「「ここに来れば、元気な子が産まれる」
そう語り継がれてきたのが、今治市新谷・吉祥寺の裏山にひっそりとたたずむ「鷹取殿（たかとりでん）」です。
ここには、遠い昔、まだ見ぬ命と、いつかの未来に生きる私たちへの祈りを胸に、静かに命を閉じた一人の女性が祀られています。
そしてその創建の由来は、かつてこの地を守るために築かれた鷹取城と、そこで繰り広げられた悲しい戦の記憶に結びついています。
「越智氏と河野氏」 伊予国を支えた一族の系譜
鷹取殿を含む今治周辺、高縄半島東部から西条市の一部にかけての地域は、古くから「越智郡（おちぐん）」と呼ばれ、伊予国の政治・文化の中心地として発展してきました。
越智郡は、瀬戸内海に面した良港と、山間部から平野部へと連なる地形に恵まれ、古代から海上交通と陸路交通の要衝として重要な役割を果たしてきました。
この伊予の要衝「越智郡」を治めていたのが、地名の由来ともなった豪族・越智氏です
古代伊予を治めた一族「越智氏」
越智氏は、大和朝廷とのつながりを持つ古代伊予の有力豪族で、大三島の「大山祇神社（おおやまづみじんじゃ）」を創建したと伝えられる乎致命（おちのみこと）を祖とする一族です。
『日本書紀』などの記録によれば、越智氏は早くから伊予国に土着し、古代には「小市国（おちのくに）」の国造（くにのみやつこ）に任じられていたとされます。
その後、律令制度の整備にともない、この地は「越智郡」として正式に設置され、越智氏は代々郡司（ぐんじ）を務めて、行政と祭祀の両面から地域を統治しました。
こうして越智氏は、政治・文化・信仰の中核を担う存在として歴史に名を残し、越智郡もまた、伊予国における重要な拠点としての地位を長く保ち続けたのです。
越智氏の系譜を受けつぐ一族「河野氏」
越智氏の系譜を引き継ぎ、中世に入って伊予の歴史の表舞台に立ったのが、河野氏です。
河野氏は、風早郡河野（現・松山市北条地区）を拠点とし、瀬戸内海に面した地の利を活かして、海上交通や海運を掌握しながら勢力を拡大していきました。
河野氏は、風早郡河野郷（現・松山市北条地区）を拠点としながら徐々に勢力を広げ、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊予武士団として台頭しました。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、伊予の有力な武士団として台頭し、鎌倉幕府に御家人として仕えることで、その地位を確かなものにしていきます。
室町時代には、幕府から伊予守護職を任され、地域に根ざした統治から、伊予一国をまとめる広域的な統治体制へと発展していきました。
建武2年（1335年）、当主・河野通盛の時代に、河野氏はそれまでの拠点であった風早郡から、現在の松山市道後公園にあたる「湯築城（ゆづきじょう）」へ本拠地を移しました。
湯築城は、道後平野を一望する小高い丘に築かれた平山城で、南に伊予川（現在の石手川）、北には瀬戸内海を控える、軍事・交通の両面に優れた要衝でした。
「水軍と山城」伊予を守る鉄壁の防御
室町後期から戦国時代にかけて、伊予国（現在の愛媛県）は四国の中でも重要な戦略拠点とされ、内外の勢力による争奪の対象となっていました。
なかでも、瀬戸内海の制海権をめぐる情勢は常に緊張を孕んでおり、讃岐（香川）・土佐（高知）・安芸（広島）など周辺の有力勢力が侵攻を試みる一方、伊予国内でも国人層の対立や抗争が絶えず発生していました。
瀬戸内海は、西国と京・大坂を結ぶ海上交通の大動脈であり、兵糧・兵員の移送や外交連絡など、政治・軍事・経済のあらゆる面においてその支配が重要視されていました。
つまり、制海権を握ることは、地域の独立と安定を守るうえで不可欠な条件だったのです。
「河野水軍」＋「村上水軍」
こうした不安定な情勢に対処するため、伊予を統治していた河野氏は、瀬戸内の制海権確保を目指し、独自の海上武力「河野水軍」を組織します。
その勢力は急速に成長し、やがて瀬戸内最大規模の水軍勢力の一つに数えられるようになります。
軍事のみならず、航路の監視、通商の管理にも力を発揮し、河野氏の領国体制を支える中核戦力となっていきました。
さらに河野氏は、芸予諸島を本拠とする有力な海賊衆「村上水軍（三島村上氏）」との連携を深めていきます。
なかでも、能島村上氏・来島村上氏との関係は特に緊密で、主従や同盟の枠を越えた実質的な海上共同体として機能していました。
両者は、それぞれの地理的特性と勢力基盤を活かしながら、河野氏は今治をはじめとする伊予沿岸の要地を、村上氏は芸予諸島や主要航路を掌握し、瀬戸内海の防衛と通商を一体的に担う堅固な海上体制を築き上げていきました。
河野氏が築いた山城ネットワーク
これと並行して、河野氏は伊予沿岸および内陸の要衝に山城や砦を巧みに配置し、広域にわたる防衛網を築き上げていきました。
これにより、敵の接近をいち早く察知し、迅速な出撃・伝令・海上との連携が可能となる、機動性と即応力に優れた軍事体制が整えられていきます。
なかでも、瀬戸内海における軍事・交通の要衝である越智郡において、特に重視されたのが、幸門山（さいかどやま）に築かれた「幸門城（別名：岡之城）」、そして鷹取山に築かれた「鷹取城」 です。
河野氏の家臣・正岡氏が守る山城
これらの城を任されていたのが、河野氏の家臣で、越智郡を拠点としていた地元の武家・正岡氏の一族です。
正岡氏が守っていた鷹取城と幸門城は、河野氏にとって重要な支城であり、越智郡の海上防衛と内陸の交通監視を兼ねる要衝に位置していました。
両城はいずれも瀬戸内海を一望できる高台に築かれ、敵船の接近をいち早く察知できる立地にあり、海戦・陸戦のいずれにも対応できる構造を備えていたと考えられます。
このように、瀬戸内の制海権を担う河野水軍と村上水軍、山間部を押さえる地元の武士団との連携により、河野氏は中世を通じて伊予の秩序と統治を維持してきました。
河野氏の衰退と滅亡
しかし、戦国時代末期になると、伊予国をめぐる争いはさらに激化していきます。
河野氏は徐々に勢力を失い、自らの力だけでは諸勢力に対抗することが難しくなり、やがて毛利氏の庇護下に入るようになります。
これは名目上の同盟というより、実質的には従属に等しい関係であり、河野氏の政治的な自主性は次第に損なわれていきました。
来島村上氏のまさかの裏切り
さらに天正10年（1582年）、羽柴秀吉（豊臣秀吉）の調略を受けて、河野氏と強力な同盟関係にあった来島村上氏が織田方に離反しました。
これにより、瀬戸内海の制海権にもほころびが生じ、伊予国や越智郡における統治体制自体が大きく崩れ始めました。
秀吉の四国攻めと河野氏の終焉
そして、天正13年（1585年）、本能寺の変によって一時中断されていた四国攻めが、織田信長の跡を継いだ秀吉の手によって再開されると、情勢は一気に緊迫しました。
このとき秀吉は、自らの弟・羽柴秀長（豊臣秀長）を総大将とする大軍を四国に派遣し、伊予・讃岐・阿波・土佐の四国全土を平定するための本格的な軍事行動に乗り出します。
そのうち伊予方面の攻略は、毛利一門であり水軍にも精通した名将・小早川隆景が担当し、軍船を率いて次々と河野氏の拠点を制圧していきました。
河野方の諸城は連携の乱れと水軍戦力の低下もあり、徹底抗戦できる状況ではなく、多くの要所が相次いで落城。
そして、湯築城に籠城していた河野通直も、小早川隆景の説得を受け入れて城を開き降伏することとなりました。
こうして、長く伊予を統治してきた河野氏（越智氏）の歴史は、終焉のときを迎えることとなりました。
そしてこの戦乱のさなか、越智郡の重要な防衛拠点であった鷹取城もまた、運命の時を迎えます。
「鷹取城の戦い」
天正13年（1585年）7月17日、鷹取城は、小早川隆景率いる豊臣軍の不意の夜討ちを受けました。
圧倒的な兵力を持って次々と越智郡の城を攻略してきた小早川でしたが、鷹取城だけはそう簡単には落ちませんでした。
鷹取城は、鷹取山の山頂に築かれた山城であり、四方が険しい地形に囲まれた天然の要塞でした。
そのため、他の城が比較的早く陥落したのに対し、鷹取城は正岡紀伊守の指揮のもと籠城し、小早川軍を苦しめたのです。
一方で、戦が長期化するにつれ、城内では兵糧が底を尽き、兵の士気は徐々に低下していきました。
小早川隆景の計略と落城
そんな時、小早川側から和睦の申し入れがあり、和睦のしるしとして「つづら（葛篭）」が城へ贈られてきました。
しかし、これは小早川隆景の仕掛けた計略だったのです。
城兵たちはそれを城内へ運び込み、中を開封しました。
すると突然、中から無数の蜂の群れが一斉に飛び出し、兵士たちを襲ったのです。
兵士たちは突然の蜂の襲撃に次々と刺され、城内は一時騒然となりました。
そうこうしているうちに、また新たなつづらが城に届けられました。
「どうせまた蜂が入っているに違いない」
そう考えた兵士たちは、焼いてしまおうと火をつけました。
しかし、今回のつづらには火薬が仕込まれていました。
突然大爆発が起こり、城内の一部の建物や防御施設が崩壊。
驚愕と混乱に包まれる中、これを合図として小早川軍一気に攻め込み、ついに鷹取山城は落城してしまいました。
この混乱のさなか、城主・正岡紀伊守はもはや勝ち目がないことを悟ると、愛する妻子を信頼の厚い家臣・清水通俊に託しました。
そして、一族とともに越智郡を守り抜いてきた誇りを胸に、自ら切腹しました。
戦火の中で誓われた祈り
正岡経長の妻子は、小早川軍の追手から逃れるため、月明かりを頼りに吉祥寺の裏山（または鹿子谷の洞窟）へと身を潜めました。
しかし、周囲はすでに敵兵によって包囲されており、もはや逃げ道は残されていませんでした。追手が迫る中で自害する覚悟を決め、次のような辞世の句を読んで誓いを立てました。
「国家安康、災難削除、人畜平安を守護する」
さらに、この時の奥方は妊娠しており、そのお腹には新しい命が宿っていました。
そこで奥方はこれから生まれてくるはずだった我が子のことを思い、さらに次のような誓いを立て自ら命を断ちました。
「わが霊は、永遠に妊婦を守護し、安産を遂げさせ、男児には『福徳知恵』を、女児には『端正麗姿』を与える」
受け継がれる奥方の願い
それから時が流れ、吉祥寺の住職であった寛嶺（かんれい）の夢枕に、正岡紀伊守の奥方が現れました。奥方は静かに語りかけ、供養を求めました。
翌朝、住職はその夢のことを思い出し、正岡夫婦のために墓石を作って供養を行いました。
その後、夫婦の墓石は何度か修繕や刻み直しが行われましたが、奥方の法名が刻まれた側にだけ、不思議なことに白い線が現れたといいます。
人々はこの白い線を、奥方が生前に巻いていた腹帯の白い布の跡ではないかと考え、地域の人々の間で語り継がれています。
「安産の仏様」
やがて紀伊守妻子の墓石は「安産の仏様」として崇拝されるようになり、鷹取殿と名付けられた小さな社殿が建てられ、本尊として祀られるようになりました。
この墓石には、安産を願う多くの参拝者が訪れ、そのご利益を受けたと伝えられています。
その数は計り知れず、鷹取殿には、安産や子授けのご利益に感謝する人々が奉納した小さな着物や写真、赤ちゃんのよだれかけが所狭しと並べられています。
これらは、無事に子供を授かり育てることができた人々の感謝の思いが形となったもので、現在でもその信仰は続いており、多くの参拝者が鷹取殿を訪れています。
「鷹取祭」
戦国の激戦を生き抜いた正岡氏の末裔である清水一族は、長年にわたって正岡紀伊守とその妻子の霊を供養し続けてきました。
戦乱の世に散った彼らの魂は、やがて地域の人々の心の中に根付き、世代を超えて語り継がれる存在となりました。
現在では、その役割を「吉祥寺・吉祥禅寺（きちじょうじ）」が引き継ぎ、地元の人々とともに大切に守り続けています。
吉祥寺では毎年、旧暦の四月十三日には「鷹取祭」という祭りが行われ、地域の人々が集まって安産や家族の健康を祈ります。
この祭りは、地元に根付いた大切な行事として今も続いており、地域の人々にとって大切な祈りの場となっています。
「主君と家臣」現在もつながる絆
鷹取山城の戦乱の歴史は、今もなお地域の人々の心に深く刻まれています。
かつてこの地を守り抜いた正岡氏の祈願寺であった竹林寺には、紀伊経長の墓とされる五輪堂が建立され、静かにその歴史を伝え続けています。
また、鹿子池の畔には、紀伊経長の妻子の墓があり、その壮絶な最期と誓いを今に伝えています。
さらに、戦国の名残として鷹取山城跡には「鷹取山城の石碑」が建立され、峻険な山上から往時の戦いを静かに見守っています。
これらの供養の場は、かつて正岡氏の重臣であった清水氏の子孫たちの手によって守られ、今も変わらず祀られ続けています。
そして今もなお、古谷には清水姓、新谷には正岡姓の名が残り、かつての戦を生き抜いた人々の誇りと絆が静かにこの地に息づいています。
