標高300mの作礼山(されいざん)の山頂近くにある四国八十八ヶ所霊場の第58番札所、「仙遊寺(せんゆうじ)」は、静寂の中にたたずむ歴史あるお寺で、
山の山頂付近にある仙遊寺からは、今治市の市街地や四国一高い今治国際ホテル、瀬戸内海に浮かぶ島々と、潮の流れが激しいことで知られる来島海峡(くるしまかいきょう)を一望することができます。
本堂は、荘厳でありながら落ち着いた佇まいを見せ、境内に足を踏み入れた瞬間から、心がゆっくりと鎮まっていくのを感じさせてくれます。
本堂は荘厳でありながら静かな佇まいを見せ、訪れる者の心を穏やかに鎮めてくれます。
そしてこの仙遊寺には、創建の由来に関わる歴史的背景と、古くから語り継がれてきた数多くの伝説が残されています。
仙遊寺の歴史
天智天皇(在位661〜672年)の勅願により、当時、伊予国司を務めていた越智守興(おち もりおき)は、瀬戸内海を一望する作礼山の頂に一宇を建立しました。
この堂宇は、「千光院」と称され、これが現在の仙遊寺の起源であると伝えられています。
越智守興とは
越智守興は、古代伊予を代表する豪族・越智氏の一族であり、史料によっては「小千守興(おちの もりおき)」あるいは「乎致宿禰守興(おちのすくね もりおき)」などの名でも記録されています。
守興は、この時代の宮中の警護を担う衛士を務めたほか、瀬戸内の海上交通を掌握する伊予水軍の指導者としても知られ、物流と国防の両面で重要な役割を果たしていました。
その越智守興が、日本史に名を刻むこととなったのが、663年に勃発した「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。
「白村江の戦い 」
「白村江の戦い」は、天智2年(663年)、朝鮮半島西部の白村江(現在の錦江〈クムガン〉河口付近)において、日本・百済の連合軍と、唐・新羅の連合軍との間で繰り広げられた大規模な海戦です。
戦いの発端は斉明6年(660年)、唐・新羅連合軍によって百済が滅ぼされたことに始まります。百済は当時、日本と文化・技術面で深い交流を持つ友好国であり、その再興を願った遺臣たちは日本に援軍を要請しました。
この要請を受けた斉明天皇は、中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに水軍を編成し、朝鮮半島への出兵を決定。
その際、水軍の大将に任命されたのが、伊予国司であり伊予水軍を統率していた越智守興(おちのもりおき)でした。
天智2年(663年)2月10日、斉明天皇は越智守興らとともに難波津を出港し、九州方面へ向かう途上で、大三島の大山祇神社に立ち寄り、戦勝祈願のために中国唐代の銅鏡「禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)」を奉納しました。
この鏡は、葡萄唐草と鳥獣文様が施された美しい白銅製で、戦いの安全と勝利を願う天皇の祈りの象徴とされています。
さらに一行は、瀬戸内海航路の重要拠点である朝倉郷(現:今治市朝倉)にも立ち寄ります。
当時の朝倉は遠浅の海と良港を有し、九州への中継地として戦略的にきわめて重要な場所であり、越智守興の拠点として安全面でも優れていたため、天皇の滞在地として選ばれたと考えられます。
この地で斉明天皇は約2か月半から3か月間滞在し、越智守興の警護のもと、地域豪族や住民と協力しながら兵糧や軍備の整備を進めました。
加えて、戦勝祈願を目的とした宗教的活動も積極的に行われ、この中でk無量寺、朝倉宮(現・矢矧神社)、須賀神社(朝倉南)、八幡大神社などの寺社が建立または整備されていきました。
これらの宗教的施設は、精神的な支柱であると同時に、住民の信仰を結集し士気を高める重要な役割を果たしました。
そして天智2年(663年)10月、白村江河口でついに両軍が激突します。
越智守興率いる伊予水軍は先陣を切り、勇猛に唐の艦隊へ挑みましたが、圧倒的な兵力と戦術を持つ唐・新羅連合軍により、日本の船団は火矢や重装船によって次々と撃沈されていきます。
連合軍の猛攻の前に日本・百済連合軍は壊滅し、朝鮮半島からの撤退を余儀なくされました。
この戦いにより、百済は完全に滅亡し、日本は朝鮮半島における政治的・軍事的な影響力を失うこととなりました。
越智守興はこの戦いで新羅軍の捕虜となりましたが、最終的には脱出に成功し、故郷・伊予国へと帰還したと伝えられています。
帰還の時期は大宝2年(702年)ともされており、戦後実に39年もの歳月を経ていたことになります(※諸説あり)。
こうした伝承を踏まえると、仙遊寺の前身となる堂宇(千光院)は、白村江の戦い以前の天智天皇の在位初期(661年〜663年10月)の間に建立されたものと推定されます。
山城(砦)としての仙遊寺
白村江の戦いで敗北した日本は、朝鮮半島における影響力を完全に喪失し、逆に唐・新羅による本土侵攻の脅威に直面することとなりました。
この未曾有の国難に対応するため、朝廷は国家規模での防衛体制の強化に着手します。
まず、唐・新羅の追撃に備えて、九州北部の筑紫(現在の福岡県)に大規模な防塁「水城(みずき)」を築き、のちに太宰府を中核とする西日本防衛の拠点としました。
さらに、瀬戸内海沿岸や近畿地方、対馬に至るまで、各地に朝鮮式山城と呼ばれる古代山城を築き、日本列島に広がる防衛網が形成されていきます。
このような情勢の中、仙遊寺のある作礼山(標高約300メートル)もまた、瀬戸内海を一望できる戦略的な高地であり、海上の動向を監視するには最適な場所でした。
そのため、この地にも城(砦)が築かれていたと考えられています。
また、山頂には天智天皇ゆかりと伝えられる五輪塔が現存しており、この地が単なる宗教施設にとどまらず、政治的・戦略的にも重視されていたことがうかがえます。
作礼山と同様に、永納山城(西条市・医王山)や近見山(今治市)などもまた、当時の防衛政策に基づいて築かれたとみられます。
白村江の敗戦がもたらした緊張感のなか、瀬戸内一帯は防衛ラインとして再編成されていった様子が、これらの山城群から浮かび上がってきます。
「仙遊寺」仙人が遊んだ寺
このようにして建立された千光院に、後に「阿坊仙人(あぼうせんにん)」と呼ばれる一人の修行僧が訪れました。
阿坊仙人は、天智7年(668年)より作礼山にこもって修行を続け、その間に堂宇を整え、七堂伽藍と呼ばれる諸堂を整備するなど、大きな功績を残しました。
そして、修行を始めてから40年後の養老2年(718年)、阿坊仙人は突如として姿を消します。
伝説によれば、その姿はまるで雲とともに遊ぶようにして、山中から忽然と消えてしまったといいます。
この神秘的な出来事は人々の記憶に深く刻まれ、「仙人が遊んだ寺」として語り継がれる中で、いつしか千光院は現在の寺名である「仙遊寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。
戦乱の時代と仙遊寺の変遷
仙遊寺は、その戦略的な立地ゆえに、源平の争乱、南北朝の動乱、戦国の戦いといった歴史の荒波に幾度となく巻き込まれてきました。
源平合戦の終盤、壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が滅亡すると、源頼朝は全国に守護・地頭を配置し、武士による支配体制が整備されます。
これにより中央の統制が地方へと及んでいきますが、その一方で各地では勢力の再編が進み、戦乱が相次いで発生します。
続く南北朝時代(14世紀)には、朝廷が南朝と北朝に分かれて全国的な内乱が続き、伊予の地でも軍勢の衝突が相次ぎました。
こうした緊張の中、仙遊寺がある作礼山も戦略的な要地とみなされ、山頂には砦や城郭が設けられ、軍事拠点として活用されていたと伝えられています。
やがて戦国時代(1467年〜1615年)に入ると、日本全土で戦が頻発するなか、各地で領主間の対立が深まり、地域の防衛や統治が重要な争点となっていきました。
伊予では、村上水軍が瀬戸内海の制海権を掌握し、海上の防衛網が着実に整備されていきます。
中でも、伊予国(現在の愛媛県)の守護を歴任していた河野氏率いる河野水軍(伊予水軍)、そして来島(くるしま)を本拠とした来島村上氏の存在は、海陸の防衛において欠かせない力でした。
こうした中で、仙遊寺のある作礼山は陸上における見張り台や警戒拠点としての役割を担い、海と陸の両面からなる地域防衛体制の一翼を担っていたと考えられます。
江戸から明治へ、仙遊寺の歩み
江戸時代に入ると、ようやく世は安定し、四国の街道や遍路道の整備が進められます。
仙遊寺も再び信仰の拠点として復興され、延宝2年(1674年)には本堂が再建されました。
ただし、それまでの戦乱によって多くの伽藍は失われており、貞享2年(1685年)の記録には、仁王門・大師堂・鐘楼といった主要な建物がすでに存在していなかったことが記されています。
その後も仙遊寺は再興と修復を重ね、明治時代初頭には宥蓮(ゆうれん)上人が山主となって再興を進めました。
宥蓮上人は明治4年(1871年)、日本最後の即身仏として入定しており、境内にはその供養のための五輪塔が静かに祀られています。
そして、上人の入定からおよそ70年後、今治は前例のない大きな戦火に呑み込まれました。
「今治空襲」今治を襲った未曾有の戦火
昭和20年(1945年)、終戦を目前に控えた4月26日、5月8日、そして8月5日から6日にかけて、今治市は米軍のB-29爆撃機による大規模な空襲を受けました。
なかでも、8月5日から6日にかけての夜間空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、木造家屋が密集していた今治の町は瞬く間に燃え上がりました。
この空襲により、市街地の約8割が焼失し、死者は575人以上、多くの市民が家族や住まい、暮らしのすべてを一夜にして失い、街は焼け野原と化したのです。
また、この空襲による被害は市民生活だけにとどまらず、今治の長い歴史の中で守り伝えられてきた数々の歴史的・文化的資産にも及びました。
別宮大山祇神社、南光坊、高野山今治別晥、寺町の隆慶寺、幡勝寺、大雄寺など、地域の信仰と文化の象徴であった神社仏閣や貴重な文化財が、一夜にして失われてしまったのです。
一方で、中心街から離れた作礼山にある仙遊寺は、この空襲の直接的な被害を免れました。
しかしその平穏は長くは続きませんでした。
山火事と文化財の喪失と復興
昭和22年(1947年)、今治が戦後の混乱から立ち直り始めていた矢先、仙遊寺を山火事が襲います。
この火災により、本堂をはじめとする堂宇の多くが焼失。
さらに、寺に代々伝わってきた貴重な仏像や建築物、歴史的文化財の数々、そして何よりも、伊予の歴史を伝える「仙遊寺文書」までもが灰となって失われてしまったのです。
しかし、仙遊寺はその悲しみの中から、すぐに復興への歩みを始めました。
地域の人々の支えと尽力により、再建のための努力が進められ、昭和28年(1953年)には本堂が、昭和33年(1958年)には大師堂が再建されました。
これにより、仙遊寺は再び信仰の拠点としての役割を取り戻したのです。
さらに、平成に入ってからは、山門や宿坊などの施設も整備され、参拝者が訪れやすい環境が整えられました。
こうして仙遊寺は、現代においても地域の信仰と歴史を静かに伝え続ける場として、大切に守られています。
境内に息づく祈りのかたち
仙遊寺の境内には、祈りのかたちが今も丁寧に息づいています。
修行大師像とお砂踏霊場
本堂の近くには、修行大師像が静かに祀られており、その周囲をぐるりと囲むように、四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した石仏が整然と並んでいます。
これは「お砂踏(おすなふみ)」と呼ばれる霊場で、すべての札所を巡ることが難しい人々のために設けられたものです。
それぞれの石仏の前には札所の名が刻まれており、順に巡拝することで、八十八ヶ所すべてを回ったのと同じご利益があると伝えられています。
千体地蔵
本堂の脇には、数多くのお地蔵様が並び祀られています。これらは昭和の中頃から、さまざまな願いを込めて人々が奉納してきたものです。
中央には、すべてのお地蔵様を見守るように弘法大師像が据えられ、訪れる人々の祈りを静かに受け止めてくれているかのようです。
裏山に点在する観音石仏
仙遊寺の裏山には、西国三十三所観音霊場を写した石仏群が静かに佇んでいます。
西国三十三所とは、近畿2府4県と岐阜県にまたがる三十三ヶ所の札所で構成される、日本最古の観音巡礼の道で、巡拝することで「満願」となり、極楽往生が叶うと信じられてきました。
ここ仙遊寺の裏山に整えられた三十三体の観音石仏もまた、そうした祈りの心を現代に伝えるための「写し霊場」として、多くの参拝者に親しまれています。
数多くの伝説に彩られた仙遊寺
長い歴史を刻む仙遊寺と周辺地域には、数多くの不思議な伝説や物語が語り継がれています。
観音像と竜女伝説
仙遊寺の本尊である「千手観音像(千手千眼観世音菩薩)」は、天智天皇が信仰していた念持仏として伝わる由緒ある仏像です。
この観音像は、高さ六尺(約180cm)の堂々たる姿で、松材の一木造りという技法で彫られ、平安時代末期の作風を示しています。
現在では、町指定の文化財として大切に保存されています。
「念持仏(ねんじぶつ)」とは、個人が日々の生活や修行の中で常に手元に置いて信仰する仏像を指します。
天智天皇も、この千手観音像を個人的に大切にし、祈りを捧げていたとされています。
そしてこの観音像にはある伝説が残されています。
伝説によると、ある日、竜宮にすんでいた竜女(仙女)が海から現れ、龍登川を遡って作礼山へと向かいました。
竜女はこの山で千手観音像を彫ることを決意し、一刀彫るたびに三度礼拝を捧げながら、慎重に彫刻を進めていきました。
そして幾日にもわたる作業の末、ついに立派な千手観音像が完成させました。
その後、竜女は再び龍登川を辿り、静かに海へと帰っていったといいます。
作礼山の由来と伝説
竜女が像の制作の時に一刀ごとに礼を捧げた行為から、山の名前は「作礼山(されいざん」と名付けられ、呼ばれるようになり、仙遊寺の山号になりました。
その時には、竜女が届けに来たという伝説もあります。
この山号「作礼山」は、貞享4年(1687年)に発刊された『四国辺路道指南』などの古い文献では「佐礼山」とも表記されていますが、地元の人々には「おされさん」として親しまれています。
また、仙遊寺の山号は「作礼山」ですが、観音菩薩の住居や降り立つ山としては「補陀落(ふだらく)」という言葉が使われます。
補陀落は、観音信仰における理想郷であり、観音菩薩が安置されている場所として霊的な意味を持つ名前です。
そのためなのか、山門には「補陀落山」という額が掲げられています。
竜女の桜「龍燈桜」
仙遊寺には、竜女にまつわるもう一つの伝説として「龍燈桜(りゅうとうざくら)」の物語が残されています。
伝説によれば、竜女は観音像を彫り上げた後、毎年旧暦の7月9日になると「竜燈」と呼ばれる不思議な光を伴って現れ、龍登川を伝って作礼山を登ってきたといいます。
その光は、決まったように仙遊寺の桜の木にかかるとされ、この桜は「龍燈桜」と呼ばれるようになりました。
文化14年(1817年)に発行された『今治夜話』という書物の中にも、7月17日の夜に湊黒磯から龍燈が出現し、海から龍登川をさかのぼり、仙遊寺の桜の木にかけられたという伝説が記されています。
この不思議な光の現象は、竜女の霊力や信仰と結びつけられ、地域の人々にとって神秘的な出来事として長く語り継がれてきました。
しかし、残念ながら、この桜は明治時代(1868〜1912年)に枯れてしまいました。
その後、昭和29年(1954年)に高野山の僧侶である金山大層正が、その跡地に立派な桜の木を植え、立派に成長していきましたが、虫害などによって再び枯れてしまいました。
現在、その桜の木は失われてしまっていますが、石碑が建立され、その伝説は今も語り継がれています。
病気を癒す伝説の井戸
仙遊寺には「お加持の井戸(弘法大師御加持水)」と呼ばれる伝説の井戸があります。
この井戸は、弘法大師(空海)が四国霊場を開いた際、仙遊寺を訪れたときに掘ったものです。
病気に苦しむ人々を救うため、空海が特別な祈りを込めて加持(仏の力を込めること)したところ、この水を飲んだ人々は次々と病が癒えたと伝えられています。
以来、この井戸は神聖な霊水として崇められ、、「お加持の井戸(弘法大師御加持水)」として信仰されてきました。
現在も、この井戸は旧参道の脇に残り、参拝者はその神聖な水に触れることで心身の浄化や健康を祈願しています。
この井戸は今もなお、多くの人々の信仰の対象であり、弘法大師の霊験あらたかな力を伝える象徴となっています。
五郎兵衛坂
仙遊寺の山道は、巡礼者や地元の人々が往来してきた信仰の道であると同時に、数多くの伝承を今に伝える歴史の道でもあります。
その中に「五郎兵衛坂(ごろべえざか)」と呼ばれる坂道があります。
むかし、仙遊寺には伊予守から奉納された立派な大太鼓がありました。
その太鼓の音はあまりに大きく、山を越えて桜井の海岸まで響き渡ったといいます。
ところが、この太鼓の音が原因で困っていた人物がいました。
桜井地区の漁師・五郎兵衛です。
音に驚いて魚が逃げ、漁にならないと怒った五郎兵衛は、ついに仙遊寺に登っていき、手にした包丁で大太鼓を破いてしまいます。
それだけでなく、仏に対しても罵詈雑言を浴びせ、乱暴な言葉を残して山を下り始めました。
しかし、その帰り道、細く急な山道を下っていた五郎兵衛は、足を滑らせて転倒し、持っていた包丁が自身の腹に刺さり、その傷がもとで命を落としてしまいました。
以来、この坂は「五郎兵衛坂」と呼ばれるようになり、この坂道を歩く時はきをつけてゆっくりと歩くようになったといいます。
犬塚池の伝説
仙遊寺の近くにある「犬塚池(いぬづかいけ)」には、昔から語り継がれる忠犬の伝説があります。
その昔、仙遊寺(58番札所)と栄福寺(57番札所)は一人の住職が管理していました。
この住職は一匹の黒い犬を飼っていて、その犬は非常に賢かったため、二つの寺の間を行き来する役目を果たしていました。
山の上にある仙遊寺で鐘が鳴ると、犬は素早く山を駆け登り、山の麓にある栄福寺で鐘が鳴れば、犬は急いで山を駆け下りて住職の元へ向かいました。
この犬は、寺の鐘の音に反応して、住職にその用事を伝えるという非常に利口な使いとして、二つの寺を忠実に行き来し、この微笑ましい光景は村人にも親しまれていました。
しかし、ある日、何らかの理由で仙遊寺と栄福寺の鐘が同時に鳴ってしまいました。この事に犬はどちらに向かうべきか迷い、混乱してしまいました。
焦った犬は、右へ行こうか左へ行こうかと何度も行き来するうちに、途中の池に誤って落ちてしまい、悲しくも溺れて命を落としてしまいました。
この出来事に心を痛めた村人たちは、忠実だった犬を弔うため、池のほとりに塚(お墓)「犬塚」を作りました。
そしてこの池は「犬塚池」と呼ばれるようになりました。
他の説では、仙遊寺と栄福寺にはそれぞれ異なるお坊さんがいて、犬は仙遊寺で飼われていたとされています。
この犬もやはり鐘の音を聞いて栄福寺と仙遊寺を行き来し、お坊さんの用事を伝えていました。
しかし、ある時、両寺のお坊は、この賢い犬が自分の寺の方を好んでいるのではないかと考え、互いに譲らなくなりました。
そして、どちらの寺を犬が好んでいるのかを試すために、夕方に同時に鐘を鳴らすことにしました。
犬はその鐘の音を聞き、どちらに行くべきか迷って何度も行き来するうちに、悲劇的にも池に落ちて命を失ってしまいました。
犬の死を知ったお坊さんたちは深く後悔し、犬のために池の土手に塚を作って弔いました。
こうして、この池は「犬塚池」と呼ばれるようになったと伝えられています。
由来はそれぞれですが、「犬塚池」は現在も仙遊寺と栄福寺の中間地点に位置し、池のそばには忠犬をしのぶ「犬塚」が残されています。
また、この犬塚池を通る道は、四国八十八箇所巡礼者が歩く遍路道の一部となっており、訪れる人々はこの場所で忠犬の物語を思い起こしながら歩みを進めています。