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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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汐止明神(今治市・波止浜地区)

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波止浜地区は、瀬戸内海の穏やかな海と干潟、温暖な気候に恵まれた土地で、江戸時代から昭和期にかけて塩の生産で大きく発展した地域です。

当時、塩は保存食の製造や調味料として必要不可欠で、非常に価値のあるものでした。

そのため、波止浜の塩田で生産された塩は全国に流通し、この地域は塩の生産地として大いに栄えました。

塩田は波止浜の経済と暮らしを支える基盤であり、地域の風土と人々の営みの象徴でもありました。

その塩田の工事の過程で誕生した祠が、現在も国道317号線沿い、波止浜興産株式会社の隣、久保病院の駐車場脇にひっそりと祀られている「汐止明神(しおどめみょうじん・潮止明神)」です。

地元では「潮止さん」と呼ばれ今もなお親しまれているこの祠には、塩田造成の難工事を乗り越えるために祈りを込めた人々の思いが伝わっています。

「塩の一大産地」波止浜の歩み

波止浜が塩の一大産地として栄えた江戸時代から昭和期。

当時の日本では、塩は食材の保存や調味に欠かせない必需品であり、生活に深く根付いた重要な資源でした。

人口の増加や都市の発展にともない、塩の需要は年々高まり、各地で藩の財政を支える産業として製塩が奨励されていました。

瀬戸内海沿岸は、干潟が多く温暖で降水量が少ないという製塩に適した気候と地形を備えており、波止浜もその条件を満たしていました。

江戸時代初期から塩田の開発が進み、松山藩の経済を支える重要な産業へと成長していきました。

塩田は波止浜の経済と暮らしを支える基盤であり、地域の風土と人々の営みの象徴でもありました。

「入浜式塩田」塩田での塩作り

波止浜の塩田では、「入浜式塩田」と呼ばれる伝統的な製法が用いられていました。

まず、潮の干満を利用して、堤防の「潮門(しおど)」と呼ばれる門を開け、海水を塩田内に引き入れます。

海水は「汲入(くみいれ)」と呼ばれる水路を通り、塩田の平坦な土の上に広がり、太陽と風の力で水分が蒸発していきます。

塩田の表面は黒く固められた「砂地(さち)」と呼ばれる部分で、ここに海水をまんべんなく広げ、繰り返し蒸発させることで塩分濃度を徐々に高めていきます。

この作業を重ねることで、海水は濃縮され、やがて塩分が結晶化に適した濃度に達し、「鹹水(かんすい)」と呼ばれる状態になり、これを釜屋へ運んで大きな鉄釜で煮詰めることで、白い塩の結晶が生まれました。

過酷な労働と“潮止さん”の役割

このようにして作られる塩は高品質で知られていましたが、その製造工程は非常に過酷なものでした。

炎天下での作業、海水を引き入れ、塩田に均一に広げ、蒸発と濃縮を繰り返し、さらに鹹水を釜屋へ運ぶ一連の工程は、すべて人の手と体力によって行われていました。

特に潮の干満に合わせた海水の引き入れ作業は重要かつ大変なもので、夜明け前や真昼の暑さの中、あるいは真夜中でも作業にあたる必要がありました。

この重要な役割を担ったのが、地元の熟練した労働者たちで、彼らは「潮止(しおどめ)さん」と呼ばれ、尊敬されていました。

潮止さんたちは潮門の開閉を管理し、最適なタイミングを見極めるとともに、堤防や水路の点検・補修を常に行い、塩田の維持に尽力していました。

波止浜の塩田が長年にわたって高品質の塩を生産し続けることができたのは、まさに潮止さんたちの知恵と経験、そして自然と向き合いながら培われた技術によるものでした。

塩田が育んだ地域の発展

塩田産業が成長するにつれて、波止浜の町も大きく発展していきました。

役場には「年寄(としより)」と呼ばれる役人が置かれ、村の行政を担いました。

塩田の現場では「庄屋」が塩田経営や水利の管理にあたり、地域全体が塩田を中心とした自治組織として結束を強めていきました。

こうした背景から、波止浜はやがて独自の地域社会を形成し、明治13年(1880年)には波方村から正式に分村し、「波止浜村」として独立を果たしました。

さらに明治22年(1889年)には町村制の施行により、周辺の村々と合併し、明治41年(1908年)には「波止浜町」として町制が敷かれました。

その間も塩田産業は波止浜の経済を支え続け、多くの家族が塩田で生計を立てていました。

白く輝く塩田の砂地や、塩を運ぶ荷車で賑わう町の光景は、波止浜の誇りであり、瀬戸内海有数の塩の産地としてその名を全国に知らしめていたのです。

海賊の家系!?長谷部九兵衛

この塩の町「波止浜」の繁栄の礎を築いたのが、江戸時代初期に波止浜へ塩田技術を持ち込み、その開発に尽力した長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ)です。

長谷部九兵衛は、もともと瀬戸内海を支配した村上水軍の御三家のひとつ来島村上氏に仕えた重臣・長谷部家の一族です。

来島村上氏の決断と村上水軍の分裂

この地は戦国期、瀬戸内海の海上交通を支える要衝として、伊予の守護大名・河野氏と村上水軍の連携によって秩序が保たれていました。

村上水軍は「海賊」とも呼ばれますが、実際には海を支配する武士団であり、通行する船から関銭を徴収して海上秩序を維持し、河野氏の海上権益を支えてきました。

しかし天正5年(1577年)、織田信長が羽柴秀吉を総大将に任じて中国地方へ侵攻を開始すると、同盟していた毛利氏は河野氏を支援する余力を失いました。

これによって河野氏は長宗我部氏の攻勢にさらされ、次第に劣勢へと追い込まれていきました。 こうした情勢の中、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ)は重大な決断を迫られました。

父・通康がかつて河野本家の家督を継ぐ約束を反故にされたことや、母方の河野一族が内部抗争で没落した経緯もあり、通総の心には河野氏への不信が根強く残っていました。

ついに天正9年(1581年)、通総は羽柴秀吉と手を結び、河野氏から離反します。20隻を超える軍船を率いて河野氏の家臣領へ攻め込み、長年の主従関係を断ち切ったのです。

これにより、村上水軍は毛利方に忠誠を誓った因島村上氏・能島村上氏と、織田方についた来島村上氏のあいだで立場が分かれることになりました。

秀吉のもとへ逃れた来島村上氏

その後、毛利氏や河野氏は再三にわたり通総に考え直すよう働きかけましたが、その決断が揺らぐことはありませんでした。

痺れを切らした毛利氏は天正10年(1582年)5月、能島・因島両氏に攻撃を命じ、来島村上氏の拠点である風早郡の難波・正岡へと侵攻させます。

戦火はやがて来島城にまで及び、越智郡大浜浦を焼き払い、大島の椋名にも攻め入るなど、かつて同族として海を支配した村上水軍同士の戦いは苛烈を極めました。

6月27日には大浦ノ砦が陥落し、いよいよ海陸双方から来島城への総攻撃が開始されます。

毛利・河野連合軍、そして同族である能島・因島両氏の容赦ない攻撃により、来島村上氏は滅亡寸前の危機に追い込まれました。

この絶体絶命の状況で、当主・来島通総は拠点・来島を放棄する決断を下します。天正11年(1583年)3月、夜の風雨に乗じて毛利・河野の包囲を突破した通総は、瀬戸内を南下して羽柴(豊臣)秀吉の陣営へと脱出。

こうして来島村上氏は秀吉の庇護を受けることで一族の存続を図ることとなったのです。

河野氏の滅亡と来島村上氏の存続

しかし、天正13年(1585年)、羽柴秀吉が四国攻めを開始すると、今度は来島村上氏が豊臣軍の先鋒として再び伊予の地に上陸しました。

かつて河野氏と共にこの地を守っていた来島水軍は、今や豊臣方の一翼を担い、瀬戸内海の制海権を確保するために大きな力を発揮しました。

この戦いによって、長らく伊予を支配してきた河野氏はついに滅亡しました。

毛利方に属した能島・因島村上氏は、豊臣政権によって海賊的な活動を厳しく制限され、次第に勢力を失っていきました。

しかし、豊臣方に属した来島村上氏だけは例外的に存続を許され、伊予の国衆として一定の地位を保ち続けることができたのです。

「関ヶ原の戦い」波止浜から豊後森藩へ

さらに秀吉の死後、再び時代は大きく動きます。

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発しました。

当初、来島村上氏の当主・来島康親(くるしま やすちか)は、旧主である毛利氏や豊臣家とのつながりを重んじ、西軍に与する姿勢を見せていましたが 決戦直前になって東軍(徳川家康側)へ内通するという重大な決断を下しました。

この選択によって、戦後の康親は一時的に本領安堵を受けましたが、最終的には所領を没収されてしまいます。

康親自身は数名の家臣とともに京都・伏見に身を寄せ、再起の道を模索。やがて大阪へと移り住み、必死の思いで復権の機会を探り続けました。

康親に大きな転機が訪れました。

妻の伯父で義父にあたる福島正則が、その口添えと取りなしをしてくれたのです。

この後押しによって、慶長6年(1601年)、康親は豊後国(現在の大分県)玖珠郡・日田郡・速見郡にまたがる一万四千石の所領を与えられることになり、家臣とともに移住しました。

こうして森藩(のちの豊後森藩)の初代藩主として、新たな地で大名家の歩みを再び始めることとなったのです。

しかし、来島村上氏が移された豊後森藩は内陸に位置しており、かつてのように瀬戸内の海を舞台に活躍することはもはやできませんでした。

一方、能島村上氏と因島村上氏もまた、豊臣政権によって海賊的な活動を厳しく制限され、江戸時代に入ると次第にその勢力を弱めていきました。

能島氏は旗本として幕府に仕える小身の家となり、因島氏もまた地方の小大名として存続しましたが、往年のように瀬戸内海を支配する水軍としての力は完全に失われていきました。

こうして、かつて瀬戸内海に君臨し、日本最大の水軍としてその名をとどろかせた「村上水軍」は、関ヶ原の戦いを経てその歴史に幕を閉じたのです。

波止浜に残った長谷部家

来島村上氏が豊後森藩へと移封されたのちも、家臣のすべてが主君に従ったわけではありませんでした。

瀬戸内に留まった者の中には、漁師として生計を立てる者、他藩に仕える者、あるいは村に土着して新たな生活を始める者などがおり、さまざまな道を歩んでいきました。

重臣であった長谷部家もまた来島氏と運命を共にせず、波止浜に残り続けました。

やがて慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで功績を挙げた加藤嘉明が伊予20万石を与えられ、松山藩が成立すると、波止浜村は松山藩領となり、瀬戸内海に面した重要な港町として発展していきました。

海を知り尽くした村上水軍の旧臣や一族の中には、その専門性を買われ、松山藩のもとで海事や漁村の運営に携わる者が少なくありませんでした。

松山藩に代々仕えることとなった長谷部家もまた、波止浜を含む波方村の湾岸地域で浦役人を務め、漁村の統治や民政にあたりました。

浦役人とは、漁村社会における指導層であり、藩の「浦奉行」の指揮を受けて漁村の行政や民政を担当した人々です。

農村に「名主(庄屋)・組頭(年寄)・百姓代」の三役があったのと同じように、漁村には浦役人(がいて、年貢の納入や漁業の管理、村の取りまとめを担いました。

彼らは百姓身分や町人身分でありながら、漁業や海運の知識を活かして藩の海事行政を支える役割を果たしていたのです。

松山藩に代々仕えることとなった長谷部家もまた、波止浜を含む波方村の湾岸地域で浦役人を務めました。

波止浜塩田の開祖・長谷部九兵衛

長谷部家の長男として生まれた長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ・生年不詳)は、明暦二年(1656)、父・義信が隠居すると家督を継ぎ、松山藩より二人扶持を給されました。

扶持(ぶち)とは武士に与えられた給与の一種で、米の支給量を「何人分の食料に相当するか」で表す制度です。

二人扶持とは、成人二人が一年間食べるのに足りる米の分量を意味しており、およそ二石(約300キログラム)前後とされます。

これによって九兵衛は藩から正式に家臣として遇され、地域における責務を果たす立場を得ました。

その後、九兵衛は一族の一員として藩政に従いながら、海に根ざした知識と経験を活かして地域の統治や漁村の運営に携わりました。

かつて村上水軍の重臣であった家柄を、漁村社会を取りまとめる存在へと転じさせ、やがて波止浜塩田の開祖として歴史に名を残すことになります。

松山藩の財政を支えた“塩”

江戸時代の藩政においては、各藩は年貢米だけに頼らず、現金収入を確保することが大きな課題となっていました。そのため、各藩は地域の特性を活かした産業を育成し、経済を安定させようと努めました

その中で、松山藩が特に注目したのが「塩」でした。

当時、塩は人々の生活に欠かすことのできない必需品でした。

保存食の製造や調味料としての利用はもちろん、魚介類の加工、味噌や醤油といった発酵食品の仕込みにも不可欠であり、その需要は常に高かったのです。

密かに学んだ塩田技術

この波止浜の塩田開発と港町の整備において、重要な役割を果たした人物のひとりが長谷部九兵衛です。

九兵衛は、波止浜という地を再び繁栄させるには新たな産業が必要であると考え、その可能性を塩田に見出したのです。

当時、瀬戸内の沿岸では「入浜式塩田」という革新的な製塩技術が登場し、飛躍的な生産効率の向上をもたらしていました。

その先進地のひとつが安芸国竹原であり、そこは全国にも名を知られた塩の名産地でした。

しかし、当時の封建社会において製塩技術は「藩の機密」とされ、他藩の者が学ぶことは固く禁じられていました。

そこで九兵衛は乞食(こじき)になって、日雇い労働者としてそこに潜入することにしました。

過酷な労働に従事しながらも、目にした工程を細かく観察し、時に隠れて絵図や書き付けを残すことで、その技術を一つひとつ自分のものにしていきました。

九兵衛の浦手役就任と塩田開発

こうして長い苦難を経て十分な知識と技術を身につけた九兵衛は、ついに故郷・波止浜へと帰り着きました。

この九兵衛の情熱と技術に心を打たれた松山藩は、塩田開発を正式に支援することを決め、九兵衛を「浦手役(うらてやく)」に任命しました。

浦手役とは、海浜や漁村の管理を担い、海事行政や漁村経営に深く関わる役職であり、藩政において重要な実務を取り仕切る立場でした。

こうして、九兵衛は波止浜における製塩事業の第一人者として歩みを始め、松山藩の財政を支える「塩の道」を切り拓いていったのです。

「最後の難所」塩田と潮止明神の誕生

天和三年(1683)正月十一日〔旧暦1月11日・新暦2月17日〕、波止浜塩田の築造に先立ち、土地の神々に工事の安全と繁栄を祈る地祝(地鎮祭)が執り行われました。

ここから始まった大事業は、野間郡奉行兼代官・園田藤太夫成連(そのだ とうだゆう なりつら)が陣頭指揮をとり、野間・越智・桑村の三郡から数百名に及ぶ人夫を集めて進められました。

やがて塩田は着実に形をなしつつありましたが、工事が進むにつれ、最大の難関が立ちはだかります。それが「潮留(しおどめ)」と呼ばれる堤防の最終接続工事でした。

南北270間(約491メートル)に及ぶ波除堤防を、南方の金子側と北方の宮ノ下側から築き進め、最後に中央でつなぎ合わせるという最終作業は、干潮のわずかな時間の中で仕上げねばならない極めて困難な工程でした。

天和三年三月九日、ついに決行の日が訪れます。

波方や越智郡の村々に加え、領外からも人夫が集められ、総勢1083名が動員されました。

南方の金子側と、北方の宮ノ下側から築き進められた堤防は、まさに最後の一押しを残すのみ。

人々は干潮の短い時間を逃さぬよう、土石を一気に積み上げ、潮の流れを堰き止めようと必死の作業を繰り広げました。

そしてついに、南北から築き上げられた堤防は一本に結びつけられ、愛媛県で初めてとなる入浜式塩田施設が誕生したのです。

藩主自ら視察

同年8月には、ここで採れた初めての塩が松山藩主・松平定直に献上されました。

さらに元禄元年(1688年)2月には、定直自らが波止浜を訪れ、塩田の様子を視察したと伝えられています。

全国的にも藩主による塩田視察の例は限られており、この出来事は波止浜塩田の価値を改めて浮かび上がらせるものとなりました。

「汐止明神」牛の人柱と堤防の完成

「潮留め」の最終段階では、当時の人々の信仰にもとづいた特別な儀式が行われました。

波方村から連れてこられた一頭の生牛が、人柱(ひとばしら)の代わりとして堤防の接合部に生き埋めにされたのです。

人柱とは

人柱とは、建造物の完成や長久を神に祈願するため、人や動物を犠牲として土中に埋める習俗を指します。

史実として確認される例は少ないものの、日本各地に伝説として語り継がれており、特に堤防や城郭といった大規模な土木工事にまつわるものが多く残されています。

犠牲となった存在は、霊的な力を持つ「柱」として神聖視され、その霊が建造物を守護すると信じられてきました。

波止浜の塩田の場合、人ではなく牛が供えられたことで人身の犠牲は避けられつつも、信仰儀礼としての意味が強く保たれていたと考えられます。

汐止明神と汐留の松

堤防完成後、その牛の霊を鎮め、工事の成功と塩田の繁栄を祈念して、現地には一本の松が植えられ、小さな祠が建てられました。

この祠は「汐止明神(しおどめみょうじん・潮止明神)」、植えられた松は「汐留の松」と呼ばれるようになりました。

汐止明神は塩田と港の繁栄、地域の安全を祈る守護神として厚く信仰され、また汐留の松はその象徴として人々の記憶に残り続けました。

「長谷部九兵衛碑」

長谷部九兵衛は貞享元年(1684)に没しましたが、その功績は後世まで語り継がれ、昭和29年(1954)には波止浜塩業組合長・原真十郎の撰書によって、汐止明神の隣に記念碑が建立されました。

塩田産業の終焉と現在の波止浜

昭和30年(1955年)、波止浜町は今治市に編入合併され、地域の行政的な枠組みも新しい時代を迎えました。

しかし、その直後から波止浜の基盤産業であった塩田に大きな試練が訪れます。

昭和30年代に入ると、世界的な経済の変化が日本全体の製塩業に押し寄せ、波止浜もその例外ではありませんでした。

アメリカやメキシコなどから安価な岩塩が大量に輸入されるようになり、国内市場における塩の価格は急速に下落していきます。

一方で国内でも、真空蒸発法やイオン交換膜法といった近代的かつ効率的な製塩法が普及し始め、従来の入浜式塩田による製塩は次第に時代遅れとなっていきました。

「塩業整備臨時措置法」と塩田廃止

こうした状況を受けて、日本政府は塩の供給過剰を抑制し、産業を近代化するために「塩業整備臨時措置法」を制定。

昭和34年(1959年)から昭和35年(1960年)にかけて第3次塩業整備を実施しました。

これにより全国の伝統的な塩田は整理・廃止されることとなり、波止浜塩田もまたその対象となりました。

当時の塩業組合長であった原真十郎は、反対の声が渦巻く中で「時代の流れを先取りしなければならない」と判断し、波止浜の塩田と製塩工場を早期に廃止しました。

こうして数百年にわたり地域の繁栄を支えた塩田産業は、昭和34年(1959年)をもって幕を下ろしたのです。

波止浜興産の設立と跡地利用

しかし、塩田廃止は波止浜の衰退を意味するものではありませんでした。

塩業組合を母体に、波止浜化学工業株式会社(のちの波止浜興産)が設立され、まずは塩業の副産物である加里肥料や臭素の製造を手掛けました。

これは、製塩とともに得られるにがり(苦汁)を活用する事業であり、廃棄物を資源化して経済的に循環させる先進的な取り組みでもありました。

やがて塩田廃止によって製塩に依存できなくなると、会社は思い切って不動産開発と新産業育成へと舵を切りました。

塩田跡地は19万坪(約62万7,000㎡)にも及ぶ広大な敷地を有しており、これを基盤として波止浜興産は宅地造成を積極的に進め、地域人口の増加と波止浜の町の再生に大きく貢献しました。

さらに、波止浜興産は単なる宅地開発にとどまらず、地域住民の生活や娯楽を支える事業も次々に展開しました。

  • ゴルフ練習場「アクティはしはま」
  • 自動車教習所「はしはま自動車教習所」
  • ガソリンスタンド
  • 保険代理業

これらは単に企業利益を追うだけでなく、「地域とともに歩む、儲けは地域に還元する」という経営理念にもとづいて行われました。

特に自動車教習所は、当初は縄を引いてコースをつくり、練習切符を販売するという素朴な「自動車練習所」から始まりました。

その後、免許制度が整備されると正式な教習所へと発展し、地域の交通社会化を支える存在となりました。

また、ゴルフ練習場も波止浜の娯楽文化の場として親しまれ、当初は糸巻きボールを使う素朴なものでしたが、のちに地域住民の余暇活動を支える場へと成長しました。

さらに土地分譲においては、必ずしも利益が大きいわけではなかったものの、「人口を増やして町を活性化させることこそが波止浜の未来につながる」という理念のもとに続けられました。

こうした取り組みによって、波止浜興産は単なる企業を超え、町づくりの一翼を担う存在として地域社会に根を下ろしたのです。

造船の町への転換

波止浜はかつて塩で栄えた町でしたが、塩田の廃止後、その跡地の一部は造船関連の工場や事業所の用地として活用されました。

高度経済成長期に入ると、造船業は今治市の主要産業へと発展し、波止浜はその拠点のひとつとして栄えていきます。

近代造船工業の始まりは明治35年(1902年)、波止浜船渠(はしはませんきょ)の創業にさかのぼります。

大正期には鉄鋼船の建造を開始し、昭和15年(1940年)には住友グループの傘下に入りました。

戦後は独立して「来島船渠」となり、昭和41年(1966年)に来島どっくと改称。

その波止浜工場は昭和63年(1988年)に新来島どっく波止浜工場となり、現在に至ります。

さらに昭和18年(1943年)、戦時下の企業合同政策によって、伊予木鉄船と今治造船が波止浜塩田の一部を埋め立てて立地しました。

伊予木鉄船は戦後「波止浜造船」と改称し、のちに修繕船主体のハシゾウ波止浜工場へと継承されます。

一方の今治造船は木造船から鋼船へと転換し、日本を代表する造船会社へと発展しました。

昭和30年代には全国的に木造機帆船の鋼船化が進み、今治の造船所もブロック工法やシリーズ建造方式を導入することで効率的な建造を実現。

波止浜湾には一万トン級の大型船が浮かび、その周囲には造船所が軒を連ねました。

その姿は「造船長屋」と呼ばれ、全国的にも稀有な光景として知られるようになります。

平成7年(1995年)の時点で、波止浜湾内には以下の主要造船所が並び立っていました。

  • 新来島どっく波止浜工場(建造)
  • 今治造船(建造)
  • 檜垣造船(建造)
  • 浅川造船(建造)
  • 西造船(建造)
  • ハシゾウ波止浜工場(修繕)
  • 繁造船(修繕)

港にそびえるクレーンや巨大な船体を組み立てるドック、ずらりと並ぶ造船所の建屋。波止浜の入り江は、かつて塩田が広がっていた面影を残しながらも、いつしか造船の町へと姿を変えていきました。

そしてこの産業転換こそ、現在の今治が誇る一大産業の礎となったのです。今治市はタオルと並び、「造船の町」として全国にその名を知られる存在となりました。

現在では国内における造船建造隻数の約20%を担う一大集積地となり、おびただしい数の船舶が波止浜をはじめとする造船所群から送り出される船は、国内航路のみならず世界の海を駆け巡り、今治の名を世界に広めてきました。

田の記憶

このように、今では塩田そのものの姿は失われましたが、波止浜の町には今もなお塩田時代の記憶が息づいています。

かつて築かれた堤防の上には現在、国道317号線が通り、人々の暮らしや産業を支え続けています。

塩田の名残を示す「内堀」「地堀」といった地名は、当時の営みを静かに伝える証となっています。

また、堤防完成の際に植えられた「汐留の松」は一度は枯れましたが、その後に新たな松が植え継がれ、隣接する汐止明神、波止浜塩田の開祖を顕彰する長谷部九兵衛碑とともに、今も地域の人々に篤く信仰されています。

さらに、塩業組合や塩田地主の屋敷が残る町並みには、往時の繁栄を偲ばせる重厚な建物が点在し、製塩業によって築かれた波止浜の歴史的風景を形づくっています。

これらの痕跡は、波止浜が「塩の町」として栄えた時代を物語る貴重な文化遺産であり、地域の誇りでもあります。

そして「波止浜」という地名もまた、塩田と切り離せない由来を持っています。

  • 町場を「波止町(はしまち)」、塩を生産する塩田を「浜(はま)」と呼び、それが合わさって「波止浜」となったとする説。
  • 塩田開発に伴い、海の潮を止めるために築かれた堤防を「波止(はし)」と呼び、それと「浜」が結びついたとする説。

いずれの説であっても、この地名が塩田の歴史と深く結びついていることに変わりはありません。

かつて塩を生み出した波止浜は、時代の流れとともに造船の町へと姿を変えました。

しかし、そこに生きた人々の記憶と営みは、地名や祠、町並み、そして地域の語り継ぎによって、今なお確かに残されているのです。

かつて塩を生み出した波止浜は、時代の流れとともに造船の町へと姿を変えました。

しかし、そこに生きた人々の記憶と営みは、地名や祠、町並み、そして地域の語り継ぎによって、今なお確かに残されているのです。

神社名

汐止明神(しおどめみょうじん)

所在地

愛媛県今治市内堀1丁目1

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