「富山八幡神社(とみおかはちまんじんじゃ)」は、海の鳥居で有名な龍神社・九王(りゅうじんじゃ)が鎮座する愛媛県今治市大西町九王地域の氏神様です。
九王地域は越智郡大西町の北部に位置し、斎灘に面した長い海岸線を持つ風光明媚な地域です。
九王海岸は高縄半島の西岸にあり、宮崎半島と鳶鴉山に囲まれた波静かな入り江です。中央部には約1kmにわたる砂浜が広がり、付近には集落が密集しています
創建と由緒
富山八幡神社の創建は文武天皇の御代、慶雲四年(707年)6月にさかのぼります。
当時の国司・越智宿祢玉純(越智玉純)が父・玉興(越智玉興)と共に、安芸国(現在:広島県西部)の厳島大明神(宮島の厳島神社)から三女神を、伊予国八ヶ所に勧請しました。
富山八幡神社はその中の一社として創建され、現在も九王の地に鎮座しています。
三女神とは
勧請された三女神は、一般に「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」と呼ばれる女神です。
宗像三女神は、日本神話において天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約(うけい)を行った際に生まれた三柱の神であり、古代から交通安全の守護神として信仰されてきました。
三女神は、福岡県宗像市に鎮座する宗像大社に祀られており、三社の総称を「宗像三宮」とも呼びます。
- 田心姫神(たごりひめのかみ) ― 沖津宮(おきつぐう)
- 湍津姫神(たぎつひめのかみ) ― 中津宮(なかつぐう)
- 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) ― 辺津宮(へつぐう)
これら三女神は、海上交通や陸上交通、ひいてはあらゆる「道」を守護する神とされ、古代の海人族の信仰を基盤として発展しました。その信仰はやがて朝廷にも受け入れられ、国家的な意義を持つに至ります。
こうした背景をもつ宗像三女神が、安芸国の厳島大明神を通じて伊予の地に勧請されたことは、富山八幡神社が当初から海上安全や地域の繁栄を祈る重要な信仰の場であったことを物語っています。
宇佐八幡宮の勧請
さらに延長元年(923年)8月には、当時の伊予守が筑前国(現・大分県宇佐市)に鎮座する宇佐八幡宮を勧請し、富山八幡神社に合祀しました。
宇佐八幡宮は全国約4万社の八幡宮の総本社であり、石清水八幡宮(京都)、筥崎宮(福岡)と並ぶ「日本三大八幡宮」のひとつです。
奈良時代には東大寺の大仏建立に際して神託を下したことから国家鎮護の神とされ、平安期以降は源氏をはじめとする武家の氏神として「弓矢八幡」として崇敬を集め、八幡信仰は全国に広まりました。
宇佐八幡宮の本殿(三之御殿)には次の三柱の神が祀られています。
- 三之御殿:神功皇后(息長帯姫命) ― 応神天皇の母、武勇と安産祈願の神
- 一之御殿:八幡大神(誉田別尊=応神天皇) ― 武運・勝利の神
- 二之御殿:比売大神(三女神:多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命) ― 海上交通や学芸、財運を司る神
合祀による信仰の強化
富山八幡神社は、厳島大明神から勧請した比売大神(三女神:市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)を祀っていました。
ここに、宇佐八幡宮の八幡大神(応神天皇)と神功皇后(息長帯姫命)が新たに加わったことで、八幡信仰としての性格が強まり、武運・勝利・安産祈願のご神徳が備わることとなりました。
別当寺と神仏習合
さらに、大井寺・地福寺・帝王寺・神宮寺が別当寺として関わり、富山八幡神社の管理や祭祀を支える重要な役割を果たしました。
「別当」とは、すなわち「別に当たる」という意味を持ち、本来は寺務を司る官職を指します。神社における別当寺は、神仏習合の思想に基づき、祭神を仏の化身=本地仏とみなして祀る役割を担いました。
別当寺が設けられること自体、その神社が格式の高い社格を有していた証とされます。
富山八幡神社もその一例であり、別当寺が交代で祭礼を執り行い、神社の神々を仏教的に位置づけながら祀っていたと考えられます。
特に八幡神は、平安時代に「八幡大菩薩」という尊号を授けられたことから、各地の八幡宮には必ずといってよいほど別当寺が置かれ、神社の神事と仏教的な勤行が一体となって執り行われました。
また、神功皇后(息長帯姫命)は神仏習合的な女神として聖母大菩薩、宗像三女神も弁才天や観音菩薩と習合し、海上守護や芸能・財運の神として篤く崇敬されました。
しかし、このような神仏習合の形は、明治維新後の政策によって大きな転換を迎えます。
明治政府は1868年(明治元年)、神道を国の宗祀と位置づける国家政策の一環として「神仏分離令」を発布しました。
これにより、神社から仏教的要素を排除し、別当寺や神宮寺は廃止・分離されることとなりました。全国的には廃仏毀釈運動も起こり、多くの仏像や寺院が破壊されました。
富山八幡神社も例外ではなく、長く続いた神仏習合の体制は終わりを告げましたが、それまでの歴史の中で培われた信仰形態は、地域の精神文化を支える重要な基盤であったのです。
富山八幡神社と龍神社の例大祭
富山八幡神社は龍神社・九王とともに、地域における信仰と生活の中心として深く結びついています。
龍神社・九王は海の神として漁業や海上安全を守護し、松山藩領時代には雨乞いの祈禱所としても重要視されてきました。
一方、富山八幡神社は陸の神として農業や武運を司り、地域の氏神として厚く崇敬されています。
この二つの神社は、海と陸を守る神々として補完的な役割を果たしてきました。
地域の人々にとっては、どちらも生活と切り離せない大切な信仰対象であり、その結びつきは毎年五月第三日曜日盛大に行われる例大祭の中に色濃く表れています。
例大祭神事と渡御
例大祭は朝8時20分頃から、厳かな神事によって幕を開けます。
その後、龍神社・九王から大人神輿1基と子供神輿2基が宮出しされ、前日に組み立てられた獅子船・神輿船・宮司船の3隻が出航し、神輿を海上渡御へと導きます。
「船上継獅子舞」
海上渡御の最大の見どころは、獅子船で披露される「船上継獅子舞」です。
継獅子(つぎじし・継獅子)とは、大人が子供を肩車し、その上にさらにもう一人が立ち上がって人の塔を築き、頂点で獅子を操る、愛媛県今治市を代表する伝統芸能です。
その起源は江戸時代中期にさかのぼり、伊勢神宮の神楽を取り入れて生まれたと伝えられています。
以来、今治各地の春祭りで奉納され、氏神に祈りを捧げる神事の一部として受け継がれてきました。
継獅子は、大人の肩に子供を立たせる二継ぎを基本に、三継ぎ、四継ぎ、五継ぎへと発展します。
段が増すごとに難易度は高まり、下段の力強い支えと、最上段の子供の勇気や均衡、そして一体となった呼吸が求められます。
特に、四継ぎや五継ぎでは高さが数メートルに及び、観衆はその迫力に圧倒されます。
頂点で獅子を操る子供の姿は、天へ祈りを届ける象徴とされ、五穀豊穣や地域の繁栄を願う奉納芸能として深い意味を持っています。
その中でも船上継獅子舞は、船上という不安定な舞台で披露されるため、陸上以上の緊張感と迫力を放ちます。
瀬戸内海の穏やかな波間を舞台に、江戸時代末から続くこの伝統芸能は、百年以上にわたり親から子へ、子から孫へと受け継がれてきました。
海を背景に繰り広げられる迫力の舞は、祭りの熱気を最高潮に盛り上げる大きな華となっています。
餅つきと餅まき
船上継獅子舞の後には、子供たちが獅子舞の上に立ち、臼と杵を手に餅つきを始めます。
実際に餅をつくわけではありませんが、臼に餅を入れて杵を振り上げる所作が丁寧に演じられ、観客はその愛らしくも厳かな振る舞いに目を奪われます。
やがて餅つきが終わると、福を分け与える「縁起餅」が袋に詰められ、岸辺に向かって勢いよく投げられます。
上陸後の祭礼
海上渡御を終えた神輿は上陸し、九王地蔵堂に立ち寄ります。
この祭りにおいて九王地蔵堂は「札所」としての役割を担っており、神輿が必ず経由する重要な地点となっています。
ここでも再び獅子舞や継獅子が奉納され、参道に並べられた神輿の前で神事が執り行われます。
その後、神輿は東の山頂に鎮座する富山八幡神社へと担ぎ上げられ、本殿にて厳粛な儀式が営まれます。
神輿巡行と宮入り
昼前には富山八幡神社を出発し、獅子連が獅子舞を披露して先導する中、神輿は御旅所や地域の家々を巡ります。
新築の家や招待を受けた家庭にも立ち寄り、家内安全や地域繁栄を祈念します。
そして夕方になると、神輿は再び龍神社・九王に戻り、19時30分頃には宮入りが行われ、威勢の良い掛け声とともに境内へと収められます。
その後、20時頃に解散となり、朝から続いた神事と芸能に満ちた一日のお祭りは幕を閉じます。
受け継がれる祭例
後日、神輿や太鼓、幟(のぼり)などの祭礼道具は地域の人々によって丁寧に片付けられ、九王集会所の隣に設けられた保管庫へ納められます。
その脇には船小屋もあり、獅子舟や神輿を乗せる神輿舟が大切に収められています。
これらはいずれも地域の人々が共同奉仕作業で建てたもので、村人たちの力と心意気によって守られてきました。
かつてはこれらの祭礼道具は庄屋であった村瀬家に預けられており、庄屋が村政とともに祭礼の中心を担っていました。
現在は保管場所を変えながらも、道具を守り、次の祭りへと受け継ぐ営みは変わることなく続けられています。
やがて一年の時を経て、再び祭礼の日が巡ってくると、村人たちは道具を取り出し、舟を整え、神輿を飾り直して祭りに臨みます。
こうして九王の祭礼は、過去から現在へ、そして未来へと、絶えることなく受け継がれていくのです。
九王に息づく海と陸の祭礼
九王の地に連なる三つの聖地を舞台に繰り広げられる例大祭は、海と陸、そして人々の暮らしと祈りを結びつける大きな営みとして受け継がれてきました。
海上を渡る神輿、山頂へと担ぎ上げられる神輿、参道を彩る獅子舞や継ぎ獅子の勇壮な姿。
その光景には、地域の歴史と信仰が幾重にも重なり合い、九王の人々の心をひとつにする力が息づいています。
なかでも、海上渡御を支える獅子船には神社の紋と「龍神社・富山八幡神社、九王獅子連中」と染め抜かれた二本の幟が立ち、潮風にはためくその姿は祭りの象徴ともいえます。
幟に刻まれた文字は、海と陸を守る二社と獅子連中が一体となって地域を支えてきた証であり、九王に息づく信仰と誇りを今に伝えています。