今治市の中心部には、かつて城下町として栄えた面影を今に伝える「寺町」と呼ばれる地域があります。
この一帯には多くの寺院が立ち並び、それぞれが地域の歴史と文化を静かに語り継いでいます。
その中のひとつ、「隆慶寺」もまた、長い歳月を静かに刻みながら、地域の信仰を支え続けてきた由緒ある寺院です。
本尊として祀られている「十一面観音立像(木造十一面観音立像)」は、藤原時代末期(平安時代末期)にあたる12世紀後半に造られたとされる、桧材による寄木造の貴重な仏像です
現在は今治市の有形文化財に指定されているこの観音像には、寺の創建と深く結びついた、霊験あらたかな伝承が今も語り継がれています。
本尊にまつわる創建伝承
奈良時代の天平8年(736年)、近見地区・大浜の漁師が、漁の最中に海中から一体の観音像を網で引き揚げました。
漁師たちはその姿に神聖さを感じ、砂場(現在の今治市砂場町)に大切に安置しました。
それから3年後の天平11年(739年)、大浜八輪宮(現・大浜八幡大神社)では、大祭の際に神輿を海路で島々に渡御させる神事が行われていました。
その年も、神輿が対岸の大島・椋名(吉海町椋名)の前にある門島(現・津島)に向けて渡御しようとします。
この門島には、かつて門島神社が鎮座しており、天智天皇の祖神や饒速日命を祀る神聖な地として知られていました。
門島神社はのちに大浜八輪宮に合祀され、その由緒を引き継ぐ形となっていたため、渡御は祖神の地に神を還す重要な儀式でもあったのです。
ところが、その途上で神輿は海の激しい潮流「八幡渦(はちまんうず)」に巻き込まれ、転覆の危機にさらされます。
そのとき、砂場に祀られていた観音が姿を現し、神輿を救ったと伝えられています。
この奇跡により、観音像の霊験は人々の間に広まり、災厄を救う守護仏として深い信仰を集めるようになりました。この観音像こそが、「十一面観音立像」として、後の時代に隆慶寺の本尊として祀られることとなります。
八幡渦と渦浦八幡神社の伝承
「八幡渦(はちまんうず)」は、馬島と中渡島のあいだ、中水道の南口に位置し、特に大潮の際には直径十メートルを超える大渦が巻く、来島海峡最大の渦潮です。
この「八幡渦」という名には、古くから神秘的な由来が語り継がれています。
時は南北朝時代、延文元年(1356年)の秋。
大浜八幡神社の大祭では、例年通り三体の神輿が来島などの島々へ海を渡って渡御する神事が行われていました。当時、来島には村上水軍御三家のひとつ、来島村上氏の館があり、この神事は海上の守護と氏族の繁栄を祈る重要な祭礼であったとされます。
ところがこの年、一体の神輿が突如として渦潮に呑まれ、海中に没してしまいます。
人々はこれを「神の怒り」と受け止め、村上氏はただちに海上に神饌を供え、神楽を奏して祈祷を行いました。
するとその夜、次のような神託が下りました。
「我を勝地に斎(いつ)き祀れ」
その日を境に、三夜にわたり、八幡渦の中よりまばゆい光が立ち上り、天を裂いて飛び、ついには大島・吉海町椋名の地に落下するという、神秘的な出来事が起こりました。
これを神の啓示と受け止めた椋名の里人たちは、光の落ちた地に社殿を建立。
さらに『我が名を渦に留めよ』との神託を受け、八幡渦の海水を汲んで神霊を勧請し、大浜八幡大神社の分社として祀ることとなりました。
こうして創建されたのが、渦浦八幡神社(ごううらはちまんじんじゃ)です。
この神社が鎮座する地域が「渦浦(うずうら)」と呼ばれるようになったのも、こうした出来事に由来するのかもしれません。
「隆慶寺の創建」大庵須益の教えを継ぐ寺
時代は、室町時代の中期へと移り変わります。
長門国(現在の山口県周南市)にあった龍門寺の第四世、大庵須益(だいあん しゅえき)和尚の教えを受け継いだ門弟たちによって、 文明11年(1479年)、十一面観音立像を本尊とする寺院「隆慶寺」が建立されました。
須益は、応永13年(1406年)に薩摩国(現在の鹿児島県)で生まれ、福昌寺で出家します。
その後、山口県の大寧寺や龍文寺で住持を務め、さらに瑠璃光寺など全国各地で数多くの寺院を開き、曹洞宗の教えを広めた高僧として知られています。
文明5年(1473年)にその生涯を閉じるまでに、須益が創建した寺院は数十か寺にのぼるとされます。
隆慶寺もまた、その教えと精神を受け継ぐ一寺として、文明11年に創建され、大庵須益を名目上の「開山」として仰いでいます。
戦国動乱の幕開けと隆慶寺の変遷
隆慶寺が創建された時代、日本はまさに「戦国時代」の幕開けを迎えつつありました。
応仁の乱(1467〜1477)の余波が全国に広がり、室町幕府の権威は急速に衰退。各地では守護や有力国人たちが独立色を強め、やがて戦国大名へと変貌していきます。
やがていくつかの有力な戦国大名が全国規模の覇権を争うようになります。その中で、織田信長は1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破って一躍名を上げます。
その後、将軍足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府の実権を握ります。1573年には義昭を追放し、事実上、室町幕府は終焉を迎えました。
信長は従来の仏教勢力、とくに延暦寺や本願寺などの宗教的権威にも容赦なく軍事力で対抗し、「天下布武(てんかふぶ)」の旗印のもと中央集権化を推し進めました。
戦国伊予を支えた名門とその終焉
この時代、伊予国を統治していたのが河野氏です。
河野氏は、古代伊予の豪族・越智氏の末裔であり、平安時代末期から室町・戦国時代にかけて伊予を統治してきた名門武家です。
特に戦国期には、湯築城(現在の松山市)を本拠とし、村上水軍(能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏)と緊密な同盟関係を築いて、海陸両面からの強力な統治体制を確立していました。
しかし、天正10年(1582年)、来島村上氏が羽柴(豊臣)秀吉の勧誘を受けて織田方に寝返り、かつての主君であった河野氏を攻撃。
これにより河野氏の軍事基盤は大きく動揺し、伊予国における統治体制は著しく揺らぐこととなりました。
長宗我部元親と四国征め
この混乱の中で、四国統一に動きだしたのが「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)です。
元親は土佐の一国を出発点として、精強な軍事力と巧みな政略をもって勢力を拡大、天正10年(1582年)には阿波国(現在の徳島県)を、天正12年(1584年)には讃岐国と伊予国の大半を掌握しました。
そして、天正13年(1585年)には四国全域をほぼ平定し、名実ともに「四国の覇者」となったのです。
しかし、この長宗我部氏の台頭に対して、織田信長の後継として台頭した羽柴(豊臣)秀吉は強い警戒感を抱きました。
同年、秀吉は大軍を四国に派遣し、長宗我部元親に対する徹底的な征討を開始しました。
これが、「四国攻め(四国征伐)」です。
長宗我部氏は、徹底抗戦の構えを見せますが、圧倒的な兵力差の前に次第に追い詰められ、同年7月25日、ついに降伏。
元親には土佐一国の領有が許される一方、阿波・讃岐・伊予の三国は没収され、豊臣方の武将たちに分配されました。
河野氏の滅亡「小早川隆景の伊予侵攻」
この中で伊予を任されたのが、秀吉の腹心である小早川隆景です。
小早川軍は数万の兵を率いて伊予に入り、まず河野氏の本拠地である湯築城(現・松山市道後公園)を包囲しました。
当主・河野通直は籠城して必死に抵抗しましたが、圧倒的な兵力差の前に次第に劣勢となり、最終的には小早川隆景の降伏勧告を受け入れ、およそ1カ月後に開城しました。
これにより、南北朝時代から続いていた伊予国の守護大名・河野氏は滅亡し、その長い歴史に終止符が打たれました。
中世から近世へ…統治者たちの交代に揺れる今治
その後、伊予国は小早川隆景の統治下に入りましたが、天正15年(1587年)には筑前・筑後への転封が命じられます。
代わって伊予へ入部したのが、豊臣政権の重臣福島正則でした。
正則は当初、河野氏の旧拠点である湯築城を本拠としていましたが、この城は中世的な構造を色濃く残しており、戦国末期の軍政や城下町の形成には不向きであると考えました。
そこで正則は、翌天正16年(1588年)、今治の国分山に位置する国分山城を本拠とすることにしました。
さっそく国分山城に移った正則は、本格的に領国経営を開始し、交通路の整備や農地の検地、村落の再編成を進めるとともに、宗教勢力の整理にも取り組みました。
しかし、わずか数年後の文禄四年(1595年)、福島正則も豊臣政権の人事により尾張・清洲城へと転封され、伊予の地を去ることになりました。
その後、国分山城には池田景勝が入り、続いて慶長3年(1598年)には小川祐忠が城主として入城しました。
このように今治の統治者は短期間で変わり続けたため。不安定な状況が続いていました。
「寺町の誕生」藤堂高虎と隆慶寺
慶長5年(1600年)、天下の命運を分ける「関ヶ原の戦い」が勃発します。
この戦は、豊臣政権下での対立が表面化したもので、東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)との間で繰り広げられた、戦国時代を終結させる決定的な合戦でした。
戦いはわずか一日で東軍の圧勝に終わり、以後、徳川家康は実質的な天下人としての地位を確立していきます。
この勝利によって家康は恩賞として、各地の武将たちに新たな領地を与えました。
そのひとりが、藤堂高虎です。
そして、慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおける功績により、藤堂高虎が伊予今治に20万石を与えられ、国分山城に入城しました。
ここから、今治の歴史は大きな転換点を迎えることとなり、隆慶寺もまた、その流れの中で重要な役割を担うことになります
今治城の築城
国分山城に入った藤堂高虎でしたが、すぐに大きな欠点に気づきました。
国分山城は内陸に位置しており、海運の便に乏しく、物資の集散や軍事行動の面で不利な立地だったのです。
また、周囲の地形は城下町の大規模整備にも適しておらず、近世的な都市経営には限界がありました。
こうした状況を重く見た高虎は、より利便性に富む拠点の必要性を感じ、海岸部への新たな築城を決意します。
そして慶長七年(1602年)、瀬戸内海に面した沿岸部において今治城の築城に着手しました。
寺町の形成
築城と並行して、城下町の整備も進められていきました。
町割りや道路網の整備、商業地や武家地の配置が計画的に進められ、今治は近世的な都市として新たな姿を整えていきます。
その過程で、今治の中でも特に影響力のあった14の寺院が集められ、計画的に寺院群が配置され、寺町という地域が出来上がりました。
藤堂高吉によって寺町へ移設
1608年(慶長13年)頃、藤堂高虎によって今治城が完成し、城下町の整備も着々と進められていきました。
その翌年、1609年(慶長14年)、高虎は築城や統治の功績を認められ、伊勢・津藩へと加増転封され、今治を離れます。
その後は、養子の藤堂高吉が今治城代として政務を継承し、領内の統治にあたりました。
この高吉の手によって、隆慶寺はそれまでの大浜から、現在の寺町へと移されました。
以降、新たな城下の構造において、隆慶寺は中心的寺院のひとつとして位置づけられ、今治の精神文化を支える重要な役割を果たしていきました。
災厄を越えた奇跡の本尊
ここから先の歴史において、隆慶寺は幾度となく大きな災厄に見舞われていくことになります。
しかし、どれほど過酷な運命にさらされようとも、本尊「十一面観音立像」は、まるで不思議な力に守られているかのように、その姿を奇跡的にとどめ続けてきました。
天明の大火と観音像の霊験
天明3年(1783年)、隆慶寺は火災により全堂宇を焼失しました。境内は一面灰燼に帰し、多くの仏具や経典も失われたと伝えられています。
しかしその中で、唯一、本尊「十一面観音立像」だけは奇跡的に焼失を免れました。
火の手が堂内に及びながらも観音像は焦げることすらなかったという話は、当時の人々に強い衝撃と深い感動を与え、あらためて観音の霊験のあらたかさを実感させる出来事となりました。
この奇跡を契機に、地域の人々はより一層の信仰心を寄せ、天明5年(1785年)に見事に再建を果たしました。
しかし、しかし、それから約160年後 今度は寺院や本尊だけではなく今治そのものが存亡の危機に直面することになりました。
それが、太平洋戦争末期に起きた「今治空襲」です。
今治空襲と奇跡の本尊
しかし、それから約160年後。
今度は寺院や本尊だけでなく、今治という都市そのものが存亡の危機にさらされることになります。
それが、太平洋戦争末期に起きた「今治空襲」です。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期の今治市は、3度にわたる空襲に見舞われました。
なかでも、8月5日から6日にかけての大規模空襲では、B-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、
市街地の大半が焼失するという、壊滅的な被害を受けます。
この空襲により、全市戸数の約75%が失われ、多くの命とともに歴史ある建物も焼き尽くされました。
寺町も例外ではなく、瞬く間に火の手が上がり、隆慶寺の伽藍もすべて焼き尽くされてしまいます。
しかし、、この未曾有の危機の中にあっても、本尊「十一面観音立像」だけは、まるで守られていたかのように、奇跡的にその姿をとどめていたのです。
復興と文化財指定
それから9日後の昭和20年(1945年)8月15日、日本は終戦を迎えます。
全国的に戦火によって多くの都市が焦土と化し、物資も人心も荒廃のただ中にありました。今治も例外ではなく、空襲により市街地の大半を焼失し、かつての賑わいを取り戻すには長い年月と忍耐を要しました。
なかでも被害の大きかった寺町一帯では、多くの寺院が焼失し、人々の拠りどころであった信仰の場も失われました。しかし、そうした中にあって本尊「十一面観音立像」が奇跡的に難を逃れたという事実は、絶望の底にあった人々の心に、大きな希望の光を灯したのです。
戦後の混乱を乗り越え、高度経済成長期の波が地方にも及びはじめた昭和30年代、地域の復興とともに隆慶寺の再建も本格化します。
信仰を守り伝えてきた檀信徒や地元の人々の支援により、昭和36年(1961年)、近代的な鉄筋コンクリート造の本堂が再建され、観音像は再び荘厳な空間に安置されることとなりました。
有形文化財指定と信仰の継承
そして、幾たびもの災厄を越え、語り継がれてきた奇跡の霊像「十一面観音立像」は、昭和45年(1970年)3月30日に今治市の有形文化財として正式に指定されました。
それは、海中から現れたとされる伝承に始まり、火災や空襲の中でも不思議なまでに無傷であり続けた尊像が、ついに公的にも「歴史」として認められた瞬間でもありました。
地域の人々の記憶と祈りの中に生き続けてきたこの像は、幾多の困難を乗り越えてなお、信仰と再生の象徴として、今も静かにその姿をたたえています。
隆慶寺の入り口には、今治市指定有形文化財である「十一面観音立像」の案内看板が立てられており、訪れる人々を迎え入れています。
下見吉十朗を祀る「芋地蔵」
隆慶寺の境内には、下見吉十郎を祀る「芋地蔵(いもじぞう)」が静かに祀られています。
これは、享保の大飢饉を前に、命をつなぐ作物・甘藷(サツマイモ)を薩摩から伊予に持ち帰り、地域を飢餓から救った吉十郎の偉業を讃えた地蔵尊です。
下見吉十郎とは
寛文13年(1673年)、伊予国大三島・瀬戸村に、かつて伊予を治めた河野氏の末裔と伝わる家に生まれた下見吉十郎は、信仰と勤勉を重んじる農家に育ち、穏やかな暮らしを送っていました。
やがて4人の子を授かりますが、いずれも幼くして亡くしてしまいました。
次々と家族を失った吉十郎は、深い悲しみに沈みながら命の重さと向き合い、徳元年(1711年)に心の救済を求めて、六部僧(ろくぶそう)として旅立ちました。
六部僧とは
六部僧とは、法華経の六巻を携え、日本全国六十六か国の霊場に一巻ずつ納めて巡る巡礼僧のことをいいます。
その名の由来は、法華経が六巻に分かれていたこと、そして全国六十六か国を巡礼することから「六十六部廻国聖(ろくじゅうろくぶかいこくひじり)」とも呼ばれました。
多くは特定の寺院に属さず、在家出身の信者として、亡き人の供養、疫病退散、五穀豊穣、世の安寧を願って法華経を写経・奉納しながら巡る、信仰に生きる行者でした。
庶民の間では、彼らの姿に仏の教えと誠実な祈りを重ね、旅の途中で施しを与えたり、宿を提供したりする習慣も根づいていました。
また、六部僧は仏像やお札、法華経の説話などを人々に伝えることもあり、仏教文化の普及者・布教者としての一面も担っていたのです。
吉十郎にとって六部僧とは、ただの巡礼者ではなく、亡き我が子への追悼と、まだ見ぬ人々を救うという祈りの実践者としての道でもありました。
命をつなぐ甘藷との出会い
吉十郎は、広島・京都・大阪と各地を巡ったのち、九州へと渡り、やがて薩摩国(現在の鹿児島県)伊集院村にたどり着きました。
さらに巡礼を続ける中で、吉十郎は農家を営む土兵衛という人物に一晩泊まらせてもらえることになりました。
そしてその夜、土兵衛から夕食として用意されたのが甘藷(サツマイモ)でした。
吉十郎はその味に驚くと同時に、痩せた土地でもよく育ち、長期保存もできる作物であることを知るとすぐにある感情が沸きあがりました。
「これさえあれば、飢えに苦しむ故郷の人々を救えるかもしれない」
吉十郎は、土兵衛に種芋を譲ってほしいと頼み込みました。
しかし、当時の薩摩藩では甘藷の持ち出しを固く禁じられていました。
これは、甘藷が飢饉対策の重要な戦略作物として重視されていたためであり、その栽培法や種芋が他藩に漏れることを厳しく警戒していたからです。
薩摩藩では甘藷の導入と改良が進められ、特に幕末に至るまで「藩の重要機密」として扱われていました。
したがって、藩外への持ち出しは厳罰をもって禁じられ、場合によっては死罪に問われることさえあったのです。
そのため、土兵衛は自分の生命に関わるこのお願いを断固として断りました。
それでも吉十郎は諦めませんでした。
涙ながらに、何度も何度も頭を下げ、飢えに苦しむ人々を救いたいという真剣な思いを訴え続けたのです。
そのひたむきな姿に、ついに土兵衛の心も動かされ、貴重な種芋を託してくれることになったのでした。
種芋を密輸出…人々の命を救う選択
とはいえ、薩摩藩外への甘藷の持ち出しは重罪にあたり、見つかれば厳しい処罰を免れることはできませんでした。
それでも吉十郎は決してひるむことなく、仏像の内部に巧みに穴を開けて種芋を隠し、巡礼者を装って薩摩国を抜け出すという、命懸けの賭けに出たのです。
吉十郎はこのときの心境を、次のように記しています。
「公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず」
(世の中のためになることなら、たとえ法律やお上の決まりを破ることになっても、恐れる必要はない)
この言葉には、自らの行為が私利私欲からではなく、広く人々の命を救うための“公”の正義に基づいていたという、吉十郎の確固たる信念と覚悟が込められています。
故郷で命の芋が根を張る
そして、なんとか持ち出すことに成功した吉十郎は、大三島に帰るとすぐに試験栽培に取りかかりました。
伊予の温暖な気候と肥えた土に甘藷栽培に適しており、吉十郎は見事に栽培に成功しました。
その後、生産体制が整う中でも、自身の利益を求めることなく、栽培方法を周囲の農民たちに惜しみなく伝え続けました。
こうしたたゆまぬ努力が実を結び、甘藷は次第に大三島から周辺の島々へと急速に広まっていきました。
大飢饉から命を守った甘藷
やがて飢饉に苦しむ人々を支える貴重な食糧として、各地で大いに重宝されるようになったのです。
その代表的な例が、享保の大飢饉です。
享保17年(1732年)に起こったこの飢饉は、長雨と害虫(ウンカ)の大発生により西日本一帯の稲作が壊滅的な打撃を受け、特に九州・中国・四国地方では深刻な食糧難に陥りました。
その影響は甚大で、全国でおよそ12万人以上が餓死したとされ、伊予国内でも多くの村々で餓死者や疫病による死者が相次ぎました。
しかし、大三島では甘藷があったため、餓死者を出すことなくこの大飢饉を乗り切ったとされます。
それどころか、飢饉に苦しむ伊予松山藩に米700俵を献上した記録も残っています。
「いも地蔵」地域をつなぐ功績
このように多大な功績を遺した吉十郎は、宝暦5年(1755年)9月6日、享年83歳で惜しまれつつその生涯を閉じました。
その偉業は高く讃えられ、向雲寺(愛媛県今治市上浦町瀬戸1754)に埋葬され、境内の小さなお堂には「甘藷地蔵(いも地蔵・芋地蔵)」として祀られています。
大正9年(1920年)には、吉十郎の功績を讃えて「下見吉十郎彰徳碑」が建立され、さらに昭和23年(1948年)3月29日には、甘藷地蔵が愛媛県の史跡として正式に指定されました。
現在でも吉十郎の子孫が向雲寺の近くに暮らしており、命日には「甘藷地蔵祭」が催されるほか、「いも地蔵」をモチーフにした土産用の和菓子も作られるなど、吉十郎の功績は島民に広く親しまれています。
さらにその影響は地域全体にも広がり、島内外の明光寺や宝珠寺などに、20体以上の地蔵菩薩像が建立されました。
そのひとつが、今治の隆慶寺に祀られる「いも地蔵」です。
また、同じ今治市内の常明寺(じょうみょうじ)にも祀られており、「いも地蔵盆まつり」が開催されるなど、地域の信仰行事としても大切にされています。
その温かな姿は、命の尊さ、他者を思う祈り、そして困難を乗り越えた再生の象徴として、今も地域の人々の心に寄り添い続けています。
隆慶寺に参拝する際は、この小さな「芋地蔵」にもぜひ足をとめ、祈りの歴史に思いを馳せてみてください。