「 龍神社の海中鳥居」としても知られる「龍神社・波止浜(りゅうじんじゃ) 」は、江戸時代から波止浜地区の穏やかな海とともに歩んできた歴史ある神社であり、今もなお地域の信仰を支え続けています。
「龍神社」とは
龍神社は全国各地に建立され、古くから人々に敬われてきました。
祀られている龍神は地球を守り、天地を巡って流れを生み出す神とされ、気象や海流を司り自然の調和を保つ神として信仰されています。
龍神信仰はもともと古代中国から伝わり、日本では自然崇拝と神道が結びついて広まりました。
特に水の神として海や川、湖など水辺に祀られ、地域の水源や農業、漁業の繁栄を願う神として大切にされています。
ここ瀬戸内海に面した海事都市である今治市にも、龍神社・九王(大西地区)、小湊城跡 龍神社(近見地区)など、数多くの龍神社があり、龍神社・波止浜もそのひとつとして、海とともに生きる地域の人々の信仰を今に伝えています。
波止浜塩田の歴史
龍神社・波止浜の創建は、かつて波止浜地区を支えた塩田の歴史と深く結びついています。
波止浜地区は、瀬戸内海の穏やかな海と干潟、温暖な気候に恵まれた土地で、江戸時代から昭和期にかけて塩の生産で大きく発展した地域です。
当時、塩は保存食の製造や調味料として必要不可欠で、非常に価値のあるものでした。
そのため、波止浜の塩田で生産された塩は全国に流通し、この地域は塩の生産地として大いに栄えました。
塩田は波止浜の経済と暮らしを支える基盤であり、地域の風土と人々の営みの象徴でもありました。
「波止浜」という名前の由来も塩田が深く関わっており、町場を「波止町(はしまち)」、塩田を「浜(はま)」と呼んだことからきています。
塩田での塩作り
波止浜の塩田では、「入浜式塩田」と呼ばれる方法で塩作りが行われていました。
まず、潮の干満を利用して、堤防の「潮門(しおど)」と呼ばれる門を開け、海水を塩田内に引き入れます。
海水は「汲入(くみいれ)」と呼ばれる水路を通り、塩田の平坦な土の上に広がり、太陽と風の力で水分が蒸発していきます。
塩田の表面は黒く固められた「砂地(さち)」と呼ばれる部分で、ここに海水をまんべんなく広げ、繰り返し蒸発させることで塩分濃度を徐々に高めていきます。
この作業を重ねることで、海水は濃縮され、やがて塩分が結晶化に適した濃度に達し、「鹹水(かんすい)」と呼ばれる状態になります。
鹹水は集められて釜屋に運ばれ、大きな鉄釜で強い火力により水分を飛ばし、最後に白い塩の結晶が生まれるのです。
過酷な仕事の中で高品質な塩
こうして波止浜では高品質な塩が生み出されていましたが、この塩作りの作業は、想像を超える過酷な労働でもありました。
炎天下のもと、海水を引き入れ、塩田に均一に広げ、蒸発させ、濃縮し、さらに鹹水を運搬するまでの一連の工程はすべて重労働で、多くの人手と体力を必要としました。
特に海水の引き入れは重要かつ大変な作業で、潮の干満に合わせ、夜明け前や真昼の暑さの中でも作業にあたらなければなりませんでした。
時には夜中や明け方、潮の動きに合わせて何度も塩田へ足を運ぶ必要があったのです。
この大切な役割を担ったのが地元の労働者たちで、「潮止(しおどめ)さん」と敬意を込めて呼ばれていました。
潮止さんたちは、潮門を管理し、海水を引き入れる最適なタイミングを見極めるとともに、堤防や水路を常に点検・補修し、塩田の維持に尽力しました。
波止浜の塩田が長く維持され、高品質の塩を生産し続けることができたのは、まさに潮止さんたちの確かな働きと、自然と向き合いながら培われた知恵と経験のおかげだったのです。
波方村から独立
塩田産業が成長するにつれて、波止浜も大きく発展していきました。
役場には「年寄(としより)」と呼ばれる役人が置かれ、村の運営や住民の暮らしを取りまとめました。
また、浜の現場には「庄屋」が設けられ、塩田経営や水利管理など、現場の実務を担いました。
波止浜は塩田を中心に自治組織として結束を強め、独自の地域社会を形づくっていったのです。
しかし、当時の波止浜はまだ行政的には波方村の一部であり、「波止浜村」として波方村に属していました。
それでも塩田産業の発展は波止浜に大きな経済力と自治力をもたらし、やがて住民たちの間で独立への機運が高まっていきます。
そして明治13年(1880年)、波止浜は波方村から正式に分村し、「波止浜村」として独立を果たしました。
塩田の恵みと人々の努力が実を結び、ひとつの自治体として自立する歴史的な一歩となったのです。
塩の町「波止浜町」
明治22年(1889年)、全国的な地方自治制度の近代化の流れを受け、町村制が施行されました。これにより波止浜は周辺の杣田村・高部村・来島村と合併し、一つの行政区域として新たな歩みを始めることになりました。
さらに明治41年(1908年)、町制が施かれ、「波止浜町」が誕生します。
その間も塩田産業は波止浜の経済を支え、多くの家族が塩田で働き、暮らしを立てていました。
この頃には、波止浜町は瀬戸内海有数の塩の生産地としてその名を広く知られるようになり、白く輝く塩田の砂地や塩を運ぶ荷車でにぎわう町の風景が人々の誇りとなっていたのです。
波止浜塩田産業の終焉
しかし、昭和30年代に入ると、世界的な経済の変化が波止浜の塩田産業にも大きな影響を及ぼし始めました。
外国から安価な塩が大量に輸入されるようになったうえ、国内でも製塩技術の進歩により生産量が急増。
塩の価格は急速に低下し、従来の塩田による生産は次第に経営が立ち行かなくなっていきました。
波止浜塩田も例外ではなく、塩の生産コストが輸入塩と比べて高くなり、次第に利益を上げることが難しくなっていきました。
さらに日本政府は、国内の塩の供給過剰を抑えるため、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)にかけて「塩業整備臨時措置法」に基づく第3次塩業整備を実施しました。
この施策により、古い方法で塩を作っていた全国の塩田は整理・廃止され、より効率の良いイオン交換膜法などの近代的な製塩技術へと切り替えが進められました。
こうして、全国の伝統的な塩田が次々と姿を消し、波止浜の塩田もまた、長い歴史に幕を閉じたのです。
そして、地域の経済と暮らしを長年にわたり支えてきた塩田の消滅とともに、波止浜塩業組合もその役割を終えて解散しました。
造船の町「波止浜町」
しかし、波止浜の町は新たな道を歩み始めます。
塩田跡地は次第に姿を変え、造船業をはじめとする工業が発展し、波止浜は愛媛県の造船産業の中心地の一つとして成長していったのです。
昭和30年(1955年)には波止浜町は今治市に編入合併され、現在の波止浜なりました。
今では塩田時代の面影はほとんど失われましたが、「内堀」や「地堀」といった地名がその記憶を静かにとどめています。
かつて塩田を築いた堤防の上には国道317号線が通り、今も波止浜の暮らしと地域経済を支え続けています。
「龍神社の創建」塩田産業を祈願する神社
ここまでが波止浜の塩田の歴史ですが、この歴史の中で龍神社が創建されることになります。
では再び、時代は塩が生活の必需品だった江戸時代、波止浜の塩田産業が始まる前にまでさかのぼります。
松山藩の港町
江戸時代に入った頃、波止浜は松山藩の所領として瀬戸内海に面した重要な港町として発展していきました。
松山藩は、関ヶ原の戦いの功績によって伊予国に封ぜられた加藤嘉明を初代藩主とし、その後、蒲生忠知を経て、寛永11年(1634年)以降は松平家が藩主となり、幕末まで統治を続けました。
松平家は徳川家と親しい家柄で、幕府から特に信頼されていた大名家です。
藩は領内の産業を振興し、財政を支えるためさまざまな政策を進めました。
そんな松山藩が注目したのが塩でした。
波止浜の港周辺には「筥潟(はこがた)湾」と呼ばれる広大な入り江が広がっており、この地域は遠浅の干潟が特徴的であり、その地形が塩作りに理想的な条件を備えていました。
塩は生活必需品であると同時に、藩の財政を支える重要な現金収入源となり、波止浜の港は塩の積み出し港として栄えていったのです。
波止浜塩田の開祖・長谷部九兵衛
この波止浜の塩田開発と港町の整備において、重要な役割を果たした人物のひとりが、後に波止浜塩田の開祖とされる「長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ)」です。
代々松山藩に仕えていた長谷部家の長男として生また九兵衛は、地元の塩田産業で波止浜を発展させようと決意し、塩の名産地として知られていた広島県竹原に製塩法を学びに赴きました。
しかし、当時の封建社会では、藩の重要機密である製塩技術は門外不出の秘密とされ、他藩の者がその技術を知ることは厳しく禁じられていました。
そこで九兵衛は乞食(こじき)になって、日雇い労働者としてそこに潜入することにしました。
そして、過酷な重労働に耐えながらも製塩技術を学び、密かに絵図などでメモをとって、知識と技術を身に付けて地元に戻ってきました。
この九兵衛の情熱と技術に心を打たれた松山藩は、塩田開発を正式に支援することを決め、九兵衛を「浦手役(うらてやく)」に任命し、塩田プロジェクトの中心人物としてその手腕に期待を寄せました。
鎮守の神社の創建へ
また、郡奉行兼代官を務めていた園田藤太夫成連(そのだ とうだゆう なりつら)も、この塩田プロジェクトが波止浜の繁栄に必ずつながると信じ、全力で開発を後押ししました。
工事は順調に進み、塩田の完成が間近となった頃、九兵衛と園田は工事の無事、塩田の成功、そして地域のさらなる発展を願い、「鎮守の神社」を建立しようと決意しました。
そして、現在の波止浜港を見下ろす小高い丘の上、塩田と町をつなぐ入り口にあたる場所に、地元で信仰されていた水と土地を守る神々を祀ることにしました。
これらの神々は、遠く近江国勢田郷(現在の滋賀県)から勧請され、八体の龍神(竜王)で、「八大龍神宮」として塩田の鎮守の役割を担うこととなりました。
龍神は、自然界の調和や気象、海流を司る神として古くから崇められ、特に水に関わる神として日本各地で信仰されてきました。
塩田の成功と地域の繁栄を祈願するには、まさに最適の神様だったのです。
こうして、塩田建設の進行と歩調を合わせるように、社殿の造営も進められていきました。
人々は、新たに築かれる塩田とともに、この地を守り導く鎮守の神を祀る社の完成を心待ちにしたのです。
最大の難関「堤防建設」
その後、塩田建設の工事は順調に進んでいき、ついにこの工事最大の難所にまで辿り着きました。
それが、堤防の建設です。
波止浜の堤防は、神社(八大籠神宮)の建設地である宮ノ下側と金子(かねこ)側から築き進め、最後に中央で合流させる計画でした。
しかし、この最終部分の接続は、当時の技術では極めて難しい作業でありながら、おまけに干潮時という限られた時間内に工事を完了させなければなりませんでした。
このため、1083人もの人員が導入され、総力をあげてこの工事に挑みました。
そして天和3年(1683年)、ついに南北270間(約491メートル)にも及ぶ巨大な堤防が完成したのです。
これは、同時に愛媛県で初めての、潮の干満差を利用して自動的に海水を塩浜に導入する「入浜式塩田施設」の誕生でもありました。
神社の社殿が完成
天和3年(1683年)、塩田が完成したその年、まるでその誕生を祝うかのように神社(八大籠神宮)の社殿も完成し、御神体が本殿へと移されました。
それから35年後の享保3年(1718年)には再建が行われ、現在にも続く社殿の姿が形成されました。
「八大籠神宮」→「龍神宮」
その後、時代と共にこの神社の名前も変わっていきました。
安永6年(1777年)、社名の「八大籠神宮」のうち、仏教由来の呼称とされた「八大」の二字が外され、「龍神宮」へと改称されました。。
「八大」は、仏教において水を司り仏法を守護する八柱の龍神「八大龍王(はちだいりゅうおう)」を意味しており、仏教由来の尊称(仏号)の一種と見なされていました。
江戸時代中期には、神社と寺院の区別を意識し、神道の純粋性を保とうとする動きが強まったことから、仏号である「八大」の二字が不適切とされ、神号から外されたのです。
「龍神宮」→「龍神社」
明治6年(1873年)、龍神宮は「龍神社」へと改称されました。
この時代、明治政府は神仏分離令(1868年)を発端に、神社と寺院を厳格に分け、神道を国家の宗教として位置づける政策「国家神道の確立」を進めていました。
その中で、神社の名称や社号も整理が進められ、「宮」という社号は原則として皇室や特別な由緒を持つ神社に限られ、他の神社は「社」へ改称することが求められました。
この方針に基づき、波止浜の龍神宮も「龍神社」と改称され、正式な社名として定められたと考えられます。
「郷社」に昇格
そして、昭和15年(1940年)には、国家神道の社格制度「郷社制度」において、地域の中心的な神社に与えられる「郷社」に昇格しました。
この郷社制度は、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に廃止されましたが、龍神社はその後も地域と人々の心の拠り所として信仰され続け、現在も波止浜の海と暮らしを見守る神社としてこの地に鎮座しています。
龍神社の見どころ
そんな龍神社・波止浜の魅力は、社殿や歴史だけではありません。境内を取り巻く豊かな自然や、地域とともに歩んできた景観・史跡も、訪れる人の心を引きつけます。
市の天然記念物「ウバメガシ」
龍神社・波止浜を訪れると、まず目を引くのは、境内を包み込むように生い茂るウバメガシの樹林です。
このおよそ50本のウバメガシの古木は今治市の天然記念物に指定されており、その荘厳な姿は訪れる人々の心を静かに惹きつけます。
ウバメガシは塩害や潮風に強く乾燥や公害にも耐える丈夫さから、海に面した波止浜の厳しい環境にもよく適応してきた樹種です。
その力強い姿は、塩田や海とともに歩んできた波止浜の歴史と、人々の暮らしに今も息づいています。
美しい樹木
龍神社・波止浜にはウバメガシだけでなく、横本、アベマギ、黒松といった他の樹木も見事に調和し、神社の周囲に自然の美しい景観を形づくっています。
これほどのウバメガシが大群を成して生育している例は東予地域では非常に珍しく、その存在は地域の文化と自然を守るシンボルとなっています。
こうした美しい樹木は、龍神社が人々の手で大切に守られ、境内が丁寧に整備されてきたことの証でもあります。
「神明神社」波止浜の守り神
龍神社の見どころは、美しい自然だけではありません。
境内やその周辺には、地域の暮らしや海とのつながりを今に伝える歴史ある神社や建造物が数多く残されています。
その一つが、龍神社・波止浜のすぐ裏手に鎮座する神明神社です。
神明神社は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ・天照大御神)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祀っており、波止浜のもうひとつの大切な信仰の場として、古くから地域の人々に親しまれてきました。
天照皇大神は、日本神話に登場する太陽の神で、光と生命を与え、国全体を守護する神とされています。伊勢神宮でも祀られるこの神は、波止浜の空と海を照らし、地域を見守る存在です。
豊受大神は、食物や豊作を司る神であり、豊かな海の幸と山の実りをもたらす存在として、波止浜の暮らしと深く結びついています。
神明神社のお祭り
神明神社は、龍神社が創設された天和3年(1683年)、波止浜の開発を進めていた園田藤太夫がさらなる信仰の拠りどころとして、波方町養老からこの地に移設し建立したものです
以来、神明神社は火難除けや疫病退散を願う人々の祈りの場となり、多くの参拝者が足を運びました。
かつては火災や疫病が頻発し、村に大きな被害をもたらしたため、神明神社への祈りは村全体を守るための大切な儀式だったのです。
江戸時代の元文年間(1736年〜1741年)にはお祭りも始まり、毎年旧暦1月14日に開催されるようになりました。
この祭りは地域の大切な行事として、今も受け継がれており、祭りの当日は各町から山車(だし)が出され、町中を練り歩きます。
山車にはその年の干支や美しい装飾が施され、鉦(しょう)、太鼓、笛の音が鳴り響く中、子供たちが山車を引いて進みます。「ヒッチャコチャンエイヤナ」という勇ましい掛け声が町に響き、祭りの活気が広がります。
この祭りは単なる楽しい催しではなく、地域全体で健康や平安、繁栄を祈る大切な行事でした。
安政6年(1859年)にコレラが流行した時や、文久2年(1862年)の麻疹(はしか)流行時には、神明神社で疫病退散を祈りながら、この山車行事が特に盛大に行われました。
地域全体が力を合わせ、神社に感謝と祈りを捧げてきたのです。
明治維新の時代に、社会の変化の中で多くの山車は取り壊されましたが、新町の山車だけが残され、その後、明治の中頃に住民の手で祭りは見事に復活しました。
そして現在も、1月15日前後になると山車が再び引き出され、氏子総代を中心に地域が一体となり、この伝統の祭りを盛り上げています。
「神明橋」石造りの太鼓橋
境内にある「神明橋」は、地域の歴史や文化を象徴する重要な建造物です。
この橋は、愛媛県今治市に現存する最も古い石造アーチ橋であり、その価値は非常に高く、今も地域の貴重な歴史遺産として大切にされています。
神明橋は、かつて波止浜の塩田に関連する用水路を越えて、龍神社の裏手にある神明神社へ参拝するために架けられたもので、明治33年(1902年)に地元の石工・藤原清八郎氏の手で築かれました。
(※ 橋の親柱には「明治42年(1909年)5月」と刻まれており、完成年については諸説あります。)
石造りのアーチ型橋は当時としても珍しく、高度な石工技術が求められるものでした。
石を巧みに積み重ねアーチを形成することで、重量を均等に分散させ、橋全体の安定性と耐久性を確保する構造となっています。
その結果、神明橋は優れた意匠と強度を誇り、長年にわたりその美しい姿を保ち続けてきました。
長らく地域の人々に親しまれ、日々の生活や信仰の道を支えてきた神明橋ですが、昭和56年(1981年)の道路拡張工事に伴い、現在の場所へと移築されました。
移築後も往時の姿をそのまま残し、地域の歴史と伝統を今に伝える象徴的な存在として、波止浜の人々に大切に守られています。
「龍神社の海中鳥居」
そして、波止浜を象徴するもうひとつの存在が、「龍神社の海中鳥居」です。
この鳥居は、龍神社創建から32年後の正徳5年(1715年)、地元の長野平蔵を中心とする人々の奉納によって波止浜湾の海中に建立されました。
かつてその場所は干潟で、潮の満ち引きによりさまざまな表情を見せていたと伝わります。
海中鳥居は、塩田や漁業で栄えた波止浜の人々と海との深い結びつきを象徴するものであり、海と町を結ぶ要所に建てられました。
参拝者がこの鳥居をくぐることで、龍神様の霊験を授かると信じられていたのです。
実は現在の陸上にある大鳥居も、かつてはこの地の入り海に立っていたもので、昭和15年(1940年)に建立されたものです。
長い年月の間に地形が変わり、今では海中鳥居だった面影は地堀川の岸辺にその痕跡を残しています。
また、毎月1日と15日になると大きなサメが鳥居をくぐりにやってきたという不思議な伝説も残されており、この日には漁をすると網が破れ、魚が取れなかったとも語り継がれています。
現在はそのような光景を見ることはできませんが、この鳥居の跡は今も地域の歴史と信仰を伝える大切なシンボルとして波止浜の人々の心に生き続けています。
「潮止明神・汐止明神」
もう一つ、波止浜の塩田にまつわる興味深い話が伝わっています。
塩田施設施設建設の時、堤防の最後の部分が完成する直前、当時の信仰に基づいて、波方村の一頭の牛が人柱の代わりとして生き埋めにされました。
この儀式は、堤防が無事に完成し、塩田が繁栄することを祈願するためのものでした。
その後、犠牲となった牛の霊を弔い、感謝の意を込めて、堤防完成後にその場所に松を植え、祠を建てました。この祠は「潮止さん(しおどめさん・汐止さん)」または「潮止明神(しおどめみょうじん・汐止明神)」と呼ばれ、地元の人々に大切に祀られるようになりました。
この松と祠は、現在も国道317号線沿いの久保病院の駐車場付近に残されています。
松は当時のものではありませんが、新たな松が植えられ、地域の歴史と信仰を今に伝える象徴としてその場に立ち続けています。