寺町の「法華寺(てらまち ほっけじ)」は、日蓮宗に属する歴史あるお寺です。
日蓮宗とは、日本仏教の宗派の一つであり、法華宗(ほっけしゅう)とも称されます。この宗派は、鎌倉時代中期に日蓮によって興されました。日蓮は、法華経を根本経典とし、その教えを広めるために生涯を捧げました。1872年、明治政府の政策「一宗一管長」制に基づき、日蓮門下の全門流が合同し「日蓮宗」となりました。しかし、1874年には日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれました。その後、1876年に日蓮宗一致派が公称を許され、現在の形となりました。
寺町 法華寺の創建は天正3年(1575年)に、今治市玉川町の庄屋であった八木氏の請願により、玉川町大野三反地に建立されました。
法華寺が創建された1575年は、戦国時代の中でも特に重要な年でした。この年の6月28日には、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍勢を破った長篠の合戦が行われました。この戦いでは、織田・徳川連合軍が鉄砲隊を効果的に使用し、武田軍の騎馬隊を壊滅させました。この戦術は日本の戦国時代における軍事戦術の大きな転換点となりました。
さらに、長曾我部元親が四国全域の統一を目指し、土佐を平定したのも1575年の出来事です。
江戸時代初期には、今治藩主である久松定房公の要請により、法華寺は今治港近くの新町に移転しました。
その時に、藩主の位牌を預かり、高い格式を誇った法華寺は、地域の信仰と文化の中心としての役割を果たしてきました。
その後、江戸時代中期の元禄年間に火災で全山焼失。しかし、3代藩主定陳公がこれを惜しみ、新たに寺町に浄地を賜り再建されました。江戸時代中期以降、法華寺は3代藩主定陳公の長女の位牌を預かり、藩主が立ち寄る寺院として高い格式を誇りました。
明治にはいってからも法華寺は名説教師や大験者を輩出し続けました。
現住職である讃岐師氏は、「日本全国どこにお寺があっても被災から逃れることができない」という強い思いから、将来の南海トラフ地震に備え、寺院が持つ文化財や仏像を画像で保存するデジタルアーカイブ化を推進しています。
令和3年には「仏像のデジタル保存」「仏教行事の動画記録」「仏像など仏教文化の公開」の3つの重点目標をかかげ、中国四国地方の寺院でただ1つSDGsの認証を取得しました。
これらの取り組みにより、法華寺は未来の災害に対する備えを強化するとともに、文化財の保護と公開を通じて地域社会に貢献しています。法華寺の取り組みは、寺院の歴史や文化を次世代に継承し、地域の人々とのつながりを深める重要な役割を果たしています。