「富山八幡神社(とみおかはちまんじんじゃ)」は、海の鳥居で有名な「龍神社(九王)」が鎮座する愛媛県今治市大西町九王地区の氏神様です。
九王地区は越智郡大西町の北部に位置し、斎灘に面した長い海岸線を持つ風光明媚な地域です。九王海岸は高縄半島の西岸にあり、宮崎半島と鳶鴉山に囲まれた波静かな入り江です。中央部には約1kmにわたる砂浜が広がり、付近には集落が密集しています
富山八幡神社の創建
富山八幡神社は、文武天皇の御代である慶雲四年(707年)6月に、国司・越智宿祢玉純が父・玉興と共に安芸国の厳島大明神から三女神を勧請した神社の一つです。この勧請は、国家の安寧と地域の繁栄を願う祈りを込めて行われました。三女神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)で、海上安全や豊漁、商売繁盛の守護神として広く信仰されていました。
その後、醍醐天皇の御代である延長元年(923年)8月に、国司・伊予守が筑前国の宇佐八幡宮を勧請し、これを合祀しました。宇佐八幡宮は全国の八幡宮の総本社として知られ、応神天皇を主祭神とする武運や勝利の神として崇敬を集めています。この合祀により、富山八幡神社は海上守護の神と武運守護の神を併せ持つ重要な信仰の場として位置づけられました。この際、祭祀料として国司から水田八段歩が寄進され、社号を富山八幡宮と改称しました。
神社の管理や祭祀を支える役割は、地域にある複数の別当寺によって担われてきました。大井寺、地福寺、帝王寺、神宮寺が交替でその責務を果たし、神仏習合の形式で神社と寺院が連携して信仰を守ってきました。これらの寺院は、仏教の教えを通じて神社の信仰を補完し、地域の精神的な支柱としての役割も果たしていました。
富山八幡神社と龍神社の繋がり
富山八幡神社と龍神社は、九王地区における信仰と祭礼の中心として深く結びついています。龍神社は海の神として漁業や海上安全を守護し、松山藩の雨乞いの祈禱所としても重要視されてきました。一方、富山八幡神社は陸の神として農業や武運を司り、地域の氏神として崇敬を集めています。
この二つの神社は、海と陸を守る神々として補完的な役割を果たし、地域の人々にとって欠かせない存在です。祭礼では、龍神社の神輿と富山八幡神社の神輿が共に巡行し、地域全体の繁栄と安全を祈願します。
特に例大祭では、神輿の海上渡御や獅子舞が行われることで、両神社の関係が象徴的に表現されます。特に船上での継獅子の演舞は、龍神社が海の守護神としての役割を担うことを強調するとともに、富山八幡神社が地域全体の結束と発展を祈る存在であることを示しています。
例大祭
例大祭は、毎年盛大に執り行われます。8:20頃より神事が始まり、9:00頃からは境内で獅子舞が披露されます。その後、獅子舞の先導で神輿の宮出しが行われます。大人神輿1基と子供神輿2基が用意され、すぐ近くの海岸から、前日に組み立てられた獅子船、神輿船、宮司船の3隻が出航します。
獅子船の船上では、獅子舞や三継ぎ・四継ぎの継獅子、餅つきの芸が披露され、袋入りの餅が陸に向かって投げられる賑やかな光景が見られます。その後、九王地蔵堂にて獅子舞や四継ぎの継獅子が再び行われます。地蔵堂横の参道では神輿が安置され、神事が執り行われます。
その後、東側の山頂にある富山八幡神社を目指し、参道を通って神輿を担ぎ上げて神事を行います。11:30頃に神社を出発すると、獅子連が迎えに来て獅子舞を披露しながら先導します。神輿は各御旅所を巡り、新築の家や招待の連絡があった場所を回ります。そして19:30頃に宮入りが行われ、20:00頃に解散となります。
このように富山八幡神社は、地域の歴史と文化を象徴する存在であり、古代からの信仰を今に伝える重要な神社です。その深い歴史と祭礼の伝統は、地域の人々にとって大切な心の拠り所として受け継がれています。