大西町にひっそりと佇む南朝の将軍・脇屋義助の墓所
今治市大西町脇の田園地帯の中、民家の立ち並ぶ一角に、ひっそりと一基の古い石塔が佇んでいます。
この石塔こそが、南北朝の武将・脇屋義助(わきや よしすけ)の墓として伝えられる「脇屋義助五輪塔(わきやよしすけ ごりんとう)」です。
この五輪塔は凝灰岩で造られ、南北朝時代の作と伝えられています。
中世の伊予では、鎌倉時代から南北朝にかけて、供養や顕彰のための五輪塔が数多く建立されました。
特にこの時期には、阿蘇地方などから運ばれた軟質の凝灰岩が広く用いられ、温かみのある形状の石塔が多く残されています。
脇屋義助五輪塔もまたその流れの中で、南朝方の大将としてこの地に没した義助を弔うために建てられたと考えられます。
今治で亡くなった脇屋義助と3つの墓所
脇屋義助は、もとは新田(にった)姓を名乗っていましたが、上野国脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)を本拠としたことから脇屋を称するようになりました。
太田市の生品神社(いくしなじんじゃ)で兄・新田義貞とともに挙兵して以来、義貞の副将として各地を転戦し、南朝方の中核として戦いました。
義貞の戦死後もなお幕府方に抗し続け、やがて四国西国の南朝方大将として桜井地区の国分山城(唐子山城)に入りましたが、興国三年〔1342年〕五月十一日、国分寺(伊予国分寺)で病没しました。
後世の人々はその忠義の精神を偲び、義助の名を今に伝える数々の伝承と墓所を残しました。
その一つが、今治市大西町脇の田園地帯に残る脇屋義助五輪塔です。
静かな田園の中に佇むこの塔は、義助の死を悼んだ人々の祈りの証として今日まで伝えられています。
しかし、今治市にはこの五輪塔以外にも、義助の墓所と伝えられる場所が二か所存在します。
その一つが、国分寺から東へ約五百メートル、山間の静かな一角にある脇屋神社・脇屋義助公廟堂。
もう一つが、同じ大西地区にある脇屋社(わきやしゃ)です。
いずれも義助の霊を祀る場所として古くから地域の人々に敬われてきました。
これら三か所の墓所は、それぞれ似た伝承を持っており、どの地が真の墓所であるのか、あるいは義助の遺骨が分骨されて祀られたのかは定かではありません。
それでも、いずれの地も南北朝の時代を今に伝える貴重な史跡であり、義助の忠義と志がこの地の人々の心の中で静かに息づき続けています。
世田山合戦へと続く動乱の幕開け
脇屋義助が今治の地で眠ることになった背景には、今治市朝倉地区で南北朝時代に繰り広げられた世田山合戦(せたやまかっせん)が深く関わっています。
この合戦は、南北朝の動乱の中で伊予の地が大きく揺れた象徴的な戦いの一つであり、南朝方の大将としてこの地にやって来た脇屋義助の戦いと最期に直結する出来事でした。
しかし、この戦いの背景を理解するためには、さらに時代をさかのぼり、源平の争乱から鎌倉時代、そして南北朝時代へ至る歴史の流れを見ていく必要があります。
ここからは、伊予が歩んだ戦乱の時代の足跡をたどりながら、脇屋義助ゆかりの史跡がどのように生まれ、そして地域の人々の手によってどのように受け継がれてきたのかを紐解いていきます。
河野通信が見た時代の変化
1185年(文治元年)、源氏と平家の最終決戦「壇ノ浦の戦い」で、伊予の豪族・河野通信(こうの みちのぶ)は水軍を率いて源義経と共に参戦し、勝利に貢献しました。
この功績によって、源義経の兄・源頼朝が鎌倉に開いた新政権(鎌倉幕府)から、河野氏は伊予国の統治権を正式に認められました。
さらに通信は、源頼朝の妻・北条政子の妹を正室に迎えるなど、源氏と河野氏の関係は戦功を超えて、血縁関係を含む強固な絆で結ばれることになります。
しかし、鎌倉幕府の内部にはすでに暗雲が立ちこめていました。
義経の華々しい活躍を快く思わなかった兄・頼朝は、なんと義経の鎌倉入りを拒絶し、最終的には追討令まで発します。
義経は各地を逃亡した末、奥州平泉で自害に追い込まれました。
義経の同調者や支持者も厳しく取り締まられ、この中で深い絆を持つ河野通信にも疑惑の目が向けられ、厳しい統制を受けるようになりました。
源頼朝の死後、源氏の家督は頼家、続いて実朝へと引き継がれましたが、将軍の背後では北条氏が着々と実権を掌握していきます。
頼家は頼朝の義兄弟「北条時政(ほうじょう ときまさ)」によって失脚させられ、実朝も暗殺されてしまいました。
こうして、わずか三代で源氏の直系が断絶したことにより、鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることとなりました。
しかし、頼朝以来の古参の御家人たちは、北条氏が執権として実権を掌握し、幕府運営を独占していく姿勢に不満を抱き始めました。
一方で、朝廷側も北条氏が幕府の頂点に立ったことを快く思っておらず、次第に両者の間には緊張が高まっていきました。
そしてついに、1221年(承久3年)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が北条氏打倒を掲げて挙兵。
ここに「承久の乱」が勃発します。
「承久の乱」朝廷 VS 武家
承久の乱は、日本史において初めて朝廷と武家政権が直接衝突した戦いであり、武士が政治の主導権を握るきっかけとなる重要な出来事でした。
1221年(承久3年)、朝廷の威信回復と武家政権に対抗する意志を固めた後鳥羽上皇は、全国の武士や寺社勢力に呼びかけ、幕府に対抗する軍勢を組織して挙兵しました。
しかし、幕府は東国の御家人を動員し、北条義時の指揮のもとで迅速に対応し、圧倒的な戦力で上皇方の軍勢を撃破することに成功し、わずか1か月ほどで京都を制圧しました。
この戦いの結果、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は自ら配流を受けて土佐へと移されました。
さらに、幕府が京都に「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を設置し、朝廷の動向を監視する体制を整えたことで、朝廷は幕府の許可なしに自由に国政を行うことができなくなりました。
幕府と朝廷に分かたれた河野氏
承久の乱で河野通信は、幕府側(北条氏)ではなく朝廷(後鳥羽上皇)側で参戦しました。
これは義経との関係で幕府から不信を持たれたことに対する不満、さらに北条氏が強引に御家人を抑圧し始めたことへの反発が理由だったと考えられます。
また、通信の子である河野通政、通俊、孫の通秀も既に京都で上皇の側近として仕える西面武士となっていたため、通信は家族とともに上皇方に付く選択をしたのです。
一方で、通信のもう一人の子、通久は幕府側に残りました。これは、戦乱の世において河野氏一族が滅亡のリスクを避けるために選んだ生存戦略でした。
元寇と恩賞の不満!揺らぐ鎌倉幕府
承久の乱がすみやかに鎮圧されたことで、幕府の統治体制が確立されたかのように見えました。しかし、その後、御家人たちの不満はますます高まっていきました。
特に、鎌倉幕府の財政が圧迫される中、御家人の経済的困窮が深刻な問題となっていました。
1266年(文永3年)、モンゴル帝国(元)が日本に対して服属を求める使者を送ってきましたが、幕府はこれを拒否しました。
その後、1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)と二度にわたって元軍が襲来し、いわゆる元寇(蒙古襲来)が勃発しました。
この戦いでは、全国の武士が動員され、九州を中心に防衛戦が展開されましたが、日本軍は奇跡的に元軍を撃退することに成功しました。
しかし、元寇は通常の戦争とは異なり、敵の領地を奪うのではなく、本土防衛を目的とした戦いでした。
そのため、戦に勝利しても新たな領地を獲得することができず、戦功を挙げた武士たちに対して十分な恩賞を与えることができませんでした。
戦には、武具の準備、兵糧の確保、馬の調達、家臣への報酬など、多大なコストがかかりました。それにもかかわらず、命懸けで戦った武士たちはそれに見合う見返りが得られなかったのです。
幕府に対する不満が全国で急速に高まっていく中で、内部でも北条氏に抑圧され御家人たちの不満が高まっていきました。
こうした状況の中、鎌倉幕府を打倒しようとする動きが全国に広がりました。
1333年、鎌倉幕府滅亡
そして元弘3年(1333年)に、後醍醐天皇の討幕運動に呼応した足利高氏(後の足利尊氏)・新田義貞らが挙兵し、幕府に対して戦を仕掛けました。
この戦いでは、足利尊氏(あしかがたかうじ ・足利高氏)が京都の六波羅探題を制圧し、新田義貞(にったよしさだ・源義貞)が鎌倉を攻め落としました。
北条高時以下一族は東勝寺で自害し、約150年間続いた武家政権、鎌倉幕府が滅亡しました。
これにより、再び朝廷に権力が戻り、後醍醐天皇による親政が始まりました。
後醍醐天皇が目指した天皇政治
建武元年(1334年)、上皇・法皇の院政や摂政・関白を廃止し、天皇に政治権力を集中させる「建武の新政」を開始しました。
後醍醐天皇は、長らく武士が握っていた政権を再び天皇のもとに取り戻し、公家による統治を復活させることを目指したのです。
この新政では、鎌倉幕府の制度を廃止し、恩賞の決定権を持つ記録所の復活、訴訟を扱う雑訴決断所の設置などを行い、中央集権的な統治を進めました。
また、全国の土地を再分配する方針を打ち出し、公家と武士の両方を統治しようとしました。
「南北朝時代」一つの国に二人の天皇
しかし、この新しい体制は、武士たちの期待を裏切る形になりました。
政治の中心が公家に偏り、武士の立場が軽視されたことで、武士たちの間で朝廷への不信感が広がってしまったのです。
また、鎌倉幕府の討幕に尽力した武士たちは、十分な恩賞を受け取れず、不満を募らせていきました。
こうした中で、討幕の最大の功労者であった足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、武士たちの支持を集めながら独自の勢力を築いていきました。
尊氏は後醍醐天皇を京都から追放し、かわりに光明天皇を擁立すると、暦応元年(1338年)に尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられました。
これによって京都に新たな武家政権「室町幕府」が誕生しました。
こうして、日本は南朝(吉野の後醍醐天皇)と北朝(京都の光明天皇)に分裂し、日本全土を巻き込んだ騒乱の時代「南北朝時代(1336年〜1392年)」へと突入しました。
兄の後を継いだ大将「脇屋義助」
南朝(後醍醐天皇)方についた新田義貞は、総大将として南朝勢力を率いましたが、「藤島の戦い(1338年)」で戦死してしまいました。
脇屋義助は新田義貞の副将として戦ってきた忠臣で、兄の死後も幕府軍に対して徹底抗戦しました。
興国2年(1341年)、義助は美濃国根尾城に籠城して北朝方と戦いましたが、力及ばず敗走。尾張・熱田の大宮司に助けられ、羽豆崎(現・愛知県師崎町)で兵を整えたのち、海路伊勢へ渡り、伊賀を経て吉野の後村上天皇の行宮に参内しました。
翌・興国3年(1342年)、義助は西国方面の南朝軍総大将に任じられると、熊野の海賊衆の協力を得て兵船三百余隻を集め、淡路島の沼島へ渡航。
現地の豪族・梶原二郎や佐々木信胤(塩飽水軍)らの協力を得て、義助は南朝方の勢力を固めました。
塩飽水軍の護送によって伊予国府が置かれていた今張(現・今治)の浦へ到着すると、篠塚重広や甥の大館氏明らとともに四国西国の南朝勢力を掌握し、伊予(今治)を拠点とした活動を本格的に開始しました。
病に倒れた脇屋義助
しかし、着任から間もない興国三年(1342年)五月四日、国府に滞在していた義助は突然病に倒れ、七日間の療養もむなしく、五月十一日に国分寺で息を引き取りました。
享年わずか三十八歳、まさに志半ばでの最期でした。
『太平記』巻二十二には、敵にその死を悟られぬよう「偸ニ葬礼ヲ致(密かに葬儀を行った)」と記されており、盛大な葬儀や立派な墓所は築かれなかったと伝わります。
戦の真っ只中での大将の死は、戦況を左右しかねない事態であり、その情報が漏れることは許されなかったのです。
そのため義助の死は極秘とされ、わずかな家臣と僧侶の手によって静かに弔われたと考えられます。
伊予を襲った大軍勢
しかし、極秘とされたはずの脇屋義助の病死の知らせは、ほどなくして北朝方の武将・細川頼春の耳にも伝わってしまいました。
頼春はこれを千載一遇の好機と見抜き、すぐさま阿波(現・徳島県)と讃岐(現・香川県)から七千の兵を集め、怒涛の勢いで伊予へと侵攻を開始しました。
まず川之江城を攻め落とし、続いて千町ヶ原の戦いで南朝方の軍勢を打ち破ると、その勢いのまま椎ノ木峠を越えて今治方面へ進軍。
そしてついに伊予平野で南朝軍と激突します。
この戦いこそが、後に語り継がれる「世田山合戦(1342年)」です。
「世田山合戦(1342年)」世田山城の激戦
「世田山合戦(1342年)」で両軍にとっての鍵となったのが、要衝・世田山城でした。
この城は「世田山城が落ちれば伊予の国も亡ぶ」とまで言われるほど軍事的に極めて重要であり、南朝方の大館氏明(脇屋義助の甥)が城主を務めていました。
当然のごとく北朝軍は世田山城を最重要目標に掲げ、その猛攻によって世田山城は落城し大館氏明は自害することになりました。
さらに、霊仙山城、行司原城までもが陥落し、伊予の南朝方は勢力を保つことができず、情勢は北朝方に大きく傾いていきました。
南朝方の武将・篠塚重広は最後まで奮戦しましたが、圧倒的な兵力差により追い詰められました。
世田山城の落城を見届けると、兜の内に秘めていた黄金観音像を笠松山の山頂に安置し、未来への祈りを託しました。
その後、重広は城門を開き、名乗りをあげて単身で敵陣に突撃。
敵兵はその迫力に圧倒されて道を開け、重広は堂々と戦場を立ち去ったと伝えられています。
やがて戦乱が静まると、村人たちは笠松山の山頂で黄金の観音像を発見しました。
その輝きと由来に深い感銘を受け、山頂に小さな祠を建てて観音像を丁重に祀りました。
この祠がやがて「笠松観音堂(かさまつかんのんどう)」と呼ばれるようになり、篠塚重広の勇名と祈りを象徴する場所として、今日まで多くの人々の信仰を集めています。
遠く離れた大西に義助の墓が伝わる理由
世田山合戦が終わったのちも、しばらくのあいだ義助のための立派な墓所が築かれることはありませんでした。
しかし、地域の人々は義助の死を悼み、国分寺の近くに埋葬された墓所をひそやかに伝え守り続けたといわれます。
時代を経て、その忠義を顕彰する動きが徐々に高まり、脇屋神社・脇屋義助公廟堂として祀られるようになりました。
では、なぜ義助の最期の地である国分から離れた大西地区にも、墓所と伝えられる場所が存在しているのでしょうか。
その由来は、大西町山之内にある大井寺(おおいじ)にあります。
大井寺の義泰法印と脇屋義助の伝承
この時代、大井寺の義泰法印は南朝方の一僧として、伊予に渡った三人の皇子「尊真(たかざね)親王」「満良(みつなが)親王」「懐良(かねなか)親王」を支える一人でした。
延元元年(1336年)、後醍醐天皇の皇子・尊真親王が伊予に上陸し、河野通政の導きにより大井寺・清林寺・法隆寺(ほうりゅうじ)を仮の宮としました。
その際、北朝方の急襲を受け、大井寺の義泰法印は、成戒法印(清林寺)や成道法印(法隆寺)らとともに、僧兵さながらに奮戦したと伝えられています。
多くの僧や家臣が討死し、大井寺も焼失しましたが、法印たちは最後まで親王を守り抜こうとしました。
伝承によれば、南朝の将軍・義助が国分寺で病に倒れた際、義泰法印はかねてよりの南朝方としての縁から信頼を得ており、看病にあたったとされています。
そして、最期には義助の遺言を託されたとされるほど、深い信頼関係があったと伝えられています。
義助の死後、法印はその遺体を請い受け、人目を避けて夜中に脇の湯の尻(清水谷)へ運び、ひそかに葬ったと伝えられています。
後にその地に小堂を建てて霊を弔い、これが脇屋社の始まりになったとされます。
また、法印は義助の遺骨を別の地に埋葬したともいわれており、その地に建てられたとされるのが「脇屋義助五輪塔(わきやよしすけ ごりんとう)」です。
このように、大井寺に息づく南朝ゆかりの歴史と、義泰法印の献身が、国分から離れた大西の地に義助の墓所が伝えられる由来とされています。
誰の墓?岡部十郎国道との関係
「脇屋義助五輪塔」は、義助の墓所と伝えられる一方で、重茂山城主・岡部十郎国道の墓ではないかという説もあります。
岡部十郎国道は戦国時代、河野家の重臣として伊予国野間の地を治めた武将で、重茂山城を本拠とし、郷土の防衛と民の安寧に尽くした人物です。
坂東武者・岡部氏の一族に連なり、源頼朝に仕えた岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)を祖とする名門の後裔と伝えられます。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐の際、国道は小早川隆景の軍勢と戦いましたが、力尽き降伏したと伝えられています。
国道は日吉神社(ひよしじんじゃ)への崇敬が篤く、天正年間には神像を奉納するなど、野間の信仰と文化に深く関わった人物でもありました。
その忠義と敬神の心は後世に伝えられ、現在では日吉神社の境内に岡部神社として祀られています。
岡部十郎国道の墓は、野間地区にある「野間覚庵五輪塔」と呼ばれる二基の巨大な五輪塔が、岡部十郎夫妻の供養塔として祀られ、地域の人々に大切に守られています。
一方で、岡部十郎の墓ではないかと伝えられている脇屋義助五輪塔も、同じく地域の人々の信仰と敬慕の心によって静かに守り継がれています。
長い歳月の中で、誰の墓であるのかをめぐる確証は失われましたが、この地に生きた人々は、義助や国道に象徴される“忠義の精神”を重ね合わせ、五輪塔を祈りと記憶の象徴として大切に伝えてきました。
今もなお、風にさらされながら佇む石塔は、時代を超えて受け継がれる郷土の歴史と、人々の敬慕の心を静かに語り続けています。



