波止浜地区は、瀬戸内海の穏やかな海と干潟、温暖な気候に恵まれた土地で、江戸時代から昭和期にかけて塩の生産で大きく発展した地域です。
当時、塩は保存食の製造や調味料として必要不可欠で、非常に価値のあるものでした。
そのため、波止浜の塩田で生産された塩は全国に流通し、この地域は塩の生産地として大いに栄えました。
塩田は波止浜の経済と暮らしを支える基盤であり、地域の風土と人々の営みの象徴でもあったのです。
この塩田の歴史とも深く結びつき、今も波止浜の象徴的な存在となっているのが「龍神社・波止浜(りゅうじんじゃ)」です。
海に建つ鳥居は「龍神社の海中鳥居」として知られ、潮の満ち引きによって姿を変える幻想的な光景は、地域の人々だけでなく訪れる人々を魅了してきました。
「龍神社」とは
龍神社は全国各地に建立され、古くから人々に敬われてきました。
祀られている龍神は地球を守り、天地を巡って流れを生み出す神とされ、気象や海流を司り自然の調和を保つ神として信仰されています。
龍神信仰はもともと古代中国から伝わり、日本では自然崇拝と神道が結びついて広まりました。
特に水の神として海や川、湖など水辺に祀られ、地域の水源や農業、漁業の繁栄を願う神として大切にされています。
ここ瀬戸内海に面した海事都市である今治市にも、龍神社・九王(大西地区)、小湊城跡 龍神社(近見地区)など、数多くの龍神社があり、龍神社・波止浜もそのひとつとして、海とともに生きる地域の人々の信仰を今に伝えています。
「塩の一大産地」波止浜の歩み
波止浜が塩の一大産地として栄えた江戸時代から昭和期。
当時の日本では、塩は食材の保存や調味に欠かせない必需品であり、生活に深く根付いた重要な資源でした。
人口の増加や都市の発展にともない、塩の需要は年々高まり、各地で藩の財政を支える産業として製塩が奨励されていました。
瀬戸内海沿岸は、干潟が多く温暖で降水量が少ないという製塩に適した気候と地形を備えており、波止浜もその条件を満たしていました。
江戸時代初期から塩田の開発が進み、松山藩の経済を支える重要な産業へと成長していきました。
塩田は波止浜の経済と暮らしを支える基盤であり、地域の風土と人々の営みの象徴でもありました。
「入浜式塩田」塩田での塩作り
波止浜の塩田では、「入浜式塩田」と呼ばれる伝統的な製法が用いられていました。
まず、潮の干満を利用して、堤防の「潮門(しおど)」と呼ばれる門を開け、海水を塩田内に引き入れます。
海水は「汲入(くみいれ)」と呼ばれる水路を通り、塩田の平坦な土の上に広がり、太陽と風の力で水分が蒸発していきます。
塩田の表面は黒く固められた「砂地(さち)」と呼ばれる部分で、ここに海水をまんべんなく広げ、繰り返し蒸発させることで塩分濃度を徐々に高めていきます。
この作業を重ねることで、海水は濃縮され、やがて塩分が結晶化に適した濃度に達し、「鹹水(かんすい)」と呼ばれる状態になり、これを釜屋へ運んで大きな鉄釜で煮詰めることで、白い塩の結晶が生まれました。
過酷な労働と“潮止さん”の役割
このようにして作られる塩は高品質で知られていましたが、その製造工程は非常に過酷なものでした。
炎天下での作業、海水を引き入れ、塩田に均一に広げ、蒸発と濃縮を繰り返し、さらに鹹水を釜屋へ運ぶ一連の工程は、すべて人の手と体力によって行われていました。
特に潮の干満に合わせた海水の引き入れ作業は重要かつ大変なもので、夜明け前や真昼の暑さの中、あるいは真夜中でも作業にあたる必要がありました。
この重要な役割を担ったのが、地元の熟練した労働者たちで、彼らは「潮止(しおどめ)さん」と呼ばれ、尊敬されていました。
潮止さんたちは潮門の開閉を管理し、最適なタイミングを見極めるとともに、堤防や水路の点検・補修を常に行い、塩田の維持に尽力していました。
波止浜の塩田が長年にわたって高品質の塩を生産し続けることができたのは、まさに潮止さんたちの知恵と経験、そして自然と向き合いながら培われた技術によるものでした。
塩田が育んだ地域の発展
塩田産業が成長するにつれて、波止浜の町も大きく発展していきました。
役場には「年寄(としより)」と呼ばれる役人が置かれ、村の行政を担いました。
塩田の現場では「庄屋」が塩田経営や水利の管理にあたり、地域全体が塩田を中心とした自治組織として結束を強めていきました。
こうした背景から、波止浜はやがて独自の地域社会を形成し、明治13年(1880年)には波方村から正式に分村し、「波止浜村」として独立を果たしました。
さらに明治22年(1889年)には町村制の施行により、周辺の村々と合併し、明治41年(1908年)には「波止浜町」として町制が敷かれました。
その間も塩田産業は波止浜の経済を支え続け、多くの家族が塩田で生計を立てていました。
白く輝く塩田の砂地や、塩を運ぶ荷車で賑わう町の光景は、波止浜の誇りであり、瀬戸内海有数の塩の産地としてその名を全国に知らしめていたのです。
海賊の家系!?長谷部九兵衛
この塩の町「波止浜」の繁栄の礎を築いたのが、江戸時代初期に波止浜へ塩田技術を持ち込み、その開発に尽力した長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ)です。
長谷部九兵衛は、もともと瀬戸内海を支配した村上水軍の御三家のひとつ来島村上氏に仕えた重臣・長谷部家の一族です。
来島村上氏の決断と村上水軍の分裂
この地は戦国期、瀬戸内海の海上交通を支える要衝として、伊予の守護大名・河野氏と村上水軍の連携によって秩序が保たれていました。
村上水軍は「海賊」とも呼ばれますが、実際には海を支配する武士団であり、通行する船から関銭を徴収して海上秩序を維持し、河野氏の海上権益を支えてきました。
しかし天正5年(1577年)、織田信長が羽柴秀吉を総大将に任じて中国地方へ侵攻を開始すると、同盟していた毛利氏は河野氏を支援する余力を失いました。
これによって河野氏は長宗我部氏の攻勢にさらされ、次第に劣勢へと追い込まれていきました。 こうした情勢の中、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ)は重大な決断を迫られました。
父・通康がかつて河野本家の家督を継ぐ約束を反故にされたことや、母方の河野一族が内部抗争で没落した経緯もあり、通総の心には河野氏への不信が根強く残っていました。
ついに天正9年(1581年)、通総は羽柴秀吉と手を結び、河野氏から離反します。20隻を超える軍船を率いて河野氏の家臣領へ攻め込み、長年の主従関係を断ち切ったのです。
これにより、村上水軍は毛利方に忠誠を誓った因島村上氏・能島村上氏と、織田方についた来島村上氏のあいだで立場が分かれることになりました。
秀吉のもとへ逃れた来島村上氏
その後、毛利氏や河野氏は再三にわたり通総に考え直すよう働きかけましたが、その決断が揺らぐことはありませんでした。
痺れを切らした毛利氏は天正10年(1582年)5月、能島・因島両氏に攻撃を命じ、来島村上氏の拠点である風早郡の難波・正岡へと侵攻させます。
戦火はやがて来島城にまで及び、越智郡大浜浦を焼き払い、大島の椋名にも攻め入るなど、かつて同族として海を支配した村上水軍同士の戦いは苛烈を極めました。
6月27日には大浦ノ砦が陥落し、いよいよ海陸双方から来島城への総攻撃が開始されます。
毛利・河野連合軍、そして同族である能島・因島両氏の容赦ない攻撃により、来島村上氏は滅亡寸前の危機に追い込まれました。
この絶体絶命の状況で、当主・来島通総は拠点・来島を放棄する決断を下します。天正11年(1583年)3月、夜の風雨に乗じて毛利・河野の包囲を突破した通総は、瀬戸内を南下して羽柴(豊臣)秀吉の陣営へと脱出。
こうして来島村上氏は秀吉の庇護を受けることで一族の存続を図ることとなったのです。
河野氏の滅亡と来島村上氏の存続
しかし、天正13年(1585年)、羽柴秀吉が四国攻めを開始すると、今度は来島村上氏が豊臣軍の先鋒として再び伊予の地に上陸しました。
かつて河野氏と共にこの地を守っていた来島水軍は、今や豊臣方の一翼を担い、瀬戸内海の制海権を確保するために大きな力を発揮しました。
この戦いによって、長らく伊予を支配してきた河野氏はついに滅亡しました。
毛利方に属した能島・因島村上氏は、豊臣政権によって海賊的な活動を厳しく制限され、次第に勢力を失っていきました。
しかし、豊臣方に属した来島村上氏だけは例外的に存続を許され、伊予の国衆として一定の地位を保ち続けることができたのです。
「関ヶ原の戦い」波止浜から豊後森藩へ
さらに秀吉の死後、再び時代は大きく動きます。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発しました。
当初、来島村上氏の当主・来島康親(くるしま やすちか)は、旧主である毛利氏や豊臣家とのつながりを重んじ、西軍に与する姿勢を見せていましたが 決戦直前になって東軍(徳川家康側)へ内通するという重大な決断を下しました。
この選択によって、戦後の康親は一時的に本領安堵を受けましたが、最終的には所領を没収されてしまいます。
康親自身は数名の家臣とともに京都・伏見に身を寄せ、再起の道を模索。やがて大阪へと移り住み、必死の思いで復権の機会を探り続けました。
康親に大きな転機が訪れました。
妻の伯父で義父にあたる福島正則が、その口添えと取りなしをしてくれたのです。
この後押しによって、慶長6年(1601年)、康親は豊後国(現在の大分県)玖珠郡・日田郡・速見郡にまたがる一万四千石の所領を与えられることになり、家臣とともに移住しました。
こうして森藩(のちの豊後森藩)の初代藩主として、新たな地で大名家の歩みを再び始めることとなったのです。
しかし、来島村上氏が移された豊後森藩は内陸に位置しており、かつてのように瀬戸内の海を舞台に活躍することはもはやできませんでした。
一方、能島村上氏と因島村上氏もまた、豊臣政権によって海賊的な活動を厳しく制限され、江戸時代に入ると次第にその勢力を弱めていきました。
能島氏は旗本として幕府に仕える小身の家となり、因島氏もまた地方の小大名として存続しましたが、往年のように瀬戸内海を支配する水軍としての力は完全に失われていきました。
こうして、かつて瀬戸内海に君臨し、日本最大の水軍としてその名をとどろかせた「村上水軍」は、関ヶ原の戦いを経てその歴史に幕を閉じたのです。
波止浜に残った長谷部家
来島村上氏が豊後森藩へと移封されたのちも、家臣のすべてが主君に従ったわけではありませんでした。
瀬戸内に留まった者の中には、漁師として生計を立てる者、他藩に仕える者、あるいは村に土着して新たな生活を始める者などがおり、さまざまな道を歩んでいきました。
重臣であった長谷部家もまた来島氏と運命を共にせず、波止浜に残り続けました。
やがて慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで功績を挙げた加藤嘉明が伊予20万石を与えられ、松山藩が成立すると、波止浜村は松山藩領となり、瀬戸内海に面した重要な港町として発展していきました。
海を知り尽くした村上水軍の旧臣や一族の中には、その専門性を買われ、松山藩のもとで海事や漁村の運営に携わる者が少なくありませんでした。
松山藩に代々仕えることとなった長谷部家もまた、波止浜を含む波方村の湾岸地域で浦役人を務め、漁村の統治や民政にあたりました。
浦役人とは、漁村社会における指導層であり、藩の「浦奉行」の指揮を受けて漁村の行政や民政を担当した人々です。
農村に「名主(庄屋)・組頭(年寄)・百姓代」の三役があったのと同じように、漁村には浦役人(がいて、年貢の納入や漁業の管理、村の取りまとめを担いました。
彼らは百姓身分や町人身分でありながら、漁業や海運の知識を活かして藩の海事行政を支える役割を果たしていたのです。
松山藩に代々仕えることとなった長谷部家もまた、波止浜を含む波方村の湾岸地域で浦役人を務めました。
波止浜塩田の開祖・長谷部九兵衛
長谷部家の長男として生まれた長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ・生年不詳)は、明暦二年(1656)、父・義信が隠居すると家督を継ぎ、松山藩より二人扶持を給されました。
扶持(ぶち)とは武士に与えられた給与の一種で、米の支給量を「何人分の食料に相当するか」で表す制度です。
二人扶持とは、成人二人が一年間食べるのに足りる米の分量を意味しており、およそ二石(約300キログラム)前後とされます。
これによって九兵衛は藩から正式に家臣として遇され、地域における責務を果たす立場を得ました。
その後、九兵衛は一族の一員として藩政に従いながら、海に根ざした知識と経験を活かして地域の統治や漁村の運営に携わりました。
かつて村上水軍の重臣であった家柄を、漁村社会を取りまとめる存在へと転じさせ、やがて波止浜塩田の開祖として歴史に名を残すことになります。
松山藩の財政を支えた“塩”
江戸時代の藩政においては、各藩は年貢米だけに頼らず、現金収入を確保することが大きな課題となっていました。そのため、各藩は地域の特性を活かした産業を育成し、経済を安定させようと努めました
その中で、松山藩が特に注目したのが「塩」でした。
当時、塩は人々の生活に欠かすことのできない必需品でした。
保存食の製造や調味料としての利用はもちろん、魚介類の加工、味噌や醤油といった発酵食品の仕込みにも不可欠であり、その需要は常に高かったのです。
密かに学んだ塩田技術
この波止浜の塩田開発と港町の整備において、重要な役割を果たした人物のひとりが長谷部九兵衛です。
九兵衛は、波止浜という地を再び繁栄させるには新たな産業が必要であると考え、その可能性を塩田に見出したのです。
当時、瀬戸内の沿岸では「入浜式塩田」という革新的な製塩技術が登場し、飛躍的な生産効率の向上をもたらしていました。
その先進地のひとつが安芸国竹原であり、そこは全国にも名を知られた塩の名産地でした。
しかし、当時の封建社会において製塩技術は「藩の機密」とされ、他藩の者が学ぶことは固く禁じられていました。
そこで九兵衛は乞食(こじき)になって、日雇い労働者としてそこに潜入することにしました。
過酷な労働に従事しながらも、目にした工程を細かく観察し、時に隠れて絵図や書き付けを残すことで、その技術を一つひとつ自分のものにしていきました。
九兵衛の浦手役就任と塩田開発
こうして長い苦難を経て十分な知識と技術を身につけた九兵衛は、ついに故郷・波止浜へと帰り着きました。
この九兵衛の情熱と技術に心を打たれた松山藩は、塩田開発を正式に支援することを決め、九兵衛を「浦手役(うらてやく)」に任命しました。
浦手役とは、海浜や漁村の管理を担い、海事行政や漁村経営に深く関わる役職であり、藩政において重要な実務を取り仕切る立場でした。
こうして、九兵衛は波止浜における製塩事業の第一人者として歩みを始め、松山藩の財政を支える「塩の道」を切り拓いていったのです。
野間郡奉行兼代官・園田藤太夫の後押し
さらに、この大事業の陰には、野間郡奉行兼代官を務めていた園田藤太夫成連(そのだ とうだゆう なりつら)の存在がありました。
藤太夫は、塩田開発こそが波止浜の未来を拓くものと確信し、松山藩への働きかけを積極的に行い、藩に対して塩田事業の意義を説き、その必要性を訴えました。
単なる行政官としての役割を超え、地域の将来を背負う覚悟をもってこの計画に臨んでいたのです。
塩田工事と鎮守の神社
天和三年(1683)正月十一日〔旧暦:1月11日・新暦2月17日〕、波止浜塩田の築造に先立ち、土地の神に工事の安全と繁栄を祈願する「地祝(現;地鎮祭)」が執り行われ 塩田の造成が開始されました。
工事が始まると、藤太夫は現場監督としても陣頭指揮をとり、野間・越智・桑村の三郡から人夫(にんぷ・労働者)を集め、数百名に及ぶ労働力を調達しました。
着々と工事が進み、塩田の完成が見えてきた頃。
九兵衛と藤太夫は、工事の無事と塩田の成功、そして地域の未来の繁栄を祈念し、新たに「鎮守の社」を建立することを決意します。
「八大龍神宮」
そして天和三年(1683)二月、現在の波止浜港を見下ろす小高い丘の上、塩田と町を結ぶ入り口にあたる場所に、地元で古くから信仰されてきた水と土地を守る神々を祀ることとなりました。
このとき勧請されたのは、遠く近江国勢田郷(現在の滋賀県大津市付近)からの八体の龍神(竜王)です。
龍神は、自然界の調和や気象、海流を司る神として古来より崇められ、特に水を扱う事業に関わる守護神として、日本各地で信仰されてきました。
塩田造成の成否が海水と潮流にかかっていた波止浜にとって、まさに最適の神々でした。
以来、この社は「八大龍神宮」と呼ばれ、波止浜塩田の鎮守として篤い信仰を集めるようになります。
塩田建設の進行と歩調を合わせるかのように社殿の造営も進められ、人々は、新たに築かれる塩田とともに、この地を守り導く鎮守の完成を心待ちにしました。
潮留めの大工事と塩田の完成
やがて、ついにこの工事最大の難所にまで辿り着きました。
それが、南北270間(約491メートル)に及ぶ波除堤防の「潮留(しおどめ)」でした。
この堤防は、神社(八大籠神宮)の建設地である宮ノ下側と金子(かねこ)側から築き進め、最後に中央で合流させる計画でした。
しかし、この最終部分の接続は当時の技術ではきわめて困難であり、しかも干潮という限られた時間内に仕上げなければならないという厳しい条件が課せられていました。
天和三年(1683)三月九日、ついに決戦の日が訪れました。
この日、波方・越智・桑村の三郡に加え、藩領の外から多くの人々が駆けつけ、総勢1083名もの人夫(にんぷ・労働者)が動員されました。
南方の金子側と、北方の宮ノ下側から築き進められた堤防は、まさに最後の一押しを残すのみ。
人々は干潮の短い時間を逃さぬよう、土石を一気に積み上げ、潮の流れを堰き止めようと必死の作業を繰り広げました。
そしてついに、南北から築き上げられた堤防は一本に結びつけられ、愛媛県で初めてとなる入浜式塩田施設が誕生したのです。
藩主自ら視察
同年8月には、ここで採れた初めての塩が松山藩主・松平定直に献上されました。
さらに元禄元年(1688年)2月には、定直自らが波止浜を訪れ、塩田の様子を視察したと伝えられています。
全国的にも藩主による塩田視察の例は限られており、この出来事は波止浜塩田の価値を改めて浮かび上がらせるものとなりました。
神社の社殿が完成
天和3年(1683年)、塩田が完成したその年、まるでその誕生を祝うかのように神社(八大籠神宮)の社殿も完成し、御神体が本殿へと移されました。
それから35年後の享保3年(1718年)には再建が行われ、現在にも続く社殿の姿が形成されました。
「八大籠神宮」→「龍神宮」
その後、時代と共にこの神社の名前も変わっていきました。
安永6年(1777年)、社名の「八大籠神宮」のうち、仏教由来の呼称とされた「八大」の二字が外され、「龍神宮」へと改称されました。。
「八大」は、仏教において水を司り仏法を守護する八柱の龍神「八大龍王(はちだいりゅうおう)」を意味しており、仏教由来の尊称(仏号)の一種と見なされていました。
江戸時代中期には、神社と寺院の区別を意識し、神道の純粋性を保とうとする動きが強まったことから、仏号である「八大」の二字が不適切とされ、神号から外されたのです。
「龍神宮」→「龍神社」
明治6年(1873年)、龍神宮は「龍神社」へと改称されました。
この時代、明治政府は神仏分離令(1868年)を発端に、神社と寺院を厳格に分け、神道を国家の宗教として位置づける政策「国家神道の確立」を進めていました。
その中で、神社の名称や社号も整理が進められ、「宮」という社号は原則として皇室や特別な由緒を持つ神社に限られ、他の神社は「社」へ改称することが求められました。
この方針に基づき、波止浜の龍神宮も「龍神社」と改称され、正式な社名として定められたと考えられます。
「郷社」に昇格
そして、昭和15年(1940年)には、国家神道の社格制度「郷社制度」において、地域の中心的な神社に与えられる「郷社」に昇格しました。
この郷社制度は、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に廃止されましたが、龍神社・波止浜はその後も地域と人々の心の拠り所として信仰され続け、現在も波止浜の海と暮らしを見守る神社としてこの地に鎮座しています。
龍神社の見どころ
そんな龍神社・波止浜の魅力は、社殿や歴史だけではありません。境内を取り巻く豊かな自然や、地域とともに歩んできた景観・史跡も、訪れる人の心を引きつけます。
市の天然記念物「ウバメガシ」
龍神社・波止浜を訪れると、まず目を引くのは、境内を包み込むように生い茂るウバメガシの樹林です。
このおよそ50本のウバメガシの古木は今治市の天然記念物に指定されており、その荘厳な姿は訪れる人々の心を静かに惹きつけます。
ウバメガシは塩害や潮風に強く乾燥や公害にも耐える丈夫さから、海に面した波止浜の厳しい環境にもよく適応してきた樹種です。
その力強い姿は、塩田や海とともに歩んできた波止浜の歴史と、人々の暮らしに今も息づいています。
美しい樹木
龍神社・波止浜にはウバメガシだけでなく、横本、アベマギ、黒松といった他の樹木も見事に調和し、神社の周囲に自然の美しい景観を形づくっています。
これほどのウバメガシが大群を成して生育している例は東予地域では非常に珍しく、その存在は地域の文化と自然を守るシンボルとなっています。
こうした美しい樹木は、龍神社・波止浜が人々の手で大切に守られ、境内が丁寧に整備されてきたことの証でもあります。
「神明神社」波止浜の守り神
龍神社・波止浜の見どころは、美しい自然だけではありません。
境内やその周辺には、地域の暮らしや海とのつながりを今に伝える歴史ある神社や建造物が数多く残されています。
その一つが、すぐ裏手に鎮座する神明神社です。
神明神社は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ・天照大御神)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祀っており、波止浜のもうひとつの大切な信仰の場として、古くから地域の人々に親しまれてきました。
天照皇大神は、日本神話に登場する太陽の神で、光と生命を与え、国全体を守護する神とされています。伊勢神宮でも祀られるこの神は、波止浜の空と海を照らし、地域を見守る存在です。
豊受大神は、食物や豊作を司る神であり、豊かな海の幸と山の実りをもたらす存在として、波止浜の暮らしと深く結びついています。
神明神社のお祭り
神明神社は、龍神社・波止浜が創設された天和3年(1683年)、波止浜の開発を進めていた園田藤太夫がさらなる信仰の拠りどころとして、波方町養老からこの地に移設し建立したものです
以来、神明神社は火難除けや疫病退散を願う人々の祈りの場となり、多くの参拝者が足を運びました。
かつては火災や疫病が頻発し、村に大きな被害をもたらしたため、神明神社への祈りは村全体を守るための大切な儀式だったのです。
江戸時代の元文年間(1736年〜1741年)にはお祭りも始まり、毎年旧暦1月14日に開催されるようになりました。
この祭りは地域の大切な行事として、今も受け継がれており、祭りの当日は各町から山車(だし)が出され、町中を練り歩きます。
山車にはその年の干支や美しい装飾が施され、鉦(しょう)、太鼓、笛の音が鳴り響く中、子供たちが山車を引いて進みます。「ヒッチャコチャンエイヤナ」という勇ましい掛け声が町に響き、祭りの活気が広がります。
この祭りは単なる楽しい催しではなく、地域全体で健康や平安、繁栄を祈る大切な行事でした。
安政6年(1859年)にコレラが流行した時や、文久2年(1862年)の麻疹(はしか)流行時には、神明神社で疫病退散を祈りながら、この山車行事が特に盛大に行われました。
地域全体が力を合わせ、神社に感謝と祈りを捧げてきたのです。
明治維新の時代に、社会の変化の中で多くの山車は取り壊されましたが、新町の山車だけが残され、その後、明治の中頃に住民の手で祭りは見事に復活しました。
そして現在も、1月15日前後になると山車が再び引き出され、氏子総代を中心に地域が一体となり、この伝統の祭りを盛り上げています。
「神明橋」石造りの太鼓橋
境内にある「神明橋」は、地域の歴史や文化を象徴する重要な建造物です。
この橋は、愛媛県今治市に現存する最も古い石造アーチ橋であり、その価値は非常に高く、今も地域の貴重な歴史遺産として大切にされています。
神明橋は、かつて波止浜の塩田に関連する用水路を越えて、龍神社・波止浜の裏手にある神明神社へ参拝するために架けられたもので、明治33年(1902年)に地元の石工・藤原清八郎氏の手で築かれました。
(※ 橋の親柱には「明治42年(1909年)5月」と刻まれており、完成年については諸説あります。)
石造りのアーチ型橋は当時としても珍しく、高度な石工技術が求められるものでした。
石を巧みに積み重ねアーチを形成することで、重量を均等に分散させ、橋全体の安定性と耐久性を確保する構造となっています。
その結果、神明橋は優れた意匠と強度を誇り、長年にわたりその美しい姿を保ち続けてきました。
長らく地域の人々に親しまれ、日々の生活や信仰の道を支えてきた神明橋ですが、昭和56年(1981年)の道路拡張工事に伴い、現在の場所へと移築されました。
移築後も往時の姿をそのまま残し、地域の歴史と伝統を今に伝える象徴的な存在として、波止浜の人々に大切に守られています。
「龍神社の海中鳥居」
そして、波止浜を象徴するもうひとつの存在が、「龍神社の海中鳥居」です。
この鳥居は、龍神社・波止浜の創建から32年後の正徳5年(1715年)、地元の長野平蔵を中心とする人々の奉納によって波止浜湾の海中に建立されました。
かつてその場所は干潟で、潮の満ち引きによりさまざまな表情を見せていたと伝わります。
海中鳥居は、塩田や漁業で栄えた波止浜の人々と海との深い結びつきを象徴するものであり、海と町を結ぶ要所に建てられました。
参拝者がこの鳥居をくぐることで、龍神様の霊験を授かると信じられていたのです。
実は現在の陸上にある大鳥居も、かつてはこの地の入り海に立っていたもので、昭和15年(1940年)に建立されたものです。
長い年月の間に地形が変わり、今では海中鳥居だった面影は地堀川の岸辺にその痕跡を残しています。
また、毎月1日と15日になると大きなサメが鳥居をくぐりにやってきたという不思議な伝説も残されており、この日には漁をすると網が破れ、魚が取れなかったとも語り継がれています。
現在はそのような光景を見ることはできませんが、この鳥居の跡は今も地域の歴史と信仰を伝える大切なシンボルとして波止浜の人々の心に生き続けています。
「汐止明神」
もう一つ、波止浜の塩田にまつわる興味深い話が伝わっています。
塩田工事の際、堤防の最後の部分が完成する直前、当時の信仰に基づいて、波方村の一頭の牛が人柱の代わりとして生き埋めにされました。
この儀式は、堤防が無事に完成し、塩田が繁栄することを祈願するためのものでした。
その後、犠牲となった牛の霊を弔い、感謝の意を込めて、堤防完成後にその場所に松を植え、祠を建てました。
この祠は「潮止さん(しおどめさん・汐止さん)」または「汐止明神(しおどめみょうじん・潮止明神)」と呼ばれ、地元の人々に大切に祀られるようになりました。
この松と祠は、現在も現在も国道317号線沿い、波止浜興産株式会社の隣、久保病院の駐車場脇に祀られています。
松は当時のものではありませんが、新たな松が植えられ、地域の歴史と信仰を今に伝える象徴としてその場に立ち続けています。
波止浜塩田にかかわった偉人たち
波止浜塩田の歴史は、多くの人々の知恵と努力によって築かれてきました。その中でも特に功績を残した人物は、後世まで語り継がれています。
「長谷部九兵衛碑」
長谷部九兵衛は貞享元年(1684)に没しましたが、その功績は後世まで語り継がれ、昭和29年(1954)には波止浜塩業組合長・原真十郎の撰書によって、汐止明神の隣に記念碑が建立され、現在も地域の人々によって大切に守られています。
「園田藤太夫」
園田藤太夫は、塩田経営の基礎が固まり安定期へと移った貞享2年(1685)10月、松山藩の町奉行役へと転じました。
その後も地域の発展に力を尽くし、行政官としてだけでなく、信仰や文化の支えとしても重要な役割を果たしました。
なかでも特筆すべきは、荒廃していた瑞光寺(ずいこうじ)の再興に尽力したことです。藤太夫の働きかけによって寺は再建され、以後、地域の精神的支柱として人々を導く存在となりました。
元禄12年(1699)9月29日に藤太夫は没しましたが、その位牌は再興された瑞光寺に大切に安置されています。
同寺は藤太夫を「再開基」として祀り、法名「了然快休居士」とともに、その功績と精神を今に伝え続けています。
「大沢常右衛門」
龍神社・波止浜の境内にも、波止浜塩田と深い関わりを持った人物を讃える碑が建てられています。
それが、波止浜塩田の「中興の祖」として知られる 大沢常右衛門(1801〜1865) です。
常右衛門は芸州加茂郡三津村(現・広島県安芸津町)の出身で、文化10年(1813)に父とともに波止浜へ移り住み、製塩業に従事しました。
天保年間(1831〜1845年)、塩田の増加によって価格が暴落し、塩業が危機に瀕した際「三八法」(3月から8月に限って操業し、冬季は休業する)を考案。過剰生産を抑え、瀬戸内一円の塩価を安定させました。
また、撒砂の方法や経営法を改良し、衰退しかけた波止浜塩田を甦らせます。
常右衛門は塩田2軒を贈られるも辞退し、共有財産として寄付するなど、私利を求めず塩業の繁栄だけを願いました。
その功績により、松山藩から幾度も表彰を受け、嘉永7年(1854)には郷士格に取り立てられ、三人扶持を与えられています。
慶応元年(1865)に63歳で没し、墓は瑞光寺にあります。明治期には愛媛県や国から追賞を受け、昭和33年(1958)には龍神社・波止浜の境内に頌徳碑が建立されました。
大沢常右衛門は、波止浜塩田の衰退を救い、その存続と繁栄を導いた「中興の祖」として、今も地域に深く記憶されているのです。
塩田産業の終焉と現在の波止浜
このように塩田によって大きく栄えた波止浜地区ですが、時代の流れとともにその姿は大きく変わっていきました。
昭和30年代に入ると、世界的な経済の変化が日本全体の製塩業に押し寄せ、波止浜もその荒波に飲み込まれてしまったのです。
アメリカやメキシコなどから安価な岩塩が大量に輸入されるようになり、国内市場における塩の価格は急速に下落していきました。
さらに国内でも、真空蒸発法やイオン交換膜法といった近代的かつ効率的な製塩法が次々と普及し、従来の入浜式塩田による製塩は次第に「時代遅れ」のものとなっていったのです。
「塩業整備臨時措置法」と塩田廃止
こうした状況を受けて、日本政府は塩の供給過剰を抑制し、産業を近代化するために「塩業整備臨時措置法」を制定。
昭和34年(1959年)から昭和35年(1960年)にかけて第3次塩業整備を実施しました。
これにより全国の伝統的な塩田は整理・廃止されることとなり、波止浜塩田もまたその対象となりました。
当時の塩業組合長であった原真十郎は、反対の声が渦巻く中で「時代の流れを先取りしなければならない」と判断し、波止浜の塩田と製塩工場を早期に廃止しました。
こうして数百年にわたり地域の繁栄を支えた塩田産業は、昭和34年(1959年)をもって幕を下ろしたのです。
波止浜興産の設立と跡地利用
しかし、塩田廃止は波止浜の衰退を意味するものではありませんでした。
塩業組合を母体に、波止浜化学工業株式会社(のちの波止浜興産)が設立され、まずは塩業の副産物である加里肥料や臭素の製造を手掛けました。
これは、製塩とともに得られるにがり(苦汁)を活用する事業であり、廃棄物を資源化して経済的に循環させる先進的な取り組みでもありました。
やがて塩田廃止によって製塩に依存できなくなると、会社は思い切って不動産開発と新産業育成へと舵を切りました。
塩田跡地は19万坪(約62万7,000㎡)にも及ぶ広大な敷地を有しており、これを基盤として波止浜興産は宅地造成を積極的に進め、地域人口の増加と波止浜の町の再生に大きく貢献しました。
さらに、波止浜興産は単なる宅地開発にとどまらず、地域住民の生活や娯楽を支える事業も次々に展開しました。
- ゴルフ練習場「アクティはしはま」
- 自動車教習所「はしはま自動車教習所」
- ガソリンスタンド
- 保険代理業
これらは単に企業利益を追うだけでなく、「地域とともに歩む、儲けは地域に還元する」という経営理念にもとづいて行われました。
特に自動車教習所は、当初は縄を引いてコースをつくり、練習切符を販売するという素朴な「自動車練習所」から始まりました。
その後、免許制度が整備されると正式な教習所へと発展し、地域の交通社会化を支える存在となりました。
また、ゴルフ練習場も波止浜の娯楽文化の場として親しまれ、当初は糸巻きボールを使う素朴なものでしたが、のちに地域住民の余暇活動を支える場へと成長しました。
さらに土地分譲においては、必ずしも利益が大きいわけではなかったものの、「人口を増やして町を活性化させることこそが波止浜の未来につながる」という理念のもとに続けられました。
こうした取り組みによって、波止浜興産は単なる企業を超え、町づくりの一翼を担う存在として地域社会に根を下ろしたのです。
造船の町への転換
波止浜はかつて塩で栄えた町でしたが、塩田の廃止後、その跡地の一部は造船関連の工場や事業所の用地として活用されました。
高度経済成長期に入ると、造船業は今治市の主要産業へと発展し、波止浜はその拠点のひとつとして栄えていきます。
近代造船工業の始まりは明治35年(1902年)、波止浜船渠(はしはませんきょ)の創業にさかのぼります。
大正期には鉄鋼船の建造を開始し、昭和15年(1940年)には住友グループの傘下に入りました。
戦後は独立して「来島船渠」となり、昭和41年(1966年)に来島どっくと改称。
その波止浜工場は昭和63年(1988年)に新来島どっく波止浜工場となり、現在に至ります。
さらに昭和18年(1943年)、戦時下の企業合同政策によって、伊予木鉄船と今治造船が波止浜塩田の一部を埋め立てて立地しました。
伊予木鉄船は戦後「波止浜造船」と改称し、のちに修繕船主体のハシゾウ波止浜工場へと継承されます。
一方の今治造船は木造船から鋼船へと転換し、日本を代表する造船会社へと発展しました。
昭和30年代には全国的に木造機帆船の鋼船化が進み、今治の造船所もブロック工法やシリーズ建造方式を導入することで効率的な建造を実現。
波止浜湾には一万トン級の大型船が浮かび、その周囲には造船所が軒を連ねました。
その姿は「造船長屋」と呼ばれ、全国的にも稀有な光景として知られるようになります。
平成7年(1995年)の時点で、波止浜湾内には以下の主要造船所が並び立っていました。
- 新来島どっく波止浜工場(建造)
- 今治造船(建造)
- 檜垣造船(建造)
- 浅川造船(建造)
- 西造船(建造)
- ハシゾウ波止浜工場(修繕)
- 繁造船(修繕)
港にそびえるクレーンや巨大な船体を組み立てるドック、ずらりと並ぶ造船所の建屋。波止浜の入り江は、かつて塩田が広がっていた面影を残しながらも、いつしか造船の町へと姿を変えていきました。
そしてこの産業転換こそ、現在の今治が誇る一大産業の礎となったのです。今治市はタオルと並び、「造船の町」として全国にその名を知られる存在となりました。
現在では国内における造船建造隻数の約20%を担う一大集積地となり、おびただしい数の船舶が波止浜をはじめとする造船所群から送り出される船は、国内航路のみならず世界の海を駆け巡り、今治の名を世界に広めてきました。
塩田の記憶
このように、今では塩田そのものの姿は失われましたが、波止浜の町には今もなお塩田時代の記憶が息づいています。
かつて築かれた堤防の上には現在、国道317号線が通り、人々の暮らしや産業を支え続けています。
塩田の名残を示す「内堀」「地堀」といった地名は、当時の営みを静かに伝える証となっています。
さらに、塩業組合や塩田地主の屋敷が残る町並みには、往時の繁栄を偲ばせる重厚な建物が点在し、製塩業によって築かれた波止浜の歴史的風景を形づくっています。
これらの痕跡は、波止浜が「塩の町」として栄えた時代を物語る貴重な文化遺産であり、地域の誇りでもあります。
そして「波止浜」という地名もまた、塩田と切り離せない由来を持っています。
- 町場を「波止町(はしまち)」、塩を生産する塩田を「浜(はま)」と呼び、それが合わさって「波止浜」となったとする説。
- 塩田開発に伴い、海の潮を止めるために築かれた堤防を「波止(はし)」と呼び、それと「浜」が結びついたとする説。
いずれの説であっても、この地名が塩田の歴史と深く結びついていることに変わりはありません。
かつて塩を生み出した波止浜は、時代の流れとともに造船の町へと姿を変えました。
しかし、そこに生きた人々の記憶と営みは、地名や祠、町並み、そして地域の語り継ぎによって、今なお確かに残されているのです。
かつて塩を生み出した波止浜は、時代の流れとともに造船の町へと姿を変えました。
しかし、そこに生きた人々の記憶と営みは、地名や祠、町並み、そして地域の語り継ぎによって、今なお確かに残されているのです。