「お太郎さん」に込められた村人の祈り
「太郎坊(たろうぼう)」は、愛媛県今治市菊間町蔵之谷にある、鳥居とお堂が並び立つ神仏習合の独特な供養の場です。
地元では親しみと畏れを込めて「お太郎さん」と呼ばれ、長く大切に守られてきました。
その存在は公式にも記録されており、独立行政法人国立文化財機構・奈良文化財研究所が運営する全国文化財総覧には「太郎坊経塚」として掲載され、戦国の世から続く祈りを今に伝える供養塔が静かに建っています。
この地はかつて、高仙山城(こうぜやまじょう)を中心に栄えた地域でしたが、落城の際には多くの命が失われました。
太郎坊は、その悲劇を忘れまいとする人々の祈りと記憶が形となった場所であり、今もなお供養が続けられる静かな信仰の地となっています。
高仙山城と落城伝説
高仙山城は正平年間(1346年頃)、伊予の名門・河野一族の血を引く池原近江守通去によって築かれたとされる山城です。
標高は高くはないものの、山頂からは瀬戸内海・斎灘を一望できる要害の地に位置し、古来より海上交通の監視と防衛の要所でした。
築城以来、池原氏が代々城主を務め、河野水軍の一翼として瀬戸内海の制海権を担いました。
永禄年間(1558〜1570)には池原兵部通吉が城主として城下の統治や港の管理、沿岸防備にあたり、地域の政治・経済・軍事の中心として機能していました。
しかし、永禄年間を経て戦国時代も末期に差しかかると、伊予国の情勢は大きく動き始めます。
長宗我部元親が土佐から勢力を拡大し、伊予・讃岐・阿波へと侵攻を進め、河野氏はその侵攻に苦しめられていました。
一方、瀬戸内海の要衝を押さえる村上水軍も分裂の兆しを見せます。
来島村上氏の裏切りと脱出
村上水軍の御三家のひとつ、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ)は、河野氏への忠義を守りつつも、次第にその将来性に疑念を抱くようになります。
通総は、河野氏が毛利氏と連携しながらも長宗我部氏や織田信長の圧力に苦しみ、いずれ一族が滅びるのではないかと危惧していました。
さらに通総の父・来島通康がかつて河野家の家督相続を約束されながら反故にされた経緯もあり、河野氏との関係は決して良好とはいえない状況にありました。
ついに天正9年(1581年)、通総は重大な決断を下します。
河野氏との関係を断ち、豊臣秀吉(羽柴秀吉)との同盟を選んだのです。
この決断により、村上水軍は来島氏が豊臣方、能島氏・因島氏が毛利・河野方という形で分裂。
瀬戸内海の勢力図は大きく変わることとなりました。
しかし、この裏切りに対して毛利氏と河野氏は激しく反発。
毛利水軍が来島を包囲し、因島・能島の村上氏も加わって来島村上氏を攻撃します。
通総は一族の存亡をかけて徹底抗戦しましたが、やがて追い詰められ、来島を放棄せざるを得ない状況に陥ります。
この危機的状況で通総は決死の脱出を決断。
毛利・河野・村上水軍の厳しい海上封鎖を突破し、命からがら豊臣秀吉の陣営へと落ち延びました。
天正十三年の四国攻め
同じ頃、天下の情勢を揺るがす本能寺の変が発生。
織田信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、織田政権の主導権を掌握します。
秀吉は信長の遺志を継ぎ、天下統一を推し進める過程で、かつて敵対していた毛利氏とも講和を結び、和睦を成立させました。
これにより中国地方の戦線は終結し、秀吉は次なる標的を四国へと定めます。
当時の四国では、土佐の長宗我部元親が勢力を拡大し、阿波・讃岐・伊予の大半を制圧していました。
元親は「四国の覇者」として君臨し、織田家の圧力にも従わず勢力拡大を続けていたため、秀吉は元親討伐を決意します。
天正十三年(1585)、秀吉は小早川隆景を総大将、宇喜多秀家・黒田官兵衛・仙石秀久らを副将とし、水軍を含めた水陸十万ともいわれる大軍を四国へ送り込みました。
豊臣軍は讃岐・阿波・伊予の三方面から同時進撃し、各地で長宗我部方の城を攻略。
讃岐では十河城をはじめとする主要城郭が次々と落城、阿波でも蜂須賀家政・仙石秀久らが平定を進めました。
伊予方面では、小早川隆景率いる毛利勢が先鋒を務め、新居浜に上陸。
上陸後はまず東伊予の高尾城など、長宗我部元親の影響下にあった城砦群を攻略し、その後進路を西へ変えて進撃しました。
道中では重茂城・無宗天城など河野氏方の支城も降伏、あるいは落城させ、伊予守護・河野通直の本拠湯築城を目指して進軍を続けます。
高仙山城の落城
この時の高仙山城主は池原近江守通吉でした。
通吉は河野一族の重臣として、永禄十一年(1568)に牛福丸(のちの河野通直)が河野氏宗家を継いでからは後見役を務め、若き当主を支えました。
通吉は天正七年(1579)に没するまで、河野氏政権の中心人物として活躍し、伊予国内の政務と軍事を統率しました。
通吉の没後は家督が池原兵部通成に引き継がれ、通成は高仙山城主としてこの地域の防備にあたることとなります。
池原兵部通成は、敵軍の勢いを削ぐため籠城ではなく出撃を選び、わずか二百余騎を率いて大門大松山(現在の伊予亀岡駅付近)に布陣。
果敢に毛利軍を迎え撃ちました。
しかし、多勢に押され敗走を余儀なくされます。
長谷の山崎の砦も陥落し、通成はわずか十九名の残兵とともに高仙山城へ退却。
城では決死の籠城戦が展開されましたが、刀折れ矢尽きるまでの奮戦もむなしく、ついに抗戦は不可能となります。
天正十三年七月十三日、真っ赤な夕日が西の斎灘へと沈む頃、十九歳の若き城主・通成は自刃し、高仙山城は落城したと伝えられています。
その後、通成や討ち死にした城兵の霊を慰めるため、山頂に鎮座する高仙神社の境内に池原神社が創建されました。
池原神社は、今も高仙山の山頂で地域の人々に崇敬され、戦国の悲劇と武士たちの忠義を後世に伝える鎮魂の場となっています。
「太郎坊」落城の記憶と史跡
高仙山城落城の悲劇は、単なる歴史的事実としてではなく、地域の人々の心に深く刻まれ、数多くの伝承や民話として現代まで語り継がれています。
なかでもとくに人々の記憶に強く刻まれているのが、太郎坊の伝承です。
高仙山城落城の戦いのさなか、城主・池原兵部通成の子供が、現在の菊間中学校付近で馬ごと斬られて命を落としたと伝えられます。
村人たちはその亡骸を蔵之谷の小山に丁重に葬り、人が踏み荒らさぬようソテツを植えて墓所を守りました。
やがて、この地では夜になると「首のない馬が駆け回る」という怪談が広く語られるようになり、落城の悲劇と戦死者の怨念が人々に意識されるようになりました。
さらに、農作物の凶作や疫病の流行などが続くと「お太郎さんの怒り」と考えられ、霊を鎮めるために祀るようになったと伝えられます。
こうして古びた小さな墓標は「お太郎さん」と呼ばれ、村人たちの祈りの対象となりました。
墓には掌禅寺院日晴東光大居士の法名が刻まれ、今日に至るまで供養が続けられています。
「太郎坊供養」
かつては三月の彼岸には大般若経の読誦供養が行われ、毎年お盆の八月十三日には、麦から作るどぶろくを供えて霊を鎮める「むぎ酒念仏」が営まれてきました。
むぎ酒の作り方は、まず、裸麦一升をよく洗い、きれいに水を切った後、麹五合を加えます。
これをとろ火でじっくりと炊き、焦げないようにかき混ぜながら仕上げます。火を止めた後は適度に冷まし、大瓶(かめ)に移して仕込みます。
仕込んだ後はそのまま三日間寝かせて自然に発酵させます。
この間、発酵の具合を確かめながら温度や状態を見守るのも大切な役目です。発酵が進むと、麦の香りとほのかな酸味が立ちのぼり、どぶろくらしい芳醇な香りが漂ってきます。
出来上がったむぎ酒は、二枚の葉(サカキや大きな葉を用いる)に丁寧に盛り付けられ、「お太郎さん」の墓前に供えます。
そして、供養は鉦と太鼓に合わせて一四六回の念仏を唱え終えた後、集まった人々で分け合い、椀ですすりながら冥福を祈りつつ談笑するのが習わしでした。
こうした手作りのどぶろくは、単なる供物ではなく、共同作業を通して村人同士の絆を深める大切な役割を果たしてきました。
むぎ酒を仕込む手間を皆で分担することで、村全体が一体となり、亡き人を悼む気持ちを共有する機会ともなったのです。
近年は市販の甘酒を用いるようになり、かつて何日もかけて仕込んだむぎ酒の風習は姿を消しました。
しかし、その途端に部落では不可解な死や難病が相次ぎ、「これはお太郎さんの祟りではないか」との不安が村中に広がったといいます。
人々は恐れとともに、もう一度霊を慰め直さねばならないと考え、石鎚山修験の行者に相談して供養の在り方を見直す機会としました。
そして昭和60年(1985年)、太郎坊と菩提所である掌禅寺で、高仙山城落城から四百年にあたる節目の年に、霊を慰める大規模な供養が営まれました。
翌年の昭和61年(1986年)三月には、長年にわたり続けられてきた供養の象徴として、「昭和六一丙寅年三月吉祥日」と刻まれた太郎坊四百年供養塔が建立されました。
さらにその隣には、「天正の 哀史を 社の 風にきく」と刻まれた瓦版川柳会・蔵之谷組中による奉納石碑が並び、戦国の落城が残した悲劇と、その記憶を伝えています。
昭和58年(1983年)3月19日には、太郎坊供養が菊間町の無形文化財に指定され、平成17年(2005年)の市町村合併後は今治市指定無形文化財として引き継がれました。
現在も毎年お盆になると、まず「お太郎さん」に供物が捧げられ、静かに祈りが捧げられています。
太郎坊にまつわる他の説
太郎坊にまつわる伝承には、池原兵部通成の子・太郎右衛門の霊を慰める場とする説のほか、実は高仙山城主は得居氏で、河野一族の流れをくむ得居太郎通光であったとする説や、河野通光(詳細は不明)であったとする説も存在します。
この得居太郎通光説に関しては、近年になって新たな解釈も提唱されています。
天正十三年(1585年)、小早川隆景が伊予攻略のため今治から侵攻し、黒岩城(菊間町松尾)をはじめ諸城を次々に落としました。
このとき、黒岩城主・渡部内蔵之進の娘「黒姫」が捕らえられ、隆景に手籠めにされたと伝えられます。
黒姫と恋仲であった高仙山城主・得居太郎右衛門は、彼女を救い出そうと必死に奮戦しましたが、多勢に囲まれついに討ち取られ、非業の死を遂げました。
村人たちはその無念を深く憐れみ、太郎右衛門の亡骸を丁重に葬り、霊を慰めるために祀りを始めました。
これが後に「太郎坊」と呼ばれるようになり、戦乱で命を落とした人々をともに慰霊する場として、地域にとって欠かせない供養の場となったと考えられています。
また、黒姫は「タカ姫」とも呼ばれ、菊間町高田の比留女地蔵(ひるめじぞう)の由来としても語り継がれています。
比留女地蔵は、田の中の小さなお堂に祀られた地蔵で、病気平癒や安産に霊験あらたかとされ、遠方からも参詣者が訪れる信仰の場です。
怨霊から守護神へ…記憶をつなぐ太郎坊
太郎坊で祀られる位牌には、天保十四年(1843年)の改築にあわせて新調された旨が記されていますが、天明八年(1788年)の松山藩の記録によれば、当時はまだ社寺堂庵ではなく墓地として扱われていたことがわかります。
つまり、太郎坊は十八世紀末から十九世紀半ばの間に、単なる墓地から現在のような廟施設へと整えられたと考えられます。
時代が移り変わる中でも村人たちは供養を絶やすことなく続けてきました。
かつては戦いで命を落とした怨霊として恐れられましたが、やがてその存在は村を守る守護神のように受け止められるようになりました。
そして今もなお太郎坊は地域の歴史と記憶、そして祈りを未来へとつなぐ静かな拠りどころとして、その役割を果たし続けています。