「祖霊社(それいしゃ・祖霊殿)」は大山祇神社の境内社で、宝物館の裏手の高台に位置しています。長い階段を上り詰めると、入母屋造りの建物が姿を現しますが、一般的な神社に見られる華やかな装飾や賽銭箱は設置されていません。
建物は金属フェンスと有刺鉄線で厳重に囲まれており、その佇まいは、神社というよりも和風の倉庫を思わせます。このような配置や防護が施されたのは、平成の時代に発生したある事件に端を発するものと考えられます。
神仏共存の歩み「祖霊社の起源」
祖霊社の創建は平安時代の保延元年(1135年)、この時代の日本は、神仏習合(神道と仏教の融合)が進み、神道の神々が仏の姿としても信仰されるようになっていました。
これを「本地仏(ほんじぶつ)」といいます。大山祇神社でもこの流れの中で御祭神の「大山積神(おおやまつみ)」を「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」という仏の姿で祀られ始めました。
さらに、仏教の儀礼を取り入れるために「神宮寺(神供寺)」が設立されました。
「神宮寺」とは、神社に付属する寺院を指し、神社で神仏両方の信仰が受け入れられるために設置されたものです。こうした施設は神道と仏教が共存する空間として、日本各地で「神供寺」「神護寺」「宮寺」「神願寺」などと称され、神社の神を仏として扱うための儀礼が行われる場として利用されていました。
この神宮寺が後の祖霊社になります。
古文書に記された創建物語
大山祇神社に残されている古文書『三島宮御鎮座本縁』には、保延元年(1135年)に次のような神秘的な天変地異が起こり、「神宮寺」が創建されたと記されています。
保延元年(1135年)、天下は突如として闇に包まれました。三日間、太陽も月も姿を消し、空は厚い雲で覆われ、人々はその不吉な暗闇に恐れおののきました。昼夜を問わず、空には軍陣が進軍するかのような轟音が響き渡り、その音はまさに雷鳴のように響き、民の不安は限界に達しました。
この時、大山積神(おおやまつみのかみ)より託宣が下され、「吾は、諸々の大地祇(国津神々)を率いて、これ(天変・異変)を掃ひ除こう(祓おう)」と告げられました。するとその託宣の後、天候は急変し、雲が晴れて眩しい陽光が戻りました。人々はこの奇跡に心を打たれ、喜びと畏敬の念から遠近を問わず神社に詣で、数日間にわたり参拝者が絶えなかったと伝えられています。
この伊予国で起きた出来事は朝廷の天皇(崇徳天皇)の耳にも届き、天皇は藤原忠隆を勅使として派遣し、大山祇神社の本宮から末社に至るまでを新たに造営するよう命じました。
さらに、天地創造の教えを踏まえ、雷神・高龗(たかおかみ)を加えて三柱の神(大山積神を含む)を奉る「三宮祭祀」が正式に始まりました。これにより、現在の大山祇神社の本殿の形が完成しました。
さらに小さな礼拝所を作り、そこに大山積神の本地仏とされる「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」の像を安置しました。
この仏は東西南北の四方と八方を守護する存在とされ、さらに、摂社や末社の神々の本地仏も左右に並べられました。この礼拝所は「仏供院(本寺堂)」とも称されました。
これが「祖霊社(神宮寺)」のはじまりとされています。
「月光山神宮寺」
やがて神宮寺は山号を「月光山」とし、「月光山神宮寺」と称するようになりました。この寺院は、神仏習合の拠点として長い間信仰を集め、多くの参拝者が訪れる場所となりました。
『四国遍礼名所図会』に描かれた絵図には、月光山神宮寺が大山祇神社の本殿に向かって右側の石段を上った先にあり、そこに大師堂と納経所が建てられていたと記されています。この大師堂と納経所は約50坪もの広さを持ち、立派な建物として、参拝者が集う重要な拠点でした。この場所には、大山積神の本地仏とされる「大通智勝如来像」が祀られていたと考えられています。
神宮寺を支えた24坊の僧坊
月光山神宮寺が最も栄えていた頃には、神宮寺を支えるために「塔頭(たっちゅう)」と呼ばれる小さな坊(僧坊)がいくつも建てられていました。
塔頭とは、大きな寺院の周りに設けられる小規模な寺院や僧侶の住まいのことです。
これらの坊は、泉楽坊、本覚坊、西之坊、北之坊、大善坊、宝蔵坊、東円坊、瀧本坊、尺蔵坊、東之坊、中之坊、円光坊、新泉坊、上臺坊、山乗坊、光林坊、乗蔵坊、西光坊、宝積坊、安楽坊、大谷坊、地福坊、通蔵坊、南光坊の24坊で、神宮寺を中心とする信仰の拠点を支えていたのです。
これらの坊はそれぞれ僧侶の住まいでもあり、神宮寺の守護や地域の人々の祈祷、日々の法要を行う場所でもありました。僧侶たちは、地域の人々のために神仏へ祈りを捧げ、神宮寺の繁栄を支えていました。
しかし、時代が進み、平安時代末期の正治年間(1199〜1201年)には状況が変わり始めました。
この頃、24坊のうちの8坊(南光坊、中之坊、大善坊、乗蔵坊、通蔵坊、宝蔵坊、西光坊)が、別宮大山祇神社(今治市)に移され、別宮の近くに新たに配置されることになりました。こうして、神宮寺(大三島)には16坊が残されることになりました。
その後、戦乱や社会情勢の変化により、残された坊も少しずつ減少していきます。
多くの僧が戦場に赴き、坊も戦乱によって消失してしまうことが続き、やがて残った坊の数はわずかとなってしまいました。そして、天正五年(1577年)には、神宮寺を支える坊は東円坊、法積坊、上大坊、地福坊の4坊のみとなっていました。
この時代、残された四人の僧侶たちは、それぞれ家庭を持ちながらも神宮寺を守り続け、日々の法要や地域の祈願を行い、神宮寺の伝統と信仰を守るべく務めを果たしていました。
四国八十八箇所霊場第55番札所「神宮寺」
四国八十八箇所霊場第55番札所は現在「南光坊」がその役割を担っています。しかし、かつては「大山祇神社」が第55番札所とされ、その別当寺である「月光山神宮寺」が実質的に札所として機能していたと伝えられています。
大山祇神社と月光山神宮寺は、神仏習合の信仰形態が色濃く反映された場所で、巡礼者たちは月光山神宮寺で納経を行い、神仏の御利益を求めて参拝していました。1856年の納経帳には「日本總鎮守 三島本宮 別當神宮寺」と記され、当時の月光山神宮寺が第55番札所としての役割を担っていたことがわかります。
一方で、月光山神宮寺の塔頭であった「東円坊」が、かつて四国八十八箇所霊場第55番札所を務めていたという説も存在します。大山祇神社では、神社に所属し、仏事を司る僧を「供僧(ぐそう)」と呼んでいましたが、東円坊はその供僧を統括する「検校職」に任命されていたと記録されています。
このため、大山祇神社が55番札所であった時代には、その供僧を総括していた東円坊が実質的に札所の役割を担っていた可能性も考えられます。
こうした背景から、当時の55番札所が月光山神宮寺であったのか、東円坊であったのかについては諸説があるものの、いずれも神仏習合の形態が色濃く影響していたことが伺えます。
また、当時の巡礼者にとって、大山祇神社のある大三島へ渡るには、古来より「海の難所」とされる瀬戸内海を越えなければならず、これが大きな負担となっていました。強風や潮の流れが激しいこの海域を渡ることは非常に危険で、悪天候ともなれば命に関わることも少なくありませんでした。
そのため、和銅5年(712年)に今治市内に創建された「別宮大山祇神社」が「前札所」として設けられ、巡礼者は大三島へ渡る代わりに別宮大山祇神社を参拝し、大山祇神社のご利益を受けていました。
神仏分離が変えた神宮寺の運命
時代が進むにつれて、月光山神宮寺の周囲にあった24の塔頭(たっちゅう)は次第に数を減らし、最終的に南光坊と大三島にあった東円坊の2つが残るのみとなりました。
さらに明治初年(1868年)、明治政府が神道を国教として確立するために「神仏分離令」を発布されたことによって、神社に付随する寺院であった「神宮寺」や「別当寺」は次々に廃止される運命を辿りました。
大山祇神社の別当寺として長らく信仰を集めていた「月光山神宮寺」も、この神仏分離令の影響を受けて廃寺となりました。また、月光山神宮寺の塔頭であった東円坊も、この分離によって大山祇神社から切り離されることになりました。
この際、神宮寺が所蔵していた数々の仏教文化財が、廃棄や流出を免れるために東円坊に移されました。
移された品々には、神宮寺の本尊として信仰されていた仏像や、長年の歴史を刻んだ経典などが含まれており、いずれも寺の歴史と共に神仏習合の名残が残る貴重なものです。
現在もこれらの品々は東円坊に大切に保管されており、地域の歴史と信仰の変遷を物語る貴重な文化財としてその姿を留めています。
今治市内にある別宮大山祇神社も同様に、神仏分離の影響を受け、南光坊と分離されることとなりました。この際、別宮で祀られていた本尊「大通智勝如来」や「十六大王子」が南光坊へと移され、これにより南光坊は独立した寺院として再編されました。
この移転によって、南光坊は四国八十八箇所霊場第55番札所としての役割を確立し、今日まで多くの巡礼者が訪れる札所としての歩みを続けています。
「祖霊社」の誕生
明治6年(1873年)、廃寺となった月光山神宮寺は、新たに出雲大社(杵築大社)から大国主命の分霊を勧請し、大山祇神社の末社「祖霊社」として再編されました。祖霊社では、大国主命を祖神として祀るとともに、信徒の祖霊、すなわち各家の氏神や祖先の御霊も相殿に祀っています。
このため、祖霊社の境内には、信徒の方々が神道の形式で建てたお墓「奥津城(おくつき)」も設けられ、祖先を敬う神聖な場所として機能しています。祖霊を祀る場であることから、一般参拝者のための賽銭箱や鈴も設置されていません。
また、祖霊社内部も信徒の家族と神職のみが入れる非公開の場所となっており、外観からは和風の倉庫のように見えることもありますが、実際には信徒の祖先への祈りと敬いが込められた特別な場です。
神仏習合時代の名残を今に残す
さらに、月光山神宮寺の跡地には、かつての僧侶たちの墓とされる「無縫塔(むほうとう)」がいくつも静かに佇んでいます。
無縫塔とは、寺院の僧侶のために建てられる特別な形の墓塔で、装飾や接合部がない「無縫」という名の通り、僧侶の清らかで無欲な生き方を象徴するものとされています。この無縫塔が数多く残されていることから、当時の月光山神宮寺には多くの僧侶が所属し、地域とともに信仰の中心地として機能していたことがうかがえます。
これらの無縫塔の中には寛保2年(1742年)と刻まれた無縫塔もあり、江戸時代にこの地で活動していた僧侶たちの存在を偲ばせます。これらの墓塔は、神仏習合の時代を象徴するものであり、月光山神宮寺が地域における祈りと修行の拠点として果たしていた役割を今に伝えています。
無縫塔のほかにも、五輪塔やその他の石塔が積み重ねられた遺構も見られます。
五輪塔は仏教的な墓塔で、五大要素(地、水、火、風、空)を象徴する形で作られており、亡き者がこの世の要素に還ることを表しています。これらの石塔が残っていることは、かつて神仏習合の象徴として、大山祇神社と月光山神宮寺が一体となって地域の信仰を支えていた証であり、その歴史的な価値は計り知れません。
平成4年(1992年)の放火事件
平成4年(1992年)10月、極左暴力集団(過激派)による放火事件が発生しました。この集団は「日帝残滓(にっていざんし)を焼却処分する」という主張を掲げ、祖霊社に火を放ちました。この放火により、祖霊社の社殿は、わずか15分ほどで全焼し、長年にわたって地域の信仰を支えてきた貴重な建物が灰になってしまいました。
「日帝残滓」とは、日本の統治時代に朝鮮半島やその他の地域で広まった文化や制度、建築物の影響を指す言葉であり、特に韓国や北朝鮮では、こうした日本の影響を排除すべき対象とする見解が強く存在します。事件では、放火犯が祖霊社を「日本の歴史や影響の象徴」と見なして破壊しようとしたと考えられています。
この放火事件は、単なる建物の損失にとどまりませんでした。祖霊社は、地域の人々にとって祖先を祀り、日々の祈りを捧げる神聖な場であり、地域の歴史や信仰の中心でもあったのです。祖霊社が焼失したことにより、地域の人々や神社関係者は大きな悲しみと喪失感に包まれ、長年にわたって守られてきた大切な場所が一瞬にして失われた衝撃は計り知れないものでした。
事件後、平成6年(1994年)に祖霊社は再建され、現在も信徒や神職が祖先を敬い祈る場として存在しています。
社殿が金属フェンスと有刺鉄線で厳重に囲まれるようになったのは、この放火事件を受けた防犯対策と考えられます。
祭礼「春季祖霊祭」「秋季祖霊祭」
祖霊社では、毎年春分の日に「春季祖霊社祭(しゅんきそれいしゃさい)」、秋分の日には「秋季祖霊社祭(しゅうきそれいしゃさい)」が執り行われています。
これらの祭礼は、春分と秋分に宮中で行われる「春季皇霊祭」や「秋季皇霊祭」に合わせて実施され、地域の人々にとって祖先の御霊に祈りと感謝を捧げる重要な日となっています。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り真西に沈む特別な日で、昼と夜の長さがほぼ同じになるため、古くから「祖先と現世がつながる」と考えられてきました。そのため、日本ではこの時期に祖先を供養する「彼岸」の習慣が根づいており、家族でお墓参りをしたり、祖先を偲ぶ行事が行われます。
宮中での「皇霊祭」では、歴代の天皇や皇族の御霊を祀る儀式が厳かに行われ、祖先崇拝の精神が重んじられています。
同様に、祖霊社での「春季祖霊社祭」や「秋季祖霊社祭」でも、まず「皇霊殿遙拝式(こうれいでんようはいしき)」が行われ、神職が宮中の皇霊殿に向かって拝礼し、皇室の祖先に敬意を表します。その後、地域の信徒や参列者が祖先への感謝を捧げる祭典が続き、家族や地域の繁栄、平安を祈る場となっています。
祭礼から感じる日本人の祖先崇拝
日本の文化において、ご先祖様への信仰は仏教と神道の双方に深く根ざしており、それぞれが独特の死生観と祖先崇拝を発展させてきました。この神仏習合により、日本ではご先祖様を「現世を見守り、私たちを支えてくれる存在」として信じ、大切にしてきました。
仏教では、ご先祖様は「浄土」と呼ばれる安らかな世界にいると考えられています。亡くなった人は成仏し、あの世で穏やかに過ごしながら、家族の幸せを願い続けているとされます。
また、ご先祖様が現世に戻ってくるとされる時期として「お盆」や「彼岸」があります。この期間には、家族や子孫が仏壇に手を合わせ、お墓参りをし、ご先祖様が家族の元に帰ってくると考えられています。お線香や供え物を通じてご先祖様に感謝を捧げ、再会の喜びを感じることが仏教におけるご先祖様への敬意の表れです。
一方、神道では亡くなった人の魂は「祖霊」や「御魂(みたま)」となり、家族や地域を守る神として祀られると考えられています。家々の祖先は「氏神(うじがみ)」として、また村や地域の守護神として神社に祀られることもあります。
春分や秋分には「ご先祖様が現世とつながりやすい」とされ、供養やお墓参りが行われます。
神道ではご先祖様は「神」として現世に影響を与える存在であり、家族の健康や繁栄を見守るために、普段の暮らしに溶け込む形で敬われています。
このような神道や仏教の教えは、日本人の暮らしの中でご先祖様への思いやりや感謝の気持ちを育んできました。神仏習合の時代には、神と仏が共に祀られ、神社や寺院が一体となって祖先を敬う文化が形成されました。
ご先祖様は、神道では「神」として、仏教では「仏」として祀られ、いつもそばで家族や地域を見守っていると考えられてきたのです。
祖霊社の祭礼は、このような日本人の祖先への敬意や感謝の気持ちが表れる行事であり、地域の信徒や参列者が祖先を敬い、心を込めて祈る大切な場として今も続けられているのです。