長沢にある「須賀神社(すがじんじゃ)」の創建には、斉明天皇の伝説「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」が深く関係しています。
「白村江の戦い」
「白村江の戦い」は、663年に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた日本と百済の連合軍と、唐・新羅の連合軍との間の海戦です。
戦いの発端は、660年に百済が新羅に滅ぼされたことから始まります。当時、百済は日本の友好国であり、文化や技術の交流を通じて深い関係を築いていました。その関係から、百済は国を再興するため日本に救援を要請しました。
当時の天皇である斉明天皇はこの要請を受け、中大兄皇子らを率いて水軍を派遣しましたが、新羅は中国の唐と同盟を結んでおり、663年、白村江河口付近で日本と新羅・唐連合軍が激突しました。この戦いは日本の大敗に終わり、結果的に百済との友好関係を失うとともに、朝鮮半島進出の足場を完全に失いました。
この敗北を受け、日本は唐制を模倣した律令国家の形成に着手し、国防意識を大幅に高める契機となりました。百済の滅亡は日本にとって深刻な外交上の損失であり、以降の政治体制や文化政策にも大きな影響を与える結果となりました。
水軍大将「小千守興」
白村江の戦いの2年前の西暦661年、斉明天皇は白村江の戦いに向けて準備を進めていました。
そんな中で白羽の矢がたったのが伊予の豪族「小千(越智)守興(おちのもりおき)」でした。小千守興は飛鳥の宮中に仕える衛士で、強力な水軍である伊予水軍を率いていました。
伊予水軍は瀬戸内海における海上交通の安全を守るだけでなく、経済の発展にも寄与していました。交易品の輸送や防衛活動において重要な役割を果たしていたため、小千守興の統率力は地域社会の安定と繁栄にとって欠かせないものでした。
斉明天皇が白村江の戦いに向けた準備を進める中で、海戦の必要性が高まっていました。このため、斉明天皇はその卓越した航海術と戦術を評価し、小千守興を日本の水軍大将に任命しました。
同年2月10日、斉明天皇は戦に向かうために、小千守興らと共に飛鳥の難波津から九州に向けて船で出港しました。
航路の途中、斉明天皇一行は小千氏が勧請鎮祭した大山祇神社を訪れ、戦勝祈願のため国宝「禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)」を奉納しました。この鏡は中国唐時代に作られたもので、葡萄唐草と鳥獣の模様が描かれた美しい白銅製の鏡です。戦いの安全と勝利を願う斉明天皇の祈りの象徴として、神社に捧げられました。
朝倉郷への滞在
航海の途中、斉明天皇は朝倉郷にも立ち寄りました。当時、朝倉郷は遠浅の海が広がる自然の良港であり、戦略的にも重要な拠点でした。さらに、この地は伊予水軍を率いる小千守興の拠点でもあったため、安心して滞在できる環境が整っていました。小千守興が警戒を厳重に行う中、斉明天皇は約2か月半から3か月間この地に滞在し、来たる決戦に備えて念入りに準備を整えたとされています。
長坂(長沢)の岡での休息
伝承によると、斉明天皇が朝倉郷へ向かう途中、長坂(現在の長沢)の岡付近で一時休息を取ったとされています。当時、この一帯は海に囲まれており、浅瀬が広がる風景が広がっていました。古代の航海は潮の満ち引きや浅瀬を見極めながら行われたため、この場所は一行が船を停めて休息を取るのに適した地だったと考えられています。
十分に休息を取った斉明天皇は、出発前に自身が乗っていた御車(みくるま)を長坂の岡に納められ、その場所は「車塚」と呼ばれるようになりました。
その後、斉明天皇は朝倉郷に到着し、仮行宮に滞在しました。この仮行宮は天皇が戦いの準備を整えるために設けられた場所であり、重要な拠点となりました。朝倉郷での滞在を経て、斉明天皇は再び九州へと向かったと伝えられています。
この出来事から、この地の人々は斉明天皇を祀るために「長坂天皇社(長沢天皇社)」を創設しました。この神社は、斉明天皇の存在を深く尊び、地域の信仰の中心として厚い敬意を集める場となりました。やがて長坂天皇社は、越智郡や周桑郡一円からの篤い信仰を集め、「天皇さん」として地域の人々に親しまれるようになりました。
「揚天皇社」
長沢を含む伊予の地域は、古代において出雲大社の信仰圏内にあり、出雲神話やその信仰と深く結びついていました。この地域は、出雲から広がった信仰の影響を受け、特に神々への祈りや感謝を大切にする文化が根付いていました。
太宝元年(701年)、この地では出雲大社から神を迎え入れる「勧請(かんじょう)」という儀式が行われました。この儀式により、出雲神話における中心的な神である須佐之男命(すさのおのみこと)が主祭神として祀られることになり、長坂天皇社は新たに「揚天皇社」と名付けられました。
ています。また、農業や豊穣を守る神としての側面もあり、地域の人々にとっては生活を支える神として深く信仰されてきました。この神が祀られたことで、揚天皇社は出雲信仰の重要な拠点となり、地域全体の心の拠り所となりました。
「須賀神社」の誕生
明治維新後の1872年(明治5年)、新政府は神社制度の整備を目的として「神社改記令」を発布しました。この制度は全国の神社を体系的に整理し、一村一社制を推進するもので、村ごとに主要な神社を選定して他の神社を統合する改革が進められました。
この制度改革の影響を受け、揚天皇社も村内に存在していた他の六社と統合され、地域の中心的な神社として再編されました。そして、明治6年(1873年)10月15日に現在の社号「須賀神社」に改称され、約八百坪の広大な境内を有する立派な神社として現在の場所に鎮座することとなりました。
その後、さらに付近の神社が合祀され、現在は以下のような複数の摂末社が祀られています。
- 出雲社(大国主命) – 縁結びや国造りの神
- 山神社(大山積神) – 山の神・農業の守護神
- 荒神社(大己貴命) – 家庭・火の守護神
- 塞井社(猿田彦大神) – 道開き・導きの神
- 馬神社(地元の牛馬を守護する神) – 畜産・農業を支える神
- 祖神社(地の神) – 地域の祖霊を祀る神
これらの摂末社は、地域の農業や生活に密接に関連する神々であり、長沢の人々の生活と信仰を支えています。さらに
孫兵衛作と長沢の関係
さらに、長沢の隣に位置する孫兵衛作は、元々は同じ地区でしたが、寛文2年(1662年)に一つの村として独立しました。独立後も、孫兵衛作の住民は慣例により須賀神社・長沢の氏子として信仰を続けています。