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神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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TEMPLE寺院の歴史を知る

西方寺(今治市・富田地区)

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戦乱を越えて受け継がれた信仰

今治市の今治ワールドプラザに隣接する「西方寺(さいほうじ)」は、長い歴史の中で幾度もその姿を変えてきた寺院です。

かつては朝倉地区・野々瀬にあった「普拝山西福寺(さいふくじ)」を起源とし、武士や領主、そして地域の人々の暮らしと深く結びつきながら、その信仰を受け継いできました。

戦乱や時代の移り変わりに翻弄されながらも、西方寺は再び立ち上がり、新たな拠点を得て、現代へとつながる歩みを重ねています。

河野一族から仏門へ。西方寺のはじまり

西方寺の歴史は、伊予国を統治していた河野氏の一族で、笠松城主だった岡武蔵守光信の六男、松若丸が仏門に入ったことから始まります。

松若丸は、幼少期から仏教に対する強い関心を持ち、精神的な探求を求めて高僧・玄宥上人(げんゆうじょうにん)に弟子入りしました。

宥学上人は、律宗の厳しい戒律を忠実に守り、弟子たちにその教えを広めてきた高名な僧侶であり、松若丸にとって理想的な師匠でした。

宥学上人の下で松若丸は、律宗の教えに従って厳しい修行を重ね、戒律を守る精神を養いました。

「普拝山西福寺」の創建

修行を終えた松若丸は「浄蓮律師(じょうれんりっし)」という名を授かり、立派な律宗の僧侶となると、自ら寺院を建立することを決意しました。こうして朝倉村野々瀬の地に新たな寺院を創建します。

これが「普拝山西福寺(さいふくじ)」のはじまりです。

その後、西福寺は律宗の厳しい戒律に基づいて僧侶たちが修行を重ねる道場としての機能を果たす一方、地域の人々からも厚い信仰を集め、やがて宗教的な中心地として確かな地位を築いていきました。

松若丸の志を継いだ僧侶

松若丸には、円祐(えんゆう)という優秀な弟子がいました。

円祐は、朝倉村の「白地城(南越山城)」の城主・日浅阿波守の次男として生まれましたが、若くして西福寺に出家し、松若丸のもとで修行を重ねました。

そして松若丸が亡くなると、円祐が後継者として西福寺を引き継ぎ、およそ20年にわたって住持を務めました。

この期間に、寺院としての制度や信仰の体制が整えられ、西福寺の基盤は大きく固められていきます。

寺の院号を「西方院」、坊号を「東光坊」と定め、また本尊として阿弥陀如来を安置するなど、浄土信仰に基づく体制が確立されました。

寺で毎日撞かれていた鐘の音は、近隣の笠松城にまで響き渡り、地域の人々にとっては、暮らしの時間を告げる合図として、日常生活に欠かせない存在となっていました。

このような地域の深い結びつきの中で、この地を治めていた河野氏からは、永代寺領として100石が寄進され、さらに毎月の灯明銭として3貫文が支給されるなど、寺は経済的にも安定した基盤を築いていきました。

こうして、円祐のもとで信仰と制度の両面が整えられた西福寺は、地域社会に深く根ざした寺院として、宗教的・社会的な役割を果たし続けていきました。

しかし、この安定は永遠には続きませんでした。

西福寺を支えていた河野氏を巡って、歴史が大きく動き出したのです。

それが、豊臣秀吉による「四国攻め」です。

「四国攻め」西福寺にも迫る戦乱の影

天正13年(1585年)、天下統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、四国を平定するため大軍勢を伊予国へと向けました。

この時、伊予方面軍を率いたのが小早川隆景(こばやかわ たかかげ)でした。

伊予に入った小早川軍は、数万の兵を率いて一気に河野氏の本拠・湯築城を(現:道後公園)包囲しました。

この大軍勢に取り囲まれた河野氏は湯築城に籠城し、必死に抵抗しましたが、最終的に小早川隆景の降伏勧告を受け入れ、およそ1カ月後に開城しました。

これによって、河野氏は滅亡することとなり、伊予国を統治してきた長い歴史はここに終止符が打たれました。

そして、河野氏の庇護を受けていた西福寺も戦乱の影響を受け、存続が危ぶまれる状況となりました。

福島正則の宗教再編

その後、河野氏に代わって豊臣政権下で伊予の統治を任されたのが、豊臣家の重臣・福島正則(ふくしま まさのり)です。

当時、伊予国の湯築城(現・松山市)には、豊臣秀吉の腹心である小早川隆景が在城していましたが、天正15年(1587年)、隆景は筑前・筑後(現・福岡県)という九州方面の要地へ転封となりました。

これにより、湯築城には福島正則が入城し、伊予国の統治を担うこととなったのです。

しかし、湯築城はもともと中世的な構造を持ち、戦国後期の軍政や城下町の形成には不向きな点が多く、正則はより戦略的な拠点を求めました。

その結果、わずか一年後の天正16年(1588年)に、国分山(唐子山)の「国分山城(国府城・唐子山城)」へと本拠を移しました。

福島正則はこの地を拠点として、伊予における本格的な領国経営を始め、交通網の整備、農地の検地、村落の再編といった施策を進める一方で、宗教勢力の統制・再編成にも着手しました。

この中で、西方寺の前身である「西福寺」もその例外ではなく、福島正則の時代に大きな転機を迎えることになります。

不遠山西方寺の誕生

岡武蔵守光信の末裔・彦太郎が、江戸時代初期の有力武将・福島正則から200石を与えられたことをきっかけに、 西福寺は「不遠山西方寺(ふおんざん さいほうじ)」と寺号が改められました。

そして、宗派を律宗から浄土宗へと転宗して阿弥陀如来を本尊として安置し、現在の今治市東村に移転されることになりました。

これが、現在の西方寺の姿へとつながっていきます。

拝志城の跡地に根づく西方寺

実は、移転先の地には、かつて拝志城(はいしじょう)という城が築かれていました。

関ヶ原の戦い(1600年)で東軍が勝利すると、徳川幕府のもとで日本各地の領地再編が進みました。

伊予国では、藤堂高虎(宇和島城主)と加藤嘉明(松前城主)がそれぞれ領地を分割し、今治の府中平野には藤堂家と加藤家の所領が混在することになりました。

やがて藤堂高虎は来島海峡を一望できる沿岸部に新たな城「今治城」を築き、養子の藤堂高吉を城代に据えました。

一方、加藤嘉明は藤堂家の勢力を牽制するため、今治の拝志郷に拝志城を築き、弟の加藤忠明を城代に任命しました。

こうして今治の地には、藤堂家の今治城と、加藤家の拝志城が対峙する形となり、互いに牽制し合う緊張状態が生まれました。

しかし、この状態は長くは続きませんでした。

元和元年(1615年)、江戸幕府は戦国の世に終止符を打つため、「一国一城令」を発布し、全国の諸藩に対して、原則として一つの城のみを残すよう命じました。

これにより、日本全国の数多くの城が廃止対象となり、拝志城も正式に廃城が決定されました。

城の管理や維持体制は解体され、戦略的価値を失った拝志城は町奉行の管理下に置かれることとなりました。

さらに、寛永12年(1635年)には拝志が今治藩の領地となり、5年後には今治城下の港湾整備にともなう石垣補修のために、拝志城は取り壊され、その石材が再利用されることになりました。

このように、かつての拝志城の跡地や城下町が時代とともに姿を変えていく中で、西方寺はこの地に移転・建立され、新たな歴史を刻み始めました。

今に残る拝志城の記録

拝志城の遺構は、現在もいくつかの場所に残されています。

城跡には、かつて田窪工業所の工場が建っていましたが、現在はショッピングセンター「ワールドプラザ」が建設されています。

この敷地内には、拝志城の一部が含まれており、特に海側には、城の防御施設であった堀を転用したと思われる水路が現存し、当時の面影をとどめています。

西方寺の境内にもその名残が見られ、最後の城主である堀部主膳の供養塔が建てられており、拝志城の歴史を今に伝えています。

「若葉保育園」の仏教保育

江戸時代、律宗から浄土宗へと宗派を改め、阿弥陀如来を本尊とする信仰の場として歩みを続けてきた西方寺は、時代とともにその役割を変化させながら、地域社会に深く根ざしてきました。

そうした取り組みの一つが、昭和25年(1950年)に境内に設立された「若葉保育園」です。

「若葉保育園」は、単に幼児の預かり保育を行う場ではなく、仏教の教えを基盤とする「仏教保育」を実践する場として誕生しました。

仏教保育とは、特定の宗教的儀礼や教義を押しつけるものではなく、仏教の根本にある「慈悲の心」「感謝」「生命尊重」の精神を、子どもたちの日常の生活の中に自然なかたちで育むことを目指しています。

たとえば、食事の前に「いただきます」と手を合わせること一つをとっても、食物やそれを育ててくれた自然、料理をしてくれた人々への感謝を学ぶ時間となります。

また、動植物を大切にし、友達に思いやりをもって接することなど、仏教の精神に基づいた人格形成が重視されます。

昭和43年(1968年)には現在の地に移転し、昭和50年(1975年)には社会福祉法人としての認可を受け、地域の子どもたちの健やかな成長を支える体制が整えられました。

さらに平成12年(2000年)には日本財団の補助事業により新園舎が建設され、最新の設備と安全な環境の中で、地域の子どもたちが安心して成長できる場が提供されています。

こうして若葉保育園は、西方寺の精神を受け継ぎながら、時代の変化に寄り添い、地域とともに歩んできました。

これからも、子どもたち一人ひとりの心に仏の教えをやさしく灯しながら、未来を担う人材の育成と地域社会への貢献を静かに、そして力強く果たしていくことでしょう。

寺院名

西方寺 (さいほうじ)

所在地

愛媛県今治市東村1丁目15−36

宗派

浄土宗

山号

不遠山

本尊

阿弥陀如来

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