愛媛県最北端に位置する「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」は、愛媛最古の神社であり、全国に約1万社以上ある山祇神社や三島神社の総本社です。古代より「日本総鎮守」として日本全土の氏神様とされ、その神聖な力により、多くの人々から特別な存在として敬われてきました。
本殿には御祭神として「大山積大神(おおやまつみのおおかみ)」が祀られ、境内の摂社には「大雷神(おおいかづちのかみ)」と「高靇神(たかおかみのかみ)」が祀られています。
大雷神は雷を司り、天地のエネルギーを象徴し、その雷鳴は大地を潤す雨とともに豊かな作物をもたらすとされています。また、高靇神は水の流れを司る水神であり、特に雨や川、海を守護するとされるため、農業や漁業に従事する人々から深く信仰されてきました。
御祭神「大山積大神」
「大山積大神(おおやまつみのおおかみ)」は、『古事記』や『日本書紀』に「山の神」として記されているとともに、伊予国風土記には「御島に坐す。神の名は大山積…一名(またのな)を和多志の大神」として記述される神様です。
大山積大神は天照大神の兄神であり、山の神であると同時に大海原の神、さらには渡航の神ともされ、日本の大地と海を守る存在として広く信仰されてきました。
山は川となり海へと注ぐことから、古代においては山と海が一体のものとされ、大山積大神もまた山と海を合わせて守る神として認識されました。このため、農業や漁業に関わる人々にとって、山を守護する大山積大神は作物の豊作や田畑の保護を、海の神としては漁業の発展や航海の安全を祈願する存在でした。
また、産業や工業を支える神としても信仰され、商売繁盛や事業の成功を願う、地元住民や企業、ビジネスマンも多く参拝しています。
さらに大山積大神は、戦の神、つまり武神としても知られています。伊予国の豪族であった河野氏や来島村上氏など、戦いに明け暮れた当時の水軍の武将たちが出陣前に必勝祈願を行う拠点となり、大山積大神への戦勝祈願は戦乱の時代の中で信仰が深まるきっかけにもなりました。
神話から現代まで続く戦勝祈願
現代においても、大山積大神は勝負運や戦勝祈願の神として、数多くの参拝者に崇敬され、日本を守る立場にある人物たちが、この神社を篤く信仰してきました。
たとえば、三笠宮様や浩宮様(現・天皇陛下)をはじめ、初代総理大臣・伊藤博文などの政治家も参拝を行っています。旧帝国海軍の連合艦隊司令長官として著名な山本五十六も、大山積大神への深い崇敬を示し、出征前に参拝した記録が残されています。
現在も海上自衛隊や海上保安庁の幹部が大山積大神を訪れ、海上の守護神としての加護を祈願するために参拝しています。
このように、日本の安全と平和を守る立場にある人々が、大山積大神を信仰の対象とし、そのご加護を求め続けているのです。
さらに、元日本代表監督である岡田武史さんが率いるFC今治も、2015年からシーズン前に大山祇神社で必勝祈願を行っています。毎年行われるこの祈願祭には選手とスタッフが一堂に会し、今治市をはじめとする地元のファンとも一体となって、チームの成功と無事を祈り、士気を高める行事として親しまれています。
神紋「隅切折敷縮三文字」
神紋とは、神社特有の紋章のことで、家々に家紋があるように神社にも個別の神紋があり、それぞれの神社の歴史や性格を象徴しています。
大山祇神社の神紋は、「隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもんじ)」と呼ばれ、古くからこの神社のシンボルとして用いられています。
「隅切折敷縮三文字」のデザインは、四隅が切り取られた八角形の「折敷(おしき)」の中に、波型の「三」の文字があしらわれたものです。折敷とは、神事や儀式で供物を捧げる際に用いられる白木の台で、神聖な場面で使用されることから、神紋としてもその神聖さが表現されています。折敷には形状によって呼び名が異なり、四角いものを「傍折敷(おしき)」、八角形のものを「隅切折敷」、内側に角が入り込んだものを「隅入折敷」と呼び分けることがあり、大山祇神社では八角形の隅切り折敷が採用されています。
この神紋は、山と海の恵みを授ける大山積大神の力を象徴するものです。
「神紋から家紋へ」神を背負った伊予の武将
特に大山祇神社の氏子であった河野氏や来島村上氏は、神社への深い信仰心を表し、「折敷に三文字」の神紋を家紋に取り入れていました。
平安時代末期の源平合戦において、河野通信(こうの みちのぶ)は一族の三島水軍を率いて源氏側に付き、壇ノ浦の戦いにおいて源氏の勝利に大きく貢献しました。壇ノ浦の戦いは源平合戦の決定的な戦いであり、源氏が平家に勝利することによって日本の新たな時代が切り開かれた重要な局面です。
通信が率いた三島水軍は、瀬戸内海の地形や潮流を熟知しており、源氏にとって大きな力となりました。この戦いにおける河野通信の奮戦は、神の加護を信じて戦う武士としての忠誠と勇敢さを象徴しており、神社への崇敬が源氏の勝利に貢献した象徴的な出来事とされています。
蒙古襲来の弘安の役(1281年)では、河野通有が三島水軍を率いて蒙古軍に立ち向かい、夜襲をかけて大きな武功を上げたと記録されています。
弘安の役は日本を守るための重要な戦いであり、通有が行った夜襲は戦略的に重要な役割を果たしました。通有の勇猛な戦いは、大山積大神の加護を信じて戦った河野氏の信仰の深さを示しており、神社が戦の神としての存在感を発揮する一例ともなっています。
「宝物館」日本最大の国宝博物館
大山祇神社の境内には、神社の長い歴史を物語る貴重な文化財が収蔵された宝物館が設置されています。この宝物館は、「紫陽殿」、「国宝館」、そして「大三島海事博物館(葉山記念館)」の3つの館で構成されています。
紫陽殿と国宝館には、日本最古とされる平安中期の甲冑をはじめ、鎌倉時代から戦国時代にかけての各時代を代表する名品が並び、甲冑の保存数とその質の高さで全国一と評されています。
驚くべきことに、収蔵されている宝物は国宝8点、国重要文化財469点、県重要文化財14点にもおよび、全国に現存する国宝や国の重要文化財に指定された武具類の約8割がここに保存・展示されており、その質と数は他と比較できないほど圧倒的です。
さらに、所蔵されている品々は収集や発掘によるものではなく、すべてが歴史の中で神社に奉納され、大切に守られてきた「本物」の宝で、大三島は「国宝の島」とも称されています。
なかでも「八艘飛びの鎧(はっそうとびのよろい)」として知られる「赤絲威鎧・大袖付」は、源義経が壇ノ浦の戦い(1185年)で平家に勝利した際に奉納したもので、あの「八艘飛び」伝説の時に着用していた鎧とされています。
壇ノ浦の戦いでは、平家の猛将・平教経(たいらの のりつね)が義経を討ち取ろうと猛追しました。しかし義経は、教経の攻撃をかわすために、船から船へと8艘を次々と飛び移り、教経の追撃を見事にかわしました。この勇壮な戦法は「八艘飛び」として知られ、義経の卓越した戦闘技術と俊敏さを象徴するエピソードです。この勝利を記念し、義経は大山祇神社に「赤絲威鎧・大袖付」を奉納しました。この鎧は現在も国宝として神社の宝物館に展示され、義経の勇姿を後世に伝えています。
さらに、鎌倉時代に源頼朝が奉納した「紫綾威鎧・大袖付」や、木曽義仲が奉納した「熏紫韋威胴丸・大袖付」も所蔵されています。この胴丸は、現存する最古かつ唯一のものであり、平氏追討の準備を進める義仲が河野通信を介して奉納したものと伝えられます。これらの武具は、日本の武士文化と信仰の深い結びつきを示しており、大山祇神社はその象徴的な収蔵品を通して、日本の武士たちの信仰心や戦の歴史を伝える貴重な場所となっています。
国宝である「禽獣葡萄鏡」は、7世紀半ばの白村江の戦いの前、伊予国の豪族で大山祇神社の神職であった越智守興が出陣する際、斉明天皇が奉納されたものと伝えられています。
これら一つ一つの宝物が、古の人々が大山積大神に捧げた信仰の証であり、日本国にとってもこれらの宝物は単なる歴史的な遺物にとどまらず、時代を超えて続いてきた当時の人々の心を伝える貴重な遺産であり、日本の文化遺産として後世に引き継がれるべきものとなっています。
また、「国宝館」自体もRC造がまだ黎明期だった大正15年(1926年)に竣工されたもので、日本におけるRC建築の初期の試みの一つであり、当時の新しい建築技術と伝統的な和風美が見事に融合した貴重な作品となっています。
「鎧懸けの楠」
大山祇神社には、国宝だけでなく、数多くの貴重な史跡や建造物が現存し、歴史を今に伝えています。その一つが「河野通有兜掛の楠」です。
これは弘安四年(1281年)の蒙古襲来に際し、河野通有が大山祇神社に籠もって戦勝祈願を行い、三島水軍を率いて筑前(現在の福岡県)へ出陣する際に、出発の記念としてこの楠に兜を掛けたと伝えられています。
伝承によれば、出陣中に大山積大神の神使とされる白鷺が通有を導き、戦において勝利を収めることができたといいます。この楠は、長い時を経た今も大山祇神社の境内にそびえ、河野通有の武運と神への信仰を象徴する史跡となっています。
さらに、大山祇神社の境内には、数百年にわたり立ち続けてきた歴史的な木々や、国の重要文化財に指定されている貴重な建造物が数多く残されています。
これは、大山祇神社の創建が紀元前、日本がまだ神話の時代だった頃から伝えられる長い歴史を持つためです。
【創建伝説①】小千命(乎知命)の伝説
社伝によれば、大山祇神社の創建は約2,600年前にさかのぼるとされています。紀元前660年、初代天皇とされる神武天皇が南九州から東征(神武東征)を行うにあたり、伊予二名島(四国)に渡ったと伝えられます。
このとき、瀬戸内海の治安を司っていた小千命(乎知命・おちのみこと)が、芸予海峡の要所である御島(大三島)を神聖な地とし、祖先である大山積大神を鎮祭したのが、大山祇神社の始まりとされています。
境内には、この神代の出来事を象徴する御神木「小千命(乎知命)御手植の楠」がそびえています。この楠は、約2,600年前に小千命が大山積大神を祀る記念として手植えしたと伝えられ、樹齢2,600年にもおよぶとされています。
「息を止めたまま木の周りを3周すると願いが叶う」という伝承も残されており、多くの参拝者がそのご利益を求めて息を止めて周囲を周る姿が見られます。
さらに、伝承によると小千命と神武天皇は親戚関係にあるとされています。
大山積大神には二人の娘がおり、そのうちの一人、吾田津姫(あたつひめ/木花開耶姫)は、天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚し、三人の子供をもうけました。
この三人のうちの一人、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と結ばれ、その間に「鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」が生まれます。
成長した鵜葺草葺不合尊は、自分の乳母であり叔母でもある玉依姫命と結婚し、五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと)の4人の子を授かりました。この四人の子の末子である神倭伊波礼琵古命が、のちに日本の初代天皇として即位する神武天皇です。
したがって、大山積大神は神武天皇にとってのご先祖さまであり、「祖父の祖父」にあたる存在となります。一方で、小千命も大山積大神の子孫であるため、神武天皇とは遠い親戚関係であったと考えられるのです。
【創建伝説②】百済からの渡来
大山祇神社の創建については複数の伝承が残されており、古代朝鮮半島西部の国「百済」から渡来したという説もあります。
この説によると、創建は古墳時代にさかのぼり、仁徳天皇が淀川の治水工事である茨田堤を築いた際に、百済から渡ってきた大山祇神を淀川鎮守の神として祀ったことが始まりとされています。神が鎮座した場所は、現在の大阪府高槻市三島江付近にある「御島」と呼ばれる川中島であり、当時の人々から「三島の社」として崇められ、淀川の平静や農耕の発展、王都・難波の守護神としての役割を果たしていたと伝えられています。
その後、その後、瀬戸内の要衝である大三島(現在の愛媛県今治市)へと勧請されたという伝承が残っています。
伝説から繋がる歴史
その後、推古天皇の時代(594年)に「遠土宮(おんどのみや)」として大三島の南東部の瀬戸の地に祀られたことが始まりとされています。
その後、大宝元年(701年)に伊予国の国司・越智玉澄が大三島の西海岸に新たな社殿を建て始め、
造営は霊亀2年(716年)、ご神体を新しい正殿に移されたのは、別宮から7年後の養老3年(719年)でした。
文字史料の初出は、天平神護2(766)年であり、神階や神戸(神社直属の民)を与えられたとの記録があります。また平安時代に成立した『延喜式』神名帳では名神大社に列せられています。
中世「日本総鎮守」
中世からは伊予国の一宮とされ、朝廷から「日本総鎮守」の号が下賜されました。中世の中頃に瀬戸内海を支配した村上海賊や、河野氏も大山祇神社を崇め、武運や海上交通の安全を祈ったといいます。
室町時代「本殿・拝殿の再建」
鎌倉時代(元亨2年:1322年)に、大山祇神社の本殿と拝殿は戦火により焼失しました。その後、南北朝時代(天授4年:1378年)に再建され、さらに室町時代(応永34年:1427年)には現在の本殿と拝殿が建てられ、今日に至っています。
江戸時代(慶長7年:1602年)には大規模な修理が施されました。このように度重なる改修が行われた過程で、桃山期や江戸時代初期の建築技術が加えられ、異なる時代の特色が反映された貴重な建造物としての価値を高めています。
このような時代の変遷から、現在の本殿と拝殿は、室町期1427年の建築として国の重要文化財に指定されていますが、文化庁のデータベースでは江戸前期の建築物としても扱われています。
明治時代「四国唯一の国幣大社」
明治時代に入ると、大山祇神社は四国で唯一の国幣大社として指定され、全国的に重要な神社として信仰を集めるようになり、「大山祇神社」として知られるようになりました。それ以前、大山祇神社は古文献にも見られるように「三島」「御島」「大三島大明神」など様々な名で呼ばれていましたが、明治時代に正式に現在の「大山祇神社」に改名されました。
しかし、祭神の表記は依然として「大山積神」と記されており、鳥居に掛かる扁額にも「大山積神社」と刻まれています。
「クスノキ群」が天然記念物に指定
昭和26年(1951年)、大山祇神社内のクスノキ群は「日本最古の原始林社叢」として、国の天然記念物に指定されました。
このクスノキ群は、境内を中心に広がり、神聖な大山祇神社の森を構成しています。なかでも、御神木とされる「乎知命御手植の楠」はじめ、樹齢何百年にも及ぶ巨木が数多く存在し、地域の人々から崇拝されてきました。
一方で、この原始林社叢のクスノキ群は、長い歴史の中でたびたび災害に見舞われ、元亨2年(1322年)には戦火、享保7年(1722年)には大規模な洪水によって大きな被害を受けました。
これらの災害で、かつての鬱蒼とした森の一部は失われましたが、現在も38本のクスノキが残り、その姿を保っています。
県の天然記念物「生樹の御門」
さらに、境内から少し離れた場所にある奥の院の参道沿いのクスノキは、樹齢約3000年とも言われ、根回り約30メートルの壮大な老樹です。このクスノキは、愛媛県の天然記念物に指定されており、地域の貴重な自然遺産として大切に保護されています。
この老楠は幹の根元に大きな空洞が自然にできており、その空洞を門に見立ててくぐり、奥の院へと参拝することから「生樹の御門(いききのごもん)」と呼ばれるようになりました。空洞の中に続く石段を登ると、老楠から大きなエネルギーが感じられ、その風格ある樹形は訪れる人々に深い感動と神秘的な力を与えるパワースポットとしても知られています。
樹齢3000年「能因法師 雨ごいの楠」
社務所の西側に位置する「能因法師 雨ごいの楠(のういんほうし あまごいのくす)」は、非常に古い木で、樹齢3000年を超える日本最古のクスノキといわれています。その名の通り、平安時代の歌人能因法師がこの場所で雨乞いを行ったとされ、雨乞いの象徴として崇敬を集めてきました。
この伝説は、平安時代中期、後冷泉天皇(在位1045~68)の時代にさかのぼります。当時、伊予国守であった藤原範国(ふじわらののりくに)が降雨を祈願するため、能因法師を遣わしました。能因法師は幣帛に「天の川 苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神」と記し、雨乞いの祈祷を行いました。その祈りに応えるかのように、3日3晩雨が降り続け、降雨祈願が成就したと伝えられています。この祈りの際、能因法師が幣帛を掛けた木がこの大楠であり、それ以来「雨ごいの楠」として名を残しています。
現在、この楠は残念ながら完全に枯れていますが、その歴史的・文化的な価値は衰えることなく、国の天然記念物として指定されています。
「宇迦神社」
雨乞いの楠の奥、神池の島には、大山祇神社の末社として、御祭神に宇賀神(うかのかみ)を祀ってる宇迦神社(うがじんじゃ)が鎮座しています。
宇迦神社(うがじんじゃ)です。この小さな社は、大山祇神社の末社として、御祭神に宇賀神(うかのかみ)を祀っています。
宇賀神は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するとされ、人頭蛇身でとぐろを巻く姿で描かれることがあり、その頭部も老翁や女性であるなど諸説があり一定の形がありません。また、宇賀神は龍神とも結びつけられ、この地では三嶋龍神の祭祀が行われていたとも伝えられています。
宇迦神社には、かつてこの神池で大蛇(龍)が3つに切られたという伝説が残されています。さらに、3つに切られた大蛇の“尾”が海を渡って対岸に飛び、その地が尾道(広島県尾道市)と名付けられたという言い伝えもあり、この地と尾道との不思議な縁を物語っています。
「伊藤博文」記念楠樹と二ノ鳥居の社号石
明治42年(1909年)3月22日、日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文が大山祇神社を参拝しました。
伊藤博文は越智氏族の一員でもあり、先祖と縁の深い大山祇神社を特別な場所と考えていたのかもしれません、
この参拝の記念として、伊藤博文は境内にクスノキを植樹(伊藤博文公記念楠樹)し、現在もその若木は幹周約1メートルの姿で残っています。
境内の入り口にある「日本総鎮守 大山積大明神」という神額が掲げられた二ノ鳥居のそばには、伊藤博文が書き残した社号石が立っています。この石には「大日本総鎮守大山祇神社」と刻まれており、参拝者たちは今日に至るまで、その文字を通じて大山祇神社の威厳と長い信仰の歴史を感じ取っています。
海からの入り口「一ノ鳥居」
ちなみに、一ノ鳥居は宮浦港のそばにあり、かつてしまなみ海道がなかった時代には、大山祇神社に参拝するための海からの正式な入口としての役割を果たしていました。海上から大三島に上陸した参拝者は、まずこの一ノ鳥居をくぐることで、神聖な領域への第一歩を踏み入れることができました。
一ノ鳥居は、参道の起点となる場所に立ち、創建当初は日本一の高さを誇ったとされ、その荘厳な姿は遠くからも確認できるほどだったと伝えられています。
方策を祈願する「斎田と儀式」
二ノ鳥居をくぐって右側には、神に供える米を栽培するための神聖な田んぼ、斎田が広がっており、隣には「御桟敷殿(おさじきでん)」と呼ばれる母屋造(もやづくり)の建物が建てられています。
ここでは毎年、春の御田植祭(おたうえさい)や秋の抜穂祭(ぬきほさい)といった伝統的な祭りが行われます。
御田植祭は旧暦5月5日の端午の節句に行われるもので、神様に捧げる稲の豊作を祈願するための儀式です。神職が拝殿で荘厳な式典を行った後、三基の神輿が本殿から御桟敷殿(おさじきでん)へと渡御し、神様が斎田へと迎え入れられます。斎田には、島内の13地区から選ばれた16人の早乙女が集まり、白い上衣に緋色の袴、赤い手甲・脚絆という清らかな姿で整列し、神聖な田植えが始まります。
御田植祭と対をなす秋の儀式が抜穂祭であり、旧暦9月9日に行われます。この祭りでは、春に田植えを行った早乙女たちが再び斎田に集まり、稲の初穂を刈り取ります。収穫された初穂は神輿に供えられ、神様に豊作の感謝が捧げられます。この一連の流れにより、春から秋まで続く稲作が神事として成り立ち、神社の伝統が守られています。
「一人角力(ひとりずもう)」
御田植祭や抜穂祭の際には、一力山(いちりきざん)と呼ばれる力士が目に見えない稲の精霊を相手に相撲を取る一人角力(ひとりずもう)が奉納されます。この神事は大山祇神社の伝統的な豊作祈願の儀式で、愛媛県の無形民俗文化財にも指定されており、地域の信仰と伝統を象徴する特別な行事となっています。
一人角力では、一力山が目に見えない稲の精霊と三番勝負を行います。第一番では精霊が勝利し、次の取り組みで一力山が奮闘し勝利、そして最終の第三番で再び精霊が勝利を収めるという流れで進行します。この結果をもってその年の豊作が約束されるとされ、一人角力は神様からの恵みを祈願し、参拝者に豊かな実りを約束する重要な神事です。
力士と行司が繰り広げるこの一人角力は、真剣な所作と同時に、時折ユーモラスな動作も見せ、観客にとっては楽しみながらも神聖さを感じさせるひとときとなります。
目に見えない稲の精霊と力士が取り組む様子は、豊作への祈りを捧げるとともに、地域の人々が神と自然の力に対する感謝を込めて見守るものとなっており、大山祇神社の御田植祭や抜穂祭を象徴する儀式として大切に受け継がれています。
復元された「大山祇神社の総門」
二の鳥居をくぐり境内に入る手前には、総ヒノキ造りの美しい総門がそびえ立っています。高さ12mのこの総門は、境内の厳かな雰囲気を引き立て、両脇には高さ2.5mの随身像が力強く立っています。
武士の姿をした随身像は、大山祇神社を守護する存在として参拝者を迎え、それぞれ約250kgもの重さがあり、細部まで丁寧に彫られた姿が圧巻の迫力です。
実はこの総門は、1322年に発生した兵火で一度焼失し、長い間その姿を失っていました。しかし平成22年(2010年)に、室町時代の古図や歴史的な資料をもとにして、688年ぶりとなる復元が行われました。
復元には、境内に育っていた貴重なヒノキ材が使用され、2年間の歳月をかけて、総工費約3億2000万円という大規模なプロジェクトとして実現したものでした。
こうして再建された総門は、当時の工法や意匠が忠実に再現されており、伝統的な日本建築の美しさと力強さが見事に融合したものとなっています。
「十七神社」
総門を抜けると、まず目に入るのが「小千命御手植の楠(おちのみことおてうえのくす)」で、そしてその左側には「十七神社」が鎮座しています。
「十七神社」は、大山祇神社の境内に建つ県指定文化財で、歴史的な価値が高い建物です。建築は宝町時代にさかのぼり、平安時代の建築様式を色濃く残す「長棟造り」が特徴です。これは、建物の屋根が長く、広がりを持たせた造りで、荘厳な雰囲気を醸し出しています。
この社殿は「諸山積社」と称される大山積大神の兄弟神を祀る社殿を中心に、16の神社が連続して建てられているため「十七神社」と呼ばれます。社殿の構造には独自の工夫があり、一方の屋根は「入母屋造」、他方の屋根は「切妻造」を用いた段違いの取り合わせがなされています。これにより、建物全体がより立体的で重厚な印象を与え、長い歴史を経て改修が施される中でも、桃山期や江戸時代の細部が組み込まれ、異なる時代の技術が融合しています。
内陣には、国指定重要文化財に指定されている17体の木彫の御神像が安置されています。これらの御神像は一体一体が丁寧に彫刻され、神々しい佇まいを保っています。大山祇神社が伊予国の一宮として、多くの神々を祀り、神聖な存在としての役割を果たしてきたことを示しており、各神像にはそれぞれの神の特徴が見て取れる細工が施されています。神像の表情や姿勢には、平安から続く信仰の心と共に、古の技法が息づいています。
伝統と新たな歴史を刻む「神門」
右側の手水舎の隣には、「祓殿神社」「伊予国総社」「葛城神社」の三社が合祀されています。これらの神社は、もともとはそれぞれ別々の社殿に祀られていましたが、荒廃したため、天正年間(1573〜1592年)に3つの神社を1箇所にまとめて祀る形にされたとされています。
そして、正面には神社の守護を象徴する美しい「神門」がそびえ立っています。
この神門は、1661年に松山藩主であった松平定長によって寄進されたもので、当初は素木造りで檜皮葺の切妻屋根が施された伝統的な建築でした。
しかし、長い年月を経て老朽化が進み、355年ぶりに新たに建て替えられることとなり、平成28年(2016年)12月4日に竣工式が行われました。
新しい神門には、左右両脇に初めて随身像が配され、これにより神門は「随神門(ずいしんもん)」として参拝者を迎える姿となりました。この随身像は武士の姿をした2体の像で、神社を守護する役割を持ち、堂々たる立ち姿で参拝者に威厳を感じさせます。
なお、旧神門は新たな場所でその歴史を生かすため、平成29年(2017年)に岡山県高梁市川面町の大山祇神社へと移築されました。移築に際しては屋根も銅板葺きに改められ、元の役割を大切にしつつ、新たな地で神社の歴史を伝え続けています。
旧神門は、平成29年に岡山県高梁市川面町にある大山祇神社へと移築され、大切に保存されています。この移築に際し、屋根も新しく銅板で葺き替えられ、再び人々の目に触れる場でその歴史を伝え続けています。
「廻廊」と「拝殿」
神門をくぐると、まず目の前には拝殿が広がり、その左右に長く伸びる廻廊が設けられています。この廻廊には、これまで大山祇神社を訪れた著名な参拝者たちの写真がずらりと並び、時代を超えて信仰を集めてきた歴史を感じることができます。
1427年に再建された拝殿は、木造の切妻造り、素木(しらき)造りであり、前方には優美な唐破風を備えた向拝が設けられています。屋根はヒノキ皮で葺かれ、その落ち着いた美しさと重厚な雰囲気が参拝者を迎え入れます。拝殿の奥には、神社の中心ともいえる本殿が鎮座し、厳かに神霊が祀られています。
「隼人舞の像」
神門左側の北回廊には「隼人舞(はやとまい)の像」と呼ばれるブロンズ像があります。
この像は、古代の隼人族が踊った「隼人舞」をテーマに、文化勲章を受賞した彫刻家の中村晋也氏が制作し、2010年に今治造船株式会社の寄進によって奉納されたものです
「隼人舞の像」は、高さ2.53メートルで、狩衣に鳥兜をかぶり、右手に扇子、左手に鉾を持って舞う姿を再現しています。神々しさと威厳を兼ね備えたこの像は、拝殿へとつながる神門の左側の北回廊に設置され、来訪者の目を引きつけます。2010年11月3に行われた奉納式の際には、今治造船の檜垣俊幸会長や菅良二今治市長も出席し、参拝者たちは新たなシンボルとしてこの像にカメラを向けるなどして熱心に見入っていました。
「神札授与所」
拝殿右側に位置する神札授与所は、毎日午前9時から午後5時まで開かれており、御朱印や御札、御守り、数珠などが数多く揃えられています。参拝者はここで、大山祇神社のご加護を象徴するさまざまな授与品を受け取ることができます。
また、ご祈祷の受付は午前9時30分から午後4時まで行われており、心願成就や家内安全、商売繁盛、厄除けなど、さまざまな祈祷を依頼することができます。
一遍上人の「宝篋印塔」
神札授与所を抜け右側に向かうと、一遍上人(いっぺんしょうにん)に縁のあると伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が3基並んでいます。
一遍上人は、鎌倉時代の延応元年(1239年)に伊予(現在の愛媛県松山市)の豪族・河野家の次男として誕生し、幼名を松寿丸といいました。父は河野七郎通広、祖父は河野四郎通信という武家に生まれましたが、10歳の時に母を亡くしたことがきっかけで父の命を受け仏門に入ることになりました。その後、一遍上人は仏教修行を積み、「時宗」を開いた僧として多くの人々に信仰を集めました。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、仏教に由来する石塔で、主に鎌倉時代から室町時代にかけて多く建てられました。その目的は、経典や遺品などの供養や、亡くなった人々の成仏を願うもので、一種の供養塔としての役割も果たしています。
宝篋印塔の「宝篋印」とは、仏教の経典のひとつ「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」に基づく名称で、この塔を建てることで多くの功徳を得て、人々が安寧に導かれると信じられてきました。
塔の構造は、四角い基壇の上に複数の層を重ね、最上部には「相輪(そうりん)」と呼ばれる金属製の飾りを持つことが多く、全体にわたって彫刻や装飾が施されています。
山祇神社にある3基の宝篋印塔は、一遍上人の来島を記念して建てられたと伝わっています。
特に中央の塔は、鎌倉時代の文保2年(1318年)に建立されたものとされ、3基の中でも最も大きく存在感があります。すべての塔は花崗岩で作られており、鎌倉時代の彫刻技術と美意識が見事に反映されています。
中央の塔は、高さ約394cmにもおよぶ堂々たる造りで、基部とその上部に三段にわたる蓮弁(れんべん)の彫刻が施されています。この構造は極めて精巧で、鎌倉時代の技術の高さを示しています。さらに、この塔の特徴的な部分は、相輪の上部にある「請花(うけばな)」が逆向きに垂れ下がっている点です。この独特な形状は他に例が少なく、大山祇神社の宝篋印塔をより印象的なものにしています。
中央の宝篋印塔の両側には、やや小ぶりの2基が並んでおり、左端のものは3基の中でも特に簡素な造りです。しかし、これら2基もまた極めて均整のとれた美しい形を保っており、鎌倉時代特有の技法や様式を備えています。
3つのご神体山
社殿後方にそびえる「鷲ヶ頭山」「安神山」「小見山」の三山は、神社にとって神聖な神体山として古くから特別な信仰の対象とされています。大山祇神社では、これらの山々がそれぞれ御本社と摂社である上津社(かみつやしろ)、下津社(しもつやしろ)の御神体とされ、神が宿る場所として崇拝されています。
島内最高峰の鷲ヶ頭山は、標高436.5メートルを誇り、大山祇神社の御本社の御神体です。古くは「神野山(こうのやま)」と呼ばれ、神の領域とされてきました。神野山という呼称は、そこが神が住まう特別な場所であることを示し、かつては一般の人が立ち入ることを禁じられた禁足地でした。昭和48年(1973年)に登山道が整備されてからは、山頂までの道が開かれ、参拝者や登山者がその神域を訪れることができるようになりました。山頂からは、瀬戸内海の美しい多島美や、遠く石鎚山系の山並みまでを見渡すことができ、訪れた人々が自然と神聖な空気に包まれる場所です。鷲ヶ頭山は、また山全体が花崗岩で構成され、兜岩や烏帽子岩など、奇岩が点在する独特の山岳地形を備えています。こうした神秘的な風景もまた、神の力が宿る場所として人々に強い信仰を抱かせてきました。
隣接する安神山は、大山祇神社の後方に位置し、摂社である上津社の御神体となっています。安神山の名前には「神」という字が含まれており、その名が示す通り、特別な霊力が宿る神聖な山とされています。山のふもとでは、「赤土拝戴(せきどはいたい)神事」が行われ、ここで採取される赤土は「生土祭(せいどさい)」と呼ばれる神事に使用されます。この神事の中で使われる赤土には、山の霊力が込められているとされ、地域の人々にとって重要な意味を持ち続けています。安神山の山頂には「竜王大権現」が祀られている龍神の祠もあり、戦前には雨乞い祈祷が行われるなど、農業や漁業の豊穣を願う神事が執り行われてきました。また、山中には石鎚大神を称える碑や、鎖場(くさりば)と呼ばれる修行の場も設けられており、石鎚山への信仰や山岳信仰が今もなお息づいています。訪れる人々が山中で修行を通じて霊験を受ける場としても大切にされているのです。
三つ目の神体山である小見山は、下津社の御神体とされ、「お宮の山」が転じて「小見山」という名前が付けられたと伝わります。この山も大山祇神社との結びつきが強く、御神体山として崇敬されています。小見山は、三山の中では比較的低いものの、神域に属することで重要な役割を果たし、安神山、鷲ヶ頭山と共に神社を支える象徴的な山々として、地域の人々に敬われてきました。
これらの三山への信仰は、大山祇神社の古図「大山祇神社古図(国指定重要文化財)」にも示されており、大山祇神社の歴史的な背景や三山の信仰の強さの裏付けとなっています。
古来より続く神事
大山祇神社では、年間を通して古来より綿々と受け継がれる多くの神事が行われています。これらの神事は、自然の恵みや豊作、国家と地域の平和と繁栄、そして神や祖先への感謝と敬意を表すもので、地域の人々と参拝者にとってかけがえのない行事です。
新年の「歳旦祭」(1月1日)は、皇室や国家の隆盛と地域社会の平和を願う、神聖な一年の始まりとしての行事です。そして1月7日の「生土祭・福木神事」では、赤土が神前に供えられ、参加者が額に赤土を塗って一年の穢れを祓い、榊の枝を打ち鳴らすことで神様と心を一つにするという儀式が行われます。この時、福を象徴する「福木」を奪い合うことで、一年の福を授かるとされています。
2月11日の「紀元祭」は、日本建国を祝う神聖な日で、神武天皇が即位したこの日には皇室の繁栄と国民の安寧が祈願されます。2月17日の「祈年祭」では、春の農耕を前に五穀豊穣を願う祈りが捧げられ、弥生時代から続く農業の文化と信仰が現代に引き継がれています。さらに2月23日、天皇誕生日の「天長祭」では、天皇の健康と国家の平和を祈ることで、現在の皇室への敬意が表されます。
春分の日に行われる「皇霊殿遥拝式・春季祖霊社祭」では、大山祇神社の宝物館から少し登った場所にある、かつて別当寺であった「神宮寺(現:祖霊社)」において「皇霊殿遥拝式」が執り行われます。ここでは、宮中の皇霊殿で行われる春季皇霊祭に合わせ、神職が天皇や皇室の祖霊を遥拝し、国家と皇室の安泰を祈ります。さらに続けて「春季祖霊社祭」が執り行われ、祖先への感謝と敬意を込めた祭典が行われます。
また、4月29日の「昭和祭」は、昭和天皇の偉業を称えるとともに、国家の安泰や文化の発展を祈願する日です。昭和天皇が使用した研究船「葉山丸」なども展示され、参拝者にとって昭和天皇の偉大さが伝わる貴重な場所となっています。
大山祇神社の最重要行事である「例大祭」は旧暦4月22日に行われ、神社が現在の地に遷座されたことを記念して、厳かな雰囲気の中で祭典が進行します。例大祭の翌日には「後宮祭」が行われ、無事に祭りが終わったことを神前に報告します。5月5日の「御田植祭」では、早乙女による田植えが行われ、「一人角力」というユニークな儀式も奉納され、豊作の占いが行われます。
夏には6月27日、全国の鉱山や工場の安全と繁栄を祈る「全国鉱山工場安全祈願大祭」が開催され、山の守護神としても知られる大山祇神の力に感謝が捧げられます。秋分の日にも「皇霊殿遥拝式・秋季祖霊社祭」が行われ、春と同様に祖先への感謝が示され、またその年の収穫にも感謝が表されます。
秋の「産須奈大祭」は旧暦8月22日に行われ、二日間にわたり島内外からの多くの参拝者で賑わいます。この祭りでは、かつて生贄を供えていたところ、一遍上人によって獅子舞が代わりに奉納されるようになり、現在では獅子舞や神輿が島内を巡ります。祭りの熱気の中、五穀豊穣や海上の安全、国家の平安が祈願されます。
9月9日の「抜穂祭」では、春に植えた稲を刈り取り、その初穂を神前に供えて収穫を神様に感謝します。11月3日には「明治祭」が行われ、明治天皇の誕生日を祝うとともに、近代日本の発展を築いた天皇の功績に敬意を表します。また11月23日の「新嘗祭」では、五穀豊穣を感謝するために収穫された新穀が神様に捧げられ、宮中とも共通する伝統的な行事が見られます。
年末12月31日には、穢れを祓う「大祓式・除夜祭」が行われ、参拝者が人形に穢れを託し、新しい年を迎えるための清浄な心と体を保つための儀式です。除夜祭では、神々に感謝を捧げ、一年を締めくくり、次の年の安寧と平和を祈り、神社での一年の神事を終えます。
こうした多彩な神事を通して、大山祇神社は信仰の場としての重要性を保ちつつ、地域の歴史や人々の絆、自然と神々への感謝を表現し続けています。