今治市別名(いまばりし べつみょう)に鎮座する「天満神社・小泉(てんまんじんじゃ)」は、かつてこの場所の山上にあった「天神社(てんじんじゃ)」という小さな祠からはじまります。
この地域は、古代から神聖な場所として大切にされ、周囲にはいくつもの古墳が残っています。詳しいことはわかりませんが、西口よりの外敵を防ぐ上にも村守りとして、又神聖な所として選ばれたのでしょう。
学問の神様「菅原道真」
「天満神社・小泉」は御祭神として「菅原道真(すがわらのみちざ)」公を祀っています。
菅原道真公(845-903年)は、平安時代を代表する学者であり、詩人、政治家としても卓越した人物でした。貴族としてはさほど高い家柄の出身ではありませんでしたが、並外れた学才と教養によって朝廷からの注目を集め、「学問の神」として後世にまで崇敬されています。
道真公は幼少期から優れた記憶力を発揮し、漢詩や中国の古典に親しみました。わずか11歳で詩を詠んでその文才が注目され、20代には当時の最難関試験である「文章得業生試」に合格し、その知識と才能が世に知られるようになりました。
宇多天皇が道真公の才能を高く評価し、道真公を学問と文化の発展に寄与させるとともに、側近として重用したことが大きな転機となりました。道真公はその博識と誠実さによって宮廷での信頼を深め、最終的には右大臣に昇進しました。この昇進は当時の社会では非常に稀なことであり、学才と人格がいかに尊ばれたかを物語っています。
詩人としても多くの優れた作品を残し、「菅家文草」などの著作を通じて漢詩の名作が伝わっています。道真公の詩は自然への賛美や人間の感情を見事に表現しており、後世の人々に深い感銘を与え、日本文学の傑作とされています。
伊予にも残る菅原道真公の歴史
仁和4年(888年)3月、菅原道真公が伊予を巡視された際、この地の天神社を訪れて「奉幣(ほうへい)」という神聖な儀式を行いました。
奉幣は、神様に供え物を捧げ、感謝や祈りを通して神の加護を願う儀式で、古くから神事として行われてきました。この儀式で使われる「御幣(ごへい)」は、神を招くための依り代(よりしろ)で、細長い木や竹に「紙垂(しで)」と呼ばれる特別な形に切った紙や布が飾り付けられています。神聖な捧げ物として、神事に欠かせないものとされています。
道真公の奉幣には、旅の無事や地域の平和を願う気持ちが込められていたことでしょう。
当時、学問の才に優れ、天皇にも信任されていた道真公が、この地で神に祈りを捧げたことは、地元の人々にとっても大きな意味を持つ出来事となりました。その後も道真公は朝廷内で重んじられ、学問の才だけでなく政治の分野でも大いに活躍し、重要な役職を任されるなど
その後も朝廷内で重んじられ、学問だけではなく政治の分野でも大いに活躍していた道真公でしたが、不遇な運命が待ち受けていました。
昌泰4年(901年)、藤原時平の陰謀により無実の罪を着せられ、九州の太宰府に左遷されることとなってしまったのです。
この左遷は、道真公にとって事実上の流刑と同じであり、都から隔離され、過酷な生活を余儀なくされました。太宰府への道中は、すべての費用が自費で賄われ、到着しても俸給や従者は与えられず、政務を行うことも禁じられていました。用意された住まいは雨漏りのする粗末な小屋で、衣食住の心配がつきまとう厳しい暮らしが続きました。
それでも、道真公は「いつか再び都に戻りたい」という強い願いを抱きながら、孤独と過酷な環境に耐え続けましたが、次第に体力と気力が尽き、心身ともに衰弱していきました。左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日、道真公は太宰府で病に倒れ、無念の中で亡くなりました。
道真公の無念の死は多くの人々に衝撃を与え、道真公を慕う人々の間では「その死は不当であった」という思いが強まりました。
道真公の徳を尊ぶ心から、霊を慰めるために各地で祀る動きが起こり、太宰府では903年、道真公の墓所の上に社が建てられました。さらに905年には、道真公の門弟であった味酒安行がその墓所に廟(みたまや)を建て、やがて安楽寺という寺院になりました。
道真公の徳を尊ぶ心から、日高地区でも祀り続けることが行われ、「天神社」としての崇拝が続いていくこととなりました。
菅原道真の怨霊伝説
一方、平安京では不吉な出来事が相次ぎ、これらが道真公の怨霊の祟りではないかと恐れられるようになりました。まず、道真公の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が延喜9年(908年)に雷に打たれて亡くなり、翌年には政敵であった藤原時平が39歳という若さで急死しました。さらに延喜13年(913年)には、道真公の後任として右大臣に任命されていた源光が狩りの最中に死亡します。
これらの不自然な死に加え、都では天災も頻発しました。洪水や長雨、疫病などが相次ぎ、異常な災厄が都を覆い、人々はこれらを「道真公の怨霊の祟り」だと恐れるようになりました。
延喜19年(919年)、醍醐天皇はついに道真公の霊を鎮めるため、太宰府の安楽寺の境内に社殿を建立する勅令を出し、社殿が建設されました。これが現在の太宰府天満宮の基盤となり、道真公はここで正式に祀られることとなりました。太宰府天満宮は道真公の霊を鎮め、都の平穏を取り戻すための中心的な場所として発展していきました。
しかし、それでもなお災厄は続きました。
延喜23年(923年)には、醍醐天皇の皇子で東宮(皇太子)であった保明親王(道真公を追放した藤原時平の甥)が病死し、さらに延長3年(925年)には保明親王の息子で皇太孫に任命されていた慶頼王も相次いで病死しました。
延長8年(930年)には、清涼殿に落雷が直撃し、朝議中の大納言藤原清貫など道真公の左遷に関与した朝廷の要人に多くの死傷者が出ました。この出来事は都に大きな衝撃を与え、道真公の祟りだと恐れられました。
この出来事に心を病んだ醍醐天皇は病に倒れ、やむなく皇太子寛明親王に譲位しましたが、1週間後の同年10月23日に醍醐天皇までもが亡くなってしまいました。
道真公の怨霊を鎮めよ
醍醐天皇の死は、朝廷にとって極めて深刻な出来事でした。皇族の崩御が続き、災厄や不吉な出来事が相次ぐ中で、ついには天皇さえも亡くなったことで、「道真公の怨霊を鎮めなければ、さらなる災厄が朝廷や都に降りかかるのではないか」という危機感を持つようになったのです。
そこで朝廷は、道真公の怨霊を鎮め、都の平安を取り戻すために、道真公の名誉を回復するための措置に踏み切ります。まず、道真公にかけられたすべての罪を赦免し、生前の職位であった右大臣の地位を回復させました。さらに正二位の位を追贈し、道真公が再び都の中枢において重要な存在であると正式に認められました。
また、道真公の子どもたちは京に呼び戻され、住居と役職を与えられ、家系が再び平安京で栄えるよう配慮されました。こうして、道真公の一族は平安京においてその存在が認められ、社会的な地位を取り戻すことになりました。
北野天満宮の誕生
それでもなお都では災厄が続き、異変が収まることはありませんでした。
そこで朝廷はさらなる対策として、道真公を神格化して正式に都の守護神として祀ることにしました。
天暦元年(947年)御神託の指示により、道真公を祀る場所として選ばれたのは平安京の北西にあたる「北野」の地でした。この場所は鬼門として知られ、都に災厄が及ばないように防ぐ神聖な役割が期待されました。
さっそくこの地に小さな祠が建てられ、道真公を「火雷天神(からいてんじん)」として祀り始めました。火雷天神は、火や雷の強大な力を象徴し、かつて怨霊として恐れられていた道真公の霊が、今度は都の災厄を鎮める守護神として人々を守ってほしいという願いを託された存在でした。この祠は後に時代に、都のみならず全国の人々からも広く信仰される「北野天満宮」となりました。
また、道真公は「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神号を授けられ、「天神さま」として広く敬われるようになりました。
この時代の天神信仰では、火や雷の神である雷神や水神、さらには医薬の祖神である大己貴命(おおなむちのみこと)・小彦名神(すくなひこなのかみ)といった神々が祀られていましたが、道真公の信仰が全国に広まる中で、これらの天神信仰も次第に「天満天神」として一体化され、道真公がその主祭神として崇められるようなっていきました。
北野天満宮や太宰府天満宮をはじめとする天満宮は、今では全国に広がり、天神信仰の中心的な存在として「学問の神」として人々の心に深く根づいています。
「天満神社・小泉」の誕生
道真公の霊を鎮める取り組みは、都だけにとどまりませんでした。平安京での祟りを恐れた朝廷は、全国の安寧を願い、諸国の神社や寺社にも道真公を祀るよう命じました。こうして全国各地で道真公の御霊が祀られるようになり、都の人々と同様に、地方でも道真公を神として敬う天神信仰が広がっていきました。
愛媛県今治市の日高地区でも天神信仰が伝わり、道真公との縁が深いこの地の村人たちは、正暦4年(993年)2月、一条天皇の時代に、伊予国司であった河野氏が天皇からの正式な許可(勅許)を得て、北野天満宮から道真公の分霊を天神社に招きました。
これが「天満神社・小泉」の創建と伝わっています。
当時の天神社は、神仏習合の時代の中で本地仏(神の化身として仏を安置する考え方)として観音仏を祀っており、大熊寺(今治市・日高地区)が管理していましが、天正年間(1500年代後半)に戦火によって阿弥陀堂とともに焼失してしまいました。
その後、明治4年(1871年)に天神社は正式に村社に指定され、地域の重要な神社として位置づけられました。さらに、明治43年(1910年)には「神饌幣帛料供進の神社」として認定され、神社での祭りや儀式に必要な供え物や捧げ物を政府が支援することが許可されました。
この指定により、天神社は地域の守護神としての役割を一層担うようになり、いつの頃からか「天満神社・小泉」や「別宮天満宮」とも呼ばれるようになりました。こうして地域の人々の間で親しまれる存在となり、今日に至るまで篤い信仰を集め続けています。
本殿は今治城の「松本天神社」から
「天満神社・小泉」の本殿は、「日吉造り」という伝統的な建築様式で建てられ、銅板葺きの屋根が特徴的な建築物です。
また、この本殿はもともとは今治城の境内にあった「松本天神社」のものとされており、その格式ある造りから、今治市内でも貴重な建築物として知られています。
当時の今治城主であった久松松平家初代「松平定房公」は、徳川家康の異父弟を父に持つ特別な出自の持ち主であり、そのため徳川家から親藩として認められ、徳川家の源流である「松平」という氏を名乗ることが許されていました。
徳川家は菅原道真公の一族である菅原家と縁が深く、天神信仰を重んじていおり、久松家も菅原道真の子孫という深い繋がりがあったため、定房公も道真公を「天神さま」として崇敬し、久松家の別邸「松の本庭園」に天満宮を作り、道真公を祀っていました。
その頃、南光坊の境内には飛騨の名工・甚五郎によると伝えられる金比羅宮の美しい神殿があり、「十里四方には無類の神殿」と高く評価されていました。しかし、明治元年(1868年)に始まった「神仏分離」政策によって、仏教寺院である南光坊の境内に神社を置けなくなり、神殿の移設が必要となりました。
ちょうどそのタイミングで、松の本庭園の造営が進められており、今治城の境内に天満宮を移設する計画も進行中でした。そこで、南光坊からこの金比羅宮の神殿を譲り受け、今治城内の吹揚神社の南側に移設し、道真公の御神霊を奉還して祀ることにしました。こうして設けられた天満宮が、後に「松本天神社」として広く知られるようになりました。
その後、久松家によって松本天神社では春と秋の年二回にわたって祭式が執り行われ、地域の守護神として深く信仰されるようになりました。この祭礼は長く続けられ、地元の人々にも大切にされてきました。
しかし、松本天神社の本殿は、ある時を境に使われなくなってしまいます。
今治城廃城と使われなくなった松本天神社
明治元年(1868年)の太政官布告により、今治藩は版籍奉還に応じて藩を返上し、松平家は旧姓である菅原姓久松氏に復姓。
明治2年(1869年)には、藩主権の返上とともに松平家の居城であった今治城も廃城の道をたどります。10月から明治5年(1872年)にかけて今治城の建物が取り壊され、城跡には石垣と堀が残るのみとなりました。
明治4年(1871年)には廃藩置県が行われた、今治藩は廃止されて今治県が設置されました。さらに明治6年(1873年)には松山県と合併されて愛媛県に統合されることになりました。
このような統治制度の大きな変化を経る中で、今治城跡地に吹揚神社(明治5年)が創設され、地域の信仰拠点として整備されていきました。
また、大正三年(1914年)からは今治城二の丸跡地が公園として公開され、今治城は次第に公共の場として親しまれるようになりました。
このような時代の変化の中で、松平家(久松家)は居城であった今治城が廃城となったことをきっかけに、三代藩主・定陳公の代に東京へと移り住むことになりました。
久松家が今治に滞在していた頃、吹揚神社には三つの御祭神が祀られており、中央には天満宮、右側には東照宮(徳川家康公)、左側には初代藩主の定房公と二代藩主の定時公の御霊が安置されていました。これにより、吹揚神社は久松家と地域の信仰の中心として重要な役割を果たしていました。
しかし、松平家(久松家)が東京へ移ったため、吹揚神社に御霊が合祀され、松本天神社の本殿はその機能を失い、使われないまま跡地に残される形となりました。
本殿移設プロジェクト
時代は進み、大正15年(1926年)、別宮村では「天満神社・小泉」が一千二十五年祭を迎える年となり、これに合わせた御年祭の準備が着々と進められていました。地域の守護神として長い歴史を誇る天満神社の節目となる大祭を祝うため、村人たちは社殿の大規模な修繕にも取り掛かろうと計画を立て、準備を進めていたところでした。
そんな矢先、別名村の元庄屋で吹揚神社(今治城に鎮座)の氏子総代を務めていた「長野恒太郎」という人物から、今治城跡に残されていた松本天神社がシロアリ被害によって取り壊されることになったという話が耳に入りました。
松本天神社は、かつて久松家により地域の信仰の拠点として大切にされていた社殿であり、その壮麗さは村人たちも知っていました。驚きとともに「あの立派な社殿をただ壊してしまうのはあまりにも惜しい」という思いが村の間に広がりました。
そして、村人たちは御年祭を祝うために新たな社殿を必要としていた「天満神社・小泉」に、松本天神社の本殿を譲り受けられないかと考えました。
さっそく村人たちは、氏子総代を務める長野恒太郎を中心に、松平家から正式な許可を得るべく交渉を開始、松平家から譲渡の許可を貰うと、村人たちはさっそく本殿の移設に向けた話し合いと準備に取り掛かりました。
しかし、この移転が非常に困難な作業となります。
移設プロジェクトを率いたのは、別名村の熟練の三人の大工さん(麻生清太郎、長野吉太郎、長野浪次郎)でした。重要な文化財である本殿を新たな場所へ移すにあたり、三人は念入りな計画を立て、作業の準備に取り掛かりました。
本殿は非常に大きく、貴重な歴史的建造物であるため、まず屋根・胴・基礎石の土台の三つのパーツに慎重に分解し、それぞれを運搬することにしました。また、当時は現代のような運搬用の機械がなかったため、牛車に引かせて運ぶことになりました。
さらに、当時の道は狭く、急な箇所も多かったため、運搬は深夜に行われることになりました。これは、日中の交通を妨げないための工夫であり、村人たちの生活に支障が出ないように配慮されたものでした。
移設作業が始まると、村人たちも協力し、全員で牛を慎重に導きながら、山道を一歩一歩進めていきました。山道は整備されておらず、細く急な箇所も多かったため、道の狭い部分では牛車を何度も立ち止まらせ、少しずつ角度を調整しながら進める必要がありました。大工たちはそのたびに細心の注意を払い、足場や角度を確認しつつ慎重に作業を進めました。
このようにして、村人たちと三人の大工が一丸となって進めた困難な移設作業の末、本殿は無事に「天満神社・小泉」の地に到着し、御神体として安置されました。
この移設プロジェクトは、村人たちの信仰心と団結の象徴として、今も語り継がれています。
境内社「玉澄神社」
別名天満宮の境内には、歴史ある二つの末社が祀られています。
「玉澄神社(たまずみじんじゃ)」は、越智玉澄神の霊を祀る神社で、もともとは別名地区の中央に位置する宇五反地に鎮座していました。玉澄神は地域の守護神として古くから崇敬され、地元の人々に大切に信仰されてきました。しかし、明治四十二年の神社整理によって、現在は別名天満神社の境内に合祀され、末社として位置付けられています。この合祀によって、玉澄神社は引き続き地域を守護する役割を担い、現在も多くの参拝者に敬われています。
境内社「御鉾神社」
「御鉾神社(みほこのじんじゃ)」は、別名天満神社の境内にあるもう一つの末社で、地域の歴史とともに発展してきた神社です。貞享二年に記された「今治領内寺社明細書」には、御鉾神社には八千形神(大国主命の別名)や猿田地式命(道案内の神)、犬山明金(須佐之男命の孫で山の境界を守る神)など、計七柱の神々が祭神として祀られていると記録されています。
また、御鉾神社の由来には「三島の神秘は鉾であり、別に一社を建て御鉾の宮と云う」と記されており、鉾が神社の象徴とされています。鉾は古代には戦いの武器として重要視され、弥生時代から青銅製のものが用いられ、古墳時代以降には儀式の道具として神聖な役割を担いました。このような歴史的背景から、御鉾神社は鉾を象徴とする特別な神社であり、地域の信仰においても重要な存在です。
さらに、御鉾神社は大三島の大山祇神社と深い関係があるとされており、大山祇神社の別の神格として祀られてきたと考えられています。もともとは小泉と別名の境にある「御鉾の森」に鎮座していましたが、明治四十二年の神社整理で別名天満神社の境内に合祀され、現在も地域の守護神としての役割を果たしています。この神社は、今治周辺の地域特有の神名を持ち、大山祇神が瀬戸内の地に迎えられる際に深く関与したと伝えられる越智益公とのつながりが伝承されています。
「六社」
天満宮の右側に位置する今治側の広場には、新たに建てられた小宮の建物があり、そこには「日内神社」「野之妙明神社」「道祖神社」「稲荷神社」「海神社」「山神社」「荒神社」の六社が鎮座しています。これらの神社は、それぞれの守護神として地域の人々から信仰され、天満宮の一部として重要な役割を果たしています。