「正善寺(しょうぜんじ)」は、高野山真言宗の寺院で、山号は法隆山、院号は地蔵院です。
「地蔵院」の由来
院号である「地蔵院」は、本尊と深く関係しています。その起源は、人皇四十五代・聖武天皇の御代である天平年間(729年~749年)に遡ります。当時、高僧行基菩薩が二名島を巡る中で、延命地蔵菩薩の尊像を彫刻し、安置して祀ったことが始まりとされています。この由緒により、「地蔵院」と呼ばれるようになり、寺の歴史的特徴を示すものとなりました。
浄土宗から始まった歴史
実は、正善寺はもともと浄土宗の寺院で、笠松山城の城主「河野氏」が朝倉郷中村(現在の本郷)に祈願寺として建立した「法隆山本道寺」に遡ります。開基は高僧・有開上人で、本尊として阿弥陀如来を安置し、河野氏の家門繁栄を祈願する護経の札を奉じていました。
当時、法隆山本道寺は朝倉郷中全域を寺領とするほどの広さを誇り、その規模は「八町四方」に及びました。「八町四方」とは約76.8ヘクタール(768,000平方メートル)に相当し、これは現代で言えば東京ドーム約16個分の広さに匹敵します。この広大な寺領は、寺院の規模や重要性を物語っています。
さらに、寺院には七堂伽藍が整備されており、当時の法隆山本道寺は地域の信仰と文化の中心地として栄えていました。
再建と禅宗への改宗
暦応三年(1340年)、笠松山の麓の行司原(現在の野田)の行司原城主・岡武蔵守光信(河野重次郎)公が世の平和と繁栄を願い、諸堂を再建立し大願成就供養を行った際、禅宗となり寺号を正禅寺と改めました。
しかし、この再建からわずか2年後に、大きな戦火を経験することになります。
世田山合戦と寺の焼失
1342年(興国3年/暦応5年)5月、後村上天皇は南朝の勢力を西国で盛り返すべく、新田義貞の弟・脇屋義助を南軍の総帥として伊予に派遣しました。しかし、義助はその直後病に倒れ、国分寺で急死します。この報せを受けた北朝の武将・細川頼春は義助の死を好機と見て、阿波、讃岐の兵7,000を率いて伊予に侵攻しました。
まず、川之江城を攻め落とし、続けて千町ヶ原の合戦に完勝した細川勢は、椎ノ木峠を越えて府中朝倉郷に攻め入りました。
岡武蔵守光信は行司原城主として大軍の来攻を防戦していましたが、興国3年(1342年)9月に討死し、世田山城と笠松城も落城してしまいました。
正禅寺はこの時の戦火により焼失しました。
現在の「正善寺」
その後、再建された正禅寺は、1362年(貞治年間)に真言密法を授かり、これを機に寺号を「正禅寺」から「正善寺」へと改めました。この改名により、正善寺は真言宗の寺院として新たな歩みを始めました。
さらに、室町時代末期(16世紀後半)には現在の場所へ移転され、現在の正善寺の基盤が築かれました。
現在でも、正善寺にはその歴史を感じさせる遺構が残されています。寺殿の玄関前にある左右の石は、もともとの正禅寺時代に使用されていた塔の基礎石であると伝えられています。この石は、長い歴史を経てもなお、正善寺の伝統と文化を象徴するものとして大切にされています。