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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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祖霊社(今治市・大三島)

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「祖霊社(それいしゃ・祖霊殿)」は、「日本総鎮守」の尊称を受けた、伊予国随一の格式を誇る大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)の重要な末社として、古くから地域の人々の崇敬を集めてきました。

二柱の祭神

その名のとおり、祖霊社には、地域の信徒をはじめとする祖霊(先祖の霊)が祀られています。

さらにもう一柱、国造りの神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと・大国主大神)も祭神としてお祀りされています。

この二柱を祀る祖霊社は、生と死、過去と現在、神と人とをつなぐ、静かな祈りの場となっています。

「祭神・大国主命」国土の守護神

大国主命(おおくにぬしのみこと)は、日本神話に登場する国造りの神様です。

農耕・医療・産業・縁結びなど、私たちの暮らしの基盤となるさまざまな分野を切り開いた神として、古くから広く信仰されてきました。

その神格は非常に多面的で、「大己貴命(おおなむちのみこと)」「大国玉命(おおくにたまのみこと)」「八千矛神(やちほこのかみ)」など、古典の中ではさまざまな名前で登場します。

のちには「だいこくさま」として親しまれ、福の神・縁結びの神として民間信仰の中にも深く根づいていきました。

また、自ら築いた地上の国土「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を天照大御神(あまてらすおおみかみ)に譲り渡し、幽冥界(かくりよ)を治める神となったことから、「幽冥主宰大神(かくりよしゅさいのおおかみ)」とも称されるようになりました。

このことから、大国主命は現世を支える神であると同時に、死後の魂を導く神としても、日本人の暮らしと信仰を深く支えてきました。

「祭神・信徒祖霊」地域に生きた人々の祈り

もう一柱の祭神である「信徒祖霊(しんとそれい)」とは、古くからこの地に暮らし、大山祇神社の信仰を守り伝えてきた人々の御霊(みたま)を意味します。

神道では、人が亡くなると魂が浄化され、「祖霊(それい)」となって家や土地を見守る存在になるとされます。

祖霊は単なる故人ではなく、神と同じように敬われるべき存在であり、その依代(よりしろ)として祀られるのが「祖霊社(それいしゃ)」です。

近代以降、神仏分離や廃仏毀釈の動きの中で、仏教における位牌や仏壇に代わるものとして、神道式の供養施設である祖霊社の整備が全国で進められました。

大山祇神社においてもこの流れの中で祖霊社が設けられ、代々の信徒や地域の人々の御霊が祀られるようになりました。

祖霊社の歴史「祖霊社の起源」

このような祖霊信仰は、時代の移り変わりとともにかたちを変えながらも、人々の暮らしと深く結びついて守られてきました。

では、大山祇神社の祖霊社は、いつ、どのような経緯で整備され、現在に至るのでしょうか。

その鍵となるのが、日本の宗教史上で長らく続いた「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という思想です。

神仏習合

神仏習合とは、日本古来の神道と、外来の宗教である仏教とを対立させることなく、調和的に結びつけて信仰の対象とする、日本独自の宗教観です。

この考え方は、仏教が国家の宗教として受け入れられた奈良時代(8世紀)にすでにその兆しが見られ、平安時代に入ると、社会制度や神社の祭祀体系の中で、より体系的に整えられていきました。

そしてこの共存関係を理論づけたのが、平安時代中期に確立された「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」です。

本地垂迹説

本地垂迹説とは、日本における神仏習合の理論の中核となる思想で、「日本の神々は、仏や菩薩が人々を救うために姿を変えて現れた存在である」とする考え方です。

  • 本地(ほんじ)
    仏や菩薩の本来の姿。人々を救済する根源的な存在。
  • 垂迹(すいじゃく)
    その仏や菩薩が、人々にわかりやすく教えを伝え、救うために現世で神の姿を取ったもの。

この考え方により、神と仏は以下のように関連づけられました。

  • 天照大神(あまてらすおおみかみ)= 大日如来(だいにちにょらい)
  • 八幡神(はちまんしん)= 阿弥陀如来(あみだにょらい)
  • 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)=釈迦如来(しゃかにょらい)

このように神々が仏教的な体系の中に位置づけられることで、日本人の信仰において神と仏は互いに矛盾するものではなく、むしろ補い合い、共に人々の暮らしと心を支える存在として受け入れられていったのです

神宮寺の設立と役割

こうした思想を具体的に体現するため、奈良時代から 全国各地の神社の境内やその隣接地に、神社に付属する仏教寺院が設けられました。

それが、「神宮寺(じんぐうじ)」です。

神宮寺では、神社の御祭神に対応する本地仏が本尊として安置されることも多く、仏教式の供養や読経、写経などが行われる場として機能しました。

そこでは神と仏の両方が祀られ、神事と仏事が一体となった儀礼が盛んに営まれていました。

また、地域によっては僧侶が神職を兼ねる「神職兼僧侶」という独特の制度も生まれ、神仏習合の実践的なあり方を象徴する存在となっていきます。

神宮寺は、「神供寺」「神護寺」「宮寺」「神願寺」などとも呼ばれ、呼称の違いは地域や時代によって異なりましたが、いずれも神々に対して仏教的な供養や儀礼を行う寺院として、神社と仏教を結びつける役割を果たしていました。

大山祇神社の神宮寺と伝承

大山祇神社でも、こうした神仏習合の中で、御祭神「大山積神」を仏教の「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」という仏の姿で祀るため、現在の祖霊社の場所に神宮寺が建てられました。

さらに、神域の象徴である生樹の御門(いききのごもん)を進んだ先には、神宮寺の奥の院(愛媛県今治市大三島町宮浦3173)が設けられていました。

この神宮寺の創建については、大山祇神社に伝わる古文書『三島宮御鎮座本縁(みしまぐうごちんざほんえん)』に、記録されています。

保延元年(1135年)、天下は突如として闇に包まれました。

三日間、太陽も月も姿を消し、空は厚い雲で覆われ、人々はその不吉な暗闇に恐れおののきました。

昼夜を問わず、空には軍陣が進軍するかのような轟音が響き渡り、その音はまさに雷鳴のように響き、民の不安は限界に達しました。

この時、大山積神(おおやまつみのかみ)より託宣が下され、「吾は、諸々の大地祇(国津神々)を率いて、これ(天変・異変)を掃ひ除こう(祓おう)」と告げられました。

するとその託宣の後、天候は急変し、雲が晴れて眩しい陽光が戻りました。人々はこの奇跡に心を打たれ、喜びと畏敬の念から遠近を問わず神社に詣で、数日間にわたり参拝者が絶えなかったと伝えられています。

この伊予国で起きた出来事は朝廷の天皇(崇徳天皇)の耳にも届き、天皇は藤原忠隆を勅使として派遣し、大山祇神社の本宮から末社に至るまでを新たに造営するよう命じました。

さらに、天地創造の教えを踏まえ、雷神・高龗(たかおかみ)を加えて三柱の神(大山積神を含む)を奉る「三宮祭祀」が正式に始まりました。

これにより、現在の大山祇神社の本殿の形が完成しました。

さらに小さな礼拝所を作り、そこに大山積神の本地仏とされる「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」の像を安置しました。

この仏は東西南北の四方と八方を守護する存在とされ、さらに、摂社や末社の神々の本地仏も左右に並べられました。この礼拝所は「仏供院(本寺堂)」とも称されました。

こうして建立された神宮寺は、時代の流れとともにその姿を変えながらも信仰の灯を絶やすことなく受け継がれ、やがて現在の祖霊社へとつながっていくこととなります。

「月光山神宮寺」24坊の僧坊

やがて山号を「月光山(がっこうざん)」とし、「月光山神宮寺」と称されるようになりました。

そして、大山祇神社の神域において、神仏習合の理念のもと、神社を護持・補完する仏教寺院としての役割をいっそう強めていきます。

月光山神宮寺が最も隆盛を極めた時期、寺院の周囲には なんと以下の二十四坊(にじゅうよんぼう)にもおよぶ「塔頭(たっちゅう)」が神域に設けられていたと伝えられます。

  • 安楽坊
  • 泉楽坊
  • 大谷坊
  • 大善坊
  • 地福坊
  • 通蔵坊
  • 中之坊
  • 南光坊
  • 西光坊
  • 西之坊
  • 新泉坊
  • 上臺坊
  • 尺蔵坊
  • 宝蔵坊
  • 宝積坊
  • 本覚坊
  • 円光坊
  • 北之坊
  • 山乗坊
  • 東円坊
  • 東之坊
  • 乗蔵坊
  • 瀧本坊
  • 光林坊

「塔頭(たっちゅう)」とは、本寺に附属して設けられた院坊のことであり、僧侶の住居であると同時に、祈祷や法要の奉修、地域の教化、巡礼者の接待など、多様な宗教的実践の場でもありました。

それぞれの坊は固有の名を持ち、一定の宗教的役割を果たしながら信徒と深い関係性を築いており、神宮寺を中心として大三島の各地に広がり、「島全体が信仰の場」ともいえる荘厳な霊場空間を形成していたのです。

八坊の「別宮」移転

しかし、時代の流れとともに、神宮寺を取り巻く社会や信仰の環境も少しずつ変化していきます。

その大きな転機となったのが、神宮寺に付属していた24坊のうち、以下の8坊が伊予国今治市にある「別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)」の近隣へと移転したことでした。

  • 南光坊
  • 中之坊
  • 大善坊
  • 乗蔵坊
  • 通蔵坊
  • 宝蔵坊
  • 西光坊
  • 円光坊

この移転は、単なる地理的な移動ではなく、信仰の在り方や社会的必要に対応した霊場の再編成ともいえるものでした。

命がけの海路と、別宮の創建

別宮大山祇神社は、その名の通り、大三島に鎮座する本宮である大山祇神社の「別宮(べっく)」として、本宮の御神霊を勧請し、その神威(しんい)を正統に受け継ぐ祈りの拠点として創建された神社です。

その創建には、当時の地理的・社会的な事情が深く関係していました。

大山祇神社(本宮)が鎮座する大三島への参拝には、しまなみ海道のような橋や道路といった交通インフラが一切存在しなかった当時、船で海を渡る以外に手段はありませんでした。

しかし、その航海は、現代のようにGPSやエンジン、レーダーといった航海技術や安全設備が整っていたわけではなく、すべてが自然と人の経験に頼るものでした。

また、船は鉄製ではなく、風と潮流を頼りに進む木造の帆船が主流であり、船頭たちは天候と潮を読みながら、命懸けで舵を取っていたのです。

そのため、ひとたび天候が崩れれば進路を見失い、荒波にのまれて命を落とすことも少なくありませんでした。

加えて、瀬戸内海は無数の島々や岩礁が点在し、潮の干満によって潮流は複雑に変化します。

中でも来島海峡は、「日本三大急潮流」の一つに数えられ、最大で10ノット(時速約18km)にも達する激しい潮の流れや渦、逆流が発生することで知られています。

古来より、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と唄われるほどの海の難所であり、この海域を越えての参拝は、まさに命がけの行為だったのです。

このため、安全に、そして日常のなかでいつでも大山祇神に祈りを捧げられる場所が、人々の間で切実に求められるようになりました。

その願いに応えるかたちで、今治の地に本宮の神威を正統に受け継ぐ祈りの拠点、別宮大山祇神社が創建されたのです。

そして別宮大山祇神社の誕生にともない、その祭祀を支える体制もまた今治の地に必要とされました。

こうして、大山祇神社の神宮寺に属していた塔頭・八坊の僧侶たちが今治へと移住し、別宮大山祇神社を中心とする新たな信仰空間が少しずつ形づくられていったのです。

残された十六坊と大三島の信仰継承

一方、神宮寺の本拠地である大三島には、以下の16坊が残されることになりました。

  • 安楽坊
  • 泉楽坊
  • 大谷坊
  • 地福坊
  • 西之坊
  • 新泉坊
  • 上臺坊
  • 尺蔵坊
  • 宝積坊
  • 本覚坊
  • 北之坊
  • 山乗坊
  • 東円坊
  • 東之坊
  • 瀧本坊
  • 光林坊

これらの塔頭坊は神宮寺のもとに留まり、大三島における神仏習合信仰の中心としての役割を果たし続けました。

天正期に残された四坊

元亨2年(1322年)には兵火によって社殿が焼失したものの、速やかに復興が進められ、再び地域の信仰を集める場として機能しました。

しかし、時代が下るにつれて戦乱や社会情勢の変化により、これらの坊も次第に姿を消していきます。

多くの僧が戦場に赴き、坊も戦乱によって消失してしまうことが続き、天正5年(1577年)には以下の4つの坊だけが存続していました。

  • 東円坊
  • 法積坊
  • 上大坊
  • 地福坊

この時代、残された四人の僧侶たちは、それぞれ家庭を持ちながらも神宮寺を守り続け、日々の法要や地域の祈願を行い、神宮寺の伝統と信仰を守るべく務めを果たし続けました。

「祖霊社」の誕生

明治に入ると、日本は明治維新という歴史的な転換点を迎えました。

新たに誕生した明治政府は、近代国家の建設に向けて中央集権体制の確立を進めるとともに、宗教政策においても抜本的な改革を打ち出します。

そのひとつが、明治元年(1868年)に発布された「神仏分離令」でした。

この布告により、長らく日本社会の中で共存してきた神道と仏教の「神仏習合」体制が否定され、全国の神社と寺院は明確に分けられることとなります。

結果として、全国各地で寺院の廃止、仏像や仏具の破壊、僧侶の還俗などが相次ぐ「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の動きが広がり、数百年にわたって営まれてきた信仰の姿は大きな転換を迫られました。

この波は、瀬戸内海の大三島に鎮座する大山祇神社にも及びます。

明治6年(1873年)、月光山神宮寺は正式に廃寺となり、その本堂は大山祇神社の末社として新たな歩みを始めることになったのです。

このとき、出雲大社から大国主命を勧請し、あわせて地域の信徒たちの祖霊、すなわち氏神や祖先の御霊も祀る場として整備されます。

境内には「奥津城(おくつき)」と呼ばれる神道形式の墓所も設けられ、祖先崇拝の中心としての役割を担うようになりました。

こうして創建されたのが、現在の祖霊社(祖霊殿)です。

また、神宮寺の奥の院は大山祇神社の奥の院となり、本尊には阿弥陀如来坐像が、両脇には観音菩薩立像と勢至菩薩立像が安置されました。

東円坊の独立と文化財の継承

神仏分離によって神宮寺が廃寺となった後、その塔頭として境内に点在していた四坊も次々に廃止されていきました。

しかし、その中で特に大きな役割を担っていた東円坊だけは存続を許され、大山祇神社から切り離されて独立した寺院として新たな道を歩むこととなります。

この独立の過程で、神宮寺が長年所蔵してきた数々の仏教文化財は、廃棄や流出を免れるために東円坊へと移されました。

移された品々には、神宮寺の本尊として信仰されてきた仏像、長い歴史を刻んだ経典、そして神仏習合の時代を物語る寺宝の数々が含まれていました。

現在もこれらの文化財は東円坊に大切に保管されており、大三島における神仏習合の歴史と、明治の宗教改革による大きな転換を静かに伝えています。

放火によって焼失

祖霊社は、入母屋造りの落ち着いた佇まいを見せる社殿ですが、装飾的な華やかさは一切ありません。

それは、この場所があくまでも信徒の祖先への祈りと敬いを込めた特別な場であるためです。

そのため一般の神社に見られるような賽銭箱や鈴は設置されておらず、社殿内部も神職と信徒の家族だけが立ち入ることを許され、一般参拝者が直接中に入ることはできません。

また、建物は金属フェンスと有刺鉄線で厳重に囲まれており、その佇まいは神社というよりも、静かに守られた和風の倉庫を思わせます。

こうした厳重な防護が施された背景には、平成の時代に発生したある事件が深く関わっていると考えられています。

平成4年(1992年)の放火事件

平成4年(1992年)10月、極左暴力集団(過激派)による放火事件が発生しました。

この集団は「日帝残滓(にっていざんし)を焼却処分する」という主張を掲げ、祖霊社に火を放ちました。

この放火により、祖霊社の社殿は、わずか15分ほどで全焼し、長年にわたって地域の信仰を支えてきた貴重な建物が灰になってしまいました。

「日帝残滓」とは、日本の統治時代に朝鮮半島やその他の地域で広まった文化や制度、建築物の影響を指す言葉であり、特に韓国や北朝鮮では、こうした日本の影響を排除すべき対象とする見解が強く存在します。

この事件では、放火犯が祖霊社を「日本の歴史や影響の象徴」と見なして破壊しようとしたと考えられています。

その被害は、単なる建物の損失にとどまりませんでした。

祖霊社は、地域の人々にとって祖先を祀り、日々の祈りを捧げる神聖な場であり、地域の歴史や信仰の中心でもあったのです。

祖霊社が焼失したことにより、地域の人々や神社関係者は大きな悲しみと喪失感に包まれ、長年にわたって守られてきた大切な場所が一瞬にして失われた衝撃は計り知れないものでした。

しかし、その後すぐに再建への取り組みが始まり、地域の人々の強い願いと支援を受けて、平成6年(1994年)に祖霊社は再び姿を取り戻しました。

再建された社殿は、かつてと同じように信徒や神職が祖先を敬い、静かに祈りを捧げる場として現在も大切に守られています。

はっきりしたことはわかりませんが、社殿が金属フェンスと有刺鉄線で厳重に囲まれるようになったのは、この放火事件を受けた防犯対策と考えられます。

神宮寺時代の名残を今に残す

祖霊社には、かつての神宮寺が神仏習合の信仰を担っていた時代の名残が、今も静かに息づいています。

無縫塔とは

その一つが「無縫塔(むほうとう)」です。

無縫塔とは、寺院の僧侶のために建てられる特別な形の墓塔で、装飾や接合部がない「無縫」という名の通り、僧侶の清らかで無欲な生き方を象徴するものとされています。

この無縫塔が数多く残されていることから、当時の月光山神宮寺には多くの僧侶が所属し、地域とともに信仰の中心地として機能していたことがうかがえます。

これらの無縫塔の中には寛保2年(1742年)と刻まれた無縫塔もあり、江戸時代にこの地で活動していた僧侶たちの存在を偲ばせます。

五輪塔と石塔群

無縫塔のほかにも、境内には五輪塔やさまざまな石塔が積み重ねられた遺構が見られます。

五輪塔は仏教的な墓塔で、地・水・火・風・空の五大要素を象徴する形で構成され、亡くなった者がこの世の要素に還ることを表しています。

これらの石塔群は、かつて大山祇神社と神宮寺が一体となって地域の信仰を支えていた神仏習合の証であり、その歴史的な価値は計り知れないものになっています。

祭礼「春季祖霊祭」「秋季祖霊祭」

祖霊社では、毎年春分の日に「春季祖霊社祭(しゅんきそれいしゃさい)」、秋分の日には「秋季祖霊社祭(しゅうきそれいしゃさい)」が執り行われています。

これらの祭礼は、春分と秋分に宮中で行われる「春季皇霊祭」や「秋季皇霊祭」に合わせて実施され、地域の人々にとって祖先の御霊に祈りと感謝を捧げる重要な日となっています。

春分と秋分は、太陽が真東から昇り真西に沈む特別な日で、昼と夜の長さがほぼ同じになるため、古くから「祖先と現世がつながる」と考えられてきました。

そのため、日本ではこの時期に祖先を供養する「彼岸」の習慣が根づいており、家族でお墓参りをしたり、祖先を偲ぶ行事が行われます。

宮中での「皇霊祭」では、歴代の天皇や皇族の御霊を祀る儀式が厳かに行われ、祖先崇拝の精神が重んじられています。

同様に、祖霊社での「春季祖霊社祭」や「秋季祖霊社祭」でも、まず「皇霊殿遙拝式(こうれいでんようはいしき)」が行われ、神職が宮中の皇霊殿に向かって拝礼し、皇室の祖先に敬意を表します。

その後、地域の信徒や参列者が祖先への感謝を捧げる祭典が続き、家族や地域の繁栄、平安を祈る場となっています。

祭礼から感じる日本人の祖先崇拝

日本の文化において、ご先祖様への信仰は仏教と神道の双方に深く根ざしており、それぞれが独特の死生観と祖先崇拝を発展させてきました。

この神仏習合により、日本ではご先祖様を「現世を見守り、私たちを支えてくれる存在」として信じ、大切にしてきました。

仏教では、ご先祖様は「浄土」と呼ばれる安らかな世界にいると考えられています。亡くなった人は成仏し、あの世で穏やかに過ごしながら、家族の幸せを願い続けているとされます。

また、ご先祖様が現世に戻ってくるとされる時期として「お盆」や「彼岸」があります。

この期間には、家族や子孫が仏壇に手を合わせ、お墓参りをし、ご先祖様が家族の元に帰ってくると考えられています。

お線香や供え物を通じてご先祖様に感謝を捧げ、再会の喜びを感じることが仏教におけるご先祖様への敬意の表れです。

一方、神道では亡くなった人の魂は「祖霊」や「御魂(みたま)」となり、家族や地域を守る神として祀られると考えられています。

家々の祖先は「氏神(うじがみ)」として、また村や地域の守護神として神社に祀られることもあります。

春分や秋分には「ご先祖様が現世とつながりやすい」とされ、供養やお墓参りが行われます。

神道ではご先祖様は「神」として現世に影響を与える存在であり、家族の健康や繁栄を見守るために、普段の暮らしに溶け込む形で敬われています。

このような神道や仏教の教えは、日本人の暮らしの中でご先祖様への思いやりや感謝の気持ちを育んできました。

神仏習合の時代には、神と仏が共に祀られ、神社や寺院が一体となって祖先を敬う文化が形成されました。

ご先祖様は、神道では「神」として、仏教では「仏」として祀られ、いつもそばで家族や地域を見守っていると考えられてきたのです。

祖霊社の祭礼は、このような日本人の祖先への敬意や感謝の気持ちが表れる行事であり、地域の信徒や参列者が祖先を敬い、心を込めて祈る大切な場として今も続けられているのです。

四国八十八箇所霊場としての神宮寺

祖霊社の歴史を語る上で、もう一つ重要な要素が四国八十八箇所霊場との関わりです。

現在、第55番札所として広く知られているのは南光坊ですが、かつては大山祇神社自体が第55番札所とされていました。

その際、神社の別当寺である月光山神宮寺が、巡礼者の応対や納経などの実務を担い、実質的に札所としての役割を果たしていたと考えられているのです。

『四国遍礼名所図会』への記載

その裏付けとなるのが、江戸時代に刊行された『四国遍礼名所図会』です。

寛政12年(1800年)に出版されたこの絵図集は、四国八十八ヶ所霊場をめぐる遍路の姿を、当時の景観や札所の配置とともに描き出した貴重な資料です。

江戸時代に現存する四国遍路絵図の中でも、特に詳細かつ実用的な内容を備えており、当時の巡礼の実態を今に伝えています。

作者は但馬国(現在の兵庫県豊岡市)出身の絵師・細田周英で、西国三十三所には絵図が存在する一方で、四国遍路には視覚的な案内図がなかったことから、この図会を制作したとされています。

『四国遍礼名所図会』の最大の特徴は、四国全体をまるで本州側から海越しに見下ろしたような独特の向きで描いている点です。

また、四国の形は、南を上、北を下、東を左、西を右に置くという、通常の地図とは逆さまの配置になっています。

これは、参拝者が本州から四国を見た時の視点に合わせたもので、海を隔てて向こう岸に広がる四国をそのまま眺める感覚で描かれています。

この図には、八十八ヶ所の札所とそれらを結ぶ遍路道に加え、城下町、番所、国境、峠道、村里、港、さらには札所間のおおよその距離までが詳細に記されています。

これにより、当時の遍路道の様子や巡礼の実態、さらには四国全体の霊場としての広がりを、視覚的に把握することができました。

これにより、当時の遍路道や巡礼の実態、四国全体の霊場としての広がりを視覚的に把握できる初めての資料となりました。

そして、この絵図の中に、大山祇神社とその別当寺であった神宮寺(月光山神宮寺)の姿も描かれています。

絵図によると、神宮寺は大山祇神社本殿の右手、石段を上った位置にあり、境内には大師堂と納経所が確認できます。

その敷地はおよそ50坪(約165㎡)で、現代の住宅一軒分、小学校の教室二室程度にあたる規模でした。

このことから、江戸時代における大山祇神社と神宮寺の関係、そして四国八十八ヶ所霊場第55番札所としての役割が、絵図資料としても裏付けられるのです。

『納経帳』への記載

さらに、安政3年(1856年)の納経帳にも「日本總鎮守 三島本宮 別當神宮寺」と記されています。

この記録は、当時の月光山神宮寺が大山祇神社の別当寺として機能し、巡礼者がここで納経を行うことで、神仏習合の御利益を求めていたことを示す貴重な史料です。

「東円坊説」

一方で、月光山神宮寺の塔頭であった東円坊が、かつて四国八十八箇所霊場第55番札所を務めていたという説も存在します。

大山祇神社では、神社に所属し、仏事を司る僧を「供僧(ぐそう)」と呼んでいましたが、東円坊はその供僧を統括する「検校職」に任命されていたと記録されています。

このため、大山祇神社が55番札所であった時代には、その供僧を総括していた東円坊が実質的に札所の役割を担っていた可能性も考えらています。

神仏分離が変えた神宮寺の運命

その後、時代の移り変わりとともに塔頭は次第に数を減らし、かつて24を数えた塔頭は、最終的に南光坊と東円坊の二つだけが残るのみとなりました。

そして明治初年(1868年)、神仏分離令の発布により、神社に付随する寺院は次々に廃止されることとなります。
この際、神宮寺の仏教的役割は東円坊に引き継がれました。

一方、今治市にあった別宮大山祇神社も神仏分離の対象となり、唯一現存していた南光坊が独立しました。

この際、別宮大山祇神社で祀られていた本尊「大通智勝如来」や「十六大王子」が南光坊に移され、これにより南光坊は独立した寺院として再編されます。

実は、別宮大山祇神社は海を渡らなければならないという立地から、第55番札所・大山祇神社の前札所としての役割を担っており、隣接する南光坊が別当寺として実務を担当していました。

やがて、別宮大山祇神社は本札所となりましたが、神仏分離によって独立した神社となったことで、札所としての役割は南光坊が正式に引き継ぐがれることになりました。

そして現在、南光坊は四国八十八箇所霊場第55番札所として、多くの巡礼者を迎え続けています。

神社名

祖霊社(それいしゃ)

所在地

愛媛県今治市大三島町宮浦4046番地

電話

0897-82-1147(大山祇神社)

主な祭礼

春季皇霊祭・秋季皇霊祭

主祭神

大国主命

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