「龍岡寺(りゅうこうじ)」は、平安時代に創建されたと伝えられる由緒ある寺院で、長年にわたって玉川町中村地域の人々の信仰を集めてきました。
その歩みは、王朝文化が地方へと浸透していく平安中期に始まり、源頼義による薬師堂の建立、中世の文化振興、そして戦国時代における地域領主・正岡氏の庇護を受けることで深められていきます。
寺は単なる信仰の場にとどまらず、地域の精神的支柱として、人々の生活とともに千年以上の歴史を刻んできました。
平安期の創建と薬師信仰
龍岡寺の創建は、延喜年間(901〜923年)にさかのぼります。
延喜年間は、律令制下における寺社制度が整備された時期であり、寺院の建立には宗教的・政治的な意味合いが強く込められていました。
このような時代に、中村の集落を見渡す高台に「神岡寺(じんこうじ)」と称される寺院が建立されました。
これこそが、今日の龍岡寺の起源とされています。
神岡寺(龍岡寺)は、自然と共に生きる人々の祈りの場として、また山や水といった土地の霊性を感じる信仰の拠点として、長く地域に寄り添ってきました。
秘仏・薬師如来像
本尊には、薬師如来像が祀られ、創建以来、秘仏として長らく人目に触れることなく、寺内で大切に守り伝えられてきました。
薬師如来は、病を癒す仏として古くから深く信仰されており、平安時代には特に疫病除けや安産、五穀豊穣を願う庶民の信仰対象として広まりました。
特に農村部においては、薬師信仰は現世利益の象徴ともいえる存在であり、家族や地域の安寧を願う人々の心のよりどころとなっていきました。
「薬師堂建立」源頼義による堂宇寄進
長久3年(1042年)には、源頼義(みなもとのよりよし)が、神岡寺(龍岡寺)と光林寺に薬師堂を建立しました。
河内源氏の初代当主・源頼義
源頼義は、平安時代中期の武士で、武門源氏の中でも有力な「河内源氏」の初代当主として知られています。
河内源氏は、清和天皇(在位:858年〜876年)の子孫である清和源氏の一支流で、後に源義家・源義経・源頼朝といった歴史的英雄たちを輩出し、武士社会を代表する名門家系として中世を通じて大きな影響力を持ちました。
頼義はこの後、陸奥国(現在の東北地方)で勃発した「前九年の役」(1051〜1062年)において、奥州の有力豪族・安倍氏を討伐し、武士が国家の軍事を担う時代の到来を象徴する存在となります。
その後、息子・源義家へと受け継がれた源氏の名声はさらに高まり、やがて鎌倉幕府の成立へとつながる武家政権の流れを形成していきました。
武家による信仰基盤の形成
当時、武士による宗教活動はまだ限定的であり、信仰の主体は貴族階級や寺社勢力に限られていました。
そうした中で、頼義のような中央の有力武士が、地方の地方寺院に堂宇を寄進することは、異例の行動といえます。
このことから、神岡寺(龍岡寺)と光林寺が当時すでに相応の宗教的威信を備え、有力者の信仰を引き寄せるに足る存在であったことの証といえるでしょう。
信仰の拠点としての寺院
その後、薬師如来を本尊とする薬師堂は、病気平癒や厄災除けを願う庶民の信仰を広く集め、神岡寺(龍岡寺)と光林寺の宗教的基盤をいっそう強くしました。
人々の不安が渦巻く末法思想の時代にあって、薬師如来への信仰は、現世利益を求める民衆の拠り所として根強く受け入れられたのです。
こうして両寺は、単なる宗教施設としてだけでなく、地域社会に根ざした信仰の中心地として、その地位を着実に高めていったのです。
「南北朝時代」大般若経の写経開始
やがて、時代は南北朝時代(1336年〜1392年)と呼ばれる、動乱と混迷のただなかへと突き進んでいきます。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は自らの手で政権を担う「建武の新政」を試みましたが、旧幕府勢力や地方武士の反発を受け、わずか2年余りで崩壊。
政権を掌握した足利尊氏は、新たに持明院統の光明天皇を擁立して京都に「北朝」を樹立し、これに対抗した後醍醐天皇は奈良の吉野に「南朝」を開きました。
こうして、一つの国に二人の天皇が並び立つ異例の時代が始まります。
この南北朝の内乱は、単なる王権争いにとどまらず、全国の武士団を巻き込み、地方社会を深く揺るがすことになります。
伊予国での争い
伊予国では、国の政治を担う役職「国司」を代々務めていた河野氏が、一族の内部での跡目争いもあり、南朝方と北朝方に分かれて戦いました。
なかでも分家の得能氏は南朝方で奮戦しましたが、やがて滅亡の運命をたどります。国内各地でも武士や土豪の衝突が相次ぎ、伊予の社会全体が不安と混迷に包まれていきました。
『大般若経』の写経事業
このような動乱と不安が渦巻く中で、建徳2年(1371年)、神岡寺(龍岡寺)では国家の安泰と戦乱の終息、疫病退散を祈願して、『大般若経』の写経事業が開始されました。
『大般若経』は、般若波羅蜜多の智慧を説く仏教の大経典で、全600巻におよぶ膨大な内容をもつことから、特に国家鎮護や災厄除けを願う儀礼として重視されてきました。
寺院での写経は、信仰のみならず、地域の文化的営為でもあり、龍岡寺が当時、精神的・文化的な拠点としての機能を果たしていたことがうかがえます。
現在、写経されたうちの200巻は玉川町指定有形文化財として龍岡寺に保管され、残る200巻は朝倉地区の光蔵寺・厄除薬師(こうぞうじ)に伝わっています。
これは、両寺が協力しながら動乱の時代に地域文化を守り伝えてきた証でもあり、信仰と写経によって結ばれた深い絆を今に伝えています。
「寺号の改称」神岡寺→龍岡寺
写経事業の開始から2年後、文中2年(1373年)には、寺名が「神岡寺」から現在の「龍岡寺」へと改称されました。
この改称の詳しい経緯については文献資料が乏しく、明確な理由は定かではありません。
しかし、当時は南北朝の争いが続き、社会全体が不安に包まれていました。
そうした時代の中で、寺院の果たす役割や存在の意味を、改めて問い直そうとする動きがあったとも考えられます。
また、「龍」という字は、古来より吉祥・守護・霊力の象徴とされてきました。
戦乱と混迷の時代にあって、薬師如来の力とともに「龍」の霊威によって地域を守護しようとする、新たな祈願の意志が込められていたのかもしれません。
幸門城主・正岡氏の菩提寺
中世後期には、龍岡寺は地元の有力武士である正岡氏の菩提寺として栄えました。
河野氏の重臣・正岡氏
正岡氏は、伊予国の名族・河野氏の重臣として知られ、宗教的にも政治的にも地域社会の発展に深く関与した一族です。
もとは風早郡正岡郷(現在の松山市北条付近)を本拠としていましたが、保延年間(1135〜1140年)頃より越智郡に進出し、幸門城(さいかどじょう)を拠点としました。
龍岡寺との関係
寺伝によれば、正岡氏は龍岡寺を厚く庇護し、堂宇の整備や供養塔の建立などを行ったとされます。
これにより、龍岡寺は寺格を高めるとともに、菩提所・祈願所・文化の場として、地域において多面的な機能を果たすようになっていきました。
四国攻めと正岡氏の没落
しかし、戦国時代に入ると、伊予国の情勢も大きく変貌を遂げていきます。
各地で武士たちが覇権を争い、領地の奪い合いや軍事衝突が頻発するなか、伊予でも城砦の築城や攻防が相次ぎ、地域は戦乱と不安のただ中に置かれることとなりました。
そして、天正13年(1585年)、羽柴(豊臣)秀吉による四国征伐が始まると、伊予には小早川隆景の軍勢が侵攻。
河野氏の支城が次々と攻め落とされていくなか、幸門城を守る正岡経政は、主家・河野氏への忠義を貫き、最後まで幸門城に籠もって抗戦しました。
しかし、圧倒的な兵力差と兵糧の尽きるなかで籠城は限界に達し、ついに城は落城。経政は城と運命を共にしました。
その忠節を偲び、同じ玉川地区にある医王寺には、経政の供養塔と伝わる五輪塔が静かに建立されており、今も人々の手によって大切に守られています。
寺院の一時衰退
正岡氏の滅亡により庇護者を失った龍岡寺は、静かにその勢いを失っていきました。
しかし、薬師如来への信仰は決して途絶えることなく、地元住民の祈りと守りによって、その命脈は守り継がれていきました。
江戸時代の再建と今治藩主の庇護
江戸時代に入り、全国的に戦乱が収まり、幕藩体制が安定すると、荒廃した寺社の再建や信仰の再興が各地で進められていきました。
寛文10年(1670年)、龍岡寺もまたその流れの中で、地元住民の尽力によって再建の機運が高まり、復興への第一歩が踏み出されました。
戦国の乱世をくぐり抜けた人々にとって、寺院の再建は単なる建築行為ではなく、失われた地域の精神的な柱を取り戻す営みであり、信仰と共同体の再生の象徴でもありました。
松平定陳公による本堂再建
こうした中、龍岡寺の再興に大きな後押しを与えたのが、第3代今治藩主・松平定陳(さだのぶ)公です。
定陳は、徳川家康の異父弟・松平定勝を祖とする譜代大名であり、学問や信仰にも篤く、藩内の寺社整備に尽力した人物として知られています。
貞享2年(1685年)、定陳公は龍岡寺の本堂再建を命じ、寺院施設の整備を本格化させました。
この再建は、単なる補修にとどまらず、堂宇の再配置や建築様式の整備、石段・庭園の整備までを含む包括的な事業であったと考えられています。
さらにこの時代は、幕府による寺社奉行制度の下、藩が寺社の監督と支援を担っていたこともあり、龍岡寺も今治藩の宗教政策の一環として、制度的にも保護されていたと見られます。
藩主の支援と地域の信仰が結びついたこの再建は、龍岡寺の歴史における重要な転機となったのです。
信仰の拠点としての定着
江戸時代を通じて、龍岡寺は地域の信仰・文化・教育の中核を担い続けます。
寺子屋的な学びの場としての機能や、年中行事・施餓鬼・盆行事などの仏教行事を通じて、村人の日常と深く結びついていきました。
また、江戸時代は疫病や飢饉が多発した時代でもあり、人々は薬師如来に病気平癒・延命を祈願し、寺院に足を運びました。
龍岡寺の薬師信仰は、こうした民間の現世利益信仰と深く結びつきながら、広く浸透していきます。
昭和36年の火災
昭和時代に入り、龍岡寺は再び大きな試練に直面することとなります。
昭和36年(1961年)、突如として発生した火災により、寺は本堂をはじめとする堂宇の大半を焼失し、さらに、創建以来一度も開帳されることなく秘仏として祀られてきた薬師如来像も失われてしまいました。
この薬師如来像は、龍岡寺の信仰の中心ともいえる存在であり、その焼失は寺にとって計り知れない精神的打撃となりました。
また、それは地域住民にとっても、心の拠り所を失う深い悲しみであり、長く記憶に刻まれる出来事となったのです。
奇跡的に守られた大般若経
一方で、焼失を免れた貴重な文化財もありました。
それが、建徳2年(1371年)に書写が開始されたと伝わる『大般若経』です。
火災当時、寺内にはこの『大般若経』のうち約400巻が保管されていましたが、これらは火災の被害を受けることなく、奇跡的に焼失を免れたのです。
その後、焼け残った半分は玉川町指定有形文化財として龍岡寺に、残りの半分は高蔵寺(たかくらのてら・現:光蔵寺)に移され、大切に保管されることとなりました。
住民の手による復興と現在の寺院
このように壊滅的な火災に見舞われた龍岡寺でしたが、地域の人々が一丸となって復興に尽力し、失われた建物の再建だけでなく、寺院が担ってきた精神的な役割も見事に回復されました。
この復興は、単なる物理的な再建にとどまらず、地域の絆を深め、歴史と文化を次世代へと継承する新たな一歩となったのです。
随求明王と弘法大師像
現在の本堂には、江戸中期に制作された随求明王像(宝暦10年・1760年)と弘法大師像(宝暦12年・1762年)が安置されています。
いずれも戦災や災害を生き延びた仏像であり、災後の復興において再び人々の祈りの対象として本尊に迎えられました。
「伊予府中十三石仏霊場」虚空蔵菩薩の信仰
さらに、昭和後期から平成にかけて、新たな仏像も奉安されています。昭和57年(1982年)には、伊予府中十三石仏霊場の第十三番札所として指定され、虚空蔵菩薩が祀られました。
この霊場は、発願寺と結願寺を含めた全15ヶ寺で構成される巡礼路で、文字通り十三仏(初七日から三十三回忌までの追善仏)を石像として巡拝する形式をとっています。
札所寺院はいずれも今治市内にあり、地域に根ざした信仰と文化が色濃く息づいています。
虚空蔵菩薩は知恵・記憶・福徳を司る仏として知られ、受験生や子どもの成長を祈る参詣者も多く訪れ、霊場巡拝に新たな信仰の広がりをもたらしています。
現代に寄り添う不動明王
さらに、平成6年(1994年)には、松山市在住の仏師・石田嵩治氏の手による不動明王像が新たに安置され、地域の新たな信仰対象として尊ばれています。
炎を背に、右手に剣を、左手に羂索を携えるその姿は、災厄を断ち切り、煩悩を縛る不動の誓願を体現しており、祈る人々の心に力強い安心と導きを与えています。
混迷の時代を生きる現代の人々にとって、不動明王はまさに“迷いを祓い、進むべき道を照らす存在”として、静かに、しかし確かに信仰の中心に立ち続けているのです。
境内に息づく信仰の痕跡
龍岡寺の境内には、本堂の仏像のみならず、地域の人々が長年にわたり守り伝えてきた石仏や記念碑、供養塔が静かに佇み、今なお深い信仰の息づかいを感じさせています。
「首無し地蔵尊」
なかでも、ひときわ人々の目と心を引き寄せる存在が、「首無し地蔵尊(くびなしじぞうそん)」です。
この石仏が発見されたのは、昭和51年(1976年)9月8日に発生した台風第17号による未曾有の豪雨災害のさなかのことでした。
台風は九州に上陸した後、南西海上に停滞し、四国付近に前線を伴っていたため、12日から13日にかけて四国地方を記録的な大雨が襲いました。
特に今治市を含む東予地域では、土砂崩れや河川の氾濫、家屋の浸水といった被害が相次ぎ、地域は深刻な被災に見舞われました。
この災害の混乱の中、山あいから押し流された大量の土砂のなかに埋もれていた一体の石地蔵が、地元住民の手によって発見されたのです。
しかしその石仏は、長年の風雨や土中の圧力、自然の猛威によって首から上が欠け、胴体も大きく損傷した状態でした。
住民たちは失われた頭部の所在を懸命に探しましたが、ついに見つけ出すことはできませんでした。
それでも、泥の中から救い上げられたその姿に込められた意味の深さに心を打たれた人々は、この石仏を「首無し地蔵尊」と名づけ、龍岡寺の境内に静かに安置したのです。
首なし地蔵さまは、泥の中から救われた喜びを表しているかのように、多くの参拝者に不思議なご利益をもたらすとされています。
特に頭に関する病気の回復を願う人々に信仰されています。
その他の文化財と祈りの風景
境内にはそのほかにも、かつて全国巡礼を果たした信者が建立した「日本廻国の碑」、江戸時代の禁教時代に密かに信仰を守った痕跡とされる「隠れキリシタン碑」などが残されており、いずれも時代を超えた祈りのかたちを今に伝える貴重な文化財となっています。
また、地元住民の奉仕により再整備された参道や庭園も、四季折々の風景と調和し、訪れる人々に静かな癒しと安らぎをもたらしています。