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神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

伝統×文化

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FEATURE

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TEMPLE寺院の歴史を知る

真光寺・新町(今治市・大西地区)

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庄屋・井手家が築いた、新町の歴史を語る古刹

「真光寺・新町(しんこうじ)」は、今治市大西町新町の歴史を語る上で欠かすことのできない寺院です。

真光寺・新町の歩みは、江戸時代この地域に大きな影響力を持った庄屋・井手家の歴史と深く結びついています。

寺院の創建から地域への貢献、そして近代以降の変遷に至るまで、真光寺・新町は地域の文化と暮らしを映す存在として長い歴史を刻んできました。

井手家とは?出自の謎を探る

井手家は、楠木氏(くすのきうじ)の末裔であると伝えられています。

そのゆかりを示すように、かつて屋敷を構えていた新町の「大庄屋井手家の屋敷跡」には、楠木氏の象徴として知られる菊水(きくすい)の家紋が今も残されています。

楠木氏は橘氏(たちばなうじ)から派生したとされていますが、その出自は必ずしも明らかではなく、奈良・平安期には河内国金剛山周辺を拠点とした武士団として知られていました。

鎌倉時代には河内の土豪として活動したという説のほか、商工業と関わりの深い隊商集団に由来するという説、あるいは武蔵国(利根川流域)に基盤を持つ武士団が鎌倉幕府得宗家の被官として西国へ移住したという説もあります。

鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』には、将軍の随兵として「楠木」を名乗る武士が登場しており、もとは東国の御家人であった可能性も示唆されています。

伊予楠木氏と楠木正成

さらに、南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)も、伊予橘氏の流れを汲んでいるとされています。

楠木正成は、後醍醐天皇に従い鎌倉幕府打倒に尽力した武将として広く知られています。

延元元年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」(現在の神戸市兵庫区付近)では、数万の足利軍を前にわずかな兵で奮戦し、壮烈な最期を遂げました。

その忠義と覚悟は後世に強い感銘を与え、「日本一の忠臣」と称えられるゆえんとなりました。

正成の死後、その忠節を偲ぶ機運は時代が進むほどに強まり、明治五年(1872年)、殉節の地とされる兵庫県神戸市中央区多聞通(旧・摂津国湊川)に、楠木正成(大楠公)を主祭神とする「湊川神社(みなとがわじんじゃ)」が創建されました。

「塩崎氏と楠公信仰」伊予に伝わる楠木氏の末裔

実は、愛媛にも楠木正成の御霊を祀る社が存在します。それが、西条市の楠神社(西条市玉津318-7)と、新居浜市の若宮神社(新居浜市新田町一丁目)です。

楠木正成が湊川で討ち死にしたのち、その末裔は各地に移り住んだと伝えられています。長子・正之(まさゆき)は転戦の中で伊予を本拠としたといわれ、これが楠木氏と伊予の縁の始まりとされています。

やがて七代目にあたる楠木正国が伊予国西条へ移住し、この地で「塩崎(しおざき)」姓を称したことが、現在の塩崎氏の起源とされます。

正国からさらに四代を経た楠木正浪は天正十三年(一五八五)の戦いで討死し、その子・正安は武士を離れて農に帰り、西条市神戸において楠木正成(楠公)を祀る楠神社を建立しました。

さらに正安の弟である塩崎利右衛門が新居浜市新田地区へ移り住み、開拓に尽力する中で、楠神社から楠公の御霊を分祀し、新居浜の新田の地に祀ったのが、現在の若宮神社になります。

井手家に伝わる「楠木氏末裔」という伝承も、こうした時代の流れの中で自然に形づくられていったものと考えられます。

確実な系譜史料こそ残されていないものの、武士団の末裔が地方で名主・庄屋として地域社会を支えていったという歴史的経緯を踏まえれば、その伝承は十分に実情に沿うものといえます。

河野氏との関わり

井手家の一族は、後に越智郡へ移り住み、伊予を代表する武家であった河野氏の家臣として仕えていたと伝えられています。

河野氏は、玉澄さんの大楠の根元に眠ると伝えられる越智玉澄(おちのたまずみ)を祖とする越智氏の後裔であり、古代から中世にかけて伊予の政治・軍事・海上交通を担った名門として知られています。

中世以降の河野氏は、瀬戸内海に強い影響力を持つ河野水軍を率い、さらに能島・来島・因島を本拠とした村上水軍とも結びつきを深めながら、伊予から瀬戸内海一帯の広域を視野に入れた海上体制を築き上げていました。

この体制は、航路の安全確保、兵糧や物資の運搬、沿岸の防備などに大きく寄与し、室町・戦国期において河野氏が伊予国の有力者として揺るぎない地位を保つ基盤となりました。

井手家が河野氏に属したという伝承は、越智氏・橘氏・伊予橘氏・楠木氏という歴史的・伝承的つながりとも親和性が高く、家の出自を語るうえで地域社会に自然に受け入れられていったと考えられます。

庄屋として地域を支えた井手家

しかし、天正十三年(一五八五)、豊臣秀吉による四国攻めによって河野氏が滅亡すると、井手家も家臣としての立場を失い、浪人の身となりました。

河野氏の庇護を失った武家の多くが伊予各地へ散った中で、井手家は旧越智郡八丁村(現・今治市八丁)に移り住み、しばらくは目立たぬ暮らしを余儀なくされたと伝えられています。

とはいえ、井手家の人柄、的確な判断力、そして武家として培われてきた統率力は、地域の人々から高い敬意を集め続けていました。

戦乱が終息した直後の農村では、安定した村政の運営が最も求められた時代でした。
・田畑の管理
・用水路の整備
・年貢の取りまとめ
・村内の争論の調停

こうした村の基盤を整える役割は、経験と責任感を兼ね備えた人物でなければ務まらないものでした。

井手家はまさにその適任役で、「どうか再び村のために力を尽くしてほしい」という声が自然に広まっていきました。

村人たちの切実な願いにより、井手家は再び村政の場へと招かれ、名主として地域の中心的存在へと復帰することになりました。

ここから井手家の再興はさらに大きく広がり、井手家の三兄弟はその後それぞれの村で重要な役割を担っていきました。

井手宗兵衛清長(長男)は跡取りとして八丁村の名主として活躍し、井手藤左衛門清氏(二男)は紺原村の名主となり、のちに村の守護神である素鵞神社・紺原を創建しました。

そして、井手清右衛門清吉(三男)は新町村の名主となり、のちに真光寺・新町を創建することになります。

松山藩の成立と井手家の発展

天正十三年(1585年)、加藤嘉明が六万三千石を与えられて伊予に入封したことで、松山藩の体制が形づくられていきました。

井手清右衛門清吉が名主を務めていた新町も松山藩野間郡に組み込まれ、以後は藩政のもとで行政・村政の再編が本格的に進められていきます。

文禄三年(一五九四)九月五日には、井手家をはじめとする地域の有力者が正式に庄屋役を命じられ、藩政組織の中核として位置づけられました。

このとき井手家には「三人扶持(ふち)」が与えられています。

三人扶持とは、三人分の生活をまかなうだけの扶持米(給与米)を藩から支給される待遇であり、庄屋としての責任と期待の大きさを示すものです。

当時、扶持米は家格や功績に応じて与えられるもので、三人扶持を受ける庄屋は決して多くはなく、藩が井手家を重んじ、村政運営の中心として信頼していたことがよくわかります。

井手家はこの頃から酒造業を営み始め、さらに自前の船を多数持つことで海上輸送の分野でも力を発揮していきました。

瀬戸内沿岸の村々では、船を所有して海運に通じた家は非常に強い影響力を持つものでしたが、その中でも井手家は頭ひとつ抜けた存在となり、野間郡でも指折りの名家として知られるようになっていきます。

加藤嘉明がのちに大坂冬の陣・夏の陣(慶長二十年・1615年)に参戦した際、井手家は軍用金の調達や御用船の提供を惜しみなく行い、藩に対して極めて大きな貢献を果たしたと記録されています。

この功績によって井手家の地位はさらに高まり、藩から特別な許可が下りました。

当時の農村では、防火の観点から瓦葺き屋根は厳しく禁じられており、天水瓶(てんすいがめ)を屋根に置くことも原則禁止されていました。これは城や代官所でさえ例外的な措置であり、一般の庄屋ではまず許されないものでした。

しかし井手家には例外として瓦葺きを施すことが認められ、さらに天水瓶の設置までが許可されました。これは藩が井手家をどれほど信頼し、功績を高く評価していたかを示す象徴的な出来事です。

井手家の屋敷は約四反(一二〇〇坪)もの敷地を持つ広大なもので、参勤交代の際には松山藩主の本陣(定宿)としても利用されるなど、野間郡屈指の名家としてその名を知られるようになりました。

井手清右衛門が築いた新町の祈りの寺・真光寺

井手家が庄屋として地域の信頼を確かなものにしていく中で、新町村の庄屋を務めていた三男・井手清右衛門清吉は、慶長年間(1596〜1615年)に入ると、新町の発展に欠かすことのできない大きな事業に取り組むことになります。

それが、真光寺・新町の創建です。

もともとは新町から離れた場所(現在の古寺地蔵堂の位置)に寺院が建てられていましたが、井手清右衛門清吉はその寺院を新町の中心へ移すことを決意し、移設に必要な費用や準備のすべてを自ら負担しました。

そして、井手家の「井」と清右衛門の「清」をとって山号に掲げ、「清井山浄雲院 真光寺」と名づけられました。

承応三年(1654年)には心誉秀道和尚を開山として迎え、こうして現在へと続く歩みが始まりました。

“古寺”とよばれた跡地の歩み

その後、寺院が移された跡地は、かつて寺院があった名残から「古寺(ふるでら)」と呼ばれるようになり、江戸時代に入ると松山藩はこの地を公式の処刑場として定めました。

以後、数百年にわたって多くの罪人がここで最期を迎えることとなり、古寺は土地の記憶の中に“死を見届ける場”として深く刻まれていきました。

明治二年(1869年)、井手家はこの地で命を落とした人々の霊を慰めるため、「大乗妙典一万一字」を刻んだ供養塔を建立しました。

一字ずつ経文を刻んで祈りを捧げるこの供養塔には、処刑された人々への深い哀悼と、忘れ去られてはならない歴史を地域に伝え続けようとする静かな決意が込められていました。

やがて古寺の地には、貞享三年(1686年)の飢饉と苛政の中、延喜村の人々を救うため命を賭して直訴し、最期をこの地で迎えた八木忠左衛門への感謝と追悼を込めて地蔵尊が祀られるようになりました。

この地蔵尊はのちに小堂として整えられ、かつての地名にちなみ「古寺地蔵堂・古寺地蔵尊」と呼ばれるようになりました。

井手家が去った地域に残されたもの

その後、井手家が県外へ転出したことで、庄屋屋敷として用いられていた建物は無住となりましたが、地域の歴史を伝える重要な建物として残されることになりました。

昭和九年(1934年)には大井村がこの屋敷を譲り受け、地域の公共施設として活用されるようになります。

昭和十八年(1943年)には内部構造や窓などに大規模な改修が加えられ、役場庁舎として再整備されました。

その後の町村合併を経ても利用は続き、大西町役場として昭和五十年(1975年)まで使われ、長らく地域行政の拠点としての役割を果たしました。

現在の建物は築後二百年以上と伝えられ、往時の庄屋屋敷の面影を今に伝える数少ない歴史的建造物のひとつとして知られています。

地域の変遷を静かに見守ってきたこの屋敷は、今日では「旧大庄屋井手家の屋敷跡」として親しまれ、その歴史的背景と存在感によって、新町・大西地域の歩みを象徴する場所の一つとなっています。

四百年を超えて生きる大樟

敷地内には、初代・井手清右衛門が新町に居を構えたのちに植えられたと伝わる大樟(おおくす)がそびえ立っています。

根回り約五メートル、樹高約二十五メートルに達する巨木で、樹齢は四百年以上とされています。

幹の力強さ、根の張り方、枝ぶりの大きさはいずれも壮観で、まさに井手家の歴史と新町の歩みを静かに見守ってきた“生きた文化財”といえる存在です。

大樟は今治市指定文化財に登録されており、その根元にはかつて一字一石の経塚が祀られていました。

真光寺に残された井手家ゆかりの史跡

真光寺・新町の境内には、井手家の歴史を今に伝える痕跡が数多く残されています。

寺院の裏手には、赤土の塀で囲まれた井手家の墓所が設けられており、名主・庄屋として地域に尽くした井手家の歴代の墓が静かに佇んでいます。

また、境内には村上水軍が誇る武人・田坂槍之佐(たさかやりのすけ)の墓所も残されています。

こうした屋敷跡・巨木・墓所の存在は、井手家が新町の発展に果たした役割の大きさ、そして真光寺・新町とともに歩んできた歴史の深さを静かに物語っています。

寺院名

真光寺・新町(しんこうじ)

所在地

愛媛県今治市大西町新町320

宗派

浄土宗鎮西派

山号

清井山

院号

浄雲院

本尊

阿弥陀如来

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