今治市の中心部には、「寺町」と呼ばれる地域があります。
ここは古くから寺院が集まり、今も多くの人々にとって大切な信仰の場となっています。
「西蓮寺(さいれんじ)」は、その寺町に建つ一寺として、長い年月を通じて地域に寄り添ってきました。
高台に建てられた小さな祈りの場
西蓮寺は、文亀元年(1501年)、浄土宗の僧・還誉上人によって建立されました。現在の場所ではなく、今治市近見の伊賀山、かつて相の谷古墳群が広がっていた、海を一望できる高台に建てられました。
創建当初の西蓮寺は、まるで小さな小屋のような質素な建物でしたが、海を見渡すその立地から、海上の安全や豊漁を願う漁民たちの厚い信仰を集め、やがて地域の人々にとって欠かすことのできない祈りの場となっていきました。
しかし、それから約100年後、藤堂高虎によって西蓮寺は現在の地「寺町」へと移されることになりました。
「寺町」藤堂高虎による移設
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける功績により、藤堂高虎(とうどう たかとら)は伊予国12万石を拝領しました。
当初、高虎は国府が置かれていた桜井地区の山城、「国分山城(国府城・唐子山城)」を居城としました。
この城は、かつて村上水軍御三家のひとつ・能島村上氏の第五代当主、村上武吉(むらかみ たけよし)が築いたとされ、瀬戸内海から伊予の内陸部へと進出するための戦略的な要衝として、戦国期を通じて重要な拠点とされてきました。
しかし、時代はすでに天下泰平へと向かう転換期を迎えていました。
山城よりも、海運に恵まれ、経済的・軍事的に優位な「港町」の構築が求められていたのです。
そして慶長七年(1602年)、藤堂高虎は海辺の地に新たな城の築城に着手します。
これが、後に「日本三大水城」として知られる今治城のはじまりでした。
「寺町」藤堂高虎による都市整備
藤堂高虎は今治城の築城を構想する中で、城下町の整備も着々と進められていきました。
その過程で、今治の中でも特に影響力のあった14の寺院が集められ、計画的に寺院群が配置されました。
西蓮寺はその14寺の一つとして、現在の地へと移されました。
これは、単なる寺院の再配置にとどまらず、江戸時代の城下町設計に見られる合理的な都市構想の一部でした。
それが、「寺町」と呼ばれる区域です。
防衛拠点としての寺町
寺町は、戦国時代が終わり、平和な統治が始まった江戸時代初期に築かれた各地の城下町において、防衛上の要地として整備された区域です。
戦乱の世が終わったとはいえ、それまで命懸けで戦ってきた大名たちにとって、「いつ何が起こるかわからない」という警戒心は簡単には消えるものではありませんでした。
そのため、江戸初期に築かれた城下町には、有事を想定した軍事的機能が備えられました。
寺院は本来、広い敷地、厚い土塀、石垣、瓦葺の大屋根を備える堅牢な施設で、戦国期までは砦として戦の拠点として利用されることもありました。
城から見て防衛上の弱点となる方角に寺町を設けることで、城を包み込むように守る緩衝帯となったのです。
これは、大坂城下の「天王寺町」、金沢城の「小立野寺町」、名古屋の「中村寺町」など、他の城下町にも共通する都市構造であり、今治でも例外ではありませんでした。
今治では、今治城を中心に武家屋敷や町人の暮らす町場が整備され、その外縁部、特に海からの侵入が想定される東側から北東側にかけての外堀外に、複数の寺院が集められて「寺町」が形成されました。
この配置により、海城としての構造的な脆弱性が補完され、城の防衛体制はより強固なものとなったのです。
統制のための配置と宗教勢力の管理
寺町には、宗教勢力を一括して管理・監視するという意図もありました。
戦国期までの寺院や神社は、膨大な荘園や経済力を背景に独自の軍事力や政治的影響力を持つ存在でした。
比叡山延暦寺や高野山などに代表されるように、武装化した僧兵を抱える宗教組織も少なくありませんでした。
江戸幕府は、そうした潜在的な勢力を警戒し、寺社は寺社町に集める、町人地とは切り離す、幕府の許可制とするなどの政策で、その動きを掌握しようとしました。
今治でも藤堂高虎は、町人の居住・商業空間と宗教空間を分離し、都市の秩序維持と統治の安定を図ったと考えられます。
信仰と生活の場、そして門前町へ
寺町は、庶民にとっての信仰の中心地でもありました。
江戸時代に檀家制度が整備されると、各戸が特定の寺院に所属し、葬儀・年忌法要・施餓鬼などの儀礼を通じて、寺との関係を深めていくようになります。
寺院は単なる宗教施設ではなく、家族や地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添う存在となっていきました。
やがて、寺町の門前には町屋が生まれ、そこに住む町人や職人たちによって様々な生業が営まれるようになります。
江戸中期以降になると、墓参を兼ねた行楽が盛んになり、寺町は信仰と娯楽が融合したにぎわいの場へと変貌していきました。
境内やその周辺には、和菓子屋、寿司屋、竹細工職人、写経屋などが軒を連ね、参詣客を迎える門前町の風情が生まれます。
人々は借家長屋に住み込み、職住一体のかたちで日々の暮らしと信仰を結びつけながら生活していました。
こうした生活様式の中で、いわゆる「下町的な生活文化」が息づくようになっていったのです。
今治の寺町においても、城の防衛線の一部でありながら、同時に民衆の信仰と暮らしが交差する独特の空間が成立していきます。
その町並みの原型は、この江戸中期から後期にかけて形成され、現代にまで連なる歴史の風景を形づくる礎となっているのです。
寺町への移転と境内の歴史的遺構
この流れの中で、西蓮寺は慶長5年(1600年)に現在の地「寺町」へと移され、新たに伽藍が建築されました。
移転の際、伊賀山にあった石造層塔も一緒に現在地へと移されました。
西蓮寺の境内には、そうした歴史の面影に加えて、詩人・杉浦清氏による詩碑や、俳人・正岡子規の句碑など文学碑があり、静かな境内に文化の香りを添えています。
また、かつて今治村の旧庄屋であった南家(みなみけ)の墓所も残されており、西蓮寺が地域の人々の暮らしと深く結びついてきたことを象徴する存在となっています。
樹齢約400年の壮大な榎木
かつて西蓮寺には、樹齢約400年の壮大な榎木(えのき)の大木がそびえていました。
江戸時代初期、現在の地に移された際に植えられたと伝わるこの榎木は、長年にわたり地域の象徴として人々の暮らしに寄り添い、「西蓮寺のシンボル」として親しまれてきました。
地域の思い出
榎木は古くから縁起の良い木とされており、小正月には枝に餅や紙飾りを結びつける「餅花(もちばな)」の風習に用いられ、豊作や無病息災が祈願されました。
また、榎木の空洞にたまった水は「霊眼水(れいがんすい)」と呼ばれ、眼病平癒を願う人々が訪れる信仰の対象ともなっていました。
さらに、榎木に房ようじや絵馬を捧げて歯の病の平癒を祈る風習もあったと伝えられています。
秋の訪れとともに実をつける榎木の赤茶色の実は、かつての子どもたちにとって格別のごちそうでした。
その素朴な甘さは、今も戦前の思い出として語り継がれています。
秋の子どもたちの楽しみ
この大木は、1945年の今治空襲という激動の時代もくぐり抜け、焼け野原となった町を見下ろしながら、その姿を変わらず保ち続けてきました。
当時を知る「生き証人」として、復興とともに歩んできた地域の人々の記憶に、深く刻まれた存在でもありました。
しかし近年、長年の風雪に耐えてきたこの榎木も腐朽が進み、ついに安全確保のための伐採が避けられない状況となりました。
時代を繋いだ運命
しかし、樹齢四百年を超える歳月の中で腐朽が進行し、ついには安全確保の観点から伐採を余儀なくされる状況となりました。
この決断は、多くの人々にとって非常に感慨深いものでした。
この榎木は、今治空襲の戦火を生き抜いた「歴史の生き証人」として、焼け野原となった町を見守りながら、この地で暮らす人々の復興の記憶とともに存在し続けたのです。
世代を超えて人々を見守ってきた大木との別れは、一つの時代の終わりを感じさせるものであり、大きな寂しさを伴いました。
それでも、地域の安全を守るために必要な選択として、住民は静かにこの現実を受け止めました。
伐採と受け継がれた記憶
そして迎えた伐採の日。
県内外から集まった樹木医たちは、長きにわたり人々の暮らしを見守ってきたこの大木に、深い敬意を込めて対峙しました。
作業は終始慎重に、まるで長年連れ添った友を見送るかのように進められました。
地域の人々もまた、その姿を静かに見守りながら、それぞれの胸の内で別れを告げました。
誰もが、この木と共に過ごした時代や思い出を抱きしめ、感謝の思いを込めて送り出したのです。
今では、かつてそびえていた大木の姿は見ることができません。
しかし、その存在が育んできた信仰、祈り、そして地域の記憶は、これからも西蓮寺の歴史とともに、静かに受け継がれていくことでしょう。