瀬戸内海は、古来から「海の道」として、物流や軍事の要衝でとして、数多くの海城や砦が築かれ、海と共に生きた人々の営みが刻まれてきました。
その中でも、瀬戸内の制海権を握った村上水軍の存在は、歴史の舞台に大きな足跡を残しています。
波方地区に鎮座する「潮早神社(しおはやじんじゃ)」 は、そうした村上水軍の栄華と終焉の物語を静かに今に伝える神社です。
この地は、来島村上氏が築いた防衛拠点「潮早砦」の跡地にあたり、かつては潮流急な来島海峡や波方浦(野間郡)を見下ろし、海上交通の安全と沿岸防衛を担った要衝でした。
今では砦の姿は失われましたが、その跡に建つ潮早神社は、海の守り神としての祈りを今に伝え、地域の人々の心の拠り所であり続けています。
「潮早稲荷大明神」潮早神社と樋口地域の問題
潮早神社の創建は、樋口地域の独自の地形と、瀬戸内海の潮流・海上交通が海との深い関わりに根ざしています。
かつてこの地域は、現在のような陸地ではなく、瀬戸内海の海水が深く入り込む入り江や干潟、浅海のような地形でした。
潮の満ち引きにより、九王方面(現在の大西町)や波止浜方面から勢いよく海水が流れ込んできました。
この潮の流れは、漁業や舟運、塩田に恵みをもたらす反面、時に大きな高潮や洪水となって家屋や田畑を押し流し、人々の暮らしに深刻な被害をもたらすこともありました。
そこで、人々はこうした潮の流れを鎮め、海とともに穏やかに暮らせることを願い、社を建て始めました。
弘安7年(1284年)、社殿は無事に完成し、猿田彦命(さるたひこのみこと)をお祀りして、潮早稲荷大明神としてこの地の氏神様としたのです。
これが、潮早神社の始まりになります。
祭神「猿田彦命」
潮早神社の主祭神である 猿田彦命(さるたひこのみこと) は、日本神話に登場する「道開きの神」として広く信仰されてきた神様です。
神話の中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(神々の住む天上の世界)から地上に降り立つ「天孫降臨」の際、猿田彦命はその道案内を務めました。
このことから、猿田彦命は新たな道を切り開き、導いてくれる神として、旅の安全、人生の転機、事業の始まりなど、あらゆる「門出」にご加護を授ける神様として崇められています。
また、日本は古くから海に囲まれた島国で、航海や漁業は人々の生活にとって重要なものでした。
海の上では道が見えず、進むべき方向がわからないことも多く、船乗りや漁師たちは 猿田彦命の導きに海上安全を祈り、無事を願ったのです。
潮早神社の創建も、こうした御神徳に寄せる深い信仰の表れであり、潮の流れとともに生きる人々が、猿田彦命を氏神としてお迎えし、地域の安寧と繁栄を祈ったことに始まったのです。
祭神「原氏霊」
潮早神社には、猿田彦命とともに、地域の歴史と深く結びつくもう一柱の主祭神として、原氏霊(はらうじのたま) が祀られています。
原氏霊は、戦国時代に瀬戸内海で活躍した村上水軍の一翼を担った来島村上氏を支えた武将、原四郎兵衛(はらしろべえ) の御霊であり、潮早神社の由緒とも深い関わりを持っています。
「村上水軍」とは
では、村上水軍とはどのような存在だったのでしょうか。
村上水軍は、平安時代末期から広島・愛媛にまたがる芸予諸島を拠点に活動を始めた海の武士団で、瀬戸内海に浮かぶ島々を拠点に、交通の要所を抑えながら独自の勢力を築き上げていきました。
海賊ではない?瀬戸内を守った海の守護者
村上水軍よりも、村上海賊という呼び名のほうが馴染みがあるかもしれません。
「海賊」という言葉から、無法者の集団のように思われることもありますが、実際の村上水軍(村上海賊)は、そのような存在ではなく、瀬戸内海の安全を守る海の守護者として活動していました。
瀬戸内海は、潮流が複雑で、浅瀬や岩礁も多く、古来より船乗りにとって危険な海域でした。
その中でも、特に古くからの海の難所として知られていたのが、来島海峡(くるしまかいきょう)です。
来島海峡の脅威とその理由
来島海峡は、四国と大島に挟まれた瀬戸内海の中央部に位置し、瀬戸内航路における最大の難所として古くから知られています。
この海峡の最大の脅威は、瀬戸内海東西の潮汐(潮の満ち引き)の差 によって生じる強烈な潮流にあります。
特に春や秋の大潮の時期には、流速が10ノット(時速約18km)以上に達し、小舟はもちろん、大型船でさえも油断すれば潮に呑まれ、暗礁に乗り上げる危険がありました。
さらに、海峡内には無数の小島や暗礁 が点在し、それらの地形に潮流がぶつかり合うことで渦潮が発生し、時には船の舵が効かなくなることもあったのです。
春先には霧が立ちこめやすく、特に馬島周辺では視界が50メートル以下になることもありました。夜間や濃霧の季節には、まさに命がけの航海を強いられる海の死地とも言える場所だったのです。
その上、潮流の向きは短時間のうちに目まぐるしく変わり、単に海図や経験だけではなく、その時その場の潮を読み切る熟練の船頭の技術がなければ、海峡を無事に越えることはできませんでした。
このため、昔から「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸(関門海峡)」 と唄われ、来島海峡が瀬戸内海航路最大の難所であったことが語り継がれています。
水先案内人としての村上水軍
このような過酷な海を安全に航行するために、海を知り尽くした水先案内人の存在が不可欠でした。
そして、その役割を担ったのが村上水軍です。
村上水軍はこの海域を熟知し、卓越した操船技術で船舶に最適な航路を示し、目的地まで安全に導きました。
さらに、この時代は海賊や略奪を行う勢力も多く、大名や商人にとって海運・海上輸送の安全確保は最重要課題でした。
村上水軍が統治する海域は彼らの完全な縄張りであり、他の勢力が手を出すことはできませんでした。
そのため、村上水軍と共に航海することは、安全そのものと直結していたのです。
村上水軍は、こうした航行の安全や護衛の対価として「帆別銭(ほべつせん)」や「警固料」と呼ばれる通行料を徴収し、これを生業として海域の秩序維持に努めていたのです。
例外的な海賊行為
一方で、通行料を支払わない船や敵対する勢力の船に対しては、積荷を奪うなど、容赦のない海賊行為が行われることもありました。
こうした行為は、村上海賊として恐れられる大きな要因のひとつとなったのです。
しかし現実には、村上水軍が縄張りとする海域で戦って勝つことは無謀であり、他の海賊に襲われる危険もあったため、ほとんどの船は安全な航海を確保する必要経費として、率先して帆別銭を支払っていました。
「第一次木津川口の戦い」信長軍を圧倒
このように瀬戸内海で無敵の強さを誇った村上水軍は、数多くの大名と協力し、時に大規模な戦にその力を貸すこともありました。
その中でも最も輝かしい瞬間の一つが、天正四年(1576年)に起きた第一次木津川口の戦いです。
この戦いは、織田信長が石山本願寺を包囲し、兵糧攻めで孤立させようとする中で発生しました。
石山本願寺は、浄土真宗本願寺派の総本山として強固な防衛体制と宗門の結束力を誇り、信長にとっても容易に屈服させられる相手ではありませんでした。
信長は兵糧攻めによって本願寺の力を削ごうとしましたが、本願寺は中国地方の覇者・毛利氏に救援を求め、毛利氏はその要請に応じて、瀬戸内海最強と謳われた村上水軍を中心とする大船団を派遣したのです。
この要請を受けた村上水軍は、およそ七百から八百艘に及ぶ大船団を率いて木津川河口に進出しました。
木津川河口は潮流が速く、狭水路と干潟、小島が複雑に入り組んだ海域で、大型船を思うように操ることが難しい場所でした。
ここに織田方は、淡輪水軍(たんわすいぐん)を中心としたおよそ三百艘の船団を配置し、兵糧輸送を阻止すべく構えていましたが、この地形は村上水軍の熟練の操船術にこそ適した戦場だったのです。
村上水軍は潮流を読み切り、巧みな操船で敵船団の側面や背後を突きます。
さらに彼らの最大の武器となったのが焙烙火矢や焙烙玉と呼ばれる火器でした。これは陶器に火薬や油を詰めた焼夷武器で、投げ込まれると爆発・発火し、木造の船を瞬く間に炎上させました。
村上水軍はこの焙烙火矢を駆使し、潮流を活かした突撃で織田水軍の大型船を次々に焼き払い、大混乱に陥れたのです。
この戦いの結果、織田軍の封鎖線は崩壊し、村上水軍は石山本願寺への兵糧搬入を成功させました。
第一次木津川口の戦い戦は、村上水軍の地の利、機動力、火器戦術が結実した、まさに戦国海戦史上屈指の勝利といえる戦いとなりました。
村上水軍の名声はこれにより全国に轟き、瀬戸内の海上支配者としての地位を不動のものとしました。
「第二次木津川口の戦い」九鬼水軍に敗北
しかしこの敗北を受け、織田信長は海軍力の強化を決意し、九鬼水軍を率いる九鬼嘉隆(くき よしたか)を水軍大将に任命。
さらに最新技術を駆使した「鉄張りの戦艦(鉄甲船)」の建造を命じました。
鉄甲船は従来の木造船とは異なり、船体が鉄板で覆われていたため、火矢や焙烙玉、大筒による砲撃にも耐える圧倒的な耐久力を誇りました。
まさに村上水軍の火計戦術を封じるための切り札ともいえる新兵器だったのです。
そしてこれらの鉄甲船を主力とした織田水軍は、天正6年(1578年)、再び木津川河口で毛利・村上水軍と激突します。
これが第二次木津川口の戦いです。
毛利・村上水軍は約600隻の大船団を率い、石山本願寺への補給路を確保しようと木津川河口に進出しました。
対する織田水軍は、鉄甲船6隻を含む艦隊でこれを迎え撃ちます。数では劣勢ながら、鉄甲船という新兵器を擁することで戦局は大きく異なっていました。
戦闘が始まると、村上水軍は得意とする焙烙玉や火矢で攻撃を開始。これまでなら木造船は炎上し、大混乱に陥るところでした。
しかし厚い鉄板に守られた鉄甲船は炎や爆発をものともせず、ほぼ無傷で戦線にとどまります。この予想外の展開に、村上水軍には動揺が広がりました。
その隙を見逃さなかった九鬼嘉隆は、鉄甲船を大きく前進させ、小早船に体当たりを開始。巨大な船体の衝撃で小早船は次々と砕け散り、海に沈んでいきました。
さらに鉄甲船は大砲・大鉄砲の一斉射撃を浴びせ、周囲の船団は壊滅的な打撃を受けます。
やがて織田水軍は毛利水軍本隊に迫り、集中的な砲撃を加えました。鉄甲船の大砲は従来の海戦では見られなかった破壊力を発揮し、毛利・村上水軍の巨船を次々と撃ち抜き、わずか数発で沈めていきます。
その光景を目にした毛利方の士気は崩壊し、逃げ出す船が続出しました。
全滅を恐れた毛利水軍は退却を決断しますが、動きの遅い補給船は次々と撃沈され、退却すらままならぬ有様でした。
この戦いで織田水軍の鉄甲船は1隻も沈まず、村上・毛利水軍は100隻以上の船を失いました。
第二次木津川口の戦いは織田方の圧勝に終わり、石山本願寺は補給路を断たれて孤立し、やがて信長に降伏を余儀なくされたのです。
そして、村上水軍はこの敗北から瀬戸内海で覇権を失い、九鬼水軍は日本一の水軍としてその名を轟かせることになったのです。
村上水軍の三家構成
その後の村上水軍の歴史を進める前に、村上水軍の構成とその役割について触れておきましょう。
村上水軍は、能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏という三つの主要な一族に分かれ、それぞれが能島・因島・来島を本拠とし、瀬戸内海の重要な海域を押さえていました。
これら三家は互いに協力し合い、芸予諸島一帯の制海権を握るとともに、瀬戸内海の海上交通の安全と秩序を維持するという重要な役割を果たしていました。
しかし、戦国時代が終わりに近づくにつれ、情勢は大きく変わっていきます。
織田信長や羽柴(豊臣)秀吉といった天下統一を目指す強大な武将たちが台頭し、瀬戸内海にもその影響が及ぶと、村上水軍内でも対応をめぐって意見や立場の違いが表面化しました。
その結果、三家は次第に別々の選択を取るようになり、やがて内部に分裂や裏切りが生じ、村上水軍はかつての力を失っていくことになったのです。
織田信長の四国攻め
天正5年(1577年)織田信長は中国地方の平定を目指して、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を中国遠征軍の総大将に任命し、中国地方の覇者である毛利元就(もうり もとなり)に圧力をかけ始めました。
当時の毛利氏は広範な勢力を誇っており、伊予(現在の愛媛県)では河野氏と同盟を結んで四国でも戦っていました。
一方、伊予を治めていた河野氏は、四国統一を目指す土佐の長宗我部元親(ながそかべ もとちか)と戦いを繰り広げていました。
毛利氏は河野氏の援軍として支援を続けており、この同盟によって河野氏は長宗我部氏に対抗する力を保っていました。
しかし、織田信長が羽柴秀吉を総大将として中国地方への本格的な侵攻を始めると、毛利氏は河野氏を援助する余力がなくなり、伊予に対する援軍を送ることが困難になりました。
毛利氏との連携が途絶えた河野氏の力は大きく削がれ、勢いを取り戻した長宗我部軍を相手に劣勢を強いられるようになっていきました。
来島村上氏の裏切りと村上水軍の分裂
このような状況下で、来島村上氏の当主「村上通総(むらかみ みちふさ)」は深刻な判断に迫られました。
来島村上氏は、 長きに渡り河野氏に従い、河野氏の海軍力を支える重要な役割を果たしていました。
特に、瀬戸内海での海上戦力として、来島村上氏は河野氏と連携しながら、土佐の長宗我部氏や他の敵対勢力に対抗し続けていました。
しかし、信長軍(秀吉)が四国にまで侵攻してくることが現実味を帯びる中、通総はこのまま河野氏に従い続けることが一族の存続を危うくするのではないかという危機感を持つようになりました。
さらに、来島村上氏にとって、河野氏に対する不満も積もっていました。
自身の父である「村上通康(むらかみ みちやす)」は、河野氏の娘と婚姻関係を結び、かつて河野本家を継ぐ約束を得ていたにもかかわらず、河野家内部の対立によってその約束が破られ、家臣扱いにされてしまったのです。
この屈辱的な出来事も、一族の未来に影響を与える重要な要因となり、通総が河野氏との関係を考え直すきっかけとなったのかもしれません。
また、通総の母は河野家の出身でしたが、実家(本家)が分家に乗っ取られたことで、河野家への執着を失っており、むしろ時代の勢いに乗り天下統一を果たさんとする織田信長につくことを支持していました。
このような家族背景も、通総にとって河野氏との決別を後押しする材料となった可能性があります。
様々な要因がある中で、村上通総は当主として最終的に一族の存続を優先し、長年にわたって忠誠を誓ってきた河野氏との関係を断ち切る決断を下しました。
そして通総は、羽柴秀吉の同盟を選び、村上水軍の一角を担う来島村上氏は織田軍の勢力に加わることになりました。
織田信長にとっての戦略的価値
実は、織田信長が村上水軍を味方に引き込もうと決意したのは、木津川口の戦いでその圧倒的な海戦力を目の当たりにしたことがきっかけでした。
信長は、瀬戸内海を制する上で村上水軍の存在が不可欠であることを認識し、逆に自身の勢力に取り込むため、何度も使者を送り説得を続けました。
特に、来島城を拠点とする来島村上氏の当主・村上通総を味方につけることは、瀬戸内海の航路を押さえ、西国への海路の支配権を確立する上で極めて重要な戦略的課題でした。
秀吉の人心掌握術と兵法
信長は村上水軍を味方に引き込むという大役を、卓越した「人心掌握術」を持つ羽柴秀吉に任せました。
秀吉は人々を説得し、敵対する者すらも味方に引き込む力を持ち、その才能を信長は最大限に評価していたのです。秀吉自身もその資質を深く理解しており、これこそが最も優れた兵法であると考えていました。
その信念を象徴するのが、秀吉が好んで語ったとされる言葉です。
「戦わずして勝ちを得るのは良将の成すところである」
この言葉は、古代中国の兵法書『孫子』に記された思想とも重なります。
『孫子』にはこう記されています。
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」
(戦わずして敵を屈服させるのが最上の戦術である)
この理念は、無駄な戦いを避け、知略と交渉によって敵を味方に引き入れることが、最も理想的な勝利であると説いています。
秀吉にとってもこの考えは非常に重要であり、無血の勝利を得るための最良の手段として積極的に活用されていました。
こうした策略の結果、来島村上氏は羽柴秀吉の説得に応じ、織田信長の側につくことになったのです。
これにより信長は瀬戸内海の瀬戸内海の覇権を握るための、強力な海上戦力を手に入れたのです。
一方で、能島村上氏・因島村上氏一時的に織田軍に同調する構えを見せたものの、最終的には毛利氏、つまり河野氏方と行動を共にする道を選びました。
こうして、かつて瀬戸内の海を制した村上水軍は分裂の道を歩むことになったのです。
そしてこの一族の生き残りをかけた戦乱の中で、村上通総を支えていた四郎兵衛が祭神として祀られるきっかけとなる、ある重大な事件が起きることになります。
祭神「原四郎兵衛」が尽くした忠義
来島村上氏の当主・村上通総が織田方(秀吉方)につく決断をした時、それを知った一人の家臣が強く反対しました。
それが、大浜村の湊山城(港山城)の城主として、来島村上氏に仕えていた忠臣、原四郎兵衛(はら しろべえ)です。
来島村上氏と河野氏は、伊予の地で長く助け合い、海と陸の防衛を共に担ってきた盟友でした。
その絆は単なる主従関係を超え、婚姻や養子縁組を重ね、もはや同族と呼んでもよいほど深い結びつきがあったのです。
来島村上氏に仕える四郎兵衛にとって、河野氏はただの同盟相手ではなく、忠義を尽くすべき身内そのものでした。
だからこそ、通総が河野家を見限り、秀吉に従うと決断したことは、四郎兵衛にとって武士の道にも人の道にも背くものであり、決して受け入れることはできなかったのです。
四郎兵衛は、主君である通総に決死の覚悟で訴えました。
「私たちの村上家は、古くから湯築城の河野家を主君として仕えてきました。さらに親類関係でもあり、これまで長い間一緒に協力し合ってきました。その河野家がまだ秀吉の味方すると決めてもいないのに、私たちだけが秀吉の側につくのは、武士道に劣る行為です。どうか、秀吉に味方をすることをやめてください」
この訴えに通総は耳を傾け、「よく考えてみよう」とその場を収めました。
しかし、すでに秀吉と密約を交わしていたため、その決断を覆す余地は残されていなかったのです。
原四郎兵衛の忠義とその最期
通総は、原四郎兵衛の律義さと誠実さを誰よりも深く理解し、その人柄を高く評価していました。
だからこそ、四郎兵衛がこの先も河野氏への忠義を貫き、たとえ命を賭してでも決して従おうとしないだろうことも、痛いほど分かっていたのです。
そして、それは戦国の世において、一族全体の生き残りと命運を左右しかねない、大きな障害となることもまた、通総には分かっていました。
やがて通総は、主君として、また一族を率いる者として、苦渋の決断を下します。
「四郎兵衛を討て」
その命を受けた家臣たちは、主君の苦しい胸中を察しながらも、命に従って四郎兵衛を追って討ち取りました。
こうして、四郎兵衛の訴えは叶うことなく、来島村上氏は河野氏と敵対する道を進むことになったのです。
しかし、原四郎兵衛の最期は、武士としての忠義と信念を貫いたものとして、やがて人々の心に深く刻まれ、後世に語り継がれることとなります。
「原氏霊」潮早稲荷大明神に流れ着いた遺骸
四郎兵衛の遺骸は、最初は土地に埋められました。
しかし、不思議なことが起こりました。
埋葬されたはずの四郎兵衛の遺体は、その後に発生した高潮によって、土砂ごと掘り起こされ、海水に押し流されてしまったのです。
やがて遺体は潮の流れに乗り、海を漂って、当時は浅瀬で海に面していた樋口村の潮早稲荷大明神(現:潮早神社)の近くまで運ばれてきました。
四郎兵衛の遺骸がこの場所に流れ着いたことは、村人たちにとって非常に特別な出来事でした。
樋口村の人々は、四郎兵衛が命を懸けて守ろうとした忠誠心を知っており、その最期の姿に深く心を打たれたのです。
人々はその忠義を称えるため、潮早稲荷大明神(現:潮早神社)の近くに遺骸を丁重に埋葬し、塚を築いてお墓としました。
これが、現在も潮早神社に祀られている祭神「原氏霊(はらうじのたま)」の由来とされています。
「村上通総」の最期
歴史とは本当に複雑で、時に運命が大きく揺れ動く瞬間が存在します。
織田方についた村上通総の運命も、その一例です。
河野氏への攻撃と毛利氏の反発
その後、織田方についた村上通総は、天正9年(1581年)9月に20隻を超える軍船を率いて風早郡柳原の浜に押し寄せ、河野氏の家臣らと戦火を交えました。
この「反逆」とも言える行為には、河野氏だけでなく、中国地方の覇者・毛利氏も激しく反発しました。
実は村上水軍は、毛利水軍の中心戦力として瀬戸内海の制海権を維持するうえで重要な役割を担っていました。
この頃、織田軍と敵対していた毛利氏にとっても、村上水軍は瀬戸内海の制海権を支える不可欠の存在であり、来島村上氏の裏切りはその体制を根底から揺るがす重大事だったのです。
村上水軍の分裂
毛利氏は事態を重く見て、村上御三家三家(来島・能島・因島)を毛利陣営に引き戻すべく、信頼厚い家臣・乃美宗勝を派遣し、能島・因島両氏への説得を試みました。
その一方で、織田方も両氏に接触を図り、村上水軍全体を織田方に引き入れようと動きました。
こうして始まった村上水軍三家をめぐる水面下での「誘引合戦」は翌年まで続き、ついに天正10年(1582年)4月、因島村上氏が毛利方に人質を差し出し、忠誠を誓います。
続いて能島村上氏も乃美宗勝の説得に応じ、毛利方に復帰するとともに、織田方の羽柴秀吉に絶縁状を送りつけました。
こうして、能島村上氏・因島村上氏は毛利氏・河野氏方に留まることになりました。
来島村上氏の逃亡
一方、毛利・河野両氏は引き続き村上通総に考えを改めるよう説得を繰り返していましたが、村上通総は方針を変えることはありませんでした。
そして、天正10年(1582年)5月、毛利氏はついに痺れを切らし、能島村上氏・因島村上氏に攻撃を命じ、両氏は軍勢を率いて来島村上氏の拠点であった風早郡の難波・正岡両郷へと攻め込みました。
さらにその軍勢は来島村上氏の拠点・来島城を襲撃し、越智郡の大浜浦(現:今治市大浜)を焼き払いました。
天正10年(1582年)10月には、能島村上氏の軍勢が来島村上氏の勢力下にあった大島の椋名(むくな)に攻め入り、来島村上氏の領地への圧力を一層強めていきました。
そして6月27日、能島・因島の軍勢は大浦ノ砦を激しく攻撃し、これを陥落させると、いよいよ海と陸の両面から来島城への総攻撃を開始します。
毛利・河野の連合軍、そして同族であった能島・因島村上氏の容赦ない攻撃の前に、来島村上氏は次第に追い詰められ、滅亡寸前にまで追い込まれました。
この危機的状況の中で、当主・村上通総はついに重大な決断を下します。
それは、拠点である来島を放棄し、毛利・河野の包囲網を突破して豊臣秀吉のもとへと逃れるというものでした。
天正11年(1583年)3月、村上通総は夜の風雨にまぎれて毛利・河野連合軍の厳しい包囲網を突破。
そのまま瀬戸内海を南下し、なんとか羽柴(豊臣)秀吉の陣営へと身を寄せることができました。
こうして伊予を去ることとなった来島村上氏でしたが、この時の決断が、その後の命運を大きく左右することとなります。
四国攻めの一時中断と来島村上氏の孤立
この頃、信長軍は天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって織田信長が家臣・明智光秀に討たれ、四国攻めは一時中断を余儀なくされていました。
そのため、来島村上氏は織田軍からの援軍を期待できず、拠点を捨てるという決断をとったのです。
「秀吉の四国攻め」河野氏と他の御三家の衰退
しかしその後、実権を握った秀吉は信長の志を引き継ぎ、天下統一を目指して勢力を拡大。
天正13年(1585年)、ついに四国制圧を決断し、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを指揮官に据え、水陸合わせて10万ともいわれる大軍を四国に派遣。
いよいよ秀吉による四国攻めが始まったのです。
このとき、伊予では河野氏が最後の抵抗を試み、湯築城に籠城しました。
しかし圧倒的な豊臣軍の前に抗う術はなく、小早川隆景の説得を受け降伏。
こうして、河野氏による長きにわたる伊予統治の歴史は終焉を迎えました。
一方、土佐を本拠とする長宗我部元親は、すでに四国のほぼ全域を統一し、四国の覇者として君臨していました。
しかし、各地で豊臣軍に圧倒され、讃岐・阿波・伊予の諸城は次々と落城。
最終的に土佐に追い詰められた元親もまた降伏し、四国は完全に豊臣政権の勢力下に入ることとなったのです。
海賊行為の禁止と来島村上氏の繁栄
天正16年(1588年)、瀬戸内海の秩序を確立した秀吉は、海上交通を統制するため、全国に向けて「海賊停止令(海賊禁止令)」を発布しました。
これにより、私的に海上で武力を行使すること、すなわち海賊行為が全面的に禁じられ、瀬戸内で強大な勢力を誇っていた能島村上氏や因島村上氏は、従来のような独立した水軍勢力としての活動を制限され、急速に弱体化していきました。
その一方で、いち早く秀吉に従った来島村上氏は、例外的に水軍大名としての存続を許されるという特別待遇を受けました。
実は、来島村上氏は天正13年(1585年)の秀吉による四国攻めにおいて、毛利氏の反発を受けながらも秀吉の強い意向によって来島への復帰が認められ、秀吉の水軍の先鋒として目覚ましい武功を挙げていました。
秀吉はこの功績を高く評価し、村上水軍の中で唯一、来島村上氏に水軍大名としての存続を認め、さらに伊予風早郡(現:旧北条市周辺)に1万4,000石の領地を与えました。
これにより、来島村上氏は豊臣政権公認の大名家としてその地位を確立し、鹿島(旧北条市鹿島)の鹿島城(かしまじょう)を居城とすることとなりました。
また、秀吉は村上通総のことを大変気に入っており、通総を「来島、来島」と呼んでいました。
このことから、通総は「村上通総」から「来島」に姓を改め、来島通総と名乗るようになりました。
一方、能島・因島村上氏は伊予の情勢が変わる中で、秀吉軍の輸送・補給の役目を担っていたものの、来島村上氏のように評価されることはなく、その後の時代の中で衰退していきました。
そして、来島通総の運命も過酷なものへと進んでいきます。秀吉は後に朝鮮出兵を行い、多くの武将がこの遠征に参加しました。通総もその一人であり、海戦での活躍を期待されていました。
ところが、来島通総は朝鮮水軍との戦いの中で36歳とい若さで命を落としてしまいました。
その後、跡を継いだ来島康親も戦乱の中で、慶長6年(1601年)に内陸の豊後国(現:大分県)へと転封となり、海とは無縁の地で生きることとなりました。
これによって、瀬戸内海にその名を轟かせた村上水軍の歴史も、静かに幕を閉じました。
潮早神社の始まり
村上水軍が瀬戸内海の歴史の表舞台から姿を消し、戦国の世が過ぎ去った後も、その地には忠義と信念を貫いた人々の物語が深く刻まれていました。
それが潮早神社です。
伊予の歴史が大きく動く中でも、村人たちは原四郎兵衛の忠義心が後世に伝わるよう、潮早稲荷大明神の近くに小さな社(現在の古社)を建て、「原氏霊」として四郎兵衛の御霊を丁重に祀りました。
そして、天正16年(1588年)、湊山城の城主であった原四郎兵衛尉通孝の命により、来島城主・来島出雲守の御霊を合祀し、社号を「潮早稲荷大明神」から「潮早大明神」と改めました。
その後、社名は「潮早神社」と改称され、原氏霊(原四郎兵衛)も合祀されて現在の姿となりました。
こうして潮早神社は、原四郎兵衛や来島出雲守といった、来島村上氏と深い縁を持つ神社として、今も地域の人々の心の拠り所して、この地に鎮座しています。
潮早神社創建史の再考
これが潮早神社の創建とされる経緯ですが、伝わる創建史には時系列上のずれや不明確な点が見受けられます。
天正16年(1588年)に豊臣秀吉が公布した海賊停止令(海賊禁止令)によって、村上水軍をはじめとする瀬戸内の水軍は活動の舞台から姿を消し、湊山城も廃城となったため、城主がどの時点で命を下したのか、あるいはどのような経緯で社が整備されたのかについては、現在の当サイトの調べた範囲では疑問が残っています。
また、湊山城の城主とされる「原四郎兵衛尉通孝(原四郎兵衛)」は、原氏霊(原四郎兵衛)のことだと考えられますが、天正16年以前に亡くなっていたとされるため、「原四郎兵衛尉通孝」とは誰だったのか、その詳細は現時点では不明です。
ただし、同一人物ではなく、家系内で「四郎兵衛」という名や称号が代々継承された結果、こうした歴史的な混同や謎が生まれた可能性も考えられます。
後に「原四郎兵衛」を名乗った人物が、通孝の後継者や親族だった可能性も否定できません。
いずれにせよ、原四郎兵衛の忠義を祀る潮早神社は、今も地域の人々の心の拠り所であり、その忠義と信念は変わらず語り継がれています。
いずれにせよ、原四郎兵衛の忠義を祀る潮早神社は、今も地域の人々の心の拠り所であり、その忠義と信念は変わらず語り継がれています。