「須賀神社・朝倉南(すがじんじゃ)」は、かつて「朝倉天皇宮」や「野田宮」とも称され、朝倉地区の歴史と深い関わりを持つ神社です。
二つの創建説
須賀神社・朝倉南の創建には二つの伝承が伝えられています。
創建伝説①「斉明天皇と小千の連」
一つ目の伝承によれば、斉明天皇(在位:655年~661年)が朝倉行幸の際、小千の連(おちのむらじ)に命じてこの地に社を建立させたとされます。
これは、国家の安泰や地域の守護を願って創建されたと考えられます。
創建伝説②「素戔嗚命の巡狩」
もう一つの伝承では、神々の加護を求める民間信仰の発展と深く結びついています、
伝承によれば、素戔嗚命(すさのおのみこと)が、山の神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘、
大市姫命(おおいちひめのみこと)(別名・神大市比売)と結ばれ、国土を巡り歩き、土地を鎮め、清め、守護する「巡狩(じゅんしゅ)」の旅のなかで、この地にも立ち寄ったとされています。
その時、地元の有力氏族であった小千連(おちのむらじ)が、神々を敬い迎えるため、依り代として神籬(ひもろぎ)を立て、丁重にお祀りしました。
これが、須賀神社・朝倉南の創建にあたるとされています。
この伝承を裏付けるかのように、須賀神社・朝倉南の御祭神には、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、すなわち素戔嗚命(すさのおのみこと・須佐之男命)が祀られています。
小千の連とは何者?
では、どちらの伝承にも登場する小千連(おちのむらじ・小千の連)とは、いったい何者なのでしょうか。
「連(むらじ)」とは、古代ヤマト政権下において、特定の職能を担う氏族に与えられた姓(かばね)の一つです。
主に、代々大王家に仕え、特定の技術や職務を司る職能豪族が「連」の称号を授けられていました。
このことから、小千の連もまた、大王家に仕えていた有力な豪族の一員であり、朝倉の地において重要な役割を果たしていたと考えられます。
「小千守興」
朝倉地区には斉明天皇に仕えていた小千(おち)、「小千守興(おちのもりおき)」の名が残されています。
663年に朝鮮半島の白村江(はくすきのえのたたかい)で、日本と百済の連合軍と唐・新羅の連合軍との間で「白村江の戦い」が行われました。
この戦いの準備が進められていた661年、斉明天皇は航海術と戦術に優れた伊予の豪族・小千守興を日本の水軍大将に任命しました。
小千守興は兵を率いて斉明天皇と共に、拠点となる九州方面へむけて出航しました。その航海の中継地として滞在したのが、統治下であった朝倉でした。
斉明天皇は約三ヶ月の滞在の中で、車無寺(現:無量寺)をはじめとする多くの寺院や神社が建立し、戦勝を祈願しました。
斉明天皇の朝倉行幸の伝説から考えると、小千連は小千守興であり、この時期に小千守興によって創建されたと考えることができます。
小千連(おちのむらじ)をさらに探る
しかし、素戔嗚命の創建伝承は、斉明天皇の時代よりもさらに古く、神話の時代にまでさかのぼっています。
では、ここで登場する小千連(おちのむらじ)とは、いったい何者なのでしょうか?
その謎を解き明かすには、越智氏の歴史を紐解く必要があります。
越智氏の表記
越智氏は長い歴史の中で、「越智」「小千」「小市」「乎致」など、さまざまな表記で記録されてきました。
例えばこ、小千守興は「越智直守興(おちのあたいもりおき)」「越智直(おちのあたい)」と記録されることもありました。
さらに、大三島に鎮座する大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を創建したと伝えられる乎致命(おちのみこと)もまた、越智氏の祖とされています。
越智氏のさらに古い系譜「物部氏」
この乎致命(おちのみこと)の系譜をさらにさかのぼると、古代日本において武器の製造・管理を司り、軍事力をもって大和朝廷に仕えた強大な氏族、物部氏(もののべうじ)に行き着きます。
物部氏の祖先は天磐船(あめのいわふね)に乗って大和の地に降臨した 日本神話に登場する神「饒速日命(にぎはやひのみこと)」とされています。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は、大和地方の有力豪族であった登美夜須毘売(とみやすびめ)と結婚しました。
この二人の間に生まれた子が、宇摩志痲遅命(うましまじのみこと)、または可美真手命(うましまでのみこと)とされており、この宇摩志痲遅命(可美真手命)が、物部氏の初代であると伝えられています。
これは、大山祇神社が創建されたと伝わる神武天皇の東征よりもさらに古い時代の出来事とされており、物部氏は、天皇家を除けば、日本において「天孫降臨」や「国見(くにみ)」の伝承を持つ唯一の氏族とされています。
「物部大小市連=小千連」
饒速日命から数えて、十代目にあたる大物部主大新川命(おおもののべぬしおおあらかわのみこと)、十一代目の大小市命(おおおちのみこと)を経て、十二代目にあたる乎致命へと続きます。
饒速日命は物部氏の祖であるとされていることから、越智氏は物部氏の流れを汲む氏族であるという説が、極めて有力とされています。
さらに、物部氏に属する一族をたどる中で、「物部大小市連(もののべのおおおちのむらじ)」という記録が存在しています。
この一連の系譜の流れを踏まえると、「物部大小市連」こそが「小千連」なのではないか?そのような推測が成り立ちます。
物部氏の衰退と小市国造、小千連の系譜
これらの背景を踏まえて、物部氏の歴史から越智氏、小千連の系譜をたどることができます。
物部氏の一族は、大和朝廷において軍事・警護を司る氏族として確固たる地位を築き、飛鳥時代には、大王を補佐する「大連(おおむらじ)」の座にまで昇りつめ、絶大な勢力を誇りました。
しかし、6世紀に入り日本に仏教が伝来すると、伝統的な神道を重んじる物部守屋(もののべのもりや)が、仏教を広く取り入れようとしていた蘇我氏と激しく対立し、ついには戦へと発展します。
この戦いに敗れた物部氏は、朝廷内での勢力を急速に失うこととなりました。
とはいえ、一族が完全に滅びたわけではありません。多くの物部氏の血を引く者たちは地方へと移り、各地で「国造(くにのみやつこ)」の地位を得て、土地ごとの統治者として新たな道を歩み始めたのです。
伊予国(現在の愛媛県)を統治していた小市国造(おちのくにのみやつこ)も、この時代の物部氏の流れを汲む一族であり、その中の一人が「物部大小市連」とされています。
このような系譜と歴史的背景を踏まえると、須賀神社・朝倉南は、物部大小市連によって、伊予国の鎮護と地域の安寧を祈願するために創建された可能性が、極めて高いと考えられます。
和霊神社の合祀と信仰の広がり
どちらの説にせよ、須賀神社・朝倉南は地域の人々にとって重要な信仰の場となりました。
江戸時代に入ると信仰はさらに盛んになり、延享三年(1746年)9月14日には、宇和島の和霊神社(和霊信仰の総本山)が勧請されて、合祀されました。
この合祀によって、須賀神社・朝倉南の信仰はさらに広がり、地域の人々にとってより重要な存在となりました。
「朝倉天皇宮」や「野田宮」の由来
「朝倉天皇宮」や「野田宮」という社名の由来について、詳細な記録は残されていません。
「朝倉天皇宮」と斉明天皇
しかし、「朝倉天皇宮」に関しては、同じ朝倉地区にある「岩戸神社」が「朝倉天皇岩戸宮」とも称されていたことから、天皇家、特にこの地に伝説が残る斉明天皇を由来としている可能性が考えられます。
「野田宮」朝倉中村から生まれた地名
「野田宮」については、この地がもともと朝倉中村の「野田」と呼ばれる地域に属していたことに由来すると考えられます。
朝倉中村は、江戸時代の明和9年(1772年)に南北二村に分かれ、それぞれ「朝倉北村」「朝倉南村」として独立しました。
このことから、少なくとも村が南北に分かれるよりも前から「野田宮」と呼称が存在していたと考えられます。
境内社と飛地境内社
須賀神社・朝倉南には、杵築神社(きづきじんじゃ)、春日神社(かすがじんじゃ)、樟神社(くすじんじゃ)の三社が、境内社として祀られています。
また、少し離れた場所には、飛地境内社として天満宮・朝倉北が鎮座しています。
飛地境内社とは、神社の境外や飛び地にありながらも、本社との宗教的な結びつきを維持している境内社のことを指します。
この天満宮が鎮座する朝倉北は、もともとは朝倉中村の一部に属していましたが、江戸時代の明和9年(1772年)、朝倉中村が南北に分かれたことにより、現在の朝倉北村に位置づけられるようになりました。
こうした飛地境内社もまた、本社との結びつきを持ちながら、それぞれの地域で独自の信仰を育んでいます。