「東円坊(とうえんぼう)」は、高野山真言宗に属する寺院であり、大山祇神社と共に歴史を刻んできました。
その深い結びつきは、神と仏が共に祀られた神仏習合の名残を今に伝え、起源は平安時代にさかのぼります。
東円坊と大山祇神社の神仏習合
平安時代(794~1185年)は、桓武天皇による平安京への遷都に始まり、華やかな貴族文化が花開いた時代でした。
一方で、地震や疫病、飢饉といった自然災害が相次ぎ、人々は常に生死の不安に直面していました。
こうした社会不安の中で、人々は災厄を避け、国家や家庭の安泰を強く願うようになります。
このような時代背景のもと、最澄が開いた天台宗や、空海による真言宗を中心とする密教が全国に広まりました。
特に密教は、仏の力を現世に働かせて災厄を退け、病気を癒やし、現世利益をもたらすと信じられ、宮中の貴族だけでなく、地方の豪族や民衆にも受け入れられていきました。
神仏習合
神仏習合とは、日本古来の神道と、外来の宗教である仏教とを対立させることなく、調和的に結びつけて信仰の対象とする、日本独自の宗教観です。
この考え方は、仏教が国家の宗教として受け入れられた奈良時代(8世紀)にすでにその兆しが見られ、平安時代に入ると、社会制度や神社の祭祀体系の中で、より体系的に整えられていきました。
そしてこの共存関係を理論づけたのが、平安時代中期に確立された「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」です。
本地垂迹説
本地垂迹説とは、日本における神仏習合の理論の中核となる思想で、「日本の神々は、仏や菩薩が人々を救うために姿を変えて現れた存在である」とする考え方です。
- 本地(ほんじ)
仏や菩薩の本来の姿。人々を救済する根源的な存在。 - 垂迹(すいじゃく)
その仏や菩薩が、人々にわかりやすく教えを伝え、救うために現世で神の姿を取ったもの。
この考え方により、神と仏は以下のように関連づけられました。
- 天照大神(あまてらすおおみかみ)= 大日如来(だいにちにょらい)
- 八幡神(はちまんしん)= 阿弥陀如来(あみだにょらい)
- 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)=釈迦如来(しゃかにょらい)
このように神々が仏教的な体系の中に位置づけられることで、日本人の信仰において神と仏は互いに矛盾するものではなく、むしろ補い合い、共に人々の暮らしと心を支える存在として受け入れられていったのです。
神宮寺の設立と役割
こうした思想を具体的に体現するため、奈良時代から 全国各地の神社の境内やその隣接地に、神社に付属する仏教寺院が設けられました。
それが、「神宮寺(じんぐうじ)」です。
神宮寺では、神社の御祭神に対応する本地仏が本尊として安置されることも多く、仏教式の供養や読経、写経などが行われる場として機能しました。
そこでは神と仏の両方が祀られ、神事と仏事が一体となった儀礼が盛んに営まれていました。
大山祇神社の神宮寺と伝承
大山祇神社でも御祭神「大山積神」を仏教の「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」という仏の姿で祀るため、保延元年(1135年)に神宮寺が建てられていました。
そして、神宮寺の周囲には、僧侶の住居である塔頭(たっちゅう)が次々に建てられました。
「塔頭(たっちゅう)」とは、本寺に附属して設けられた院坊のことであり、僧侶の住居であると同時に、祈祷や法要の奉修、地域の教化、巡礼者の接待など、多様な宗教的実践の場でもありました。
このような坊は、実に二十四坊(にじゅうよんぼう)にものぼり、それぞれが固有の名を持ち、一定の宗教的役割を果たしながら、信徒と深い関わりを築いていました。
島全体が信仰の場といえるほど、霊場としての空気に満ちていたのです。
東円坊のはじまり
この二十四坊の一つが「東円坊(とうえんぼう)」です。
伊予の豪族・河野氏の一族である河野為澄の次男、河野妙尊(こうの みょうそん)が、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)の教えを受け、阿弥陀如来を本尊として創建したとされます。
妙尊の子が寺に「東円坊」の名を与え、その後も修験道の流れを汲みつつ、大山祇信仰を支える二十四坊の一つとして機能してきました。
二十四坊の名称は以下の通りです。
時代とともに失われゆく坊
ところが、時代の移り変わりとともに、坊の数は減少していきます。
平安時代末期には、今治市の別宮大山祇神社に8つの坊(南光坊、中之坊、大善坊、乗蔵坊、通蔵坊、宝蔵坊、西光坊、円光坊)が移され、大三島に残ったのは16坊。
元亨2年(1322年)には兵火によって社殿が焼失したものの、速やかに復興が進められ、再び地域の信仰を集める場として機能しました。
しかし、その後も戦乱や社会の変化により次々と失われ、天正五年(1577年)には東円坊、法積坊、上大坊、地福坊のわずか4坊のみが残るのみとなりました。
光林寺の末寺
東円坊は、江戸時代の万治年間(1658~1661年)、光林寺(今治市・玉川地区)の末寺となり、同寺の庇護のもとに寺の営みを続けていました。て
末寺とは、本寺の統括や指導を受けながら、寺務や法要、地域での宗教活動を行う寺院のことで、東円坊もまた、光林寺の支援を受けて法要や地域の行事を担い、寺院としての役割を果たしていたと考えられます。
こうした関係は時代を超えて受け継がれ、現在も光林寺が東円坊の管理を行っています。
明治維新と神仏分離
明治に入ると、日本は明治維新という歴史的な転換点を迎えました。
新たに誕生した明治政府は、近代国家の建設に向けて中央集権体制の確立を進めるとともに、宗教政策においても抜本的な改革を打ち出します。
そのひとつが、明治元年(1868年)に発布された「神仏分離令」でした。
この布告により、長らく日本社会の中で共存してきた神道と仏教の「神仏習合」体制が否定され、全国の神社と寺院は明確に分けられることとなります。
結果として、全国各地で寺院の廃止、仏像や仏具の破壊、僧侶の還俗などが相次ぐ「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の動きが広がり、数百年にわたって営まれてきた信仰の姿は大きな転換を迫られました。
この波は、瀬戸内海の大三島に鎮座する大山祇神社にも及び、明治6年(1873年)に神宮寺は正式に廃寺となりました。
しかし、その本堂は大山祇神社の末社「祖霊社」として新たな歩みを始め、現在もかつての神宮寺の面影をとどめています。
東円坊の独立と文化財の継承
一方、神宮寺の塔頭として残っていた4坊もその役割を終え、次々に廃止されていきました。
その中で唯一存続を許されたのが東円坊でした。
東円坊は大山祇神社から完全に切り離され、独立した寺院となりましたが、廃寺となった神宮寺に祀られていた仏像や仏具を受け継ぐことで、歴史を引き継ぎながらその格式を高めました。
特に、神仏習合の象徴として神宮寺に長く祀られていた木造大通智勝如来坐像の移座は大きな意味を持ちました。
これにより、大通智勝如来も本尊として安置され、大山祇神社の歴史を伝える存在として新たな歩みを始めることとなったのです。
本堂の再建と新たな信仰の場
2019年には東円坊の本堂の再建が始まり、2020年に完成しました。その際、脇堂にあった聖天様などの仏像も本堂に移され、新しい本堂でさらに多くの人が拝むことができるようになりました。
さらに本堂再建から2年後の2022年には大師堂が新たに建立され、東円坊は地域における新たな信仰の拠点として、現在も地域の人々に親しまれています。
現在の本堂には、以下の尊像が安置されています。
- 大通智勝如来(だいつうちしょうぶつ)
東円坊の本尊であり、大山祇神社の本地仏とされる貴重な仏像。 - 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
未来に衆生を救済するとされる菩薩。 - 木造薬師如来三尊像(やくしにょらい・にっこうぼさつ・がっこうぼさつ)
薬師如来を中央に、日光菩薩と月光菩薩を脇侍として従える三尊像。 - 聖天様(しょうてんさま)
人々のあらゆる願いを叶えるとされる尊格。
また、大師堂には次の尊像が祀られています。
- 弘法大師(こうぼうだいし)
東円坊の守護と人々の救済を担う真言宗の祖師。 - 如意輪観音(にょいりんかんのん)
六本の手で人々の願いを叶えるとされる観音菩薩。 - 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
子どもや旅人を守り、苦しむ人々を救うとされる慈悲深い菩薩。 - 不動明王(ふどうみょうおう)
煩悩を断ち切り、災いを除く力をもつ守護の明王。 - 弁才天(べんざいてん)
音楽や学問、財福の神として信仰される女神。
有形文化財
これらは、神仏習合の歴史や大山祇神社との深い関わりを今に伝える重要な文化財として、今治市や愛媛県の有形文化財に指定されています。
ここでは、東円坊に伝わる代表的な有形文化財をご紹介します。
まずご紹介するのは、密教の中心仏である二体の大日如来像です。
一つは「金剛界(こんごうかい)」、もう一つは「胎蔵界(たいぞうかい)」と呼ばれ、密教においてはそれぞれが智慧と慈悲を象徴し、曼荼羅の中心に位置する最も重要な仏さまとされています。
木造金剛界大日如来坐像×1躯(大通智勝如来)
- 昭和55年(1980)2月7日 町指定有形文化財(現・今治市指定)
- 令和5年(2023)2月17日 愛媛県指定有形文化財
木造金剛界大日如来坐像は、東円坊本堂の須弥壇中央に安置されている本尊で、像高約91cmの等身大木造坐像です。
もとは大山祇神社の神宮寺に安置されていた大山積神の本地仏・大通智勝如来像で、明治初年の神仏分離令の際に東円坊へと移されました。
その姿は、螺髪を整然と刻んだ穏やかな面相と、条帛をまとい腕輪をつけた端正な姿に、鎌倉時代末から南北朝初期の密教仏像らしい気品が感じられます。
像内には「元徳二年(1330)四月日 院吉」の墨書銘が残されており、仏師・院吉(いんきち)の作であることがわかります。
院吉は、鎌倉時代末から南北朝期にかけて京都で活躍した院派仏師の代表格で、足利尊氏・直義兄弟が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した天龍寺において、本尊「釈迦三尊像」の造立に関与したことでも知られます。
本像は、制作年と仏師名がともに明らかな極めて貴重な作例であり、室町幕府創成期における中央仏師の活動を伝える美術史上の屈指の資料でもあります。。
最大の特徴は胸前で結ぶ理拳印(りけんいん)です。
右手の人さし指を立てて左手で包むこの印は、通常の金剛界大日如来が結ぶ智拳印の左右を逆にした極めて珍しい形式です。
この特殊な印相は、大通智勝如来としての性格を示すと考えられ、日本に現存する古像の中でも極めて稀な姿といえます。
大通智勝如来像としては日本でほぼ唯一の古仏であり、東円坊のほかには、別宮大山祇神社の別当寺を務めていた南光坊にのみ伝わる至宝として高く評価されています。
木造胎蔵界大日如来坐像
- 昭和55年(1980)2月7日 町指定有形文化財(現・今治市指定)
- 令和5年(2023)2月17日 愛媛県指定有形文化財
木造胎蔵界大日如来坐像は、東円坊本堂の須弥壇上で大通智勝如来坐像の右方に安置される像高88.9cmの等身大の坐像です。
穏やかで落ち着いた面差しと端正な姿は、鎌倉時代末から南北朝期にかけての密教仏像の特徴をよく示しています。
学術的には胎蔵界大日如来像とされていますが、伝承では「釈迦如来」と呼ばれ、さらに地元では親しみを込めて「弥勒(みろく)さん」と呼ばれてきました。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、釈迦如来が亡くなった後、遠い未来にこの世に現れて人々を救うとされる仏さまです。
人々は「いつか必ず救ってくれる仏」として信仰し、特に来世の安らぎや極楽往生を願う心と深く結びついてきました。
本来、弥勒菩薩といえば京都・広隆寺の半跏思惟像(片足をもう一方の膝に乗せて思索する姿)が有名ですが、地方では如来形の仏像でも「弥勒さん」として信仰されることがありました。
本像もその例で、正式には胎蔵界大日如来像であるものの、地域では弥勒として祀られてきたため、文化財の指定名にも「伝弥勒菩薩」と記されています。
東円坊に伝わる中世密教美術の貴重な遺例であり、神仏習合の歴史や大山祇神社との深い関わりを今に伝える重要な文化財です。
これら二つ大日如来坐像は、かつて大山祇神社の神宮寺に安置されていましたが、元亨二年(1322)の兵火により失われ、その後に復元されたものと考えられています。
木造薬師如来三尊像
- 昭和55年(1980)2月7日 町指定有形文化財(現・今治市指定)
東円坊本堂には、本尊として薬師如来を中心に日光・月光両菩薩を従えた木造薬師如来三尊像も安置されています。
薬師如来は古くから「医王仏」として人々の病を癒やし、日光・月光両菩薩はその救済を補佐する存在とされ、現世利益と来世安寧を祈る信仰の中心となってきました。
中央の薬師如来坐像は、桧材による寄木造で、天文十二年(1543)に造立されました。
肉髻や白毫には水晶が用いられ、三道を刻んだ端正な顔立ちに玉眼を嵌め込むことで、穏やかで生き生きとした表情を湛えています。
静かに膝上に手を置く姿は、病苦を抱える人々を慈しみ、安らぎをもたらす仏としての威厳を感じさせます。
その左右に立つ日光・月光両菩薩像は、高く結い上げた髻に冠台を戴き、地髪には細やかな毛筋が刻まれています。
白毫にも水晶を用い、三道を備えた柔和な顔立ちが特徴で、玉眼のまなざしには静かな慈悲が漂います。三尊はいずれも本体・台座ともに当初の姿をよく留めており、制作当時の荘厳な雰囲気を今に伝えています。
この三尊像は、室町時代中期における地方寺院の密教的薬師信仰を示す貴重な作例であり、美術史的・歴史的価値の高い文化財です。
令和二年(2020年)には本格的な修復が行われ、造像当初の木肌と温かな表情が甦りました。静かに座す薬師如来と、左右に寄り添う日光・月光菩薩は、今も訪れる人々に癒やしと安らぎを与え続けています。
木造南無仏太子立像
- 昭和55年(1980)2月7日 町指定有形文化財(現・今治市指定)
木造南無仏太子立像は、室町時代頃の作と考えられている、真言宗寺院の大師堂に安置される聖徳太子像です。幼い太子の姿で表されたこの像は「南無仏太子(なむぶつたいし)」と呼ばれます。
これは、聖徳太子が二歳のとき、東方に向かって合掌し「南無仏」と称えたという伝承に基づいています。
この幼子の姿は、生まれながらに仏法に心を開いた太子の清らかさを象徴しています。
聖徳太子は飛鳥時代に仏教を深く信仰し、推古天皇の摂政として十七条憲法の制定や法隆寺の創建などに尽力した人物です。
その功績から「日本仏教の祖」と仰がれ、死後は太子信仰が全国に広まりました。
平安時代には、真言宗の祖・弘法大師(空海)も聖徳太子を深く尊崇し、弘法大師は太子の生まれ変わりであるという伝説も生まれました。
鎌倉時代になると、ほぼすべての宗派で太子信仰が見られるようになり、真言宗の寺院でも聖徳太子を祀るようになりました。
この木造南無仏太子立像は、そうした真言宗における太子信仰の歴史を今に伝える貴重な仏像として、現代においても信仰と尊崇の対象となっています。
大般若経二二一巻
- 昭和55年(1980)2月7日 町指定有形文化財(現・今治市指定)
大般若経は正式には『大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)』と呼ばれる経典で、その名称は、智を意味する「般若(はんにゃ)」と、彼岸に到達した状態を意味する「波羅蜜多(はらみった)」に由来します。
仏教における智慧を完成させ、悟りに至る道を説く経典として知られています。
この経典は、紀元1世紀以降にインドで成立した複数の般若経典を集大成したもので、中国では唐の玄奘三蔵によって全600巻に翻訳されました。
日本でも古代から広く信仰され、とくに国家や寺院の安泰、災厄消除の祈祷に用いられました。大般若経はすべてを読み上げるのではなく、転読(てんどく)と呼ばれる独特の作法で経典を繰ることで功徳を得る儀式が行われます。
東円坊に伝わる大般若経二二一巻は、そうした信仰と法会の歴史を今に伝える貴重な典籍であり、かつて神仏習合の時代に大山祇神社の神宮寺としての役割を担った東円坊の歴史を示す資料でもあります。
銅羅一面、鏡鉢一対
- 令和元年(2019)7月23日 国指定重要文化財
さらに、正慶元年(1332年)に奉納された「鈸子(ばっし)」と「銅鑼(どら)」も東円坊で大切に保管されています。
これらは仏教の法会で用いられる金属製の打楽器で、澄んだ音色で場を荘厳するための法具です。
鈸子は二枚一対の円盤を打ち合わせて音を出す楽器で、中央に孔をあけて朱色の房紐を通し、木製の留め具で結んでいます。
銅を鋳造したのち、追鍛や轆轤挽きで形を整え、表面には黒漆状の塗布が施されています。
甲盛のある笠は石目地状の肌をもち、手作業の削痕も残る中世らしい姿を伝えています。
鍔の上面には「正慶元年壬申十月日俊海施入」と刻まれ、鎌倉極楽寺の僧・俊海が大山祇神社の法具として奉納したことがわかります。
銅鑼も同じく銅製で、打つと深く響く音色を持ちます。
裏面には鋳造後の削り跡があり、表面には黒漆のような塗布が残されています。鈸子と同じ銘文が刻まれ、同時に奉納された一具であることが明らかです。
中世の鈸子と銅鑼が、奉納の由来が明らかで、しかも揃って伝わる例は極めて珍しく、歴史的・美術的価値が高いことから、令和元年(2019)7月23日に国の重要文化財に指定されました。
五輪塔に残る24坊の歴史
また、東円坊には多くの五輪塔も集められています。
記録が残っていないため詳細は不明ですが、これらはかつてこの地に存在していた「24坊」に関わる僧侶やその支援者たちのお墓として作られていたものではないかと考えられています。
五輪塔は、仏教の五大要素である「地・水・火・風・空」を象徴するもので、人が亡くなった後、その魂がこれらの要素に還ることを表現しています。
これらの五輪塔が数百年を経てなおも残っていることで、かつての人々の信仰や祈りが感じられ、訪れる人々に祖先や過去の人々への敬意を改めて抱かせる存在となっています。
安神山の五輪塔
また、東円坊周辺のみならず、大山祇神社の御神体山(ごしんたいざん)の一つ「安神山(あんじんさん)」のふもとにも五輪塔が点在しています。
安神山は、古くから大山祇神社との深い結びつきを持ち、地元の人々にとっても神聖な山として信仰されてきました。
特に、毎年1月7日に行われる大山祇神社の祭礼「生土祭(しょうどさい)」では、安神山の山麓で大地の力を象徴する赤土を採取し、神前に供える儀式が執り行われます。
この神事は、自然の恵みに対する感謝と、新しい一年の安全と豊穣を祈るためのものです。
東円坊周辺に点在する五輪塔や、長い伝統に根差した祭礼は、この地に生きた人々の信仰と祈りの象徴であり、日本の大切な文化遺産として現在も受け継がれています。
四国八十八箇所霊場としての東円坊
東円坊の歴史を語る上で、もう一つ重要な要素が四国八十八箇所霊場との関わりです。
現在、第55番札所として広く知られているのは南光坊ですが、かつては大山祇神社が第55番札所とされていました。
そして、別当寺である神宮寺が仏事を行っていたため、神宮寺が55番札所としての役割を果たしていたとされています。
しかし、実際に巡礼者を迎え、接待や祈祷など札所としての実務を担っていたのは、神宮寺の塔頭である東円坊であったという説が有力です。
神宮寺には「供僧(ぐそう)」と呼ばれる僧侶たちが所属し、神宮寺の仏事を支えるために24の坊に分かれて、それぞれが独自の役割を持って奉仕していました。
その中でも、東円坊は供僧を監督する「検校(けんぎょう)」という重要な役職に任命され、代々その地位を受け継いでいたと伝わっています。
このことから、第55番札所の実務は事実上東円坊が担っていたと考えられているのです。
なぜ南光坊が第55番札所?
ではなぜ、南光坊が第55番札所となったのでしょうか?
その背景には、別宮大山祇神社の歴史と、明治時代の神仏分離政策が深く関わっています。
大山祇神社は、古来より瀬戸内海航路の守護神として篤く信仰されましたが、参拝するためには風や潮流に左右される船旅をしなければなりませんでした。
現代のような技術がない時代、巡礼者が大三島へ渡るのは命がけの行為だったのです。
こうした事情から、島に渡れない巡礼者や一般の参拝者のために、本宮である大山祇神社の別宮として「別宮大山祇神社」が創建されました。
やがて、別宮大山祇神社は正式な札所となりましたが、明治時代の神仏分離政策によって仏教的な要素が排除されることとなりました。
その際、札所としての機能や仏像・仏具などの仏教的な要素はすべて南光坊に移され、第55番札所としての役割も担うことになったのです。
二つの伝承と大山祇神社
東円坊か新宮寺か。
55番札所の起源には、このように二つの説が伝わっているものの、はっきりとした史実は残されていません。
しかし、大山祇神社が札所として重要な役割を果たしていたことは、江戸時代の巡礼記録からも確認できます。
大山祇神社が役割を果たしていたことは江戸時代の巡礼記録に記されています。
例えば、澄禅が記した『四國辺路日記(承応2年・1653年)』では、澄禅が今治の別宮を参拝した際に「本来の巡礼は島に渡り、ここ(別宮)での参拝は簡略なもの」と述べています。
また、真念が刊行した『四国遍路道指南(貞淳2年(1685年)』にも、「別宮は三島ノ宮(大山祇神社)の前札所であり、海上7里を越えて三島に渡ることが本来の参拝」と記されています。
さらに、『四国遍礼名所図会(寛政12年・1800年)』では、53番札所の円明寺の次に「五十五番三島社祭神大山積大明神」の項があり、図面付きで大山祇神社と神宮寺が解説されています。
この図会では大山祇神社が55番札所の中心に位置づけられており、その次に54番延命寺、55番別宮(別宮大山祇神社)と続いています。
別宮についても「大三島に渡らない時はここで遙拝する」と記されており、当時の巡礼者にとって大三島への参拝が正式とされていたことが伺えます。
また、大三島南対岸の波止浜港には文政13年(1830年)に建立された「遍路石」があり、そこから北に進んで大三島に渡り、大山祇神社や本地仏である大通智勝如来に参拝していたことが示されています。
これらの記録から、大三島の大山祇神社へ直接参拝することが正式な四国遍路の巡礼行程であり、多くの巡礼者がこの地を訪れていたことがわかります。