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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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玉生八幡神社(今治市・波方地区)

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波方町(なみかたちょう)は、古くから瀬戸内海の海運と漁業の要所として栄えてきました。

かつて漁師町として発展したこの地は、豊かな海の恵みとともに、人々の暮らしと深く結びついた信仰を育んできました。

その中心にあるのが、波方の鎮守として長年崇敬されてきた『玉生八幡神社(たもうはちまんじんじゃ)』です。

玉生八幡神社の創建伝承

玉生八幡神社の創建の由来については、いくつかの不思議な伝承が語り継がれています。

中でも有名なのは、飛鳥時代に舒明天皇がこの地を訪れたとされる逸話と、住吉神の神秘的な「玉」の出現にまつわる話です。

【創建伝承①】「舒明天皇と神秘の光」

舒明天皇11年(639年)、飛鳥時代の第34代天皇・舒明天皇(じょめいてんのう)は瀬戸内海を船で西へ下り、伊予国を目指しました。

この旅の目的は、縁起には明記されていませんが、『日本書紀』には、同年に舒明天皇が皇后(後の皇極天皇)とともに伊予温湯宮(現:道後温泉)へ行幸し、五か月間にわたって滞在したことが記されています。

この記述から、この旅は舒明天皇が伊予の温泉地に療養あるいは静養のために赴いたものと考えられます。

そんな船旅のさなか、御船が波方沖を進んでいたときのことです。

突如として海が荒れ、強風と潮流に行く手を阻まれ、御船は先にも進めず、引き返すこともできず、やむなく沖合にとどまることとなりました。

その日の夜、一同は潮の流れが二筋に分かれ、その中央に的な光が輝いているのを目にしました。

不思議に思われた天皇は、その光の正体を調べるように命じ、命じられた人たちは小舟で光の場所へと漕ぎ出しました。

やがて彼らがその場所にたどり着くと、海面に光を放つ箱(筒)が浮かんでいました。

それを慎重に引き上げ、恐る恐る箱(筒)を開けると、中には三つの光り輝く玉が納められていたのです。

まさにこれこそが、光の正体でした。

この神秘の現象を目の当たりにした舒明天皇はしばらく深く考え、やがてこうお告げになりました。

「これはら住吉大神(すみよしのおおかみ)、この地の産土神(うぶすなのかみ)として丁重に祀るように」

住吉大神は、海上安全と航海の守護神として古くから信仰されており、海を渡る人々や水軍、漁師たちの崇敬を集めてきた神様で、特に、瀬戸内海を行き交う船乗りたちにとって、そのご加護は欠かせないものとされ、航海の無事を祈る神として信仰されていました。

この地の村人たちは、舒明天皇のお言葉に従い社を建て、『玉生宮(たまふぐう)』と称しました。

【創建伝承②】「住吉神の贈り物」

この出来事については、異なる伝承も残されている。

同じように天皇が航海の途中で波方沖に停泊したその夜、一同が休息していると、波方沖の潮流の中に光が輝いているのを目にしました。

人々は不思議に思い、その様子を探りに行ったところ、海面に箱が浮かんでいるのを見つけ、引き上げてみると、箱の中には三つの玉が納められていました。

村人たちは驚き、口々に語り合いました。

「これは不思議な出来事だ。この箱の中の玉は、私たちが日頃から尊敬し拝んでいる住吉神社の神様からの贈り物かもしれない。私たちはこの玉を大切にし、『玉生宮』としてお祭りしたらよいのではないか」

こうして村人たちは、玉を神の象徴として崇め、新たに神社を建立し、『玉生宮』として篤く祀ったとされています。

このように、箱を発見したのが家臣であったか村人であったかなど、細部に違いはありますが、同じような伝承として語り継がれています。

「平安時代中期」八幡信仰の広がりと行教上人

それからおよそ220年の歳月が流れ、八幡信仰が全国へと広がりを見せていた平安時代の貞観元年(859年)。

都であった平安京は、表向きこそ華やかな貴族文化に彩られていましたが、裏で深い闇を抱えていました。

地方の荘園では豪族が私兵を養い、都の内外では盗賊や乱暴者が夜ごとに現れ、財貨を奪い、人々の命までも容赦なく奪っていったのです。

治安は衰え、都の夜は恐怖に包まれていました。

この混乱の中で即位したのが、わずか9歳(満8歳)の若き帝、清和天皇(せいわてんのう)でした。

天皇とその周囲の人々は、乱れゆく世と都の安寧を願い、神の御加護を求め、それにふさわしい人物を探し求めました。

そこで白羽の矢が立ったのが、大和国(現在の奈良県)の大安寺に身を置く高僧、行教律師(ぎょうきょうりっし)上人でした。

行教上人が授かった御神託

行教上人は、前年の天安2年(858年)、真言密教の開祖として名高い弘法大師(空海)の推薦を受け、清和天皇の即位を祈願するという大役を任され、九州の宇佐八幡宮(現・宇佐神宮)へ派遣されていました。

その翌年、無事に清和天皇の即位が果たされたため、行教上人はさらに天皇の護持と国家鎮護を祈り、宇佐八幡宮において90日間の参籠修行 ·(さんろうしゅぎょう・断食修行)に入りました。

行教上人は、宇佐八幡宮の御神前に籠り、昼夜を問わずただひたすら祈りを捧げ続けたのです。

食事や休息を最小限にとどめ、雑念を払って身を清め、心を尽くして神の御心をお受けしようとしたその修行は、厳しく孤独なものでした。

するとある夜、その献身的な姿勢に感応した八幡神(八幡大菩薩)が夢の中に現れ、次のように神託を授けました。

「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。須らく近都に移座し、国家を鎮護せん」

 (私はあなたの誠実な修行に深く感じ入りました。その功績を決して忘れません。どうか私を都の近くにお迎えし、国を守らせてください)

この神託を受けた行教上人は、「山城国(現在の京都府)」の男山に新たな社を創建しようと決意し、その創建のために瀬戸内海を何度も往復していました。

そして、ついに運命の航海の時が訪れました。

行教上人は、宇佐神宮から八幡神の分霊を奉じ、大切に守りながら船に乗り込みました。

そして、行教上人とその一行は、神霊を奉じながら、細心の注意を払い進んでいきました。瀬戸内の波は穏やかに見えながらも、時折不意に荒れることもあります。

それでも彼らは、神の加護を信じ、一心に祈りを捧げながら船を進めました。

やがて、船は伊予国(現在の愛媛県)の波方沖にたどり着き、その夜、一晩停泊することになりました。

その夜、不思議な出来事が起こります。

『玉生宮』から、突如として五色の光が立ち昇り、停泊している船を明るく照らしたのです。

神々しい光は夜の闇を払い、まるで八幡神がこの地を見守っているかのようでした。

さらに、船の方からも輝く光が放たれ、波間に映る光が揺らめきながら交わり、幻想的な光景が広がりました。

この神秘的な現象を目の当たりにした村人たちは驚き、畏れを抱きながら口々に言いました。

「これは神様のお告げに違いない」

神霊の導きを確信した村人たちは、波方の丘の上に社壇を築き、八幡神の分霊をお祀りする『八幡宮』を建立しました。

こうして、波方の地にも八幡宮信仰が根付き、以来、人々はこの神聖な場所で祈りを捧げるようになったのです。

『玉生八幡宮』玉生宮+八幡宮

寛平8年(896年)に、波方村に鎮座していた『玉生宮』と『八幡宮』の二社が合祀される、一つの神社 『玉生八幡宮』

の合祀は、地域の信仰を一つにまとめる意図があり、より強固な八幡信仰の拠点を築くために行われたとされています。

合祀された新たな神社は『玉生八幡宮』と呼ばれるようになり、以降、この地域の守護神として多くの人々の崇敬を集めるようになりました。

合祀されることになりました。この合祀は、地域の信仰を一つにまとめる意図があり、より強固な八幡信仰の拠点を築くために行われたとされています。

合祀された新たな神社は『玉生八幡宮』と呼ばれるようになり、以降、この地域の守護神として多くの人々の崇敬を集めるようになりました。

来島村上氏を支えた氏神

その後、源頼義をはじめ、河野氏など歴代の伊予守や武将たちの篤い信仰を受け、玉生八幡宮は武士たちの守護神として広く崇められるようになりました。

特に、鎌倉・南北朝期以降、村上水軍の御三家の一つである来島村上氏は、この玉生八幡宮を一族の氏神として深く崇敬しました。

来島村上氏は、来島を拠点に瀬戸内海における重要な海上交通路である来島海峡をの海上防衛と海運の安全を担っていました。

来島村上氏の船団にとって、八幡大神の加護は出航前の戦勝祈願、航海の無事、そして一族の繁栄を願うために欠かせぬものであったのです。

彼らはたびたび玉生八幡宮に社領の寄進を行い、社殿の修築や整備にも尽力し、合戦に臨む際には武具を奉納し、社前において戦勝祈願をするなど、、八幡大神への篤い祈りを捧げ続けました。

玉生八幡宮は、こうした武士たちの厚い信仰に支えられ、社格を高め、やがて地域の人々にとっても海と陸を守る鎮守の社として特別な存在となっていったのです。

“唯一神道”への転換

江戸時代前期の元禄11年(1698年)、玉生八幡宮はそれまで長く続いてきた仏教的影響を受けた神仏習合的な管理体制から離れ、神道のみを基盤とする「唯一神道(ゆいいつしんとう)」の信仰形態を確立しました。

この転換は、単に宗教儀礼の形式を変えるものではなく、神社の運営そのものを大きく刷新するものでもありました。

玉生八幡宮の祭祀や社務は、このときから仏教寺院の管理や影響を受けず、純粋な神道の理念と儀礼によって行われるようになったのです。

江戸時代と神仏習合の見直し

江戸時代の初期、幕府は仏教を統治の柱とし、檀家制度により民衆を寺院を通じて管理しました。

一方で、元禄期は平和な社会が成熟し、神社が単なる寺院の付属施設ではなく、地域社会の信仰の拠り所として自立した存在感を強めた時代でもありました。

吉田家の主導する唯一神道は、神道の独立性を高め、神道を万教の根源とする思想を背景に、全国の神社や神職に大きな影響を与えました。

玉生八幡宮の神道独立も、この思想的潮流と地域の自立意識の高まりの中で進められたと考えられます。

吉田家とは

吉田家は、京都の吉田神社を拠点とし、室町時代から江戸時代にかけて全国の神道界に大きな影響を持った神職の名門です。

もともとは古代の神祇官に連なる家系で、朝廷の祭祀を司る家柄とされています。

室町時代中期に吉田兼倶(よしだかねとも)が登場し、吉田家の地位は大きく高まりました。

吉田兼倶は、神道こそが仏教や儒教の根源であるとする唯一神道を大成し、神道を独自の体系としてまとめ上げました。

この思想にもとづき、吉田家は全国の神社や神職に神階や免許を授け、祭祀の作法や社務のあり方を統制する役割を果たしました。

吉田家は朝廷や室町幕府と結びつき、神道界の頂点に立つ権威として、全国の神社に影響を及ぼしました。

その権威は、江戸時代に入っても維持され、地方の神社も吉田家の認可を受けて祭祀を行うのが一般的でした。

玉生八幡宮が元禄十一年(1698年)に唯一神道の形式へ転換したのも、吉田家の認可や指導のもとで、仏教的影響を排し純粋な神道の祭祀へと改めたことを意味しています。

吉田家は、こうして神社の神道独立を推進する役割を担っていたのです。

玉生八幡宮の変化

この転換により、玉生八幡宮は地域の住民にとって、より一層「八幡大神の御神威を純粋に仰ぐ社」としての役割を強めました。

戦勝祈願や海上安全、五穀豊穣、村の平安を願う鎮守の社として、村人たちの信仰がさらに結びついていったのです。

「郷社へ」明治時代の変革

明治維新(1868年)を迎えると、新たな行政・宗教政策のもとで、神社の在り方も大きく変わっていきました。

同年に発布された神仏分離令により、長く続いてきた神仏習合の形が解消され、神道は国家の宗教的支柱として位置づけられるようになりました。

政府は神社を公的に統制するため社格制度を設け、全国の神社を序列化し管理しました。

玉生八幡宮もこうした時代の大きな転換の中で、地域の中心的な神社として新たな歩みを始めることとなったのです。

明治4年(1871年)、明治政府は全国の神社を統制するため社格制度を設け、玉生八幡宮は「郷社(ごうしゃ)」に指定されました。

郷社とは、府県が指定する地域の重要な神社のことで、地元の人々にとって精神的な支えとなる存在でした。

この制度により、神社の格式が公的に認められ、地域の中心的な信仰の場として発展しました。

現在の玉生八幡神社へ

この郷社制度は、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、GHQ(連合国軍総司令部)による「神道指令」が発布されたことにより廃止されました。

神道指令は、国家と宗教を切り離し、国家神道体制を解体することを目的としており、これにより神社の社格や国家管理下での序列も廃止され、宗教の自由化が進められたのです。

しかし、社格という公的な制度がなくなった後も、玉生八幡宮は「玉生八幡神社」としてその歴史と信仰の伝統を受け継ぎ、地域の精神的な支柱であり続けました。

旧北郷地区の十ヵ村(波方村、樋口村、小部村、森上村、馬刀潟村、宮崎村、杣田村、高部村、来島村、波止浜村)の総氏神として、今も多くの人々が参拝に訪れています。

特に造船業や海運業が盛んなこの地域において、玉生八幡神社は造船会社や海運関係者から篤く信仰され、航海安全、船の新造・進水式、商売繁盛を祈る場として重要な役割を果たしてきました。

祭礼や祈願の際には海上の安全を願う神事が執り行われ、進水する船には御札が授けられるなど、地元の産業や暮らしと深く結びついた信仰が今日に至るまで息づいています。

神社名

玉生八幡神社(たもうはちまんじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市波方町波方甲1616

電話

0898-41-9403

主な祭礼

例大祭(5月第4日曜日)

主祭神

品陀和気命・帯中津日子命・息長帯比売命・底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神・他6柱

境内社

龍神社・金刀比羅神社・石鎚神社

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