「天神社・龍岡(てんじんじゃ)」は、愛媛県今治市、玉川ダムのほとりに鎮座する社で、春には桜が境内をやさしく染め、秋には銀杏が黄金色に輝き、四季折々の自然が訪れる人々を魅了します。
二柱の御祭神
天神社・龍岡では、天穂日命(あめのほひのみこと)と菅原道真(すがわらのみちざね)公の二柱を御祭神としてお祀りしています。
天穂日命
天穂日命は、太陽神・天照大神の御子神であり、古代の神話に登場する由緒ある神様です。
地上世界に降り立ち、国土の開拓や農業の振興に尽くした神として知られており、出雲国造の祖ともされています。
豊かな自然に囲まれたこの玉川の地において、天穂日命は土地と共に生きる人々の守護神として崇敬されてきました。
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
もう一柱の御祭神である菅原道真公(845-903年)は、平安時代の優れた学者・政治家であり、文章博士として朝廷に仕え、深い学識と高潔な人格で知られた人物です。
後に神格化され、その学問に対する姿勢と業績が広く尊敬されるようになり、「学問の神」として全国で崇敬されるようになりました。
道真公を御祭神とする神社は、「天神社」や「天満宮」と呼ばれ、日本各地に広く祀られています。
現在では、その数は全国でおよそ一万二千社にのぼり、受験や学業成就を願う人々の祈りの場として、今も厚い信仰を集めています。
藤原道真公と天神信仰
中流貴族の家系に生まれた菅原道真公は、幼少期から並外れた記憶力と学識を発揮し、早くから中国の古典や漢詩に親しみました。
わずか11歳で詩を詠んでその文才が注目され、20代には当時の最難関試験である「文章得業生試」に合格し、その知識と才能が世に知られるようになりました。
宇多天皇が道真公の才能を高く評価し、道真公を学問と文化の発展に寄与させるとともに、側近として重用したことが大きな転機となりました。
道真公はその博識と誠実さによって宮廷での信頼を深め、最終的には右大臣に昇進しました。
菅原道真公は朝廷において高く評価され、学問の才のみならず政治手腕にも優れた人物として重用されました。
宇多天皇・醍醐天皇の信任を受け、右大臣にまで昇進するなど、政界の中枢で重要な役職を歴任しました。
しかしその栄光の陰で、道真公には不遇な運命が待ち受けていました。
昌泰4年(901年)、藤原時平の陰謀により無実の罪を着せられ、九州の太宰府に左遷されることとなってしまったのです。
この左遷は、道真公にとって事実上の流刑と同じであり、都から隔離され、過酷な生活を余儀なくされました。
太宰府での過酷な生活
太宰府への道中は、すべての費用が自費で賄われ、到着しても俸給や従者は与えられず、政務を行うことも禁じられていました。
用意された住まいは雨漏りのする粗末な小屋で、衣食住の心配がつきまとう厳しい暮らしが続きました。
それでも、道真公は「いつか再び都に戻りたい」という強い願いを抱きながら、孤独と苦難の生活に耐え続けました。
しかし、次第に身体は衰え、心身の疲労が積み重なり、ついに延喜3年(903年)2月25日、道真公は太宰府で病に倒れ、無念の中でその生涯を閉じました。
道真公の死と人々の祈り
道真公の無念の死は、朝廷のみならず全国の人々に深い衝撃を与えました。
特に、かつての教え子や官人たち、そして道真公のを敬愛していた民衆のあいだでは、「この死は不当であり、道真公は冤罪であった」という思いが強く広がっていきます。
このような世論の動きは、やがて道真公の霊を慰めるための信仰へと発展していきました。
まず延喜3年(903年)、道真公の没後まもなく、太宰府の墓所の上に小さな社が建てられ、霊を慰める祀りが始まりました。
さらに延喜5年(905年)には、道真公の門弟であり、忠実な学僧であった味酒安行(うまさけのやすゆき)が、その墓所の上に廟(みたまや)を建立しました。
この廟はのちに「安楽寺」と称され、道真公を祀る寺院としての歴史を刻み始めます。
そして、この出来事は全国に広がる天神信仰のはじまりでもありました。
菅原道真公の怨霊伝説と都の災厄
この頃、平安京では不吉な出来事が相次ぎ、これらが道真公の怨霊の祟りではないかと恐れられるようになりました。
まず、道真公の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が、延喜9年(908年)に雷に打たれて急死。
続いて、政敵であった藤原時平も翌年、39歳の若さで病没します。
さらに延喜13年(913年)には、道真公の後任として右大臣に就いていた源光が、狩猟中に落馬によって亡くなりました。
これらの突然の死に加え、都では洪水、長雨、疫病などの天災が次々と発生。人々はこれらの災厄を、道真公の怨霊による「祟り」と恐れ始めたのです。
太宰府天満宮の創建と鎮魂の始まり
このような状況を重く見た醍醐天皇は、延喜19年(919年)、道真公の霊を鎮めるため、太宰府の安楽寺境内に社殿を建立するよう勅命を下しました。
これが、後の太宰府天満宮の前身となります。
太宰府天満宮は、道真公の霊を慰め、都の安寧を取り戻すための国家的な鎮魂の場として整備されていきました。
しかし、それでも災厄は止まることなく続いていきます。
さらなる災厄と天皇の死
延喜23年(923年)、醍醐天皇の皇子である保明親王が病没しました。
保明親王は、道真公を失脚させた藤原時平の甥にあたる人物であり、その死はただの偶然とは思えないとする声がすでに広がっていました。
さらにその2年後、延長3年(925年)には、保明親王の子であり、皇太孫に任じられていた慶頼王までもが病死します。
これにより、皇統に連なる若き皇族の命が相次いで絶たれたことが、都の人々に不安と不吉の影を落としました。
そして極めつけとなったのが、延長8年(930年)の出来事です。
この年の7月、平安京・清涼殿に落雷が直撃し、朝議の最中であった大納言・藤原清貫をはじめ、かつて道真公の左遷に関与した高官たちに死傷者が続出しました。
雷は天神の怒りの象徴とされており、やがてこの事件が「雷神となった道真公の怨霊の怒り」と信じられるに至ります。
都は騒然とし、恐怖と動揺が広がる中、醍醐天皇もこの事件を深く案じ、心を病んで病床に伏すようになります。
やがて天皇は、皇太子寛明親王(のちの朱雀天皇)に譲位。
しかしそのわずか1週間後の10月23日、亡くなりました。
雷の一撃からわずか数か月、天皇の死という国家の根幹を揺るがす出来事が起こったのです。
菅原道真の名誉回復と怨霊鎮魂
「これはまさしく、無実の罪で死した菅原道真公の祟りである」
醍醐天皇の死は、朝廷にとって極めて深刻な出来事でした。
皇族の崩御が続き、災厄や不吉な出来事が相次ぐ中で、ついには天皇さえも亡くなったことで、「道真公の怨霊を鎮めなければ、さらなる災厄が朝廷や都に降りかかるのではないか」という危機感を持つようになったのです。
そこで朝廷は、道真公の怨霊を鎮め、都の平安を取り戻すために、道真公の名誉を回復するための措置に踏み切ります。
まず、道真公にかけられたすべての罪を赦免し、生前の職位であった右大臣の地位を回復させました。
さらに正二位の位を追贈し、道真公が再び都の中枢において重要な存在であると正式に認められました。
また、道真公の子どもたちは京に呼び戻され、住居と役職を与えられ、家系が再び平安京で栄えるよう配慮されました。
こうして、道真公の一族は平安京においてその存在が認められ、社会的な地位を取り戻すことになりました。
「北野天満宮」の誕生
それでもなお都では災厄が続き、異変が収まることはありませんでした。
朝廷は、さらなる対策として道真公を神格化し、正式に都の守護神として祀ることを決意します。
天暦元年(947年)、御神託に従い、道真公の霊を鎮めるために平安京の北西、鬼門にあたる北野の地に小祠を建てました。
ここに「雷天神(からいてんじん)」として道真公を祀り、怨霊が都を守護する神に変わることを願い、都の平穏と安寧が戻ることを祈りました。
火雷天神は火や雷の強力な力を象徴する神として、都を守護する存在とされました。
こうして怨霊として恐れられていた道真公の霊は逆に都を守る神格として敬われ、祀られることで次第に災厄も収まり、都に安定がもたらされていきました。
この小祠は後に「北野天満宮」として大きな神社へと発展し、道真公を祀る天満宮の総本社とされるようになりました。
さらに北野天満宮は、九州の太宰府天満宮とともに全国にある天満宮・天神社の総本社とされ、道真公への信仰の中心的存在となっていきました。
「天満大自在天神」怨霊から神様へ
こうして、神格化された道真公は、「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神号を授けられました。
「天満」とは
「天満」とは、「天空に満ちる」という意味を持ち、菅原道真公の霊力が空の果てまで及ぶほど強大であることを象徴しています。
これは、雷神として畏れられていた道真公の怨霊を、逆に都を守護する天の加護の神として再定義し、天に満ちる力強い存在として祀り上げたものです。
この名は、やがて「天満宮」「天満神社」などの社名の由来となり、全国に広がる天神信仰の礎となりました。
今日、私たちが親しみを込めて「天神さま」と呼ぶのも、この「天満大自在天神」の略称にあたります。
「大自在天」
「大自在天(だいじざいてん)」とは、仏教における最高位の天部の神であり、全宇宙(=三千大千世界)を自在に支配する神とされています。
元来は古代インドにおけるシヴァ神(マハーデーヴァ)の仏教的受容によって成立した神格で、ヒンドゥー教では破壊と再生を司る神、仏教においては色界の最上位に住する絶対的な存在として位置づけられました。
この「大自在」とは、“何ものにも縛られず、あらゆることを思いのままに成す力”を意味し、仏教における他の諸天(帝釈天や梵天など)をも凌駕する存在とされています。
そしてこの「大自在天」の名を、日本の朝廷が菅原道真公に与えたことは、神仏習合の思想を体現するものでもありました。
当時の日本では、神と仏の区別は明確でなく、神道の神も仏教の諸尊として読み替えられる(本地垂迹)思想が一般的でした。
怨霊信仰と仏教的加持祈祷が融合した環境の中で、道真公の怒りを静めるには、単なる神格化では足りず、仏教的にも最高位の神に昇格させる必要があったのです。
菅原道真公=学問の神
こうして神様として祀られた道真公は、その高い学識と誠実な人柄、そして清廉な生涯から、やがて「学問の神様」としても信仰されるようになります。
江戸時代に入ると、全国各地に寺子屋や藩校が整備され、学問は武士階級のみならず町人や農民の子どもたちにとっても身近なものとなっていきました。
このような教育の普及とともに、「菅原道真公=学問の神様」という信仰は庶民のあいだにも急速に広がっていったのです。
当時の人々は、「努力すれば出世できる」「学問によって人生を切り拓ける」という思いを抱き、まさに学問のシンボルである道真公に祈りと希望を託すようになったのです。
やがて、天満宮や天神社では「筆始め」「学業祈願」「進学祈願」などの祭事が行われるようになり、受験や就学を控えた子どもたちを連れて参拝する風習が各地で定着していきました。
こうした道真公の霊を鎮めるための取り組みは、都だけにとどまらず、朝廷は同時に諸国にも道真公の御霊を祀るよう命じました。
この命により、各地の神社や寺院で道真公が祀られるようになり、都における北野天満宮と同様に、天神信仰は全国へと広がっていきました。
天神社・龍岡の創建
天神社・龍岡は、全国に広がる天神信仰を受け継ぐ神社の一つとして、今日も多くの人々の信仰を集めています。
しかしその起源はさらに古く、古代伊予にまでさかのぼります。
「竜王の宮」
この地を治めていた越智氏の祖・小千国造(おちのくにのみやつこ)は、現在の龍岡小学校周辺の丘陵に神籬(ひもろぎ)を立て、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を迎えて祀りました。
大己貴命は、出雲神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名で、国土の形成や医療、農耕、縁結びの神として知られています。
少彦名命は、その大国主命と協力して国づくりを行ったとされる神であり、知恵と治療、酒造の神としても信仰されています。
少名彦命は大国主命と協力して国造りを行ったとされる
このような自然への畏敬に根ざした信仰から、「竜王の宮」とも称され、神聖な場として人々に崇められてきました。
「天神社」と天津宮
天慶5年(942年)9月25日に、筑紫・太宰府から伊予に勧請された二十八社の一社として、「天神社」がまた別の場所に建立されました。
その後、天正18年(1590年)には、この天神社が天津宮に合祀され、両社は一体となって「天神社」として祀られるようになります。
玉川ダム建設によって現在の場所へ
さらに時代が下り、昭和期に入って愛媛県の重要な治水・利水事業として「玉川ダム建設計画」が進められることとなり、従来の天神社の社地もまた、ダム湖(玉川湖)水没予定区域に含まれることとなりました。
玉川ダムは、洪水調節・かんがい用水・水道用水の確保を目的として建設された多目的ダムであり、県民生活や農業振興において大きな役割を果たす施設として位置づけられていました。
このダム建設に先立ち、昭和39年(1964年)4月に地質・環境などの事前調査が開始され、昭和41年(1966年)4月に付帯工事が着手。
続いて、昭和43年(1968年)6月には本体工事が始まり、昭和46年(1971年)3月にダムは完成しました。
これにともない、古くから人々の信仰を集めていた天神社も、かつての社地を離れざるを得なくなり、
昭和47年(1972年)、現在の高台の地へと遷座(せんざ)されることとなりました。
長慶天皇との関係
天神社・龍岡が鎮座する高台は、「神の岡(かみのおか)」とも呼ばれ、かつて天皇の行幸に際しての仮の宿所「駐蹕(ちゅうひつ)」として利用された由緒ある場所と伝えられています。
その歴史は、南北朝時代(1336年〜1392年)にまでさかのぼります。
南北朝時代は、日本の政治が南朝と北朝に分裂し、それぞれが天皇の正統性を主張して争った時代です。
長慶天皇(在位:1368年~1383年)は南朝の第5代天皇であり、父である後村上天皇から皇位を継承しました。
南北朝の抗争は、京都を拠点とする北朝と吉野を拠点とする南朝の間で熾烈を極め、各地で激しい戦闘が続きました。
南朝側の長慶天皇は、紀伊国高野山に拠点を移し、そこでの活動を続けましたが、南朝軍は次第に劣勢となり、戦局が厳しくなります。
文中2年(1373年)、長慶天皇は北朝軍との戦いに敗れ、高野山から伊予国への避難を余儀なくされました。
この逃亡の際に天皇を支援したのが、伊予国を統治していた河野氏でした。
河野氏は南朝を支持しており、長慶天皇を庇護することでその忠誠を示しました。
伝承によれば、長慶天皇が一時滞在したこの地は「竜岡」と呼ばれるようになり、その名が現在の地名に引き継がれたとされています。
長慶天皇はその後、久米神戸徳威法水院に移り、そこで崩御しました。
その御遺骨は、奈良原神社(ならばらじんじゃ)が鎮座する楢原山(ならばらさん・奈良原)の山頂に分骨・埋葬されたと伝えられています。
この古墳は現在も地域に残されており、南北朝時代の歴史を物語る重要な遺産となっています。
鎮守の森と文化財
天神社・竜岡の本殿の裏には鎮守の森は、単なる木々の集まりではなく、古来より神々が宿ると信じられてきた神聖な空間として、長きにわたり地域の人々に大切に守られてきました。
参拝者が一歩足を踏み入れると、そこには静寂な空気が漂い、鳥の声や木々のざわめきに耳を澄ませることで、自然と心が整えられていくような、不思議な感覚を味わうことができます。
森の中心には、目通り(幹回り)約250cmという、日本有数の大きさを誇るサカキの巨木がそびえ立っています。
このサカキは御神木として崇敬されており、訪れる人々や地域住民にとって特別な存在です。
長い歳月を経てもなお青々と葉を茂らせ、まるでこの地を見守るように佇んでいます。
さらに境内には、地域から集められた*宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔(ごりんとう)が点在しており、それぞれがこの地に息づく歴史や人々の信仰、祈りのかたちを今に伝えています。
これらの石塔群は、ただの遺物ではなく、地域の祖先や祈りの記憶をつなぐ文化遺産として、現在もひっそりとこの神域を見守り続けています。