今治市富田地区・東村、頓田川の河口付近にある「真光寺(しんこうじ)」は、1300年以上の歴史を刻む古刹です。
瀬戸内の海と川に寄り添うこの寺院は、時代の変遷とともに数々の戦乱や災害を乗り越えながら、地域の信仰とともに歩み続けてきました。
仙遊寺の別当寺「新興寺」
白鳳元年(672年)、この地を治めていた豪族・越智守興(おちのもりおき)によって、仙遊寺(せんゆうじ)の別当寺として、拝志郷松原郷に一つの寺院が創建されました。
三蔵法師の弟子「道昭法師」
初代住職として招かれたのは、飛鳥時代の高僧・道昭法師(どうしょうほうし)です。
河内国丹比郡船連(現:大阪府堺市)で生まれた道昭(俗姓:船連氏)は、幼少のころに出家して奈良の元興寺(がんごうじ)に入って修行を積みました。
やがて、白雉四年(653年)、藤原鎌足の長男・定慧(じょうえ)とともに遣唐使として唐に渡り、中国仏教の中心地・長安の大慈恩寺で、「西遊記」の三蔵法師のモデルとしても名高い玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の弟子となりました。
玄奘のもとで法相宗の奥義と唯識教学を学んだ道昭は、玄奘のすすめもあって、さらに相州(現在の河南省)にある隆化寺に赴き、慧可禅師の弟子である慧満(えまん)から禅法を習得しました。
法相宗の寺院「新興寺(しんこうじ)」
帰国後、道昭は元興寺の一隅に禅院を建立し、法相宗の布教に力を尽くしました。
そして、白鳳元年(672年)、南海道を巡錫していた道昭法師は、拝志郷松原郷を訪れ、越智守興が建立した寺院にて、本尊開眼供養の導師をつとめました。
このことから、真光寺は本山は奈良の元興寺に置かれた、法相宗の寺院として開かれました。
また、創建当初の真光寺、奈良・元興寺と対をなす意味を込めて「新興寺(しんこうじ)」と称されていました。
「真光密寺」真言宗への改宗
平安時代に入ると、宇多天皇(在位:887〜897年)は真言密教への強い信仰から、新興寺を勅願所に指定しました。
これを受けて寺は真言宗へと改宗し、寺号も新興寺から「真光密寺(しんこうみっきょうじ)」へと改められました。
白鳳文化を伝える荘厳の寺
天皇の祈願を担う勅願寺としての「真光密寺(現・真光寺)」は、天下泰平と国家安寧を祈る密教の道場として大きな信仰を集め、当時の伊予地方においても圧倒的な宗教的・文化的影響力を持つ存在となりまし
その境内は東西91間(約164メートル)、南北65間(約117メートル)におよぶ広大な敷地を誇り、本堂、御影堂、多宝塔、大塔、三重塔、大門、鐘楼、経蔵、12の僧房が整然と配置されていました。
これらの伽藍のたたずまいや建築の細部には、奈良時代に花開いた白鳳文化の美意識が随所に反映されており、優美で気品ある雰囲気をたたえていました。
その荘厳な姿は、この地方を代表する密教寺院としてふさわしい威容を備えていたと伝えられています。
最大級の地域経済力
また、真光密寺は11の末寺を擁し、寺領は300貫に及んでいたと伝えられています。
この「貫(かん)」という単位は、古代・中世の日本において収入や土地の規模を示す基準として用いられていたもので、本来は銭貨の重さや価値を基準とした換算に由来します。
時代や地域によって数値の意味合いには幅がありましたが、江戸時代には、1貫が米およそ150キログラム(=1石の10倍)程度に相当するとされていました。
この基準で換算すれば、寺領300貫は米換算で約4万5000kg、現代で一般的な玄米30kg入りの米袋で計算すれば、実に約1,500袋分にもなります。
これは、寺院の運営費や僧侶の生活を支えるだけでなく、修行や仏事の継続、多くの参詣者を迎えるための設備維持にも十分な富と資源を持っていたことを意味します。
つまり、真光密寺は宗教的な拠点であると同時に、伊予地方における有力な経済的基盤を備えた一大宗教勢力でもあったのです。
「藤原純友の乱」焼け落ちた伽藍
しかし、その繁栄も平安中期に勃発した戦乱によって、大きな転機を迎えることとなります。
天慶2年(939年)、藤原純友が現在の愛媛県宇和島市に属する日振島(ひぶりじま)を拠点に海賊集団を組織し、瀬戸内海の制海権を掌握しはじめました。
これが後に「藤原純友の乱」として知られる一連の反乱です。
純友は元々、朝廷から任命された「伊予守(いよのかみ)=伊予国の国司」という官職にあった人物で、当初は伊予の治安維持や行政を担っていました。
しかし、朝廷からの十分な恩賞や評価が得られなかったことに不満を募らせ、ついには朝廷に対して反旗を翻しました。
この反乱は西日本各地へと広がり、とくに純友の勢力基盤であった伊予国では、社寺や集落が次々に戦火に巻き込まれ、大きな被害を受けました。
その中で、真光密寺(現・真光寺)も例外ではなく、かつての壮麗な伽藍は焼失してしまいました。
「新光寺」華厳宗として復興
その後、裕空上人(ゆうくうしょうにん)によって寺は再興されましたが、白鳳文化を体現していた往時の壮麗な姿を完全に取り戻すことは叶いませんでした。
しかし、鎌倉時代(1185〜1333年)になると、府中高橋郷(現・今治市高橋)出身で、華厳宗大本山・東大寺の学僧であった凝念国師(ぎょうねんこくし)が寺の復興に尽力します。
凝念国師の働きにより、寺は東大寺の戒壇院の一つに列せられ、正式な授戒が許される格式ある寺院としての地位を回復しました。
この時、寺は真言宗から東大寺を中心とする華厳宗(けごんしゅう)へと宗派を改め、寺号も「新光寺(しんこうじ)」へと改称されました。
以後、新光寺は再び地域の信仰を集める場として栄え、越智氏の後裔である河野氏の庇護を受けながら、伊予地方における華厳宗の一大拠点として、その名を広めていきました。
「世田山合戦の記憶」南北朝の戦火と真光寺
しかし、南北朝時代(1336〜1392年)には再び戦乱に巻き込まれました。
二つの朝廷から始まった動乱
南北朝時代(1336〜1392年)、日本は南朝(後醍醐天皇)と北朝(足利尊氏が擁立した光明天皇)に分かれ、長く激しい戦乱の時代へと突入しました。
延元元年(1336年)、足利尊氏が京都を掌握すると、後醍醐天皇は都を脱して奈良・吉野に潜幸し、「吉野朝廷(南朝)」を樹立します。
これを機に、南北両朝の正統を巡る争いが本格化し、全国の武士たちは二派に分かれて苛烈な戦を展開することとなりました。
細川頼春の伊予侵攻
南朝方が劣勢を強いられる中、後村上天皇は巻き返しを図り、新田義貞の弟・脇屋義助(わきや よしすけ)を南軍の総大将として伊予国へ派遣します。
興国三年(1342年)五月、義助は現在の香川県・塩飽島を拠点としていた塩飽水軍(しわくすいぐん)の船団に護送され、現在の今治市沿岸部に上陸。
国分寺(伊予国分寺)に入って軍勢の編成を進めようとしますが、到着後まもなく病に倒れ、わずか38歳で急逝します。
この報を受けた北朝方の阿波守護・細川頼春(ほそかわ よりはる)は、好機と見て総勢七千の兵を率いて伊予に侵攻。
川之江城を攻略し、千町ヶ原の合戦でも勝利を収めたのち、椎ノ木峠を越えて府中(現・今治市朝倉地域)へと迫りました。
真光寺に刻まれた戦の記憶
当時、南朝方は世田山城・笠松城を最後の拠点として死守しており、大館氏明(おおだち うじあき)・篠塚伊賀守・金谷経氏らが籠城し、徹底抗戦の構えを取ります。
細川軍は、頓田川畔の拝志郷(はいしごう)に位置する真光寺(当時の「海松山真光寺」)を本陣に据え、ここを中心に四十日を超える激戦「世田山合戦(1342年)」の幕が上がりました。
しかし、圧倒的な兵力差の前に南朝方はついに敗北。
将兵の多くが壮絶な戦死を遂げ、南朝方の武将・大館氏明(おおだち うじあき)をはじめとする十七人の家臣たちは、最後まで抵抗を続けた末に山中で切腹しました。
そん後、その首は真光寺へと運ばれ、本堂前にて首実検(戦死者の身元確認)が行われたと伝えられています。
大舘氏明の供養塔と祈り
本堂の東側には、伊豫守護大舘氏明公(大舘氏明)の供養塔が今も静かに建てられています。
この供養塔は、東村の壇言徒の発願によって建立されたもので、戦乱の記憶を今に伝える重要な史跡のひとつです。
塔の内部には、南北朝時代の戦いにゆかりのある各地から集められた祈願の土砂が納められているほか、当時の信仰の証として、祈願文や写経など百巻以上が丁重に収められています。
2度目の世田山合戦と真光寺の結びつき
南北朝の争乱が続く貞治3年(1364年)。
北朝方の実力者である細川頼之(ほそかわ よりゆき)が、伊予国に軍を進め、世田山城を拠点にしていた河野通朝(こうの みちとも)を攻めました。これが2度目の世田山合戦です。
当時、河野氏は北朝に転じていましたが、通朝が積極的に協力しなかったことを口実に、幕府から正式な討伐命令を取り付ける軍を動かしたとされます。
通朝は二か月にわたる籠城戦で奮戦しましたが、11月6日に落城して討ち死にしてしまいました。それから10日後、隠居していた父・河野通盛も病死してしまいました。
若き河野通堯の逃走と再起
通朝の嫡子の河野通堯(こうの みちたか・河野通直)は、合戦の中で竹林寺へと落ち延び、風早郡・恵良城移って元服しました。
そして貞治4年・正平20年(1365年)に、通堯は九州へと身を寄せ、細川氏に対抗するために懐良親王(かねながしんのう)に仕え、南朝方へ転じます。
応安元年・正平23年(1368年)、伊予に戻ってきた通堯は、細川勢との戦いを重ねて領地を次第に回復していき、ついには伊予を奪還し、河野氏の再興を成し遂げました。
真光寺と村上水軍の絆
南朝が細川勢を伊予から押し戻し、勢力の回復を図った際、瀬戸内海の制海権を強化するために、信濃の村上師清(むらかみ もろきよ)が起用されました。
村上師清は、後に能島・来島・因島の三家に分かれ、瀬戸内海に覇を唱えることになる村上水軍の祖とされる人物で、瀬戸内海における海上戦力の構図を大きく変える契機となりました。
村上師清と真光寺には深い繋がりがあり、師清の末男にあたる浄恵(じょうえ)は、後に新光寺(現・真光寺)の住持を務めました。
現在も残る真光寺の過去帳には、村上師清と浄恵の名がともに記されており、当寺が南朝の動乱の歴史、さらには村上水軍の系譜とも深く関わっていたことを今に伝えています。
『大般若経』
このような歴史の中で、真光寺には貴重な仏典が伝来しています。
その一つが、『大般若経』です。
『大般若経』は、建保5年(1217)および寛心4年(1246)に書写・校正された筆写本で、写経としても内容的にも極めて貴重なものとされています。
もともとは讃岐国多度郡の広善東寺に所蔵されていましたが、戦乱の影響や南朝とのつながりの中で、浄恵上人の代に真光寺へともたらされたと考えられています。
「真光寺」真言宗大覚寺派としてのあゆみ
さらに、戦国時代末期(1467〜1600年)には豊臣秀吉の四国征めが起こり、真光寺は再び戦火に見舞われ、またしても多くの建物が焼失してしまいました。
それでも信徒たちの強い支えによって再興されました。
天和元年(1681年)には京都・嵯峨の大覚寺の末寺となり、宗派としては真言宗大覚寺派に属することとなりました。
この時、寺号もそれまでの「新光寺(しんこうじ)」から現在の「真光寺(しんこうじ)」へと改められました。
明治の宗教改革を乗り越えて
明治時代に入ると、政府主導による宗教制度の大改革が始まりました。
特に明治元年(1868年)の「神仏分離令」は、それまで全国各地で根付いていた神仏習合の伝統を否定するものであり、これに続く廃仏毀釈の動きは、全国の仏教寺院に大きな打撃を与えることとなります。
真光寺もまた例外ではなく、こうした時代の急激な変化のなかで厳しい状況に立たされました。
しかし、地域の人々の篤い信仰と支えによって寺は存続し、その歴史と教えは絶えることなく受け継がれていきました。
頓田川の決壊…流された伽藍と甦る信仰
明治時代以降、真光寺は宗教政策の変化だけでなく、自然災害による深刻な被害にも見舞われました。
明治6年(1873年)8月、激しい豪雨によって頓田川の堤防が決壊し、濁流が真光寺の境内に流れ込みます。
本堂をはじめとする大伽藍が押し流され、かつての威容を誇った寺の姿は一瞬にして失われてしまいました。
このような甚大な被害の中、当時の住職・佐伯実雄和尚は、寺の再建と信仰の灯を絶やさぬために心血を注ぎ、困難な復興の道を歩み始めます。
「延命地蔵尊」祈りをつなぐ像
その志は、後の住職・菅宝厳(すが ほうごん)和尚にも受け継がれ、大正12年(1923年)には寺の再興と、地域の人々の延命利生(長寿とご利益)を祈念して、延命地蔵尊が建立されました。
この延命地蔵尊は、袈裟と法衣を身にまとった僧侶の姿をしており、左手に宝珠、右手に錫杖(しゃくじょう)を携えています。
柔和な表情と見事な彫刻は、建立当時の石工の技術の高さを今に伝えています。
錫杖はもともと真鍮製(しんちゅうせい)で、第二次世界大戦中の金属供出により鉄製へと置き換えられましたが、その信仰の対象としての存在は揺らぐことはありませんでした。
死者を導く仏、延命地蔵さんの霊験
伝承によれば、この延命地蔵は、死後の世界をさまよう魂に錫杖の音を響かせながら寄り添い、迷いや苦しみにとらわれた霊をやさしく導いて、安らかな世界へと送り届けてくれる存在だと信じられています。
こうした信仰の象徴として、自然災害という大きな苦難を乗り越えて建立されたこのお地蔵さんは、今日もなお「延命地蔵さん」として人々の篤い信仰を集め、地域にとって欠かせぬ祈りの場となっています。
【仮説】戦時下における宗教政策と真光寺の転宗
真光寺はかつて、京都・嵯峨の大覚寺を本山とする真言宗大覚寺派に属していましたが、高野山金剛峯寺を本山とする高野山真言宗へと転宗しています。
この宗派の変更について、明確な記録は残されていませんが、背景には大日本帝国が進めた戦時下の宗教統制政策があったと考えられます。
1930年代後半から太平洋戦争にかけて、政府は国家総動員体制の一環として、宗教団体の再編・統合を進めました。
仏教界においては、小規模な宗派や地方の末寺が整理され、より中央集権的な本山へと統合されていきます。
これは宗教を思想統制や国策の一環として機能させる、いわば「戦力化」の一環であり、宗教もまた戦時体制の枠内に組み込まれていきました。
そのような中で、地方色が色濃い大覚寺派から、組織的に整備された高野山真言宗への転属は、真光寺に限らず全国各地で見られる動きの一つでした。
実際に、朝倉地区の正善寺(しょうぜんじ)や光蔵寺も同様に高野山真言宗への転宗が行われており、地域全体で進められた宗派再編の一環だったと考えられます。