今治市内には、複数の寺院が集まる「寺町(てらまち)」と呼ばれる地域があり、宗派を越えて多くの寺が軒を連ねています。
ここにある「称名寺(しょうみょうじ ・稱名寺)」は、元々は寛永20年(1643年)、世玄恵法師によって創建された浄土真宗の寺院であり、長きにわたり地域の人々に親しまれてきました。
この称名寺の歴史をたどるには、まずその基盤となる浄土真宗の成り立ちと、宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)の思想に立ち返る必要があります。
「他力本願」の浄土真宗
浄土真宗の教えは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の力にすべてを委ねて救われる「他力本願」を中心にしており、この教義を特徴としています。
ただし、ここでの「他力本願」という言葉は、一般的な私たちが知る「他人任せ」という意味ではありません。
浄土真宗における「他力」とは他人の力ではなく、阿弥陀仏の慈悲の力のことを指しています。
親鸞は、阿弥陀仏が「すべての生きとし生けるものを救わずにはおかない」という強い願いを持っていると教えました。
つまり、私たちが修行や努力を重ねて救いを求めるのではなく「阿弥陀仏の慈悲の力にすべてを委ねましょう」というのが、浄土真宗の基本となっています。
浄土真宗の独自性
では、出家者が厳しい戒律を守り、世俗の営みから離れることが理想とされてきました。
しかし、浄土真宗の開祖・親鸞は、「非僧非俗(ひそうひぞく)」すなわち「僧でもなく、俗でもない」という立場を自ら名乗りました。
これは、修行者としての形式や外見よりも、内なる信仰のあり方が大切であるという姿勢を示すものです。
親鸞は肉食や妻帯も否定せず、自らも妻を持ち、家庭を築きました。
このことは、信仰を特別な人だけのものとせず、誰もが家庭や仕事を持ちながらでも信仰に生きることができるという実践的仏教の姿を示したといえます。
こうした柔軟で現実的な態度が、庶民の暮らしに深く根ざした浄土真宗の広がりを支えることになりました。
声に出して「南無阿弥陀仏」と唱える意味
浄土真宗の信仰実践の中心は、ただひとつ、「念仏」です。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と称えることは、単なる口唱ではなく、阿弥陀仏への感謝と信頼の心をあらわす行為です。
仏の名を称えることで、その本願にすがり、救いにあずかる。
これが浄土真宗における「行(ぎょう)」であり、「修行」です。
念仏には、時間や場所、能力の制限はありません。
老若男女を問わず、どんな状況の人でも、声に出して、あるいは心の中で念仏を称えることで、阿弥陀仏の慈悲とつながることができます。
修行や学問に特別な才能や環境を必要としないこの教えは、鎌倉以降の不安定な時代、特に庶民にとって大きな救いとなり、広く受け入れられていったのです。
「故人はすでに救われている」という確信
他の多くの仏教宗派では、死者が仏の道へ至るために読経や供養が重要視されますが、浄土真宗の葬儀はその性質を大きく異にします。
浄土真宗では、死者はすでに阿弥陀仏の本願によって救われていると考えます。
そのため、葬儀は「導師が故人を浄土へ導く儀式」ではなく、「阿弥陀仏の救いを確認し、残された私たちが教えを新たにする場」として位置づけられています。
死を迎えたその瞬間に、念仏を信じて生きた者は阿弥陀仏の力によって極楽浄土に生まれ変わる。
この強い信仰に支えられた葬儀の形は、悲しみの中にも安らぎをもたらすものであり、今日でも多くの人々に親しまれています。
日常の中の信仰
このように、浄土真宗は厳しい修行を必要とするものではなく、家庭や地域、日常生活の中でこそ実践されるべきものとされてきました。
念仏を称え、仏を想う心を持つことこそが救いへの道であり、そこに年齢や職業、能力の差は存在しません。
この平等で実践的な教えは、現代においても多くの人々の心の支えとなっています。
ストレスや不安の多い現代社会においても、浄土真宗の「他力本願」という教えは、人間の限界を認めたうえで、安心と希望を見出す悟りとして、多くの信者に支持されているのです。
親鸞が歩んだ信仰の原点
では、そんな浄土真宗を開いた親鸞とはどのような人物だったのでしょうか?
幼少期と時代背景
親鸞は、1173年(承安3年)、京都・日野の里(現在の京都市伏見区)に誕生しました。
父は日野有範、母は吉光女とされ、日野家は藤原氏の流れをくむ名家に連なっていました。
しかし、親鸞が生まれ育った時代は、平安時代から鎌倉時代へと移る激動の時代。
武士の台頭とともに、平氏と源氏が政権をめぐって熾烈な争いを繰り広げ、朝廷の権威は揺らぎ、人々の暮らしもまた不安に満ちていました。
加えて、地震・台風・疫病といった災厄が相次ぎ、人々は「末法の世」に突入したと感じ、未来に救いを見いだせずにいたのです。
「不断念仏」比叡山での修行と限界
そうした時代のなか、親鸞はわずか9歳にして出家を決意し、当時の日本仏教の中心地であった比叡山に入ります。
天台宗の教えのもとで修行を重ね、特に比叡山中の横川(よかわ)にある首楞厳院(しゅりょうごんいん)にて、「不断念仏(ふだんねんぶつ)」と呼ばれる厳しい行法に励みました。
不断念仏とは、昼夜を問わず念仏を称え続けるという修行であり、身体的・精神的に過酷なものでした。
親鸞は念仏を称える中で、「生死いづべき道」、すなわち生きることと死ぬことの根本的な意味を問い続けていました。
20年にわたる修行と学問の日々は、悟りを求める一心で費やされたのです。
しかし、それだけ年月を重ねても、どれだけ修行を積んでも、自力ではどうしても煩悩を離れることができないという限界に、親鸞は次第に気づき始めます。
「修行を重ねる者ほど、かえって煩悩にとらわれてしまうのではないか」
その苦悩は、やがて彼を仏教界の常識から大きく踏み出させる原動力となっていきました。
苦悩の中で導き手となった法然上人
そんな親鸞に、やがて運命を大きく揺るがす出来事が訪れることになります。
それが、浄土宗の開祖である法然上人(ほうねんしょうにん)との出会いでした。
法然が説いていたのは、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、阿弥陀仏の救いにあずかるという「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」という教えでした。
長年の修行にも関わらず、自力では悟りに至れなかった親鸞にとって、この教えはまさに救いの光でした。
親鸞は法然の教えに深く感銘を受け、弟子としてその門を叩き、共に念仏の道を歩み始めます。
やがて、自らも「念仏の教え」を体得し、それを自らの言葉で説いて、人々に広めていくようになっていったのです
親鸞を襲った試練「二つの法難」と流罪
専修念仏の教えに深く共鳴し、法然の弟子として修行を重ねていた親鸞でしたが、念仏の教えが広がるにつれ、仏教界の中で大きな波紋を呼ぶことになります。
そして、やがてその波紋は、親鸞自身の人生をも大きく揺るがす「試練」として押し寄せてきました。
「元久の法難」念仏の拡がりと反発
法然上人の教えである「専修念仏(南無阿弥陀仏を唱えることによって救われるという教え)」は、広く民衆に支持されていました。
しかし、この教えが急速に広まる中で、法然の弟子や信者の一部は他宗派を軽視する言動を取り、浄土宗と他宗の間で摩擦が生じるようになっていきます。
浄土宗の影響力が増すことを危惧した延暦寺の僧侶たちは、元久元年(1204年)に念仏の禁止を求め、延暦寺の座主(トップ)である真性に申し入れを行いました。
この圧力を受けた法然上人は、弟子たちに対して行動を慎むよう戒める文書を作成し、弟子たちに署名を求めました。
法然は、専修念仏の本義を誤解し、他宗を批判するような言動を慎むよう強く訴えました。
この事件が「元久の法難(げんきゅうのほうなん)」と呼ばれています。
法然の戒めにより、一時的に事態は沈静化したかに見えましたが、他宗派との対立は根深く、問題の根本的な解決には至りませんでした。
「建永の法難」出家事件と親鸞の流罪
「元久の法難」からわずか3年後、今度はさらに深刻な事件が発生しました。
浄土宗の教えが民衆の間でますます広がりを見せる中、法然の二人の弟子が、後鳥羽上皇に仕えていた侍女を無断で出家させるという事件を起こしてしまったのです。
この行為は、当時の厳格な社会秩序に真っ向から反するものであり、朝廷を強く揺るがすものでした。
後鳥羽上皇はこれを朝廷の権威を軽んじた重大な背信と受け取り、激しく怒りをあらわにしました。
そして建永2年(1207年)、ついに朝廷は厳しい処罰を下します。
問題を起こした弟子2人は死罪となり、師である法然上人は四国・土佐への流罪、そして親鸞もまた連座して、越後国(現在の新潟県上越市)へと配流されることになったのです。
これが、後に「建永の法難(けんえいのほうなん)」と呼ばれる仏教史に残る大事件です。
この時、法然は75歳、親鸞はまだ35歳という若さでした。
後年、親鸞はこの出来事について「主上臣下、法に背き義に違ふ」と語り、流罪が理不尽なものであったことを率直に記しています。
しかし同時に、師・法然上人が潔くその運命を受け入れた姿を見て、親鸞自身もまたその道を共に歩む覚悟を固めたのでした。
流罪の地で見出した、新たなる信仰のかたち
建永の法難によって越後国(現在の新潟県上越市)へと流罪となった親鸞は、京都を出発し、逢坂の関を越えて近江へ、そこから船で琵琶湖を北上しました。
さらに山路を越えて越前・越中を抜け、糸魚川付近で再び船に乗り、ついに越後国分寺の近く、居多ヶ浜(こたがはま)の浜辺にたどり着きます。
親鸞が踏みしめた苦難の第一歩
当時の越後国は、都から遠く離れた「未開の辺境」とみなされており、流罪とはすなわち文明社会から切り離された厳罰でした。
親鸞も例外ではなく、最初の一年間は役人の厳しい監視のもと、社会との関わりを断たれた生活を強いられます。
与えられた食糧は一日わずか米一升と塩一勺。親鸞はわずかな支給で命をつなぎながら、耕作できる土地もほとんどないなかで自給自足を余儀なくされました。
かつて京の寺院で修行に励んだ僧の姿はそこにはなく、あるのは過酷な自然と、静かな孤独だけだったのです。
しかし、そんな厳しい越後での生活にも、親鸞は少しずつ順応していきました。
「非僧非俗」煩悩を抱えた一人の人間としての生き方
流罪から一年後のこと、親鸞は種子籾を受け取り、自ら荒れ地を耕して生活の糧を得るよう命じられました。
しかし、与えられた土地は河原のような不毛の地。まったく耕作に適しておらず、収穫はわずかだったと伝えられています。
それでも親鸞は、「この未開の地でこそ、仏の慈悲を必要としている人々がいる」と信じ、師・法然への感謝を胸に、厳しい環境を受け入れていきました。
そしてこの地で、親鸞は一つの大きな決断を下します。
もはや私は、戒律を守るだけの僧ではない…かといって、俗世の欲にまみれた人間でもない。
そう自らを定義し、親鸞は「非僧非俗(ひそうひぞく)」という新たな立場を宣言しました。
これは当時の宗教界において極めて異例の立場であり、僧侶でありながら妻帯し、世俗の中に身を置いて仏の教えを説くという、まさにこれまでの常識を覆す生き方でした。
この宣言を出したと同時に、親鸞は自らを「愚禿(ぐとく)釈親鸞」と名乗るようになります。
「愚禿」とは、「愚かなる禿(とく=髪を剃った者=僧侶)」という意味です。
これは、自分自身を高めたり飾ったりせず、あくまでも煩悩を抱えた一人の人間として、阿弥陀仏の慈悲にすがるという、謙虚ながらも力強い信仰の姿勢が込められていました。
異例の結婚 〜恵信尼との出会い〜
こうして「非僧非俗(ひそうひぞく)」を掲げて僧侶という身分を離れた親鸞は、形式にとらわれない信仰の実践者として、新たな一歩を踏み出しました。
この中で、親鸞は一人の女性・恵信尼(えしんに)と出会い、生涯の伴侶として迎えました。
当時の仏教界では、僧侶が妻帯することは極めて異例であり、宗教的にも社会的にも許容されにくい時代でした。
しかし親鸞は、形式や制度に縛られるのではなく、念仏の教えに生きることこそが信仰の本質であると信じていたのです。
そして、「信心に貴賤や聖俗の区別はなく、男女の差別もない」という考えを持ち、当時の男尊女卑の社会においても、平等の精神を尊重していました。
「すべての人救われる」越後での布教
親鸞の信仰を、恵信尼は深い理解と献身で支えました。二人は越後の地で過酷な生活を共にしながら、家族の絆を深め、信仰を生活の中で実践していったのです。
そしてこの地でも、親鸞は多くの人々と関わりを持ち、念仏の教えを広めていきました。
当時の越後国は貧困にあえぐ人々が多く、社会的にも厳しい状況が続いていました。
そんな中で、親鸞は「阿弥陀仏の本願によって、すべての人が等しく救われる」という教えを説き、身分や生い立ちに関係なく人々を励ましました。
やがてその教えは、厳しい日々を生きる人々にとって大きな希望となり、親鸞は越後国で多くの信者を得るようになっていったのです。
師との別れ…親鸞の悲しみと葛藤
恵信尼と支え合い、越後の地で日々を積み重ねる中、親鸞は次第に、自らの信仰と教えに確かな手応えを感じ始めていました。
そして建暦元年(1211年)、ついに赦免の知らせが届き、親鸞は五年に及ぶ流罪の生活から解き放たれます。
しかし、その喜びも束の間、同じ年に届いたのは、師・法然上人の訃報でした。
法然上人の帰京と入寂
建暦元年(1211年)、ようやく赦免された法然上人は、流罪先の土佐から5年ぶりに京都へ戻りました。
しかし、かつて念仏の教えを広めた吉水の草庵は荒れ果てていたため、法然上人は大谷の禅房に移り住むこととなります。
この時、すでに80歳を迎えていた法然上人は、帰京後まもなく病に伏しました。
翌年、弟子の勢観房源智(せいかんぼうげんち)から「念仏の教えの要点を記してほしい」と願い出られます。
その願いに応えて法然が記したのが、後に名高い『一枚起請文』でした。
そこには「ただ一向に念仏すべし」との言葉が記され、念仏の教えが実に簡潔に、そして力強くまとめられています。
そして建暦2年(1212年)正月25日、法然上人は静かにこの世を去りました。
その後、法然の教えは弟子たちの手によって受け継がれ、念仏信仰は全国各地へと広がっていったのです。
法然の教えの継承者
法然上人の訃報は、親鸞の心に深い悲しみをもたらしました。
敬愛する師を失った喪失感はあまりにも大きなものだったのです。
「これから自分は、どのように生き、何を伝えてゆくべきか」
その問いが、心の内に重くのしかかります。
師のいない京都へ戻る気にもなれず、かといって流罪の地である越後にそのまま留まることも、親鸞にとっては選びがたいものでした。
人生の節目に立たされた親鸞は、信仰者として、また一人の人間として、これからの生き方を深く模索し始めたのです。
親鸞が選んだ巡礼の道“関東”
人生の進路に悩む中で、親鸞が下した大きな決断、それが関東への移住でした。
この決断には、妻・恵信尼の父が常陸国(現在の茨城県)に所領を持っていたという事情も関係していたと考えられています。
こうして、家族とともに越後を離れ、関東地方を目指しました親鸞でしたが。この旅は決して容易なものではなく、山や川を越える厳しい道のりを進まねばなりませんでした。
また、当時の交通手段の多くが徒歩であったため、移動には長い時間と体力を要し、天候や野宿の不安、食糧の確保など、多くの困難が伴いました。
それでも親鸞は、阿弥陀仏への信仰を心の支えとし、家族とともに一歩ずつ歩みを進めたのです。
善光寺での出会いと経験
道中、親鸞は信濃国(現在の長野県)にある善光寺を訪れます。
道中、親鸞は長野の善光寺に立ち寄り、一光三尊仏(阿弥陀仏を中心に観音菩薩と勢至菩薩が脇に控える仏像)を拝みました。
これまで書物を通じて学んできた仏法理解を超える、魂に響くような「生きた信仰」を得た親鸞にとって、この出会いは一つの転機となりました。
この体験が、念仏の教えへの確信をさらに強め、以後の布教活動に大きな影響を与えました。
「浄土真宗の誕生」乱世に灯した希望の光
なんとか無事に関東の地へとたどり着いた親鸞は、当時の混乱した社会状況の中で布教を開始しました。
鎌倉時代初期の関東地方は、武家政権の成立による政治的不安定さ、度重なる戦乱や飢饉、自然災害により、庶民はもちろん武士たちにとっても不安の尽きない時代でした。
社会の秩序は揺らぎ、人々の心にも深い虚無感が広がっていました。
こうしたなかで、親鸞は、関東各地の農村や山里を訪れ、人々と直接対話を重ねながら、わかりやすい言葉で「他力本願」の教えを説いていきました。
ただ念仏を称えるだけで誰もが救われるという教えは、生きる希望を失いかけていた多くの人々にとって、まさに希望の光となりました。
その結果、親鸞の教えは瞬く間に関東一帯に広まり、武士や庶民の間に深く浸透していきました。
『教行信証』新たな宗派の誕生
関東での布教活動に加えて、親鸞はこの時期、多くの弟子を育てました。
彼らは各地に赴いて布教を行い、念仏信仰の裾野を広げる役割を果たしていきます。
その中で親鸞自身は、ただ現場に立ち続けるだけでなく、教えの核心を後世に残すために一つの大きな仕事に取り組み始めました。
それが、後に浄土真宗の根本聖典となる大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の執筆です。
この書物は、インド・中国・日本の仏教経典や祖師の言葉を引きながら、「教」(教え)「行」(実践)「信」(信心)「証」(証果)の四段階を通して、念仏の意義と阿弥陀仏の本願の確かさを体系的にまとめたものです。
貞応3年(1224年)、親鸞は長年にわたり構想を練ってきた主著『教行信証』の草稿をようやくまとめ上げました。
これは、新たな仏教の流れ「浄土真宗」が誕生した瞬間でもありました。
晩年の親鸞と教えの広がり
常陸国(現在の茨城県)を拠点に約20年間(1214年〜1232年頃)にわたり念仏の教えを説いてきた親鸞は、62歳(または63歳)の頃、布教活動にひと区切りをつけ、かつて師・法然とともに念仏の道を歩み始めた京都へと戻りました。
京都での晩年、親鸞は静かな日々を送りながらも、念仏の教えを深く語り続けました。
その姿勢は生涯変わることなく、「自力を離れて他力に帰依する」という他力本願の教えを貫き通します。
世俗の権威や宗派にとらわれず、ただ阿弥陀仏の本願に身をゆだねる生き方は、多くの人々の共感を呼びました。
親鸞は90歳という当時としては驚くべき長寿を全うし、弘長2年(1263年)にその生涯を終えます。
日本中に広がる親鸞の教えと継承
しかし、親鸞の死は教えの終わりではありませんでした。
むしろ、その思想と信仰は、没後から大きく花開いていくことになります。
親鸞の曾孫・覚如による普及活動
親鸞の死後、曾孫である覚如(かくにょ)(1270年〜1351年)が、親鸞の教えを引き継ぎ、その遺産を守るために京都に浄土真宗本願寺派「西本本願寺」を創設しました。
覚如は、親鸞の直系の子孫であったため、親鸞の教えを守る正当な後継者であることを主張しました。
本願寺は当初、天台宗の末寺としての位置づけでしたが、やがて浄土真宗の中心地となり、大きな勢力を築く拠点となります。
「講」八世の蓮如の布教革命
浄土真宗が大きく発展したのは、八世の蓮如(れんにょ)(1415年〜1499年)の登場によるものでした。
蓮如は、民衆の成長や社会的な変化を背景に、念仏信仰を広めるために「講(こう)」と呼ばれる信者の組織を作り上げました。
この講は、信者が集まり教えを学び、互いに支え合う場を提供するもので、浄土真宗の信仰を拡大する基盤となりました。
さらに、蓮如は『御文(おふみ)』と呼ばれるわかりやすい手紙を通じて親鸞の教えを広めました。
これにより、浄土真宗は多くの民衆に浸透し、急速に広がっていきました。
「一向宗」戦国の世に抗った信仰の力
やがて西本願寺を中心とした浄土真宗は「一向宗(いっこうしゅう)」として大きな宗教勢力に成長していきました。
この一向宗の信者たちは、強い団結力を持ち、時には武装して領主や大名に対抗する「一向一揆(いっこういっき)」という武力闘争を起こすようになりました。
一向一揆は、領主の圧政に対抗するための手段となり、特に加賀国(現在の石川県)では大規模な一向一揆が発生し、加賀(現:石川県)を実質的に支配する状況が続きました。
この一向一揆は戦国時代において大きな勢力となり、織田信長や徳川家康など、当時の大名たちにとって大きな脅威となりました。
そのため、織田信長をはじめとする大名たちは、一向宗を禁教とし、信者を弾圧する政策を取るようになりました。
その後、織田信長との対立が激化し、石山合戦と呼ばれる大規模な戦闘を経て本願寺は一時的に衰退しましたが、豊臣秀吉の時代に京都で再興されます。
「西本願寺&東本願寺」二つの本願寺
しかし、江戸時代に入り、徳川家康の宗教政策によって本願寺は東西に分裂し、現在の「西本願寺」と「東本願寺」が形成されました。これ以降、本願寺派と他の真宗各派は、それぞれの道を歩むこととなりました。
こうして、親鸞聖人の教えは後世に引き継がれ、浄土真宗は日本各地で広まり、多くの人々に影響を与える一大宗派へと発展しました。
「称名寺の創建」伊予における浄土真宗の広がり
伊予における浄土真宗の布教には、蓮如が晩年に建立した石山本願寺(いしやまほんがんじ)が重要な役割を果たしました。
そして、今治の称名寺は、この流れの中で誕生することになります。
石山本願寺の創建は文明17年(1485年)。
蓮如は 比叡山延暦寺の僧たちによる激しい弾圧(法難)を受け、やむなく京都を離れて越前国(現在の福井県)の吉崎(よしざき)へと移り、そこを拠点に北陸一帯で熱心な布教活動を展開しました。
この活動によって浄土真宗は急速に勢力を伸ばし、庶民層を中心に広く支持を集めるようになります。
その後、蓮如は京都・山科に本願寺を再建しましたが、晩年にはさらなる信仰の拡大と安全な拠点確保のため、摂津国石山(現在の大阪市中央区)、現在の大阪城の場所にあたりに寺基を移します。
こうして成立したのが石山本願寺です。
以後、石山本願寺は西日本各地への布教の中核拠点として機能し、浄土真宗の勢力拡大を支える重要な中心地となりました。
伊予における独自の布教展開
ただし、伊予における浄土真宗の布教は、石山本願寺の活動を中心とするものの、他の地域ほど一向宗のような組織的・集中的な布教は見られず、個々の寺院が独自に浄土真宗に改宗し、その教えを広める形で進んでいきました。
「西条・長敬寺」伊予最古の真宗寺院
その代表例が、西条市にある長敬寺(ちょうけいじ)です。
長敬寺は弘安六年(1283年)に創建された伊予最古の真宗寺院とされ、もとは別宗の寺院でしたが、三世・西念代の代に、本願寺第三世・覚如から寺号を賜り、浄土真宗へと改宗しました。
この改宗は、早い時期から伊予に念仏の教えが届いていたことを示すものであり、長敬寺は以後も地域の信仰の中心としての役割を果たしていきます。
「松山・浄蓮寺」地域の信仰を担う“中本寺”
一方、浄蓮寺(じょうれんじ)は、享禄四年(1531年)に道後で開創され、その後松前町に移り、さらに慶長十一年(1606年)に現在の松山市本町に再移転しました。
松山市に移ってからの浄蓮寺は、伊予における浄土真宗の中心的寺院として大きく発展し、とくに江戸時代には門信徒の数も増え、経済的・文化的にも繁栄しました。
また、寺格としても本願寺から「中本寺」と認められ、地域教団の中核を担う存在となりました。
「称名寺」寺町に根ざした信仰の場
こうした歴史の流れの中で、寛永20年(1643年)、日吉村高地(現在の今治市内)において、一世・玄恵法師によって称名寺は開創されました。
その後、貞享年間(1684〜1688年)に入る前に、今治城下に整備された寺町の一角へと移されました。
寺町は、戦国武将・藤堂高虎による都市計画に基づき、城郭防衛と宗教統制の観点から戦略的に配置された寺院群で、江戸期には今治藩によってその構想が継承・発展されていきました。
称名寺もその構想の一翼を担い、城下に定着。地域の人々にとって身近な信仰の場として、その存在を深めていきます。
その後も、「他力本願」の教えを地域に広め、明治7年(1874年)には本堂を改築するなど、信仰の場としての歩みを続けていました。
しかしその歩みは、ある一つの出来事によって大きく断ち切られることになります。
それが今治空襲です。
「今治空襲」称名寺の焼失
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市は3度にわたる空襲に見舞われました。
なかでも、8月5日から6日にかけての夜間空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、今治市街地の大半が炎に包まれました。
この空襲により、全市戸数の約75%が焼失するという壊滅的な被害が生じ、市民生活はもちろん、歴史的・文化的資産にも甚大な損害が及びました。
このとき、称名寺もまた焼夷弾の猛火に巻き込まれ、完全に焼失してしまいました。
称名寺、戦後復興の歩み
戦後、称名寺は焼け跡の中から再び立ち上がる決意を固めました。
地域の檀信徒や関係者たちの力強い支えにより、荒廃した寺地の整備が進められ、昭和29年(1954年)には、「二度と焼失することのないように」との願いを込めて、耐火構造を備えた鉄筋コンクリート造の本堂が再建されました。
焼失以前の格式と信仰の精神を受け継ぎながらも、戦後の時代にふさわしい堅固な堂宇として生まれ変わったのです。
さらに、復興の歩みは続き、昭和43年(1968年)には庫裏(くり)も新たに建設され、寺院としての体制が徐々に整えられていきました。
そして現在、称名寺は浄土真宗本願寺派の寺院として、親鸞聖人の教えを今に伝える信仰の場として、地域社会と深く結びついた活動を続けています。