伊予の地に静かに鎮座する橘神社(たちばなじんじゃ)は、かつて立花郷(たちばなごう)と呼ばれていた地域の人々にとって、長年にわたり心のよりどころとなってきた神社です。
失われた記録
橘神社の起源については、詳細な記録が残されていません。
これは、かつてこの地域がたびたび大規模な洪水や暴風雨に見舞われ、神社が何度も浸水の被害を受けたためと伝えられています。
そうした災害の中で、古くから伝わっていた縁起や文書の多くが失われてしまい、創建の時期や経緯を明確にたどることができなくなったのです。
一方で、わずかに残された古記録の中に、橘神社の存在を示す手がかりがあります。
『伊予国古神社祭神録』
例えば、江戸時代以前に編纂されたとされる『伊予国古神社祭神録』には、橘神社が「祇園神社」の一社として記されています。
このことから、橘神社は少なくとも江戸時代以前にはすでに存在しており、祇園信仰を背景に持つ神社として、地域の守り神(鎮守)だけではなく、病気や災いから人々を守る大切な神社として信仰されていたと考えられます。
「立花宮」立花郷の産土神
このように、祇園神社として創建されたとみられる橘神社ですが、後の記録には「立花宮(たちばなぐう)」という名で記されています。
このことから、現在の立花町(旧・立花郷)の、産土神(氏神)として広く信仰されていたことがわかります。
産土神とは
産土神(うぶすながみ)とは、人が生まれた土地に宿る神のことで、その人の一生を通じて見守り、加護を与える存在とされています。
古くから日本では、人はただ一人で生きるのではなく、土地と神との結びつきの中で生まれ、育ち、生涯を送ると考えられてきました。
産土神は、誕生、初宮参り、七五三、成人、結婚、そして死に至るまで。
人生のさまざまな節目において、人々に静かに寄り添う神とされます。
こうした信仰は、自然や土地そのものに霊性を見いだす日本の風土と深く結びついており、「自分の生まれた場所」そのものが神聖な意味を持っていたのです。
氏神とは
一方、氏神(うじがみ)とは、同じ一族(氏族)に属する人々が、自分たちの祖先や守り神として祀った神さまのことです。
たとえば、古代の豪族である物部氏や中臣氏、藤原氏などは、それぞれの祖先や氏の守護神を祀る「氏神」を持っており、その信仰を通して一族の結束を強めていました。
当時の社会では、血のつながった家系のまとまりがとても重要とされており、その絆を強めるためにも、氏神への信仰は一族の団結の証でもあったのです。
「産土神=氏神」
しかし時代進む中で、生活の中でこの二つの神社の境界線が曖昧になっていきました。
特に江戸時代以降、人々が「今住んでいる場所の神社」を日々の祈りの場とするようになると、自然と産土神と氏神は同じものとして考えられる様になっていきました。
さらに明治時代には、政府が神社を整理・統合する政策(神社合祀など)を進めたことで、地域ごとに一つの神社を「氏神」として位置づける制度が広まりました。
これによって、生まれた土地の神(産土神)と、住んでいる地域の神(氏神)とが、実質的に同じ意味で扱われるようになったのです。
現在では、多くの人が「地元の神社=氏神さま」と呼び、産土神との違いを特に意識することは少なくなっています。
橘神社も、そうした流れの中で、かつては立花郷の産土神として、今では立花町の氏神として、長きにわたり地域の人々に親しまれてきました。
「橘神社」社殿再建と現在の姿
慶長2年(1597年)、現在の地に新たな社殿が建立され、神を正式に奉斎する場として整えられました。
このときより、現在の「橘神社」という社号が用いられるようになり、社としての姿が整えられていったと伝えられています。
それ以降、橘神社では四季折々の祭事や祈願が絶えることなく行われ、地域の守り神として、長く人々に親しまれてきました。
25年に1回行われる「式年祭り」では、神供の修理や神社の整備が行われ、今も変わらぬ信仰の場として、その存在を静かに守り続けています。