今治市玉川町鍋地に鎮座する「四郎明神社(しろうみょうじんじゃ)」は、古代から現代に至るまで、地域の信仰を支えてきた由緒ある神社で、長年にわたり、土地の人々の暮らしと祈りに寄り添ってきました。
四郎明神社の創建史
四郎明神社の創建は年代未詳ですが、主祭神である大山積神(おおやまづみのかみ)の御分霊を勧請し、当地に祀ったのが始まりと伝えられています。
大山積神の神格と信仰
大山積神は、山の神・海の神としての側面を持ちつつ、農業神・漁業神・海上守護神・軍神としても信仰される多面的な神格を備えた神です。
『古事記』には「大山津見神」として、『日本書紀』には「大山祇神」として登場し、また『釈日本紀』が引用する『伊予国風土記』(逸文)では「大山積神」と記されており、文献や時代、地域によって異なる表記が見られます。
今治では、大三島の大山祇神社から御分霊を勧請した「三嶋神社」や「大山積神社」などの神社が各地に存在しており、瀬戸内の自然とともに生きる人々の暮らしと深く結びついてきました。
創建当初の四郎明神社は、大山積神を祀る御分霊社として「三島神社(三嶋神社)」 または「大山積神社」と称されていたと考えられます。
では、いつ、どのような背景のもとで「四郎明神社」と呼ばれるようになったのでしょうか。
この社名の変遷には、古代の氏族伝承や地方豪族の信仰、さらには天皇の血を引くとされる人物の存在が深く関わっているのです。
それが、河野四郎為世(こうの しろう ためよ)です。
河野四郎為世(河野為世)は、河野氏の第十五代当主であり、越智為世や藤原為世とも称される人物で、その出自には、他の歴代当主とは一線を画す特異な伝承が残されています。
「伊予親王の変」親王の長男・為世
為世は、桓武天皇と第三皇子(または第四皇子)とされる伊予親王の長男として生まれたと伝えられています。
伊予親王は、父である桓武天皇からの寵愛を受けていた人物であり、政治的にも高い地位にありました。
母は藤原氏の出身の藤原吉子(ふじわら の よしこ)で、その兄・藤原雄友は大納言や中務卿・大宰帥を歴任し、平城朝廷において大きな影響力を持っていました。
大同2年(807年)、伊予親王が謀反を企てたとされる事件が発生します。
この事件は、藤原宗成が親王に謀反を唆したという密告を藤原雄友が察知し、右大臣・藤原内麻呂に報告したことに始まります。
伊予親王も宗成の進言を天皇に報告しましたが、尋問を受けた宗成が「親王こそが謀反の首謀者」と自白したことで、情勢は一変します。
平城天皇は激怒し、伊予親王とその母・藤原吉子を川原寺に幽閉しました。
親王母子は無実を訴えましたが、聞き入れられることなく、同年11月12日、二人は毒を仰いで自害したと伝えられています。
この政変により、宗成は流罪となり、藤原雄友も罰を受け伊予国へ配流されました。
河野氏に保護され伊予へ
伊予親王の変の混乱のなか、幼い遺児であった為世は、伊予国の豪族である河野氏「河野家時(いえとき・越智家時)」によって密かに保護されました。
家時は、為世をわが子のように育て、伊予の地に赴いていた橘清友(たちばな の きよとも)にその身を託したと伝えられています。
一説によれば河野家時は、河野氏第十四代当主でありながら女性であったともいわれています。戦乱の時代にあって女性が一族を率いることは極めて稀であり、その生涯には今なお多くの謎が残されています。
「藤原為世」都で藤原姓を賜る
その後、7歳になった為世は再び都へ上り、嵯峨天皇(さがてんのう)の皇后・橘嘉智子(たちばな の かちこ)に引き取られて育てられました。
嘉智子は、後に即位する淳和天皇(じゅんなてんのう)の生母として知られ、為世は彼女から深い寵愛を受け、「准第十八皇子(じゅんだいじゅうはちのみこ)」の位に準ずる扱いを受けたと伝えられています。
その後、藤原氏の血を引いていた為世は、朝廷から藤原姓を賜り、「藤原為世(ふじわら の ためよ)」と名乗るようになったともいわれます。
「河野為世」伊予の河野氏の当主へ
やがて成長した為世は、再び伊予に戻り、かつて自らを保護してくれた河野家時の娘と結婚。
河野氏の家督を継いで、河野為世(越智為世)として第十五代当主となりました。
一説には、為世は伊予親王と家時の娘との間に生まれた子であるとも、あるいは「嵯峨天皇の第十皇子」であり、後に伊予に下向して河野家に入ったとも伝えられています。
いずれにせよ、為世は天皇家の血を引く特別な存在として河野氏に迎え入れられ、同氏の中興を担う存在として、地域の支配と開発に尽力することとなります。
「浮穴四郎」
為世は、伊予国内での拠点として浮穴郡高井里(現:松山市高井周辺)に館を構え、浮穴氏の「浮穴四郎(うけなしろう)」とも称しました。
『越智氏系図』には「浮穴四郎為世(うけな しろう ためよ)」との記述があり、この地が為世の本拠地であったことを示しています。
浮穴郡は伊予国中央部に位置する交通と経済の要衝であり、ここを拠点とした為世の一族は、別宮氏・大野氏・井門氏・井上氏・寺町氏・北条氏・浮穴氏・高市氏・拝志氏・新居氏・今井氏など、多くの地方豪族の祖となりました。
為世は律令制下の国司「伊予守(いよのかみ)」の代行職として任命される権官(ごんかん)「伊予権守(いよごんのかみ)」や、「浮穴御館」などの官職や屋号でも知られており、伊予統治と開発に重要な役割を果たしていたと考えられます。
「四郎明神社」晩年と神格化
晩年の為世は、伊予国朝倉(朝倉地区)の笠松山に築かれた笠松山城に移り、そこで余生を過ごしたのち、浮穴郡浮穴里に戻って生涯を終えたとされます。
笠松山城は後に、為世の子孫である岡氏の居城となり、南北朝時代から戦国期にかけて幾度も戦乱の舞台となりました。
現在も山頂には観音堂(笠松観音堂)が残され、霊地としての信仰を集めています。
そして寛永六年(1629年)九月十三日、玉川町鍋地においては、当地の殖産に尽力したと伝えられる河野四郎為世の御霊が合祀され、「四郎明神社(玉川町誌)」または「四良神社」と称されるようになりました。
明治時代の制度と合祀
その後、四郎神社は地域に根差した祖霊信仰と報恩感謝の象徴として、江戸時代を通じて人々の敬仰を集める存在となっていきました。
やがて明治時代に入ると、国家神道政策の一環として「一村一神社」制度が導入されます。
これは、地域ごとに乱立していた大小の神社を整理・統合し、行政的にも宗教的にも一元管理することを目的としたもので、明治政府による神道体系化の試みの一環でした。
この制度のもと、四郎神社にも変化が訪れます。
もともと地域に点在していた「宮島さん(厳島神社)」「荒神さん」「おほこさん(大己貴命を祀る小社)」などの神々が、四郎神社に合祀されることとなったのです。
これにより、四郎神社は、為世公の御霊や大山積神に加え、地域各地で祀られていた諸神をも合祀することとなり、地域全体の信仰の中心を担う存在へと役割を拡大することとなりました。
境内の石造物と歴史の刻印
こうして四郎神社は、現在に至るまで多くの参拝者を迎え続けています。
その境内には、時代の移ろいを今に伝える石造物が数多く残されており、社名石には「四良神社」と刻まれています。
幟立は明治17年(1884年)、鳥居は天保3年(1832年)、狛犬や常夜燈、注連石には明治42年(1909年)の銘が確認でき、いずれも往時の信仰と地域の営みを物語る貴重な文化遺産として、この地に静かに息づいています。