「橘神社(たちばなじんじゃ)」の起源については詳細な記録が残されていませんが、『伊予国古神社祭神録』という文献に祇園神社の一社としてその存在が記されています。
「橘」の地名は、奈良時代の郡郷制(ぐんごうせい)から来ており、平安時代から「伊予の国新居郡立花郷(たちばなごう)」と呼ばれていました。
祇園神社とは、平安時代に疫病や災厄から人々を守るために信仰された神社のことで、京都の八坂神社を中心に全国に広がった信仰です。橘神社もこの祇園信仰の流れを受けて、地域住民の生活を守る存在として崇敬されました。このことから、橘神社は単に地域の守護神というだけでなく、災厄や疫病を防ぐための重要な神社として信仰され続けてきたと考えられます。
立花郷の産土神としての役割
橘神社は、かつて立花郷の産土神(うぶすながみ)として信仰されていました。産土神とは、その土地に生まれた人々を守る神であり、地域全体を見守る守護神でもあります。立花郷に住む人々は守り神として、鎖祭や立花宮と呼び、自分たちが生まれ育った土地を守る産土神である橘神社に対し、家族の繁栄や健康、そして五穀豊穣などを祈っていました。
橘神社は「鎖祭(くさりまつり)」や「立花宮」と呼ばれ、地域の人々に大切にされてきました。鎖祭とは、地域の安泰や豊作を祈る祭事で、古くから橘神社で執り行われていたとされています。また、立花宮という名前で親しまれていたことからも、橘神社が地域の象徴的な存在であったことがうかがえます。
新たな社殿が建設
慶長2年(1597年)、現在の場所に新たな社殿が建設され、地域の人々にとって正式に神を奉斎する場が整えられました。このとき、「橘神社」という名前に改称され、地域に深く根ざした信仰の場としての役割を担うことになりました。それ以降、橘神社は地域の守護神として、四季折々の祭事や祈願が行われ、多くの人々に親しまれ続けています。