今治市の中心部、かつての城下町の面影を今に伝える一角に、「寺町」と呼ばれる地域があります。
この地域は、江戸時代初期、藤堂高虎による今治城の築城と並行して進められた城下町の整備のなかで、多くの寺院が集められた歴史ある場所として、今治市民に親しまれています。
「正法寺(さいほうじ)」は、その寺町に建つ一寺として、長い歴史の中で地域とともに歩んできました。
正法寺の創建と移転
正法寺のはじまりは、天正10年(1582年)。
正誉虎覚(しょうよ こがく)上人によって、現在の今治市室屋町に開山されました。
戦国時代末期、各地で戦乱によって荒廃した寺院や信仰が再建されていく中、正法寺もまた、地域に根づいた念仏道場として歩みを始めました。
その後、元禄元年(1688年)、今治藩による寺院再編の一環として、正法寺は室屋町から現在の塩屋町へと移転されます。
この移転を機に、正法寺は城下町今治における信仰の中核を担う存在となり、以後も多くの人々のよりどころとして、確かな位置を築いていくことになりました。
「松源院との深い関係」藩主と隠居寺
正法寺の歴史において、特筆すべき出来事の一つが、今治藩主松平家の菩提寺であった浄土宗の寺院「松源院(しようげんいん)」との関係です。
寛永12年(1635年)、松平定房が伊勢国桑名から今治に入部し、初代藩主としなった後、松平家は来迎寺を菩提寺としていました。
しかし、定房は父・松平定勝(さだかつ)と母の菩提を弔うため、新たな菩提寺の建立することにしました。
そして明暦2年(1656年)、来迎寺の住職・三汲(さんきゅう)を開山として迎え、風早町に新たな寺院を創建しました
このとき、父・定勝の名に由来する山号「定勝山」と、母の法号「松源院」を合わせて、「定勝山松源院」と称しました。
以降、松源院は代々の今治藩主の菩提寺として機能し、藩の精神的支柱として今治藩の歴史と深く結びついた格式ある寺院として、その歩みを重ねていきました。
明治維新と松源院の廃絶
しかし、明治元年(1868年)、明治維新後に発令された神仏分離令により、日本全国の宗教制度に大きな転換がもたらされました。
新政府は、天皇中心の国家体制を確立するため、神道を国教的な立場に位置づけ、長年続いてきた神仏習合の伝統を否定しはじめます。
これに伴い、寺院の廃止や神社の再編、仏像や仏具の破却といった「廃仏毀釈」の動きが全国で加速していきました。
こうした時勢の中で、翌明治2年(1869年)、松平家は浄土宗による仏式の供養を廃し、神道へと改宗しました。
これにより、藩主家の菩提を担っていた松源院はその存在意義を失い、廃寺へと追い込まれることとなったのです。
阿弥陀如来像の遷座と継承
このとき、松源院の本尊・阿弥陀如来像が、松源院の隠居寺であった正法寺へと移されました。
この像は、およそ200年前(江戸中期)に制作されたもので、非常に高い芸術的価値を持ち、今治藩の歴史を象徴する重要な文化財として慎重に祀られました。
記録を奪った明治の大洪水
その後、長らく無住の時代が続いていたが、しばらく正法寺の記録は残されていません。
これは、明治26年(1893年)10月に発生した大洪水の被害によって、寺に伝えられていた古記録がすべて流出したためだとされています。
この大洪水は、伊予地方に甚大な被害をもたらし、明治期を通じて最大級の自然災害とされるものでした。
明治26年10月11日から降り始めた豪雨は、13日には台風の接近により暴風雨となって蒼社川流域を襲いました。
連日の豪雨と暴風により地盤は著しく緩み、増水した蒼社川は各地で堤防を圧迫。そして13日、ついに堤防が決壊し、大規模な洪水が発生したのです。
鈍川村での被害(10月13日)
この日、鈍川村では橋が流され、川沿いの地形が大きく崩壊。田畑は泥流に呑まれ、山の斜面は各所で崩れ、数万本に及ぶ樹木がなぎ倒されました。
およそ100町歩に及ぶ作物が壊滅し、地盤の流出・損壊も40町歩に達したとされます。
住宅被害も深刻で、全壊58戸、半壊30戸、損壊45戸に及びました。13名が命を落とし、10名が負傷。神殿1棟が倒壊し、牛馬4頭も圧死するなど、人的・物的被害は甚大でした。
道路や橋、用排水路などのインフラも次々と破壊され、村の機能はほぼ壊滅状態に陥りました。
今治市域の被害(10月14日未明)
そして翌14日午前4時頃、さらなる豪雨によって蒼社川、頓田川、谷山川といった主要河川が相次いで決壊。
濁流は市街地にまで達し、今治市域全体が水に呑まれる事態となりました。
蒼社川は山手橋、郷橋、高紹寺付近で大きく破堤し、住宅や耕地を押し流しました。
市内の死者は少なくとも23人、田畑の流失は1,000町歩を超えるなど、被害は広範囲かつ壊滅的でした。
旧清水村でも88戸の家屋が全半壊し、90戸が損壊。
蒼社川の堤防は延長570メートルにわたって5箇所で決壊し、41町歩の田畑が埋没・流失しました。
山崩れも12箇所で発生し、倒木も多数にのぼったといいます。
この明治26年の大洪水は、自然災害としてだけでなく、地域の暮らしと歴史そのものに大きな傷跡を残しました。
正法寺の古記録がこの濁流とともに失われたことも、そうした「記憶の喪失」のひとつであったといえるでしょう。
今治空襲と正法寺の最大の試練
正法寺にとって最大の危機は、明治の大洪水から半世紀後、昭和20年(1945年)に訪れました。
この年、太平洋戦争は末期を迎え、戦局がいよいよ厳しさを増す中で、アメリカ軍は日本本土への無差別爆撃を本格化させていきました。
各地の都市が次々と標的となり、多くの命と暮らしが奪われるなか、愛媛県今治市も3度にわたって空襲を受け、575人以上が犠牲となりました。
なかでも最も被害が大きかったのが、終戦のわずか10日前。
3度目の空襲で焼失
昭和20年8月5日深夜から6日未明にかけて行われた、3度目の大規模空襲でした。
このとき、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機およそ50機が出撃し、今治市街地に向けて約260発の焼夷弾を投下しました。
爆撃は真夜中に始まり、明け方まで続きました。
木造家屋が密集していた市街地は、瞬く間に火の海と化し、炎は強風にあおられて瞬く間に市内各所へと広がっていきました。
この空襲によって、今治市街地の約75パーセントが焼失。正法寺が所在していた寺町も壊滅的な被害を受けました。
正法寺の被害
正法寺では、本堂をはじめとする堂宇がすべて焼け落ち、一時は、寺の存続すら危ぶまれるほどの深刻な被害でした。
長年にわたり受け継がれてきた仏像や経典、貴重な古文書の多くも、失われてしまいましたが、瓦礫の中から、ひとつだけ奇跡的に焼け残った仏像がありました。
阿弥陀如来像の奇跡
それが、本尊・阿弥陀如来像でした。
焦土と化した寺町のなかで、ほとんど無傷のまま立ち続けていたその姿は、空襲直後の不安と絶望のなかにあった人々の希望となりました。
戦後の復興と再建
戦後、阿弥陀如来像は「今治の守り仏」として、正法寺のみならず、地域の人々の心を支える精神的な支柱となっていきました。
空襲によって伽藍をすべて焼失した正法寺は、昭和22年(1947年)、仮本堂の建設によって、ひとまず信仰の場を取り戻しました。
本尊の阿弥陀如来像はその中央に安置され、焼け跡の中で人々の祈りを静かに受け止め続けました。
しかし、本格的な再建には、長い年月と多くの労力を要しました。
戦後の混乱と復興のなかで、寺の再建もまた、一歩一歩、地域とともに歩む営みだったのです。
そして、今治空襲からちょうど30年目を迎えた昭和50年(1975年)。
地域住民や檀信徒の尽力により、ついに鉄筋コンクリート構造による本堂が完成しました。
地域社会とのつながり
昭和50年という節目の年は、戦後30年にもあたり、世代の移り変わりが進んだ時期でもありました。
かつての空襲や混乱を直接知らない子どもたちが成長していくなかで、阿弥陀如来像の存在は、語り継ぐべき記憶と信仰の象徴として、大切に守られ続けてきたのです。
そして現在、正法寺は単なる宗教施設にとどまらず、地域社会とのつながりを大切にした開かれた場となっています。
境内では、文化的な活動や催しが数多く行われており、地域住民や来訪者が気軽に参加できるイベントやワークショップも定期的に開催されています。
また、境内には詩人・杉浦清氏の詩碑や、正岡子規の句碑などが設置されており、訪れる人々に文学の息吹と、自然と調和した静けさを感じさせてくれます。
正法寺を訪れた際には、戦火を乗り越えてきたその深い歴史と、今なお息づく地域文化の豊かさに、ぜひ触れてみてください。