大熊寺と四国霊場第56番札所・泰山寺とのあいだ、山道をおよそ300メートル登った静かな山間に、ひっそりと佇む「龍泉寺(りゅうせんじ)」。
真言宗醍醐派に属する末寺でありながら、古くから修験道や山岳信仰の霊場として知られ、地域の人々の信仰を集めてきました。
その長い歴史のなかで、幾度となく盛衰を繰り返しながらも、龍泉寺は祈りの場として静かに守り継がれ、現在では泰山寺の奥の院として位置づけられ、泰山寺によってその管理が行われています。
龍泉寺の歴史
龍泉寺の創建は奈良時代、日本仏教界に多大な影響を与えた高僧・行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれたと伝えられています。
行基の生涯と活動
行基(668年〜749年)は、飛鳥時代末から奈良時代にかけて活躍した仏教の僧です。
当時の朝廷は、僧侶による自由な布教活動を厳しく統制していましたが、行基はそうした制限を超えて民衆のもとへ赴き、直接仏の教えを説くという革新的な活動を行いました。
また、その活動は布教にとどまらず、社会事業にも及びました。
布施屋の設置、溜池や橋の建設、寺院の建立などを各地で行い、広く庶民の生活を支えました。
こうした活動は当初こそ朝廷からの弾圧を受けましたが、次第にその実績が認められ、晩年には聖武天皇の命により東大寺の大仏造立の勧進を任されることになります。
最終的には、日本で初めて「大僧正(だいそうじょう)」の位を授かった僧侶として、後世に大きな足跡を残しました。
没後には「行基菩薩」と尊称され、多くの人々に信仰される存在となりました。
「大聖院」四国巡錫の中で建てられたお堂
行基は全国を巡って仏教を広め、多くの寺院を建立または再興する中で、天平年間(729年〜749年)には四国にも足を運び、各地で人々の信仰に応えながら寺院を建立していきました。
そのような巡錫の中で、行基は伊予の地にも足を運び、正善寺、竹林寺、国分寺、延命寺、そして南光坊など、他にも数多くの寺院の創建に深く関わりました。
そしてある日、この地を訪れた行基は、村人たちの篤い信仰心に深く心を打たれ、その願いに応えるべく、自ら一体の不動明王(不動尊)像を彫り上げ、小さな草庵(お堂)を建立してそこに安置しました。
「大聖院」と名付けられたこの庵は、村人たちにとって日々の祈りを捧げる大切な場として、信仰の中心として静かに息づいていきました。
これが、龍泉寺のはじまりとされています。
「天照院」天長年間の再建と本地仏
平安時代初期の天長年間(824〜833年)に入ると、それまでの小さな草庵は建て直されることになり、本堂や講堂、塔、門などの主要な堂宇が整えられて、寺院としての姿が本格的に整備されました。
このとき、「大聖院」と称されていた庵は、新たに「天照院(てんしょういん)」と改称され、現在も続く本尊「十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)」が安置されました。
十一面観世音菩薩と四つの脇仏
「十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)」は、頭上に十一の顔を持つ姿が特徴の観音菩薩であり、それぞれの顔は、あらゆる衆生の苦悩に応じた慈悲の表情を表しています。
深い慈悲をもって一切衆生を救済する存在として信仰され、天照院(現:龍泉寺)においても、その霊験あらたかな本尊として、古くから篤く信仰されてきました。
また、この観音菩薩は、当地の神である「阿那波大明神(あなばだいみょうじん)」の本地仏とされており、神仏習合の思想を体現する存在でもあります。
本地仏とは、神道の神が仏の姿をとって現れたとする考え方であり、特に中世においては、山岳信仰や修験道と深く結びつきながら、日本各地の神仏習合の形を支えてきました。
修験道とは、山を神聖視し、その山中での厳しい修行を通じて霊力や悟りを得ることを目的とする、日本独自の宗教的修行体系です。
古来、修験道は神道の山岳信仰と仏教の密教的教えが融合して成立し、山中での滝行や断食、護摩供などの修行を重ねることで、心身を鍛え、神仏の加護を得ると信じられてきました。
この修験道の思想は、神仏習合と深く結びつき、各地の霊山や寺院、神社において、神と仏が一体となった信仰の姿を育んでいったのです。
そうした信仰体系のもと、天照院では本尊を中心として四体の尊像、「石鎚大権現」「不動明王」「弘法大師」そして「聖宝理源大師」が、脇仏(わきぶつ)として祀られていました。
- 石鎚大権現(いしづちだいごんげん)
- 四国の霊峰・石鎚山に宿るとされる神霊で、山岳信仰に基づく修験道の守護神です。石鎚山は古くから霊場として知られ、修験道の行者たちに深く崇拝されてきました。
- 不動明王(ふどうみょうおう)
- 密教における五大明王の一尊で、煩悩を断ち切り、修行者を守護する護法神です。忿怒の表情と背後に燃え盛る火焔を特徴とし、災厄を祓い、修行の道を護る力強い存在として信仰されています。
- 弘法大師(こうぼうだいし・空海)
- 真言宗の開祖であり、日本密教を体系化した高僧です。各地に寺院を建立し、高野山を拠点として信仰を広めました。四国八十八箇所霊場もその足跡に基づくもので、現在でも多くの信者に巡礼されています。
- 聖宝理源大師(しょうほうりげんたいし)
- 弘法大師(空海)の孫弟子にあたり、真言宗醍醐派の開祖として知られる高僧です。京都・醍醐寺を創建し、山岳修行を重視した教えを広めました。聖宝を祀ることは、龍泉寺が真言宗醍醐派に属するとともに、修験的性格を併せ持つ霊場であったことを象徴しています。
これら四尊の脇仏からは、天照院(現・龍泉寺)が真言宗醍醐派の教義を基盤としながらも、修験道との結びつきを色濃く持ち、すでに山岳霊場としての性格を備えていたことがわかります。
戦乱の中で消えた歴史
こうして、真言密教と修験道が融合する山岳霊場として新たな歩みを始めた天照院(現・龍泉寺)でしたが、その後の歴史については記録が残されておらず、長らく空白となっています。
当時の日本は、南北朝時代から戦国時代にかけて、全国各地で戦争や権力争いが頻発し、多くの寺院や神社が兵火に巻き込まれ、あるいは為政者の交代に伴い破却されることも珍しくありませんでした。
天照院(現・龍泉寺)も同じく、こうした時代の荒波の中で被害を受け、古い記録が消失したと考えられます。
「友沢家」から伝わる歴史と記録
その後の寺の記録は、「友沢家(友澤家)」との関係とともに伝わっています。
友沢家はもともと大洲地域で武士として活動していた家系で、「友沢武蔵守」として知られていました。
友沢家は、もともと伊予国大洲地域で武士として活動していた家系で、「友沢武蔵守」の名で知られていました。
しかし、戦国時代の戦乱によって家は没落し、生き残った一族は、福岡県にある日本三大修験の霊山として知られる英彦山(ひこさん)に身を寄せ、山伏(修験道の修行者)としての修行を始めました。
山伏の修行は、精神力を鍛え、自然と向き合いながら祈りを捧げるという、当時の仏教と修験道の教えに基づいた厳しい行でした。
こうした修行を重ねる中で、彼らは武士としての生き方から離れ、祈りと信仰によって人々を支える僧としての心構えを培っていったのです。
来島村上氏を支えた祈願師
そして修行を終えると、再び伊予国に戻り、この地で来島を拠点に村上水軍を率いる「来島村上氏(伊予国来島信濃守)」から祈願師(きがんし)としての役割を任されるようになり、
来島村上氏は、伊予を統治していた河野氏に代々仕えており、祈願師となった友沢家もその加護のもとで活動していました。しかし、やがて時代の流れとともにその関係も変わり始めます。
来島村上氏の裏切り
天正十年(1582年)、来島村上氏は秀吉の勧誘を受け、織田信長側につき、かつての主君である河野氏を攻撃し始めました。
この反逆には河野氏だけでなく、毛利家も強く反応しました。
毛利家は、瀬戸内の海上勢力を維持するために村上水軍の協力を必要としており、来島村上氏の寝返りは、その体制を大きく揺るがす事態だったのです。
そのため、毛利氏は河野氏とともに直ちに来島村上氏への攻撃を開始しました。毛利水軍は、能島村上氏や因島村上氏の協力を得ており、来島村上氏はこれまで仲間であった水軍すら敵に回すことになりました。
瀬戸内海における制海権は完全に失い、さらに河野軍からの攻撃によって、来島村上氏は滅亡寸前にまで追い込まれていきます。
この危機的状況の中で、当主・来島通総(くるしま みちふさ)は、拠点を放棄して毛利・河野の包囲を突破し、瀬戸内海を南下して豊臣秀吉のもとへ逃れました。
そしてこの決断が、来島村上氏の命運を大きく左右することとなります。
天正13年(1585年)、本能寺の変後の秀吉は、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを指揮官とする大軍を四国に派遣。
来島村上氏も水軍としてこの戦いに参戦し、瀬戸内海での豊臣軍の補給や上陸作戦を支援しました。
この戦で、長きに渡り伊予を統治していた河野氏は滅亡し、四国は豊臣政権の勢力下に入りました。
秀吉が海賊行為を禁じたことで「能島村上氏」「因島村上氏」は大きく弱体化しましたが、秀吉側についた来島村上氏は例外的に、伊予の大名としてその存続を許されました。
村上水軍の終焉と友沢家
しかし、1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いで、来島村上氏は西軍方で戦い、東軍(徳川家康側)に敗れたことで、その長い歴史にも終わりを迎えることとなりました。
所領は没収され、大名としての地位を失い、慶長6年(1601年)には豊後国(現在の大分県)へと領地替えを命じられ、伊予国を離れることとなったのです。
この中で、長らく来島村上氏に祈願師として仕えてきた友沢家(友澤家)の役割も終わりを迎えることとなりました。
「地鎮祭」今治城を支えた友沢家の祈願
同じ頃、伊予国には藤堂高虎が新たに領主として迎えられました。
当初は桜井の国分山城(国府城・唐子山城)に本拠を置きましたが、戦国の世は終わりを告げ、「天下泰平」の時代へと移ろうとしていました。
高虎は防御よりも港湾機能や経済・軍事の利便性を重視し、慶長7年(1602年)に今治城の築城に着手し、1607年(慶長12年)頃にほぼ完成しました。
藤堂高虎は、築城の名手として知られ、智勇を兼ね備えた武将でした。徹底した実利主義と先見性を持ち、城だけでなく城下町の整備や商業の振興にも力を注ぎました。
その治政は、乱世の終わりを象徴するようなものであり、今治にも新たな秩序と発展の基盤を築いていったのです。
しかし、1609年(慶長14年)にさらなる功績が認められた高虎は伊勢・津藩への加増転封を命じられ、今治を去ることとなります。
今治には、藤堂家の一族である藤堂高吉が今治城代として残され、城と城下の統治を引き継ぎました。
高吉は高虎の遺志を継ぎ、城下町のさらなる発展と秩序の維持に尽力します。
その翌年、慶長15年(1610年)、今治城の最終的な整備が進められる中、城と町の安泰を祈るための地鎮祭が厳かに執り行われました。
この地鎮祭に招かれたのが、かつて来島村上氏の祈願師として仕えていた友沢家(友澤家)でした。
地鎮祭とは、建築や土木の工事を始めるにあたり、その土地の神霊を鎮め、工事の無事と安全、完成後の建物や町の繁栄を祈願する重要な儀式です。
古くは神道・仏教・修験道が融合した形で行われ、城や社寺の築造、大規模な町づくりの際には欠かせないものでした。
特に今治城のように新たな時代の拠点となる城郭の整備に際しては、領主・家臣・城下の人々の安泰を祈る意味を持ち、儀式は厳粛かつ盛大に執り行われたと考えられます。
そして、友沢家がこのような大切な祈願の役目を託されたことから、新たな時代の中にあっても、信仰と祈りを通じて地域と人々を支える存在であったことがわかります。
天照院の住職としての友沢家
その後、藤堂高虎公から祈願師としての力量と信仰の篤さが高く評価された友沢家は、高虎公の求めにより、新たに城下の守護と領内の安泰を祈願する役目を担うため、「天照院(現:龍仙寺)」の住職として小泉村に移住することになりました。
さらに友沢家は、東京ドームのおよそ4分の3にあたる広さの「田地三町六反(約35,000平方メートル)」を賜り、天照院は将軍や大名、さらには天皇や公家からも祈禱を命じられる「御祈願所」として指定されました。
このことから、この時代において、友沢家と天照院(現:龍仙寺)」の地位は、非常に高いものであったことがわかります。
「仙寿院」修験道の開祖を記念して改称
元禄十二年(1699年)、天照院は、修験道の開祖として知られる役行者(えんのぎょうじゃ)の一千年忌を記念し、その教えと精神を讃えるため、「仙寿院(現:龍泉寺)」と改称されました。
この改称の背景には、修験道の精神を引き継ぎ、役行者の教えを象徴する霊場としての役割を改めて示そうとする意図があったと考えられます。
「仙寿院」の消滅
しかし、元禄十三年(1700年)、仙寿院は火災により全焼してしまいました。
その後も再建はほとんど進まず、時の流れとともに寺は長い衰退の時代に入ります。
さらに明治時代に入ると、神仏分離や廃仏毀釈の波が全国の寺院を襲い、仙寿院もその影響を大きく受けました。
明治12年(1879年)にはついに無住(住職不在)となり、寺院としての機能をほとんど失います。
そして「仙寿院」という名も正式に抹消され、かつて修験道の霊場として栄えたその姿は、歴史の中に静かに消えていったのです。
真言宗醍醐派による寺院の再興
それでも、地域の人々の間には、この霊場を再びよみがえらせ、かつての祈りの場を取り戻したいという強い願いがありました。
その動きの中心となったのが真言宗醍醐派です。
真言宗醍醐派
真言宗醍醐派は、京都にある醍醐寺を根本道場とする真言宗の一派で、密教の教義と厳密な修行、儀礼の伝承を重んじる宗派です。
醍醐寺は平安時代の貞観16年(874年)、弘法大師(空海)の孫弟子・聖宝理源大師(しょうほうりげんだいし)によって開創され、密教の根本道場として現代までその教えと修行を伝えてきました。
真言宗醍醐派の特色は、密教の根本教義である「三密の行」(身・口・意の調和)を実践し、祈りや修法を通じて仏と一体となり衆生済度を目指すことにあります。
特に、山岳修行や祈祷の伝統を重視し、修験道や神仏習合の精神とも深く結びつきながら、日本の霊場文化や信仰文化を支えてきました。
「真言宗醍醐分教会」寺院の再興
この醍醐派の精神に基づき、明治36年(1903年)、教義や修法を地域に広め、信仰を育む布教・活動拠点として「真言宗醍醐分教会」が設立されました。
ここから、寺院の本格的な再興への歩みが新たに始まりました。
「石鈇山龍泉寺」大洲市の“龍泉寺”を移転
大正元年(1912年)、愛媛県喜多郡滝川村(現・大洲市)にあった龍泉寺が、仙寿院の跡地に移転されました。
さらに大正4年(1915年)には現在に続く新たな本堂が建設され、寺院としての姿が整えられました。
この移転・再建にあたって山号は「石鈇山(いしづちさん)」と改められ、寺院は石鈇山龍泉寺として新たな歴史を歩み始めました。
石鎚山とは
石鎚山は、四国地方に位置する西日本最高峰(1,982m)の霊峰で、古代より山自体が御神体される「神の山」として深い崇敬を集めてきました。
その信仰は、自然そのものに神が宿るとする日本古来の自然崇拝に始まり、やがて仏教、特に修験道と融合することで、石鎚信仰と呼ばれる独自の霊峰信仰が形成されました。
奈良時代には石鎚山は修行道場として栄え、修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)や、弘法大師空海もこの山で修行を行ったと伝えられています。
神仏習合が盛んだった中世には、「石鎚大権現(いしづちだいごんげん)」として神と仏が一体となった存在が祀られ、石鎚山は全国から修験者や信仰者が集う霊場としての地位を確立しました。
山頂に至る登山道には、現在も「鎖場(くさりば)」と呼ばれる鉄鎖を使った急峻な登攀道があり、修験者や登拝者はこの鎖場を越えることで心身を清め、神仏との一体化を願う修行を行ってきました。
そして毎年7月に行われる「お山開き」の神事には、全国各地から数多くの参拝者や修行者が集い、石鎚山の霊力にあやかろうと険しい道を登り、祈りを捧げています。
石鎚山の表記の変遷
石鎚山は、古くからさまざまな表記で記録されてきました。
平安期や中世の文献には「石鈇山」「石槌山」「石土山」などの表記が見られ、明治維新後、明治3年(1870年)の神仏分離令の中で「石鉄山」という表記が公的に用いられるようになりました。
その後も宗教政策の変化や地域の意向が反映され、明治35年(1902年)頃からは「石鎚山」の表記が広まり、公文書や地図でもこの名称が一般化していきました。
石鈇山を山号とする龍泉寺もまた、このような石鎚信仰の歴史や精神を受け継ぎ、石鎚山を霊峰として敬いながら、今も地域の祈りの場として人々の信仰を集め続けています。
「泰山寺の奥の院」としての龍泉寺
こうして復興を果たした龍泉寺でしたが、別の課題に直面しました。
創建から続く長い歴史の中で寺を管理し続けた友沢家でしたが、最終的には寺の細かな知識やしきたりを知るのは一人のお婆さんだけになり、そのお婆さんが亡くなると後継者がいなくなってしまいました。
このため寺の維持が困難となり、最終的には近隣の泰山寺が龍泉寺を管理することになり、「奥の院」として位置付けられるようになったのです。
龍泉寺の見どころと信仰の象徴
一方、霊場としての大切な精神は今も変わることなく受け継がれています。
龍泉寺の本堂には、等身大の「十一面観世音菩薩」が安置され、さらに石の大厨子には「弘法大師像」が祀られています。
十一面観世音菩薩は、人々の苦しみや願いを救う仏として信仰されており、等身大の像が本堂の中心に据えられていることは、その信仰の重要性を象徴しています。
また、弘法大師(空海)像が祀られていることで、真言宗の密教思想と修行の伝統が龍泉寺に深く根付いていることがわかります。
弁財天と銭洗い信仰
本堂の前には、福神仰の弁財天を祀った小さな祠があり、庶民から「銭洗い弁天」として親しまれてきました。
この弁財天は、特に江戸時代から信仰を集め、財運や商売繁盛を祈願する人々が多く訪れる場所として知られています。
弁財天は、日本では財運や音楽、知恵の神として崇拝されており、この小祠も人々の信仰の場として長年にわたり地域に根付いています。
「銭洗い弁天」という名の通り、ここではお金を洗い清めることで財運が向上すると信じられており、今も多くの参拝者が訪れています。
「十一面観世音菩薩の鏝絵」
本堂正面の壁には、「鏝絵(こてえ)」と呼ばれる珍しい円形漆喰塗りの「十一面観世音菩薩」の額が掛けられています。
この鏝絵は、1917年(大正6年)に左官職人の井出重太郎によって作られた作品です。
鏝絵とは、漆喰を素材にして、左官職人が「こて」と呼ばれる道具を使い形を作り出すレリーフ(浮き彫り細工)のことです。
この技法は一般的には建物の装飾に多く用いられますが、仏像を描いた鏝絵は非常に珍しく、現存する例はほとんどありません。
その希少性と美術的価値の高さから、テレビや新聞などでもたびたび紹介され、地域の文化財として大切に守られています。
御朱印はコーヒの店「阿奈波」
龍泉寺の御朱印は、隣にあるコーヒー店「阿奈波」で受け取ることができます。
この店は「今治で一番小さいコーヒーの店」として知られており、訪れる際には独特な風情を楽しむことができます。
不定休で営業しているため、訪問の際は事前に確認することをお勧めします。
友沢家の名残
そして、「友沢池」や今治南高校の果樹園周辺の「友沢谷」など、かつて龍泉寺を管理していた友沢家の名残は、今も地名となってこの地の歴史とともに生き続けています。