「正善寺(しょうぜんじ)」は、高野山真言宗に属する由緒ある寺院で、山号は法隆山(ほうりゅうざん)、院号は地蔵院(じぞういん)、本尊に地蔵菩薩をお祀りしています。
この寺院は、南北朝時代にその起源を持ち、以来、幾多の時代を経てもなお、地域に根ざした信仰と文化を守り続けてきました。
正善寺の起源「法隆山本道寺」
南北朝時代、伊予国の豪族・河野氏は、朝倉郷中村(現在の愛媛県今治市本郷)に、祈願寺として「法隆山本道寺」を建立しました。
この寺を開いたのは、高僧・有開上人です。
創建当初、本道寺はまだ小さなお堂でした、堂内には、本尊の阿弥陀如来が安置され、河野氏一門の家運長久を祈願する護経の札が丁重に奉納されていたと伝えられています。
この本道寺が、正善寺の起源となる寺院です。
創建時の宗派は浄土宗だった
創建当初の本道寺は、現在の正善寺が属する真言宗ではなく、浄土宗に属していました。
当時の浄土宗は、阿弥陀如来への信仰を中心とする教えを広め、庶民から武家に至るまで広く受け入れられていました。
朝倉郷を支えた信仰と文化の中心地
やがて、法隆山本道寺は朝倉郷中全域を寺領とするまでに発展し、その規模は「八町四方」に及びました。
「八町四方」とは約76.8ヘクタール(768,000平方メートル)に相当し、これは現代で言えば東京ドーム約16個分の広さに匹敵します。
さらに境内には、金堂・講堂・塔などの七堂伽藍が整えられ、法隆山本道寺は、地域における信仰と文化の中心地としての地位を確立していきました。
禅宗の寺院「正禅寺」
暦応三年(1340年)、笠松山の麓、行司原(現在の野田)に築かれていた行司原城の城主、岡武蔵守光信(河野重次郎)公は、世の平和と繁栄を祈願し、法隆山本道寺の諸堂を再建立しました。
この再建にあたって、宗派は浄土宗から禅宗(ぜんしゅう)へと改められ、寺号も「正禅寺」へと改称されました。
しかし、この再建からわずか二年後、地域は大きな戦乱に巻き込まれることとなります。
正禅寺を焼いた戦火
南北朝時代(1336年〜1392年)、日本は京都の北朝と吉野の南朝に分かれ、全国各地で激しい内乱が続いていました。
武家や豪族たちは南朝・北朝いずれかに属して争い、国土は長く不安定な時代を迎えていました。
伊予国も例外ではなく、各地で勢力争いが繰り広げられていました。
そのような戦乱のなか、1342年(興国3年・暦応5年)5月、後村上天皇(ごむらかみてんのう)は南朝勢力の回復を図り、新田義貞の弟・脇屋義助(わきやよしすけ)を伊予に派遣します。
しかし、義助は赴任直後、伊予国分寺(現在の伊予市国分時)で急逝してしまいました。
細川頼春の侵攻と世田山合戦
この報を受けた北朝方の武将・細川頼春(ほそかわよりはる)は、これを好機と見て、阿波・讃岐の兵7,000を率いて伊予国へ侵攻しました。
細川勢は川之江城を攻略後、千町ヶ原の合戦に勝利し、さらに椎ノ木峠を越えて府中朝倉郷に攻め込みます。これが「世田山合戦(1342年)」です。
行司原城主・岡武蔵守光信は、行司原城に籠もり奮戦しましたが、 興国3年(1342年)9月、激戦の末に討死。
これにより、周辺の世田山城および笠松城も相次いで落城しました。
世田山合戦は、南北朝期の伊予における重要な局地戦の一つとされ、 南朝方の勢力が伊予国において大きく後退する契機となった戦いでもあります。
この戦乱のなかで、再建されたばかりの正禅寺(旧・法隆山本道寺)も戦火によって焼失し、寺領は北朝方に属した河野通盛によって没収され、北条市にある一族の菩提寺「河野善応寺」へと移されました。
真言宗への改宗と正善寺の誕生
その後、再建された正禅寺は、貞治年間(1362年頃)、真言密法を授かり、これを機に寺号を「正禅寺」から現在の「正善寺」へと改めました。
以後、正善寺は本山を真言宗大覚寺派に属し、密教の教えを受け継ぐ寺院として新たな歩みを始めました。
現在の姿へ
室町時代も末期を迎えた16世紀後半、日本各地では戦国大名たちの抗争が激しさを増し、国土は混乱と変動の時代を迎えていました。
伊予国においても戦乱が絶えず、地域の寺院や集落は、大きな影響を受けることとなります。
こうした時代の荒波のなか、正善寺は現在の地(今治市朝倉南甲410)へと移転しました。
さらにその後、大日本帝国の戦時政策によって、正善寺はそれまで所属していた真言宗大覚寺派から本山を改め、高野山金剛峯寺を本山とする高野山真言宗へと転宗しました。
正善寺と院号『地蔵院』
「正善寺(しょうぜんじ)」の院号「地蔵院」は、本尊である延命地蔵菩薩への篤い信仰と、寺の歴史に深く結びついています。
天平年間(729年〜749年)、奈良の都を拠点に活躍していた高僧・行基菩薩は、庶民に仏教を広めるため、四国各地を巡っていました。
行基は、単なる説法にとどまらず、各地に道や橋、ため池を築き、民衆の暮らしを支えながら、仏の教えを説いて歩いたと伝えられています。
この巡歴のなかで、行基はこの地にも立ち寄り、自ら延命地蔵菩薩の尊像を彫刻し、安置して祀ったといわれています。
この由緒により、正善寺の院号は「地蔵院」と名付けられました。
正善寺に息づく歴史
現在でも、正善寺にはその長い歴史を物語る遺構が残されています。
現在の正善寺では、地蔵菩薩を本尊としてお祀りしていますが、かつて本道寺と呼ばれていた時代から伝わる阿弥陀如来像も、今なお大切に併せて祀られています。
本道寺には、かつて堂塔伽藍の礎石が数多く残されていました。
しかし、時代の移り変わりとともにその多くは姿を消し、現在では、正善寺に運ばれたわずかな礎石と、越智照雄氏のもとに遺された一個を除き、本郷の水利工事によってほとんどが砕石されてしまいました。
それでも、本道寺の記憶は完全に失われたわけではありません。
この地には、今なお本道寺にまつわる地名が静かに息づいています。たとえば、「ふろのもと」は、寺院で湯を沸かし、村人たちに入浴を施した場所。「寺まえ」は、かつての寺の門前に広がった集落の名残。
また、「うら門」と呼ばれる地も、本道寺の存在を偲ばせるものです。
さらに、正禅寺と呼ばれていた時代を物語る遺構も、わずかに残されています。寺殿の玄関前に据えられた左右の石は、正禅寺時代に堂塔伽藍に用いられていた塔の基礎石であると伝えられています。
幾世紀もの歳月を経てもなお、これらの石は、正善寺が歩んできた伝統と文化を静かに語り継ぎ、今も訪れる人々に、その重みと誇りをそっと伝えているのです。