波方町(なみかたちょう)は、古くから瀬戸内海の海運と漁業の要所として栄えてきました。
かつて漁師町として発展したこの地は、豊かな海の恵みとともに、人々の暮らしと深く結びついた信仰を育んできました。その中心にあるのが、波方の鎮守として長年崇敬されてきた『玉生八幡神社(たもうはちまんじんじゃ)』です。
創建伝承①「舒明天皇と神秘の光」
639年(舒明天皇11年)、舒明天皇は伊予国へ下向された。この旅の目的は明確ではないが、当時の伊予国は海上交通の要所であり、政治的・軍事的視察のための訪問だった可能性が高い。
天皇が波方沖を航行していたところ、突然海が荒れ、進行が困難となったため、一行はやむなく波方沖で停泊することとなった。
その夜、天皇や随行者たちは、海の潮が二股に分かれ、その間に神秘的な光が輝いているのを目撃する。不思議に思った天皇は、小舟を出して調査を命じた。
やがて、小舟に乗った者たちは、海面に浮かぶ箱を発見し、それを慎重に引き上げた。箱を開けると、中には三つの光る玉が納められていたという。
この奇跡的な現象に対し、舒明天皇は深く考えたのち、次のように詔した。
「これはら住吉大神(すみよしのおおかみ)、この地の産土神(うぶすなのかみ)として丁重に祀るように」
住吉大神は、海上安全と航海の守護神として古くから信仰されており、海を渡る人々や水軍、漁師たちの崇敬を集めてきた神様で¥。特に、瀬戸内海を行き交う船乗りたちにとって、そのご加護は欠かせないものとされ、航海の無事を祈る神として信仰されていました。
この詔に従い、村人たちは神社を建立し『玉生宮(たまふぐう)』と称しました。
創建伝承②「住吉神の贈り物」
この出来事については、異なる伝承も残されている。
その夜、天皇や随行者が休息していると、波方沖の潮流の中に光を放って輝くものがあった。不思議に思った村人たちは、様子をうかがっていると、箱の中に二つの玉が納められているのを発見した。
村人たちは驚き、口々に語り合った。
「これは不思議な出来事だ。この箱の中の玉は、私たちが日頃から尊敬し拝んでいる住吉神社の神様からの贈り物かもしれない。この玉を大切に祀り、『玉生神社(たまふじんじゃ)』としてお祭りしたらよいのではないか。」
こうして村人たちは、玉を神の象徴として崇め、新たに神社を建立し、『玉生宮』として篤く祀ったとされています。
清和天皇と八幡信仰の広がり
859年(貞観元年)、清和天皇の時代、、大和(現:奈良県)の大安寺の僧・行教上人(ぎょうきょうじょうにん)は、大分県の宇佐神宮で修行していました。ある日、「八幡神(八幡大菩薩)」が行教上人の献身的な姿勢に感銘を受け「分霊を都の近くに移すしなさい」と行教に神託を下しました。
神託を受けた行教上人は、「山城国(現在の京都府)」の男山に新たな社を創建しようと決意し、その創建のために瀬戸内海を何度も往復していました。
そして、ついに運命の航海の時が訪れました。行教上人は、宇佐神宮から八幡神の分霊を奉じ、大切に守りながら船に乗り込みました。
そして、行教上人とその一行は、神霊を奉じながら、細心の注意を払い進んでいきました。瀬戸内の波は穏やかに見えながらも、時折不意に荒れることもあります。それでも彼らは、神の加護を信じ、一心に祈りを捧げながら船を進めました。
やがて、船は伊予国(現在の愛媛県)の波方沖にたどり着き、その夜、一晩停泊することになりました。
その夜、不思議な出来事が起こります。
『玉生宮』から、突如として五色の光が立ち昇り、停泊している船を明るく照らしたのです。神々しい光は夜の闇を払い、まるで八幡神がこの地を見守っているかのようでした。さらに、船の方からも輝く光が放たれ、波間に映る光が揺らめきながら交わり、幻想的な光景が広がりました。
この神秘的な現象を目の当たりにした村人たちは驚き、畏れを抱きながら口々に言いました。
「これは神様のお告げに違いない」
神霊の導きを確信した村人たちは、波方の丘の上に社壇を築き、八幡神の分霊をお祀りする『八幡宮』を建立しました。こうして、波方の地にも八幡宮信仰が根付き、以来、人々はこの神聖な場所で祈りを捧げるようになったのです。
『玉生八幡宮』玉生宮+八幡宮
宇多天皇の治世である寛平8年(896年)、波方に鎮座していた『玉生宮』と『八幡宮』の二社は、一つの神社として合祀されることになりました。この合祀は、地域の信仰を一つにまとめる意図があり、より強固な八幡信仰の拠点を築くために行われたとされています。
合祀された新たな神社は『玉生八幡宮』と呼ばれるようになり、以降、この地域の守護神として多くの人々の崇敬を集めるようになりました。
来島水軍と玉生八幡宮
その後、源頼義をはじめ、歴代の伊予守や武将たちの篤い信仰を受け、玉生八幡宮は武士たちの守護神として広く崇められるようになりました。
特に、瀬戸内海で活躍した来島水軍の城主である来島家(村上家)は、氏神として深く崇敬し、絶えず社領の寄進や社殿の修復を行いました。また、戦勝祈願として武具の奉納を重ねるなど、玉生八幡宮への信仰は極めて篤いものでした。
こうした武将たちの厚い信仰により、玉生八幡宮はますます繁栄し、地域の守護神としての地位を確立していったのです。
地域の中心的な信仰の場
1698年(元禄11年)、玉生八幡宮はそれまでの仏教的な影響を受けた管理体制から離れ、神道のみに基づく「唯一神道」としての信仰を確立しました。これにより、神社の運営が仏教寺院の影響を受けず、純粋な神道の形式で行われるようになりました。
その後、明治時代に入ると、明治政府は神社制度の改革を進めました。
明治4年(1871年)、玉生八幡宮は「郷社(ごうしゃ)」に指定されました。郷社とは、府県が指定する地域の重要な神社のことで、地元の人々にとって精神的な支えとなる存在でした。この制度により、神社の格式が公的に認められ、地域の中心的な信仰の場として発展しました。
『玉生八幡神社』
現在では『玉生八幡神社』としてその伝統が受け継がれ、旧北郷地区の十ヵ村(波方村・樋口村・小部村・森上村・馬刀潟村・宮崎村・杣田村・高部村・来島村・波止浜村)の総氏神として、広く信仰を集めています。
特に、造船関係の会社をはじめとする多くの海運業者からの信仰も集めており、航海安全や商売繁盛の祈願の場としても重要な役割を果たしています。