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神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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泰山寺(今治市・ 日高地区)

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蒼社川沿いの美しい田園が広がる場所にたたずむ寺院、四国霊場56番札所「泰山寺(たいさんじ)」。

この寺院は、霊場巡りの札所であると同時に、人々の命を救った祈りの歴史が深く刻まれています。

「泰山寺のはじまり」氾濫を鎮めた弘法大師の力

かつて、泰山寺の近くを流れる蒼社川(そうじゃがわ)は、毎年のように梅雨の時期になると氾濫を繰り返していました。

田畑は水に浸かり、家々は押し流され、時には人命までも奪われることがありました。

当時の人々は、この川を「人取川(ひととりがわ)」と呼び、ただの自然災害ではなく、悪霊の祟りによるものと信じて恐れていたといいます。

毎年の水害は、生活だけでなく精神的な不安をももたらし、村人たちは救いを求めていたのです。

そこに、現れたのが弘法大師(空海)でした。

弘法大師の来訪と祈り

そんな苦難のさなか、この地を訪れたのが、四国遍路を行っていた弘法大師・空海でした。

弘仁六年(815年)の梅雨の季節、巡錫の途上で今治の地を訪れた大師は、ちょうど蒼社川が氾濫する場面に立ち会い、その被害の大きさに心を痛めました。

村人たちは、この川を「人取川(ひととりがわ)」と呼び、流され亡くなった多くの命を嘆いていました。

大師は、怯えながらも懸命に暮らす人々の声に耳を傾け、「皆で力を合わせれば水害は防げる」と村人を励まし、先頭に立って村人たちとともに堤防を築き上げました。

さらに空海は、治水の技術的対策だけではなく、密教僧として祈りの力によって、災いそのものを鎮めようとしました。

その際に行なったのが「土砂加持(どしゃかじ)」という儀式です。

「土砂加持」

「土砂加持は、密教における加持祈祷(かじきとう)の中でも、特に霊験あらたかな秘法のひとつとされています。

この法は、「光明真言」という真言(マントラ)によって土砂に仏の功徳を封じ込める儀式であり、その加持された土は、死者の供養、墓地の浄化、土地の鎮めなど、さまざまな霊的作用をもたらすとされます。

元来は、墓所や塚などに撒くことで死者の迷いを救済し、浄土へと導くために行われる法要でしたが、弘法大師はこれを「土地の霊的災厄をも鎮める法」として応用したのです。

満願の日の奇跡 ・延命地蔵の出現

弘法大師は、蒼社川の川原に壇を築き、「土砂加持」の秘法を厳かに執り行いました。

この加持は一度きりの儀式ではなく、七回にわたる密教法要「七座(しちざ)」として修され、日を追うごとに功徳と祈りの力が高められていきました。

そして最終日である七日間の満願の日、延命地蔵菩薩が空中に現れ、弘法大師の祈願が成就したことを告げたと伝えられています。

それは、仏と土地神の加護によって水害が鎮まり、亡き人々の魂もまた安らぎを得たことの証しでもありました。

本尊・延命地蔵菩薩

そして弘法大師は、現在の泰山寺の地に一本の松「不忘の松」を植えて、裏山の金輪山(こんりんざん)の山頂お堂を建てて、祈りの中で現れた延命地蔵菩薩の姿を自ら刻んで本尊として安置しました。

この本尊は高さ二尺四寸(約八〇センチ)の座像で、秘仏として祀られ、容易に開扉(御開帳)されることはありませんでした。

泰山寺の由来

そしてそのお堂には、延命地蔵菩薩の功徳を説いた『延命地蔵経』にある「十大願」のうち、第一の願である「女人泰産(にょにんたいさん)」。

女性が安らかに子を産み、命をつないでいけるようにという祈りにちなんで、「泰山寺(たいさんじ)」と名付けられたと伝えられています。

また、「泰山」の語には、金輪山(こんりんざん)を、死霊の集まる地とされる中国の泰山(たいざん)**になぞらえ、死者の安息と救済を祈る意も込められているとも伝えられます。

その後のあゆみ

こうして、水害から人々を救い、亡者を鎮め、命を守る祈りの場としてその歩みを始めた泰山寺は、天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所に定められ、七堂伽藍を備える壮麗な寺院へと発展していきました。

平安初期にはすでに四国霊場としての格式を確立し、承和13年(846年)頃までには、金輪山(こんりんざん)一帯に以下の十の塔頭(たっちゅう)が建立されました。

  • 宝蔵坊
  • 弥勒院
  • 不動坊
  • 観音寺
  • 普賢坊
  • 文殊院
  • 泉之坊
  • 明連寺
  • 阿弥陀寺
  • 積善寺

塔頭とは、寺院の本坊を補佐する小院・別坊のことで、それぞれに本尊仏や修行僧を擁し、教義の実践や信仰の護持、参拝者への応対など、寺院全体の活動を支える重要な役割を果たしていました。

七堂伽藍が整い、山内には僧坊が立ち並び、祈りと修行の煙が絶えず立ちのぼるその姿は、まさに壮麗を極めた霊場として、平安時代の人々の信仰を集めていました。

戦乱の中で次第に荒廃

その後も約三百年にわたり、泰山寺は霊地としての繁栄を保ち続けましたが、寿永元年(1182年)頃から、源平の争乱の影響がこの地にも及び、寺院に関する記録や、以後の住職の詳細などが次第に失われていきます。

さらに鎌倉時代に入っても、幾度となく兵火に見舞われ、堂宇は焼失。壮麗を誇った伽藍は荒廃し、寺の規模も次第に縮小していきました。

四国八十八ヶ所霊場の札所としても、貞享2年(1685年)の「寺社明細言上書」には、「寺院に属する札所堂が縦横ともに約3.6メートルの簡素な仏堂であった(寺付四国遍路札所二間四面之堂)」と記されています。

このことから、かつて十坊を擁した大寺院が、江戸時代には簡素な札所堂のみにまで縮小していたことがわかります。

現在の地へ

このような状況の中で、元禄2年(1689年)、法印阿闍梨・乗範上人が中興の志を掲げ、荒廃していた泰山寺の再興に着手しました。

翌元禄3年(1690年)には、弘法大師が植えたと伝わる「不忘の松」があった現在の地に、寺を移転。ここに、再興の歩みを新たに踏み出すこととなりました。

寺の再興と薬師堂の建立

その後も、歴代の住職たちは寺の護持と信仰の継承に尽力し続けました。

宝暦3年(1753年)には、第六世・権大僧都・瑞霊上人が、現在の本堂裏手にあたる片山の地に薬師堂を建立。本尊に薬師如来を安置し、人々の病苦を救うべく、祈願と修法に励みました。

瑞霊上人は後年、この薬師堂に隠居し、静かに余生を送ったと伝えられています。

また、天保8年(1837年)には、第十二世・英雄上人も同じく薬師堂に隠居しており、この地が代々の上人たちにとって精神的な拠り所であったことがうかがえます。

さらに、第十三世・権大僧都・法印諦上人の代には、老朽化していた本堂が再建され、かつての荘厳な伽藍の姿を取り戻しました。

明治14年(1881年)には、今治城内にあった太鼓楼の古材を用いて鐘楼が再建され、昭和60年(1985年)には宿坊前に大師堂が建立され、現在の姿となりました。

「秘仏」地蔵菩薩の霊験

本堂には、木彫の地蔵菩薩坐像が本尊として安置されています。

ただしこの像は、弘法大師の自作ではなく、昭和二十九年(1954年)に文部省が実施した調査により、鎌倉時代中期に作られたものと判明しました。

また、後世に修理が施されてはいますが、現在も今治市で随一の巨像として知られ、その堂々たる姿は、参詣者に深い畏敬の念を抱かせ、仏の慈悲と威容を静かに湛えています。

この本尊もまた秘仏として、古くから容易に開扉されることは許されず、歴代住職や信徒により厳重に守られてきました。

その霊験は延命、病気平癒、子授け、安産など多岐にわたり、人々の切なる願いに応えてきたと伝えられ、今なお多くの参詣者の祈りの対象となっており、泰山寺の霊場としての歴史と精神を今日に伝え続けています。

鎌倉前期の仏頭 ― 清涼寺式釈迦如来の遺風

泰山寺には、本尊よりもさらに古い鎌倉時代前期の釈迦如来仏頭が伝えられています。

仏頭の内部には「寿永年(1182年頃)」の銘が刻まれており、その精緻な彫技や静謐な表情から、清涼寺式釈迦像の影響を受けた鎌倉仏の優品として、極めて貴重な仏教美術の遺品と高く評価されています。

この仏頭は通常非公開であり、泰山寺が中世より深い信仰と文化を湛える寺宝として、大切に守られています。

「宗門制度と寺の公的役割」残された四通の通達書

江戸時代、徳川幕府はキリスト教(切支丹)を厳しく取り締まり、全国の寺院に対して「宗門改(しゅうもんあらため)」と呼ばれる調査を命じました。

これは、仏教寺院を通じて人々の信仰や暮らしを把握し、幕府の支配を強めるためのしくみでした。

泰山寺には、この宗門制度に関する幕府からの通達文書(宗門改触書)の原本が、今も四通現存しています。

  • 慶長十八年(1613年)
  • 寛永二年(1625年)
  • 寛文二年(1662年)
  • 正徳五年(1715年)

これらの文書には、「キリスト教に関係する者がいないか、しっかり調べるように」との指示が記されており、泰山寺が当時、地域の人々の信仰を守るだけでなく、幕府の方針にもとづいて公的な役割を果たしていたことがわかります。

受け継がれる弘法大師への御恩と松の記録

弘法大師(空海)がこの地で修した祈りの痕跡は、今もなお境内に息づいています。

なかでも象徴的なのが、「不忘の松(わすれずのまつ)」と呼ばれる松の切り株です。

これは、弘法大師(空海)自らが植えたと伝えられるもので、もとは蒼社川の川岸にありましたが、後に境内へと移されました。

長い歳月の中で初代の松は枯れてしまいましたが、この切り株には腰痛平癒のご利益があるとされ、今も多くの参拝者がそっと腰を下ろして祈りを捧げています。

「大師さまの御恩を忘れぬために

「大師さまの御恩を忘れぬために」との想いから代々植え替えが行われてきました。

二代目の松はおよそ三百〜四百年前に植えられたものとされ、見事な姿で親しまれていたといいますが、後年マツクイ虫の被害によって惜しくも枯死。

それでもその志は受け継がれ、現在も一本の松がが静かに境内に根を張り続けています。

この松は三胡の松と に呼ばれており、中国原産の珍しい樹種で、三本に分かれた葉をもつ特異な姿が特徴です。

種は西安から持ち帰られ、日本の地で丁寧に育てられたもので、今では境内の一角に根を下ろし、静かに異国の風を伝えています。

また、そばには「不忘松」と刻まれた石柱も残されており、弘法大師の恩徳を忘れぬ心を静かに伝えています。

「千枚通しの護符」

泰山寺には、弘法大師の祈願と加持の心を今に受け継ぐ「千枚通しの護符」も残されています。

この護符は、弘法大師が修行の中で加持し、人々の病を癒すために授けたと伝えられています。

古来より、特に女性の月経不順に効験があるとされるほか、諸病平癒や心願成就を願う参詣者に篤く信仰されてきました。

この護符には、「千枚通し」と呼ばれる特別な祈念法があり、その名の通り、千枚を一組として印刷し、真言を唱えながら加持することで、その霊力を高めるとされています。

泰山寺では、この護符を水に浮かべて飲むという独特の風習があり、巡礼者や参拝者が薬の代わりに用いていたという伝承も残っています。

また、境内には「南無阿弥陀仏・空海」と記された諸病加持のお礼の札が現存しており、これは泰山寺中興の祖である諦信上人(天保十三年〜明治十二年・1842年〜1879年)が、修験道の修行の中で霊感を得て発案したものと考えられています。

現代においても、千枚通しの護符は泰山寺で授与されており、真言を唱えながら水とともにいただくと、歯痛をはじめ様々な悩みに効験があると伝えられています。

「地蔵車」道輪廻を断つ祈りの車輪

境内には、「地蔵車(じぞうぐるま)」と呼ばれる、丸い石の輪が取り付けられた不思議な石塔があります。

この地蔵車は、仏教の根本思想である六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を象徴的に表した祈りの塔です。

中央に据えられた石の車輪を手前に回すことで、六つの世界を巡る苦しみの連鎖を断ち、魂を解き放つことができると伝えられています。

参拝者は「一回一徳」の思いを込めて、静かに車輪を回し、手を合わせます。

輪をひとつ回すたびに、心の奥底にある煩悩がそっとほどけていく。

地蔵車は、そんな静かな祈りと再生の思いを、今もなお伝え続けています。

寺院名

泰山寺(たいさんじ)

所在地

愛媛県今治市小泉1-9-18

電話

0898−22-5959

宗派

真言宗

山号

金輪山

院号

勅王院

本尊

地蔵菩薩(弘法大師作)

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