今治市の中心部には、複数の寺院が立ち並ぶ「寺町(てらまち)」。
宗派を越えて多様な寺院が集まるこの地域の中で、寺町という名とともにその歩みを刻んできたのが、日蓮宗に属する寺院「寺町 法華寺(ほっけじ)」です。
日蓮宗とは
日蓮宗(にちれんしゅう)は、日本の仏教宗派の一つで、「法華宗(ほっけしゅう)」とも呼ばれます。
鎌倉時代中期、動乱の世に登場した僧・日蓮聖人(1222〜1282)を開祖とし、その名を冠する宗派です。
当時の日本社会は、戦乱・天災・疫病に苦しみ、仏教界も多くの経典や宗派が並立して混乱していました。
日蓮聖人は、そうした中であらゆる仏典を学び抜いた末、『法華経(妙法蓮華経)』こそが釈迦の教えの真髄であると確信します。
そして、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と唱えることが、すべての人が救われる唯一の道であると説きました。
この教えを広めるため、日蓮聖人は迫害や流罪にも屈せず、命がけで布教を続けました。
日蓮門下の広がりと分派
日蓮聖人の死後、その教えは弟子たちによって全国に広められ、やがて「日蓮門下」と呼ばれる多くの流派が生まれます。
代表的な直弟子には「六老僧」と呼ばれる6人(大覚・日昭・日朗・日興・日向・日頂)がいますが、彼らの解釈や活動は次第に異なり、時代とともに多様な分派が成立しました。
特に日興(にっこう)を祖とする系統は、「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)」として独自の宗派に発展し、やがて創価学会や顕正会といった在家信徒団体が誕生します。
これらの団体は当初、日蓮正宗の信徒組織として教団を支える役割を担っていましたが、教義や組織運営をめぐる意見の対立から、後にいずれも日蓮正宗から離脱・破門され、現在はそれぞれが独立した活動を行っています。
一方、「日蓮宗」は、現在も日蓮聖人の正統な教えを継承する伝統仏教教団として、全国に寺院を有し、出家僧を中心に法華経の信仰と実践を重んじています。
明治政府の宗教政策と「日蓮宗」の確立
幕末から明治にかけての大転換期、日蓮門下にも大きな変革が訪れました。
明治維新によって幕藩体制が解体される中、明治新政府は1868年に神仏分離令を発布。
これにより、神道と仏教を切り離す方針が打ち出され、仏教勢力を排除しようとする「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が全国各地で巻き起こります。
さらに1871年(明治4年)には「社寺領上知令(しゃじりょうじょうちれい)」が出され、多くの寺院が土地を没収されて経済基盤を喪失。
同時に、寺請制度や宗門人別帳も廃止され、寺院は従来の社会的機能や国家的枠組みから切り離されていきました。
こうした仏教界の混乱と弱体化の中、政府は宗教界の統制を目指して改革を進めていきます。
その一つが、仏教諸宗派ごとに組織を一本化し、それぞれに一人の管長(代表者)を置く制度「一宗一管長制」の導入でした。
これを受けて日蓮門下では、1872年(明治5年)に、新政府と近い立場にあった僧・新居日薩(にい・にっさつ)が初代管長に就任。
分立していた門下の諸派がひとつに統合され、正式に「日蓮宗」と称することが決定されました。
このとき、日蓮宗の中核を担う寺院として、以下の五つの大本山が「五山」と定められ、相互に盟約を結んで教団組織の制度化が進められました。
- 身延山久遠寺(山梨)
- 池上本門寺(東京)
- 京都妙顕寺
- 京都本圀寺
- 中山法華経寺(千葉)
しかし、こうした統一の直後である1874年(明治7年)、教義解釈や組織運営のあり方をめぐって、教団は早くも「日蓮宗一致派」と「日蓮宗勝劣派」に分裂します。
- 一致派:日蓮門下の諸派を平等に尊重し、協調と統一を重んじる立場
- 勝劣派:とくに日興流を正統と位置づけ、教義や祖師系譜に明確な優劣を設けようとする立場
その後、政府は一致派の穏健性と安定性を評価し、1876年(明治9年)に「日蓮宗」の宗名を公式に許可。ここに現在の日蓮宗の原型が確立されました。
昭和期の合同と再出発
さらに昭和16年(1941年)、戦時下の宗教統制を背景に、旧・日蓮宗、顕本法華宗、本門宗の三派が対等合併にし、新「日蓮宗」が発足します。
この合同をもって、現代に続く日蓮宗が本格的に再出発しました。
戦後の宗教法人法施行により、再び分派する動きもありましたが、今日の日蓮宗はこの合同の流れを受け継ぐ形で、日本全国および海外にも広がる教団として活動を続けています。
「戦国時代を超えて」寺町法華寺の創立史
寺町 法華寺の創建は天正3年(1575年)に、今治市玉川町の庄屋であった八木氏の請願により、玉川町大野三反地に建立されました。
法華寺が創建された時代は、戦国の戦乱の真っ只中でした。
この年、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った「長篠の戦い」が勃発。
また、四国では長曾我部元親が土佐をほぼ平定し、四国統一に向けて本格的に動き出すなど、まさに全国各地で大きな転換期を迎えていた時代でした。
このような動乱と変革の時代に、法華寺は八木氏の信仰心と地域の人々の願いを受けて建立され、その後の今治地域における日蓮宗の信仰拠点のひとつとして歩みを始めたのです。
「本能寺の変」
やがて織田信長は、近畿・東海・北陸といった広大な地域を次々と平定し、その勢力は関東地方にまで及ぶようになりました。
天下統一を目前に控え、次にその軍勢を向けようとしていたのは、中国の毛利氏、そして四国で台頭していた長曾我部元親でした。
しかし、その野望は突如として潰えます。
天正10年(1582年)6月2日。
京都・本能寺に滞在していた信長は、重臣・明智光秀の謀反に遭い、不意を突かれて攻められました。
家臣の裏切りにより逃げ場を失った信長は、自ら命を絶ち、その生涯を終えます。
これが、歴史上もっとも有名な政変のひとつ、「本能寺の変」です。
「豊臣秀吉の四国攻め」
信長の突然の死によって、日本列島には再び戦国の混乱が広がりました。
各地の大名たちは、天下人になりつつあった“信長の力”から解き放たれ、それぞれの野望を胸に、独自の動きを見せはじめたのです。
その中で、信長から圧力を受けていた長曾我部元親は、この隙を好機ととらえ、阿波・讃岐・伊予へと一気に勢力を拡大。
しかし、コノ長曾我部元親の動きに対して、信長の後継者・羽柴(豊臣)秀吉は、黙っていませんでした。
天正13年(1585年)、秀吉は「四国征伐」を決行。
大友宗麟・小早川隆景・宇喜多秀家・仙石秀久らの大軍を動員し、長曾我部軍に対して圧倒的な戦力をもって四国へ攻め込みました。
この戦いで劣勢となった長曾我部元親は降伏を余儀なくされ、支配領域を土佐一国のみに縮小。
四国は秀吉の勢力下に組み込まれていきました。
河野氏の滅亡
一方、伊予国(現在の愛媛県)を長年にわたり支配していた河野氏も、秀吉による四国攻めの中で、歴史の舞台から姿を消すことになります。
河野氏は伊予古代豪族・越智氏を祖とする名門武家で、中世以来、伊予の守護大名として君臨してきましたが、戦国末期には徐々にその力を失いつつありました。
そして天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征めが始まると、伊予には毛利家の重臣・小早川隆景が大軍を率いて侵攻してきます。
当主の河野通直は本拠である湯築城(現在の松山市)に籠城し抵抗しますが、圧倒的な兵力差の前に劣勢を強いられ、やがて開城・降伏を決断します。
これにより、河野氏は伊予の統治を失い、越智氏から続く伊予の歴史に幕を下ろしました。
「関ヶ原の戦い」天下統一と新たな転換期
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏を小田原合戦で打ち破り、さらに東北の伊達政宗らも臣従させることで、名実ともに全国統一を達成しました。
これにより、長く続いた戦国の世は終わりを告げ、秀吉のもとで戦乱の世は一時的に安定が訪れます。
しかし、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、後継に指名された豊臣秀頼はまだ幼く、政権の中枢では有力武将たちの間で主導権争いが激化します。
中でも、豊臣政権を支える五大老の筆頭・徳川家康と、豊臣恩顧の武将・石田三成との対立は決定的となり、ついに慶長5年(1600年)、日本を東西に二分する天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が勃発しました。
結果は東軍(家康方)の勝利に終わり、石田三成は処刑、豊臣政権は急速に求心力を失っていきます。勝者となった徳川家康は、諸大名の領地を大幅に再編し、恩賞として多くの忠臣に新たな領地を与えました。
このとき、東軍として活躍した武将のひとりが、後に今治城を築城することになる藤堂高虎(とうどう たかとら)です。
藤堂高虎と今治城下の「寺町」
藤堂高虎は、近江国出身の戦国武将で、若い頃には浅井長政や豊臣秀長に仕えました。多くの主君に仕えながらも、そのたびに忠義と実務能力を高く評価され、戦国の世を巧みに生き抜いていった人物です。
とりわけ高虎が名を馳せたのが、築城の名手としての手腕でした。
高虎は、機能性と防御性を兼ね備えた数々の名城を築き、その優れた設計力により政権中枢からの信頼を集めていきます。
関ヶ原の戦いの後、そうした功績が認められ、徳川家康から伊予国今治17万石を与えられました。
これは高虎にとって、初めての「一国一城の主」となる大出世であり、彼の生涯における大きな転機となりました。
そして慶長7年(1602年)、高虎は今治に入り、今治城の築城に着手します。
それと同時に、城を中心とした城下町の整備も本格的に始められました。
この町づくりの一環として、今治の中でも特に由緒ある14の寺院が集められ、計画的に配置されました。
こうして誕生したのが、多くの寺院が立ち並ぶ「寺町」と呼ばれる区域です。
防衛拠点としての寺町
寺町は、戦国時代が終わり、平和な統治が始まった江戸時代初期に築かれた各地の城下町において、防衛上の要地として整備された区域です。
戦乱の世が終わったとはいえ、それまで命懸けで戦ってきた大名たちにとって、「いつ何が起こるかわからない」という警戒心は簡単には消えるものではありませんでした。
そのため、江戸初期に築かれた城下町には、有事を想定した軍事的機能が備えられました。
寺院は本来、広い敷地、厚い土塀、石垣、瓦葺の大屋根を備える堅牢な施設で、戦国期までは砦として戦の拠点として利用されることもありました。
城から見て防衛上の弱点となる方角に寺町を設けることで、城を包み込むように守る緩衝帯となったのです。
これは、大坂城下の「天王寺町」、金沢城の「小立野寺町」、名古屋の「中村寺町」など、他の城下町にも共通する都市構造であり、今治でも例外ではありませんでした。
今治では、今治城を中心に武家屋敷や町人の暮らす町場が整備され、その外縁部、特に海からの侵入が想定される東側から北東側にかけての外堀外に、複数の寺院が集められて「寺町」が形成されました。
この配置により、海城としての構造的な脆弱性が補完され、城の防衛体制はより強固なものとなったのです。
統制のための配置と宗教勢力の管理
寺町には、宗教勢力を一括して管理・監視するという意図もありました。
戦国期までの寺院や神社は、膨大な荘園や経済力を背景に独自の軍事力や政治的影響力を持つ存在でした。
比叡山延暦寺や高野山などに代表されるように、武装化した僧兵を抱える宗教組織も少なくありませんでした。
江戸幕府は、そうした潜在的な勢力を警戒し、寺社は寺社町に集める、町人地とは切り離す、幕府の許可制とするなどの政策で、その動きを掌握しようとしました。
今治でも藤堂高虎は、町人の居住・商業空間と宗教空間を分離し、都市の秩序維持と統治の安定を図ったと考えられます。
信仰と生活の場、そして門前町へ
寺町は、庶民にとっての信仰の中心地でもありました。
江戸時代に檀家制度が整備されると、各戸が特定の寺院に所属し、葬儀・年忌法要・施餓鬼などの儀礼を通じて、寺との関係を深めていくようになります。
寺院は単なる宗教施設ではなく、家族や地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添う存在となっていきました。
やがて、寺町の門前には町屋が生まれ、そこに住む町人や職人たちによって様々な生業が営まれるようになります。
江戸中期以降になると、墓参を兼ねた行楽が盛んになり、寺町は信仰と娯楽が融合したにぎわいの場へと変貌していきました。
境内やその周辺には、和菓子屋、寿司屋、竹細工職人、写経屋などが軒を連ね、参詣客を迎える門前町の風情が生まれます。
人々は借家長屋に住み込み、職住一体のかたちで日々の暮らしと信仰を結びつけながら生活していました。
こうした生活様式の中で、いわゆる「下町的な生活文化」が息づくようになっていったのです。
今治の寺町においても、城の防衛線の一部でありながら、同時に民衆の信仰と暮らしが交差する独特の空間が成立していきます。
その町並みの原型は、この江戸中期から後期にかけて形成され、現代にまで連なる歴史の風景を形づくる礎となっているのです。
今治藩主が認めた格式
1608年(慶長13年)頃、藤堂高虎によって今治城が完成し、城下町の整備も着々と進められていきました。
その翌年、1609年(慶長14年)、高虎は築城や統治の功績を認められ、伊勢・津藩へと加増転封され、今治を離れます。
その後は養子の藤堂高吉が今治城代として政務を引き継ぎましたが、寛永12年(1635年)、高吉も伊賀上野に転封となり、ここに藤堂家と今治との関係は終焉を迎えることとなります。
代わって今治に入封したのが、徳川家康の異父弟・久松氏の系譜に連なる松平定房(久松定房)です。
定房は初代今治藩主として藩政の基盤を築き、以後、今治は久松松平家による治世が続いていきました。
「新町」港と城をつなぐ地域
寛文年間(1661~1673年)、今治藩主・松平定房の要請により、今治郊外の玉川町大野にあった法華寺が、城下の新町(しんまち)地区へと移転しました。
移転後の法華寺は、藩主の位牌を預かる寺院としての重要な役割を担うようになり、その格式の高さで広く知られるようになります。
この「新町」は、現在の常盤町一丁目にあたる地域で、ハーバリーのある今治港からドンドビ交差点にかけて延びる「新町商店街」の一角に位置しています。
江戸時代には港と城をつなぐ主要な導線として、流通・経済の中心地としてもにぎわいを見せていました。
寺町への移転と再興
しかし、元禄年間(1688〜1704年)、法華寺は火災に見舞われ、貴重な仏像などを失ってしまいました。
この被害を受けて、当時の第3代今治藩主・松平定陳(さだのぶ)公は、寺の再建を強く支援しました。
元禄8年(1695年)には、現在の「寺町(てらまち)」に寺地が新たに提供され、同14年(1701年)には本堂と庫裡(くり)が再建されました。
さらに、正徳年間(1711〜1716年)には、名僧・日忠(にっちゅう)和尚の尽力によって境内の整備が進められ、寺はかつての荘厳な姿を取り戻していきます。
再興後の法華寺は、藩主・定陳公の長女の位牌を預かる寺としても高い格式を誇り、藩主自身もたびたび参詣するなど、今治藩における信仰と文化の中心として重要な存在となっていきました。
「葵の紋」高い格式と伝統
やがて、徳川将軍家の家紋として名高く、江戸幕府の威信を象徴する極めて格式の高い「葵の紋」を、法華寺が使用することを特別に許されるという栄誉がもたらされました。
これは、江戸時代の終盤、法華寺第21世住職が今治周辺の人々に対して精力的に祈祷を行い、多くの困難を解決へと導いた功績によるものです。
その祈祷の霊験は「実にあらたか」と評判を呼び、噂は遠く京都の宮中にまで届いたと伝えられています。
こうした信仰活動の功績が高く評価され、ついには京都・蔵人所本光院の宮様より、「葵の紋」の使用が正式に許可されたのです。
この紋章の使用が認められるということは、単なる装飾や名誉にとどまらず、法華寺が高い格式を備えた寺院として、また地域社会の精神的支柱として深く信頼されていた証でもありました。
以降、「葵の紋」は法華寺の寺紋として掲げられ、今治の人々にとって誇りと信仰の象徴として定着していきます。
「廃仏・空襲・復興」寺町法華寺の近代史
こうして、現在の場所に移設された「寺町 法華寺」は、明治時代以降もその伝統を繋ぎ、地域社会に根付いた寺院として、多くの名説教師や大験者を輩出し続けました。
しかし、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。
「神仏分離令」寺院存続の危機
明治時代、1868年(明治元年)に明治新政府が発布した「神仏分離令」によって、長らく日本の宗教文化において共存していた神道と仏教の関係は大きく転換を迫られました。
これをきっかけに、全国各地で仏教寺院や仏像、経典などが排斥される「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が急速に広まりました。
特に1870年代初頭には、寺院の破却、仏像の焼却、僧侶の還俗(還俗:出家を解かれて俗人に戻されること)などが相次ぎ、仏教界にとっては未曾有の危機の時代となりました。
法華寺もその例外ではなく、一時は存続の危機に瀕するほどの困難に直面したのです。
それでも、信仰の火は消えることなく、地域の人々の支えと関係者の努力によって、寺は少しずつその姿を取り戻していきました。
そして昭和7年(1932年)、長年の願いが実を結び、本堂と庫裡(くり)が再建され、再び法華寺は信仰の場として甦り、地域の人々にとって精神的な拠り所としての役割を取り戻しました。
しかし、その再興からわずか十数年後、再び法華寺に大きな試練が訪れます。
「今治空襲」からの希望
昭和20年(1945年)末期、今治市は3度の空襲に襲われました。特に8月5日から6日にかけての空襲では、大型爆撃機による波状攻撃で市内の多くが焼失し、全市戸数の約75%が失われました。
この空襲の際、法華寺も火災の危機に晒されましたが、当時の住職が勇敢に消火活動に取り組み、本堂を守り抜きました。
戦後の焼け野原に中絵、法華寺は地域の復興に大きな役割を果たしました。戦火で多くが失われた中、本堂は仮設の小学校となり、子どもたちは御本尊様の前で新しい生活と学びを共に始めました。
その光景は、未来を切り開く希望の象徴となり、子どもたちの笑顔が絶えず響く寺の境内には、再び活気が戻ってきました。法華寺は単なる寺院ではなく、復興と希望をつなぐ場所となり、地域の人々の心の支えとなったのです。
そして昭和60年(1985年)、現在の本堂が再建され、法華寺は今もなお地域の人々にとって大切な心の拠り所として、その歴史的役割を担い続けています。
神仏習合の寺院「最上稲荷山妙教寺」
法華寺の境内には、神仏習合の象徴ともいえる「最上稲荷(さいじょういなり・さいじょういなりさん)」が祀られています。
最上稲荷は、正式名称を「最上稲荷山妙教寺」といい、日蓮宗の教えを基にした稲荷信仰の寺院です。
明治時代に発布された神仏分離令によって多くの寺院で神道と仏教の分離が進む中、最上稲荷は例外的に神仏習合の形態を維持することが許された貴重な存在です。
最上稲荷の特徴の一つは、寺院でありながら鳥居を備えている点です。
境内にある本殿(霊光殿)は神宮形式を取り入れており、神道の要素と仏教の教えが共存する神仏習合時代の姿を現在まで残しています。
これにより、最上稲荷は参拝者にとって特別な霊験を持つ場所として広く信仰を集め続けています。
未来へつなぐ文化財保全とデジタルアーカイブ
寺町 法華寺には、他の寺院と同じように、長い歴史の中で大切に受け継がれてきた数多くの貴重な寺宝が所蔵されています。
鎌倉時代に描かれた大曼荼羅、室町時代に造立された仏像群、そして江戸時代に制作された彩色豊かな仏像など、多彩な時代の仏教美術が並び、仏像だけでも30余体にのぼります。
さらに、各時代に書写された御曼荼羅や古文書、寄進された書画類を含めると、寺宝はおよそ300点にも及び、いずれも今日まで丁寧に保管・継承されてきました。
その中には次のような貴重な寺宝も残されています。
- 立本寺日忍師本尊(元禄15年・1702年)
- 鬼子母神木像(享保12年・1727年)
- 細子天神画像(享保11年・1726年)
- 大光山解師書状(享保11年・1726年)
- 加藤肥後守清正の系図および御免状(足利末期)
- 三十番神画像(足利末期)
これらの寺宝は、法華寺の寺史を物語るのみならず、地域の信仰、文化、政治的背景を今に伝える貴重な歴史資料であり、後世に伝えるべき文化的財産です。
「日本全国どこにお寺があっても被災から逃れることができない」
現住職・讃岐師氏は、これまでの歴史を通じて幾多の困難に直面してきた法華寺だからこその、深い実感と責任感が込められています。
鎌倉から令和へと続く信仰の歩みを守りながら、法華寺は今、未来に向けた備えとして、仏像や寺宝のデジタルアーカイブ化、仏教行事の映像記録、文化財の公開を推進しています。
令和3年には中国・四国地方の寺院で唯一、SDGsの認証を取得し、歴史とテクノロジーの架け橋として新たな道を歩み始めました。
過去を敬い、いまを生き、未来を見据える。
法華寺はこれからも、地域の人々とともに、信仰と文化の灯を次の世代へとつないでいます。