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天満神社・小泉(今治市・日高地区)

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今治市別名(いまばりし べつみょう)に鎮座する「天満神社・小泉(てんまんじんじゃ)」は、かつてこの場所の山上にあった「天神社(てんじんじゃ)」という小さな祠からはじまります。

この地域は、古代から神聖な場所として大切にされ、周囲にはいくつもの古墳が残っており、昔から人々がこの地を特別な「聖域」と見なしていました。

神社の創建について明確な記録は残されていませんが、西側の村の入口を見渡す丘の上という立地から、村の守護と外敵への結界の意味を込めて、この場所に祀られたと考えられます。

伊予を訪れた学問の神様「菅原道真」

「天満神社・小泉」は、他の天満神社と同じく、学問の神として名高い「菅原道真(すがわらのみちざね)公」を御祭神としています。

菅原道真公(845-903年)は、平安時代を代表する学者であり、詩人、政治家としても卓越した人物でした。

貴族としてはさほど高い家柄の出身ではありませんでしたが、並外れた学才と教養によって朝廷からの注目を集め、「学問の神様」として後世にまで崇敬されています。

学問と文化を導いた右大臣

道真公は幼少期から優れた記憶力を発揮し、漢詩や中国の古典に親しみました。

わずか11歳で詩を詠んでその文才が注目され、20代には当時の最難関試験である「文章得業生試」に合格し、その知識と才能が世に知られるようになりました。

宇多天皇が道真公の才能を高く評価し、道真公を学問と文化の発展に寄与させるとともに、側近として重用したことが大きな転機となりました。

道真公はその博識と誠実さによって宮廷での信頼を深め、最終的には右大臣に昇進しました。この昇進は当時の社会では非常に稀なことであり、学才と人格がいかに尊ばれたかを物語っています。

詩人としても多くの優れた作品を残し、「菅家文草」などの著作を通じて漢詩の名作が伝わっています。

道真公の詩は自然への賛美や人間の感情を見事に表現しており、後世の人々に深い感銘を与え、日本文学の傑作とされています。

菅原道真公が讃岐に赴任

仁和2年(西暦886年)、中央(京・京都)にて学者・政治家として名声を博していた菅原道真公は、讃岐国(現・香川県)の国司(長官)「讃岐守」に任命され、同国の国府へと赴任しました。

以後、延喜2年(西暦890年)までの4年間、讃岐国の政治を担い、租税制度の整備や地方行政の刷新に尽力しました。

公正で誠実な統治を行い、民衆にも信頼される国司として知られるようになったとされます。

また、学識豊かな人物として教育や文化の振興にも努めたと伝えられています。

「伊予国を視察」天神に奉斎奉幣の儀

その在任中、仁和4年(西暦888年)3月。

讃岐守として政務にあたっていた菅原道真公は、地方行政の状況を把握するため、隣国・伊予国(現・愛媛県)を巡視(視察)しました。

これは、当時の国司に課された重要な職務のひとつであり、隣接する国の治安や税務の状況、寺社のあり方を確認し、朝廷に報告する責任がありました。

その巡視の途中、道真公は伊予国府(現:今治市)の日高地区にも立ち寄り、この地に古くから祀られていた天神に奉斎(ほうさい)と奉幣(ほうへい)という厳かな神事を執り行いました。

奉斎の儀

奉斎とは、神を正式にお迎えし、その地に永くお祀りすることを宣言する神事です。

神霊を新たに奉迎し、社殿や神籬(ひもろぎ)に鎮めるこの儀式は、神と人との結びつきを明確にする重要な儀礼とされています。

この日高の地で道真公が奉斎の儀を行ったことは、当地に古くから宿っていた天神の霊力を認め、その御神威を尊んで改めて祀ったこと

奉幣の儀

奉幣とは、神々に対して供え物を奉り、感謝や祈願の心を伝える神事であり、古くから朝廷や国司によって執り行われてきた伝統ある儀式です。

この儀式で用いられる「御幣(ごへい)」は、神を招くための依り代(よりしろ)とされ、細長い木や竹に「紙垂(しで)」と呼ばれる独特な形に切った紙や布が飾り付けられます。

御幣は神の降臨を象徴する神聖な捧げ物であり、神事には欠かせないものとされてきました。

道真公がこの地で奉幣の儀を行ったのは、讃岐から伊予への旅の無事を祈るとともに、当地の平和と五穀豊穣を願ってのことだったと考えられます。

天満神社・小泉のはじまり

当時、学問の才に優れ、宇多天皇からも深い信任を得ていた道真公が、この地で自ら祈りを捧げたことは、地元の人々にとって極めて重要な出来事でした。

そしてこの奉幣の伝承が、「天満神社・小泉」の創建へと繋がっていくことになります。

道真公を襲った不遇の運命

讃岐での任を終え、京へ戻った後も、菅原道真公は朝廷において高く評価され、学問の才のみならず政治手腕にも優れた人物として重用されました。

宇多天皇・醍醐天皇の信任を受け、右大臣にまで昇進するなど、政界の中枢で重要な役職を歴任しました。

しかしその栄光の陰で、道真公には不遇な運命が待ち受けていました。

昌泰4年(901年)、藤原時平の陰謀により無実の罪を着せられ、九州の太宰府に左遷されることとなってしまったのです。

この左遷は、道真公にとって事実上の流刑と同じであり、都から隔離され、過酷な生活を余儀なくされました。

太宰府での過酷な生活

太宰府への道中は、すべての費用が自費で賄われ、到着しても俸給や従者は与えられず、政務を行うことも禁じられていました。

用意された住まいは雨漏りのする粗末な小屋で、衣食住の心配がつきまとう厳しい暮らしが続きました。

それでも、道真公は「いつか再び都に戻りたい」という強い願いを抱きながら、孤独と苦難の生活に耐え続けました。

しかし、次第に身体は衰え、心身の疲労が積み重なり、ついに延喜3年(903年)2月25日、道真公は太宰府で病に倒れ、無念の中でその生涯を閉じました。

道真公の死と人々の祈り

道真公の無念の死は、朝廷のみならず全国の人々に深い衝撃を与えました。

特に、かつての教え子や官人たち、そして道真公のを敬愛していた民衆のあいだでは、「この死は不当であり、道真公は冤罪であった」という思いが強く広がっていきます。

このような世論の動きは、やがて道真公の霊を慰めるための信仰へと発展していきました。

まず延喜3年(903年)、道真公の没後まもなく、太宰府の墓所の上に小さな社が建てられ、霊を慰める祀りが始まりました。

さらに延喜5年(905年)には、道真公の門弟であり、忠実な学僧であった味酒安行(うまさけのやすゆき)が、その墓所の上に廟(みたまや)を建立しました。

この廟はのちに「安楽寺」と称され、道真公を祀る寺院としての歴史を刻み始めます。

そして、この出来事は全国に広がる天神信仰のはじまりでもありました。

菅原道真公の怨霊伝説と都の災厄

この頃、平安京では不吉な出来事が相次ぎ、これらが道真公の怨霊の祟りではないかと恐れられるようになりました。

まず、道真公の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が、延喜9年(908年)に雷に打たれて急死。

続いて、政敵であった藤原時平も翌年、39歳の若さで病没します。

さらに延喜13年(913年)には、道真公の後任として右大臣に就いていた源光が、狩猟中に落馬によって亡くなりました。

これらの突然の死に加え、都では洪水、長雨、疫病などの天災が次々と発生。人々はこれらの災厄を、道真公の怨霊による「祟り」と恐れ始めたのです。

太宰府天満宮の創建と鎮魂の始まり

このような状況を重く見た醍醐天皇は、延喜19年(919年)、道真公の霊を鎮めるため、太宰府の安楽寺境内に社殿を建立するよう勅命を下しました。

これが、後の太宰府天満宮の前身となります。

太宰府天満宮は、道真公の霊を慰め、都の安寧を取り戻すための国家的な鎮魂の場として整備されていきました。

しかし、それでも災厄は止まることなく続いていきます。

さらなる災厄と天皇の死

延喜23年(923年)、醍醐天皇の皇子である保明親王が病没しました。

保明親王は、道真公を失脚させた藤原時平の甥にあたる人物であり、その死はただの偶然とは思えないとする声がすでに広がっていました。

さらにその2年後、延長3年(925年)には、保明親王の子であり、皇太孫に任じられていた慶頼王までもが病死します。

これにより、皇統に連なる若き皇族の命が相次いで絶たれたことが、都の人々に不安と不吉の影を落としました。

そして極めつけとなったのが、延長8年(930年)の出来事です。

この年の7月、平安京・清涼殿に落雷が直撃し、朝議の最中であった大納言・藤原清貫をはじめ、かつて道真公の左遷に関与した高官たちに死傷者が続出しました。

雷は天神の怒りの象徴とされており、やがてこの事件が「雷神となった道真公の怨霊の怒り」と信じられるに至ります。

都は騒然とし、恐怖と動揺が広がる中、醍醐天皇もこの事件を深く案じ、心を病んで病床に伏すようになります。

やがて天皇は、皇太子寛明親王(のちの朱雀天皇)に譲位。

しかしそのわずか1週間後の10月23日、亡くなりました。

雷の一撃からわずか数か月、天皇の死という国家の根幹を揺るがす出来事が起こったのです。

菅原道真の名誉回復と怨霊鎮魂

「これはまさしく、無実の罪で死した菅原道真公の祟りである」

醍醐天皇の死は、朝廷にとって極めて深刻な出来事でした。

皇族の崩御が続き、災厄や不吉な出来事が相次ぐ中で、ついには天皇さえも亡くなったことで、「道真公の怨霊を鎮めなければ、さらなる災厄が朝廷や都に降りかかるのではないか」という危機感を持つようになったのです。

そこで朝廷は、道真公の怨霊を鎮め、都の平安を取り戻すために、道真公の名誉を回復するための措置に踏み切ります。

まず、道真公にかけられたすべての罪を赦免し、生前の職位であった右大臣の地位を回復させました。

さらに正二位の位を追贈し、道真公が再び都の中枢において重要な存在であると正式に認められました。

また、道真公の子どもたちは京に呼び戻され、住居と役職を与えられ、家系が再び平安京で栄えるよう配慮されました。

こうして、道真公の一族は平安京においてその存在が認められ、社会的な地位を取り戻すことになりました。

「北野天満宮」の誕生

それでもなお都では災厄が続き、異変が収まることはありませんでした。

朝廷は、さらなる対策として道真公を神格化し、正式に都の守護神として祀ることを決意します。

天暦元年(947年)、御神託に従い、道真公の霊を鎮めるために平安京の北西、鬼門にあたる北野の地に小祠を建てました。

ここに「雷天神(からいてんじん)」として道真公を祀り、怨霊が都を守護する神に変わることを願い、都の平穏と安寧が戻ることを祈りました。

火雷天神は火や雷の強力な力を象徴する神として、都を守護する存在とされました。

こうして怨霊として恐れられていた道真公の霊は逆に都を守る神格として敬われ、祀られることで次第に災厄も収まり、都に安定がもたらされていきました。

この小祠は後に「北野天満宮」として大きな神社へと発展し、道真公を祀る天満宮の総本社とされるようになりました。

さらに北野天満宮は、九州の太宰府天満宮とともに全国にある天満宮・天神社の総本社とされ、道真公への信仰の中心的存在となっていきました。

「天満大自在天神」怨霊から神様へ

こうして、神格化された道真公は、「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神号を授けられました。

「天満」とは

「天満」とは、「天空に満ちる」という意味を持ち、菅原道真公の霊力が空の果てまで及ぶほど強大であることを象徴しています。

これは、雷神として畏れられていた道真公の怨霊を、逆に都を守護する天の加護の神として再定義し、天に満ちる力強い存在として祀り上げたものです。

この名は、やがて「天満宮」「天満神社」などの社名の由来となり、全国に広がる天神信仰の礎となりました。

今日、私たちが親しみを込めて「天神さま」と呼ぶのも、この「天満大自在天神」の略称にあたります。

「大自在天」

「大自在天(だいじざいてん)」とは、仏教における最高位の天部の神であり、全宇宙(=三千大千世界)を自在に支配する神とされています。

元来は古代インドにおけるシヴァ神(マハーデーヴァ)の仏教的受容によって成立した神格で、ヒンドゥー教では破壊と再生を司る神、仏教においては色界の最上位に住する絶対的な存在として位置づけられました。

この「大自在」とは、“何ものにも縛られず、あらゆることを思いのままに成す力”を意味し、仏教における他の諸天(帝釈天や梵天など)をも凌駕する存在とされています。

そしてこの「大自在天」の名を、日本の朝廷が菅原道真公に与えたことは、神仏習合の思想を体現するものでもありました。

当時の日本では、神と仏の区別は明確でなく、神道の神も仏教の諸尊として読み替えられる(本地垂迹)思想が一般的でした。

怨霊信仰と仏教的加持祈祷が融合した環境の中で、道真公の怒りを静めるには、単なる神格化では足りず、仏教的にも最高位の神に昇格させる必要があったのです。

菅原道真公=学問の神

こうして神様として祀られた道真公は、その高い学識と誠実な人柄、そして清廉な生涯から、やがて「学問の神様」としても信仰されるようになります。

江戸時代に入ると、全国各地に寺子屋や藩校が整備され、学問は武士階級のみならず町人や農民の子どもたちにとっても身近なものとなっていきました。

このような教育の普及とともに、「菅原道真公=学問の神様」という信仰は庶民のあいだにも急速に広がっていったのです。

当時の人々は、「努力すれば出世できる」「学問によって人生を切り拓ける」という思いを抱き、まさに学問のシンボルである道真公に祈りと希望を託すようになったのです。

やがて、天満宮や天神社では「筆始め」「学業祈願」「進学祈願」などの祭事が行われるようになり、受験や就学を控えた子どもたちを連れて参拝する風習が各地で定着していきました。

道真公の分霊が招かれた天神社

こうした道真公の霊を鎮めるための取り組みは、都だけにとどまらず、朝廷は同時に諸国にも道真公の御霊を祀るよう命じました。

この命により、各地の神社や寺院で道真公が祀られるようになり、都における北野天満宮と同様に、天神信仰は全国へと広がっていきました。

やがて伊予国の日高地区でも天神信仰が伝わり、道真公との縁が深いこの地の村人たちは、正暦4年(993年)2月、一条天皇の御代に、伊予国司であった河野氏が勅許を得て社殿を造営し、北野天満宮より道真公の分霊を当地に迎え入れました。

こうして天神社には、鎮守神として菅原道真公が祀られることとなり、「天満神社」「別宮天満宮」と称されるようになりました。

「一郷一社」

その後天満神社・小泉は、越智郡高橋郷(法界寺・高橋・小泉・別宮を含む地域)において、中心的に祀られるべき唯一の神社「一郷一社」として、長く地域の精神的中核を担う重要な存在となっていきました。

神仏習合と大熊寺との関係

また、この頃は神仏習合の時代で、天満神社は本地仏として観音菩薩を祀る形式を取り、大熊寺(日高地区)がその管理を担っていました。

しかし、天正年間(16世紀後半)の戦乱により、阿弥陀堂とともに社殿が焼失してしまうという被害を受けました。

明治期の変革と再編

江戸時代まで「一郷一社」として越智郡高橋郷の精神的中心を担ってきた天満神社・小泉も、明治政府による宗教政策の大転換の中で、その在り方を大きく変えていくことになります。

1868年(明治元年)以降、明治政府は「神仏分離令」を発布し、長く日本の宗教文化の根幹をなしていた神仏習合を禁じました。

これにともない、各地で仏像・仏具の排除や寺院の破却が進められ、「廃仏毀釈」と呼ばれる動きが広がります。

さらに、1906年以降には全国的な神社合祀政策が推進され、小規模な神社を統合して国家神道体制のもとに再編する流れが加速しました。

多くの村社・無格社が統廃合され、地域の「一村一社」体制へと整理されていきました。

公認神社としての再出発

天満神社・小泉も、これらの政策の影響を受け、明治4年(1871年)には村社に指定され、近代の神社制度の中で公的地位を得ました。

また、本地仏として祀られていた観音菩薩や、寺院的要素を持っていた管理体制(大熊寺との関係)は解体され、純粋な「神社」として歩みを始めました。

さらに、明治43年(1910年)には「神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)」に指定されました。

これは、祈年祭・新嘗祭・例祭などの重要な祭礼に際し、県知事の名において神社に神饌(供物)や幣帛(神への捧げ物)の費用を供進する制度で、国家が一定の社格と地域的意義を認めた神社に物的支援を行うものでした。

天満神社もその一つとして公式に位置づけられ、地域社会における重要な信仰の場としての地位を確かなものとしたのです。

現代につながる信仰

こうして、長い歴史のなかで制度の変遷や社会の変化に対応しつつ、常に地域の守り神として、その存在意義を保ち続けてきました。

そして現在も、菅原道真公を祀る「天神さま」として、学問成就や合格祈願、災難除けを願う地域の人々から、篤い信仰を集め続けています。

「今治城から本殿を運べ!」本殿移設プロジェクト

ここまでが、天満神社・小泉の歴史になります。

天満神社・小泉の本殿は、日吉造りと呼ばれる格式高い建築様式に基づき、銅板葺きの屋根をいただいた堂々たる姿を見せ、その格式ある造りから、今治市内でも貴重な建築物として知られています。

現在も、この本殿には地元の人々の深い信仰が寄せられ、多くの参拝者が四季折々の祭礼や祈りの場として訪れています。

そしてこの本殿には、実は今治城と深く結びついた、もう一つの物語が秘められています。

今治藩主の別邸に祀られた「天満宮」

物語の始まりは、江戸時代初期。

今治を治めた初代今治藩主・松平定房(まつだいら さだふさ・久松定房)の時代にさかのぼります。

久松松平家という徳川将軍家と並ぶ血筋と格式を誇る家柄に生まれた松平定房は、徳川家康の異父弟・久松俊勝を父に持つ名門の出であり、将軍家から「松平」の姓を許された親藩大名として、今治十万石を治めました。

この久松家には、もう一つの精神的支柱がありました。

それが、菅原道真公を崇敬する天神信仰です。

徳川家が学問の神・道真公を敬い、江戸の湯島天満宮や亀戸天神社を篤く庇護したように、久松松平家もまた道真公を深く敬っていたのです。

ただし、それは単なる信仰心だけではありませんでした。

久松松平家は、菅原家の血を引く「後裔(こうえい)」であり、道真公の子孫としての誇りをもっていたのです。

そのため定房公も、「天神さま」として道真公を特に崇敬し、自らの別邸であった「松の本庭園」(現在の松本町三丁目付近)に、天満宮を建立して御神霊を祀っていました。

南光坊にあった神社「金比羅宮」

同じ頃、南光坊の境内には飛騨の名工・甚五郎によると伝えられる金比羅宮の美しい神殿があり、「十里四方には無類の神殿」と高く評価されていました。

ところが、明治元年(1868年)、明治新政府による神仏分離政策が施行されると、仏教寺院である南光坊の境内に神社を置くことができなくなり、この神殿も移設を余儀なくされる事態となりました。

その頃ちょうど、松の本庭園の再整備が進んでおり、今治城内に新たな天満宮を設ける計画が動き出していました。

「松本天神社」城内に金比羅宮の社殿を移設

そこで、南光坊の金比羅宮の美しい神殿を譲り受け、今治城内(現在の吹揚神社からみての南側)に新たに移設し、道真公の御神霊を奉還して祀ることになったのです。

こうして、今治城内に新たな天満宮が創建され、その由来から「松本天神社」と称されるようになりました。

その後、久松松平家によって松本天神社では春と秋の年二回にわたって祭式が執り行われ、地域の守護神として深く信仰されるようになりました。

この祭礼は長く続けられ、地元の人々にも大切にされてきました。

しかし、松本天神社の本殿は、ある時を境に使われなくなってしまいます。

今治藩の廃止と今治城の廃城

治元年(1868年)の太政官布告により、今治藩は版籍奉還に応じて藩を返上し、久松松平家は旧姓である菅原姓・久松氏に復しました。

明治2年(1869年)には、藩主権の返上とともに、久松松平家の居城であった今治城は「当今時勢不用之品(とうこんじせいふようのしな)=時代にそぐわない不要なもの」と見なされ、順次その解体が始まります。

そして明治5年(1872年)には、建物の大部分が取り壊され、城跡には石垣と堀を残すのみとなりました。

さらに明治4年(1871年)の廃藩置県により今治藩は廃止され、今治県が設置。

明治6年(1873年)には松山県と合併され、現在の愛媛県に統合されていきました。

吹揚神社の創建と残された本殿

このような統治制度の大きな変化を経る中で、今治城跡地に吹揚神社明治5年(1872年)が創設され、大正三年(1914年)からは今治城二の丸跡地が公園として、今治城は次第に市民にとって親しまれる場所になっていきました。

一方で、久松松平家は居城であった今治城が廃城となったことをきっかけに、10代藩主「松平定法(さだのり・(久松定法)」の代に東京へと移り住むことになりました。

久松家が今治に滞在していた頃、吹揚神社には次の三つの御祭神が祀られていました。

  • 左側:松平定房(初代今治藩主)・松平定時(二代藩主)の御霊
  • 中央:松本天神社・天満宮(菅原道真公)
  • 右側:東照宮(徳川家康公)

このように、吹揚神社は久松家の精神的な拠り所であると同時に、地域の信仰の中心としても重要な役割を担っていたのです。

しかし、久松家が東京へ移ったことにより、これらの御霊は吹揚神社に合祀されることとなり、今治城内にあった松本天神社の本殿はその役割を終え、使われないまま跡地に静かに残されることとなりました。

小泉の人々と“松本天神社”移設の決断

時代は進み、大正15年(1926年)。別宮村では、長年にわたり地域の守護神として信仰を集めてきた「天満神社・小泉」が、創建から一千二十五年という節目の年を迎えようとしていました。

村では、この御年祭を盛大に祝おうと、氏子たちの手で社殿の大規模な修繕計画が進められていました。

そんなある日、思いがけない知らせが村に届きます。

かつて今治城の一角に鎮座し、壮麗な姿で人々に親しまれていた「松本天神社」の本殿が、シロアリ被害のため取り壊されるというのです。

知らせをもたらしたのは、別宮村の旧庄屋であり、吹揚神社の氏子総代を務めていた長野恒太郎でした。

「ただ壊すには、あまりに惜しい…」

村人たちは胸を痛めました。

あの立派な社殿を、どうにかして残せないものか。

そこで浮かんだのが、「天満神社・小泉」への移設という一大構想でした。

御年祭を機に、新たな社殿を必要としていた私たちの神社に、あの由緒ある本殿を迎えよう。

長野恒太郎を中心に、村人たちはさっそく動き出します。

松平家への正式な交渉を経て、ついに譲渡の許可を得ると、村はかつてない規模の「本殿移設プロジェクト」に乗り出すのでした。

しかし、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

本殿移設プロジェクト始動

この移設作業を率いたのは、別宮村きっての熟練大工「麻生清太郎」、「長野吉太郎」、「長野浪次郎」の三人でした。

しかし、移設する本殿は、江戸時代初期の名工が手がけたと伝わる、非常に貴重な建造物。

失敗は許されません。

その保存と再建を成功させるため、三人の大工たちは何度も現地に足を運び、地形と資材、搬送経路を細かく確認しながら、入念な計画を立てていきました。

そして、いよいよ移設作業が始まります。

まずは、本殿を屋根・胴体・基礎石の三つの部分に丁寧に分解。

長年の風雨に耐えてきた建築だけに、木組みの一つひとつに慎重を期し、傷ひとつ付けないよう細心の注意を払っての作業でした。

しかし、そこからが本当の難関です。

当時は、クレーンやトラックといった運搬機材など存在せず、牛車での輸送が唯一の手段でした。

しかも、城から移設先である小泉の「天満神社」までの道のりは、曲がりくねった山道。

道幅は狭く、場所によっては崖沿いの険しい箇所もあったため、細心の注意と工夫が求められました。

このため、人々の往来が少ない夜間に運搬することが決定されます。

日中の交通を妨げず、村人たちの暮らしに支障を出さぬようにという配慮からでした。

暗闇の中、村人たちは総出で参加し、牛車を導く役や灯りを照らす役、道を整備する役に分かれて慎重に作業を進めました。

特に急な斜面やカーブでは、一歩ごとに牛車を止めて角度を調整しながら進むという、根気と技術を要する作業が続きました。

三人の大工たちはそのたびごとに足場を確認し、滑落の危険を避けるため、声を掛け合いながら一つひとつの工程を確かめて進んでいきました。

こうして、村人たちと大工たちの一致団結のもと、ついに松本天神社の本殿は移設先の地へと無事にたどり着いたのです。

そして、移設を終えた本殿は、御神体を迎え入れ、あらたな天神さまの鎮座地として新たな歴史を刻み始めました。

この壮大な移設プロジェクトは、今もなお、地域に伝わる「信仰と団結の物語」として、人々の心に語り継がれています。

境内社「玉澄神社」

別名天満宮の境内には、歴史ある二つの末社が祀られています。

その一つ、「玉澄神社(たまずみじんじゃ)」は、伊予豪族・河野氏の祖・越智玉澄(おちのたまずみ・河野玉澄)の神霊を祀る神社です。

かつては、別名地区の中央に位置する宇五反地に鎮座していましたが、明治42年(1909年)の神社合祀令による整理により、現在の別名天満宮の境内に遷座・合祀され、末社として祀られるようになりました。

境内社「御鉾神社」

境内には、もう一つの由緒ある末社「御鉾神社(みほこのじんじゃ)」は、地域の歴史とともに発展してきた特別な存在であり、鉾(ほこ)を神の象徴とする珍しい神社です。

もともと御鉾神社は、今治市の別名地域と小泉地域の境界付近「御鉾の森」に鎮座し、両地域の人々が共同で祭祀を行っていた神社でした。

しかし、明治四十二年(1909年)に実施された神社合祀政策により、御鉾神社は小泉・別名の両地域の神社へ分祀されることになりました。

こうして、御鉾神社は「天満神社・小泉(今治市別名985,986)」と「泰山寺(四国霊場56番札所)」のそばに鎮座する「三島神社・小泉(今治市小泉857,858)」の境内にそれぞれ祀られ、現在も地域の守り神としての役割を果たし続けています。

「六社」

天神社・小泉の右側に位置する今治側の広場には、新たに建てられた小宮の建物があり、そこには「日内神社」「野之妙明神社」「道祖神社」「稲荷神社」「海神社」「山神社」「荒神社」の六社が鎮座しています。

これらの神社は、それぞれの守護神として地域の人々から信仰され、天満宮の一部として重要な役割を果たしています。

神社名

天満神社・小泉(てんまんじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市別名985,986

電話

0898-55-2587

主な祭礼

祈年祭(2月19日:旧暦)・(5月上旬)・秋祭り(10月上旬)・新嘗祭(11月20日)   

主祭神

菅原道真公

境内社

御鉾神社・玉澄神社・日内神社・野之妙明神社・道祖神社・稲荷神社・海神社・山神社・荒神社」

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