真福寺が守り続けた村の心
「真福寺(しんぷくじ)」は、愛媛県今治市菊間町中川にある真言宗豊山派の寺院です。
本尊は、奈良時代の名僧・行基上人(668〜749)作と伝わる地蔵菩薩坐像で、秘仏として大切に祀られています。
行基上人は、全国を巡って布教と社会事業を行い、橋や道を造るなど民衆のために尽力した高僧として知られ、その作と伝わる地蔵菩薩は村人にとって特別な信仰対象でした。
こうした本尊への信仰を中心に、真福寺は古くから西山村全域の檀那寺(檀家寺)として、葬儀や法要を司り、地域社会の精神的支柱としての役割を果たしてきました。
山里に生まれた真福寺
境内は静かな山里に囲まれ、すぐそばにはかつて山城があったとされる標高約297メートルの長者森(長者山)がそびえています。
山々に抱かれたこの地に根を下ろした真福寺は、古くから山岳信仰と深い結びつきを持ち、村人たちの祈りと暮らしを見守ってきました。
その起こりもまた、この土地の山々と深く関わっています。
寺伝によれば、文禄年間(1592〜1596)、祐善上人が長者森に連なる岩ヶ森の山麓に伽藍を建立したことに始まると伝えられています。
真福寺の創建と山岳信仰
真福寺の創建地とされる岩ヶ森は、標高412.8メートルの山で、愛媛県松山市(旧北条市)と今治市菊間町の境に位置します。
岩ヶ森と長者森はいずれも高縄山系の一部で、標高300〜500メートルの山々が連なる静かな山域にあります。
山間には北条と菊間、玉川を結ぶ県道が通り、沿道には昔ながらの山里が点在しています。
海沿いの国道196号線の喧噪から離れ、斎灘を望む穏やかな風景が広がるこの地は、古来より霊域として人々に親しまれてきました。
祐善上人はこの岩ヶ森の山麓に伽藍を建立し、高野山金剛三昧院から本尊として子安地蔵菩薩を安置しました。
子安地蔵は、安産・子育て・家内安全の守護仏として古くから広く信仰されてきた地蔵菩薩で、村人の生活と密接に結びついていました。
高野山金剛三昧院
高野山金剛三昧院は、和歌山県高野町にある高野山真言宗の別格本山で、鎌倉幕府二代将軍・源頼朝の菩提を弔うために建暦元年(1211年)、北条政子の発願によって創建されました。
創建当初は「禅定院」と呼ばれ、開山供養には臨済宗の祖である栄西が招かれました。
初代長老には退耕行勇が就任し、当時は密教・禅・律の三宗を兼学する学問と修法の道場として栄えました。
その後、正嘉2年(1258年)には、金剛三昧院で行勇に学んでいた心地覚心(のちの法燈国師)が西方寺に迎えられ、禅宗部門がそちらへ移されました。
これにより、金剛三昧院は以後密教寺院として再編され、さらに南北朝期に実融によって再興されると、律宗の教えにも力を入れるようになりました。
このように金剛三昧院は、鎌倉幕府と深く結びつきながら、高野山における教学と修行の中心地のひとつとして重要な役割を果たしてきた寺院です。
また、高野山は古来より山岳信仰と民間信仰の聖地として、多くの修行僧や参拝者を引きつけてきました。
霊峰・金剛山には、山を神仏の依り代とみなす信仰が深く根付いており、修行僧たちは山に籠もって厳しい行を積み、悟りを求めました。
金剛三昧院もその高野山の宿坊寺院として参拝者を受け入れ、勤行や護摩祈祷、写経などを行う場を提供してきました。
山を神仏の依り代とする信仰
日本では古代より、山は神が降り立つ場所・神仏の依り代として信仰されてきました。
山の頂は天に近く、俗世と異なる清浄な世界と考えられ、祭祀や修行の場として重んじられてきました。
特に中世以降は修験道が盛んになり、山中での厳しい修行によって悟りを開き、霊力を得ると考えられました。
修験者たちは山に籠り、峰入り・断食・護摩などの行を行い、村人たちの祈願や加持祈祷に応じていました。
真福寺の創建地である岩ヶ森も、こうした山岳信仰の霊域のひとつと考えられます。
高縄山系の山々に抱かれた岩ヶ森は、古来より人々が自然の霊威を感じ、畏れ敬う対象としてきた場所でした。
その山麓に開かれた真福寺は、山岳信仰の霊域に生まれた寺院として、地域の人々の祈りと暮らしを支えてきたのです。
霊峰・石鎚山と四国の山岳信仰
四国の山岳信仰を語る上で欠かせないのが、標高1,982メートルの霊峰・石鎚山です。
西日本最高峰である石鎚山は、古来より「西日本の御岳」と称され、蔵王権現(ざおうごんげん)を本地仏とする石鎚大権現(いしづちだいごんげんが祀られてきました。
石鎚大権現は修験道の守護神であり、厳しい修行を行う行者たちに力を授け、災厄を祓う存在とされました。
石鎚山では今もなお鎖場を登る登拝行が行われています。
これは単なる登山ではなく、命がけで山の頂を目指し、心身を清め、神仏と一体になるための宗教儀礼です。
石鎚山の信仰は江戸時代には庶民の間にも広まり、金毘羅信仰と並ぶ二大信仰として親しまれました。
石鎚権現と四大権現
近見地区の石中寺(いしなかでら)に伝わる伝承によれば、大宝元年(701年)、修験道の開祖・役行者(役小角)が伊予の地を訪れたといいます。
当時、石中寺は清水地区に建立されており、その境内には修行と祈祷の場として「不動院」と呼ばれる別院が併設されていました。
役行者はこの不動院に立ち寄り、孔雀明王・不動明王・愛染明王の三尊に祈りを捧げ、自らの修行の成就と人々の救済を願ったと伝えられています。
すると天空に五色の雲が立ちこめ、神々しい光の中から楢原・石土・豊岡・象頭の四大権現が姿を現しました。
- 楢原権現 … 今治市玉川町楢原山の霊神で、牛馬安全や雨乞い、農耕守護の神として信仰された。
- 石土権現 … 石鎚山そのものを神格化した霊神で、堅固不壊の力を象徴し、修行者を守護する存在。
- 豊岡権現 … 伊予郡の豊峰権現山に祀られる霊神で、五穀豊穣や水の恵みを司る守護神。
- 象頭権現 … 香川県琴平町の象頭山に宿る霊神で、山野の守護や海上安全を司り、金毘羅信仰とも結びついた。
役行者はこれを神意と受け止め、石中寺の僧とともに東の険しい山々を巡って霊域を探し求めました。
やがて石鎚山の瓶ヶ森において尊い霊感を授かり、この地こそが蔵王権現を祀るにふさわしい聖地であると確信しました。
そこで役行者は石鎚蔵王権現を祀り、以後石鎚山は修験道の霊峰として全国に知られるようになりました。
今日もなお、石鎚蔵王権現は西日本随一の霊神として信仰され、石鎚山登拝は修験道の伝統を伝える重要な行として続けられています。
江戸時代と石鎚信仰の広がり
江戸時代に入ると、石鎚山への登拝は庶民にも広く開かれるようになり、山岳信仰は地域社会の暮らしの中に深く根づいていきました。
村々では「石鎚講」や「お山講」と呼ばれる講中組織がつくられ、講員たちは年ごとに順番で登拝に参加し、山上での祈願を終えると護符や御神酒を持ち帰り、村人たちに分け与えました。
これによって、山に登れない人々も霊験を受けられるようになり、信仰が村全体に浸透していったのです。
講中の活動は単なる参拝にとどまらず、村の年中行事の一部として定着していました。登拝の前には講中宿で身を清め、精進料理を食し、出立の法要を受けました。
帰村するとお札や御神酒が配られ、講員や村人が集まって直会を開き、祈願の成就を喜び合いました。
こうした共同体的な営みは、村人たちの結束を強める役割も果たしていました。
前神寺が広めた石鎚信仰
この信仰の普及に大きな役割を果たしたのが、石鎚山麓の前神寺です。
前神寺は講中の組織化と普及に尽力し、石鎚信仰を四国各地に広めました。
また、前神寺が四国霊場第64番札所であったため、ここに参拝した高野聖や四国遍路が、さらに石鎚信仰を各地へと伝えていきました。
野間郡唯一の先達所・真福寺
この石鎚信仰の広がりの中で、延宝4年(1676年)には石鎚山登拝の先達所が東中予で63か所指定されましたが、野間郡から選ばれたのは中之川の真福寺ただ一寺でした。
先達所は、登拝者の出発点として祈願や加持を行い、登拝の作法や道中安全を指導する重要な拠点です。
真福寺が選ばれたことから、この寺が野間郡における石鎚信仰の中心的役割を果たしていたをことがわかります。
「権現さん」長者森と石鎚信仰
中でも、長者森(長者山)は古くから霊域とされてきた場所で、山頂には石鎚大権現を祀る権現社がありました。
現在も、地域の人々は親しみを込めて長者森を「権現さん」と呼び、山を仰ぎ見ながら日常の祈りを捧げてきました。
『天明寺社根本帳』には「付属堂庵 長者石鉄山 石鎚大権現 石之宮 安永元年建築」と記されており、1772年の江戸中期には社殿が整備されていたことが確認できます。
この記録から、長者森は当時すでに「長者石鉄山」と称され、石鎚山の霊威を宿す山として崇められていたと考えられます。
また、権現社は「石之宮(いしのみや)」とも呼ばれ、村人たちが石鎚山そのものの神霊を里近くで拝むための「里宮」として機能してたとみられます。
遠く石鎚山へ登拝できない村人にとって、ここで祈りを捧げることは山上参拝と同じ功徳を得るための大切な信仰行為だったのでしょう。
石鎚信仰を支えた真福寺
別当寺とは、神仏習合の時代に神社に付属して祭祀を司った寺院のことで、神社と一体となって地域の信仰を支える役割を果たしていました。
真福寺もまた、仏教行事にとどまらず、村人たちの精神的な拠り所として、季節ごとの祈りや共同体の結束を支える中心的存在だったのです。
元禄年間の火災と再建
その後、元禄年間(1688〜1704)の火災により伽藍は焼失しましたが、宥俊上人が現在の場所へ移転して再建したと伝えられています。
この移転・再建は、単なる再建にとどまらず、地域社会において再び信仰と生活を支える中核としての役割を取り戻す大きな契機となりました。
真福寺はこうして再興を果たし、江戸時代以降も檀那寺として西山村の人々の生活と信仰を支え続けました。
しかし、明治7年(1874年)、当時の住職・古川泰雅は不義理を働き、寺を去って逃げるように行方をくらました。
このことから、真福寺は一時的に無住(住職不在)の状態となり、村人たちは葬儀や法要の執行に大きな不安を抱えたと考えられます。
寺の運営や檀家制度にも混乱が生じ、地域社会における精神的支柱としての役割は一時的に弱まりました。
それでも寺は廃絶することなく維持されました。
明治13年(1880年)には鹿児島県からの公式照会に応じて、中川村戸長・長野寛吾が「古川泰雅は真福寺第15世住職であった」と証明した記録が残されており、寺格は守られ続けていたことがわかります。
地域に受け継がれる祈りと歴史
現在、真福寺は無住寺院となっていますが、檀家や地域の人々によって境内や祠、墓地が守られ、先祖を弔う祈りの場として今も静かに息づいています。
そしてこれからも、背後にそびえる長者森とともに、地域の歴史と信仰を象徴する存在として大切に語り継がれていくことでしょう。