の峻厳さや、安神山の神秘性と並び、大山祇神社の霊的な空間を形づくる一角として大切にされてきました。

三山への信仰

これらの三山は、いずれも大山祇神社に祀られている神霊が鎮まる霊峰であり、それぞれが神の依代(よりしろ)として古代より篤く崇敬されてきました。

大山積大神は「山の神」であると同時に「海の神」「武神」としても信仰され、自然の中に神の姿を見出す古代日本の神観念を象徴する存在です。

社殿の背後に聳える三山こそが、神そのものの現れとされ、社殿はあくまで神域への「拝所」にすぎません。

三山への信仰は、まさに大山積大神の本質である自然そのものに宿る神聖を体現するものであり、その古層の信仰は『大山祇神社古図』(国指定重要文化財)にも明確に描かれています。

山を仰ぎ、祈るという古代祭祀のかたちが、今も大三島の地に脈々と息づいているのです。

神社名

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地

電話

0897-82-0032

主な祭礼

例大祭(旧4月22日)・御田植祭(旧5月5日)・産須奈大祭( 旧8月22日に近い土曜日・日曜日)・抜穂祭(旧9月9日)

主祭神

大山積神(おほやまつみのかみ)

境内社

上津社・ 下津社・ 姫子邑神社・ 酒殿・ 八重垣神社・ 御鉾神社・ 葛城神社・ 祓殿神社・ 伊予国総社・ 十七神社・ 宇迦神社・ 馬神社・ 祖霊社・ 八坂神社。 五穀神社・ 阿奈波神社・ 御子宮神社・ 厳島神社・ 轟神社・ 天神社

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