「渡部神社(わたなべじんじゃ)」は、渡部一族にゆかりのある神社で、約280家の氏族がこの神社を訪れ、祖先の繁栄と一族の発展を祈念しています。
多様な「わたなべ」姓
「渡部」は全国で126位と、比較的一般的な姓です。
全国的には8割以上が「わたなべ」と読み、「わたべ」と読むのは2割以下となっています。しかし、新潟県や福岡県では「わたべ」の方が多く、東京でも半数近くが「わたべ」と読む値となっています。
また、「渡部」のほかに「渡辺」「渡邉」「渡邊「渡那辺」「渡那部」など、同じ「わたなべ」と読む姓は多数存在し、もともと同じ一族に由来するとされています。
特に「渡辺」は現在、日本でもとも人口の多い姓の5位に入っており、約130万人がこの姓を持っていることが分かっています。
嵯峨源氏の末裔「渡辺綱」
これらの姓は、同じ祖先を持つとされ、第52代嵯峨天皇(786年~842年)の血を引く嵯峨源氏の末裔である「渡辺綱(わたなべつな)」の子孫と伝えられています。
渡辺綱(953年~1025年)は、平安時代中期の武将で、源頼光(948年~1021年)に仕え、頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)の筆頭として知られています。特に、鬼退治にまつわる伝説が多く語り継がれており、平安時代の武勇伝の代表格とも言える人物です。
一条戻橋の伝説
渡辺綱にまつわる最も有名な伝説の一つに、京都・一条戻橋(いちじょうもどりばし)での鬼退治の話があります。
ある夜、綱は一人で馬を駆っていたところ、美しい女性と出会います。彼女は「夜道が怖いので、家まで送ってほしい」と頼みました。綱はこれを承諾し、馬に乗せて共に進んでいました。しかし、一条戻橋を渡った瞬間、突然女性の姿が変わり、鬼となって綱を空へと引きずり上げようとしました。
驚いた綱は、とっさに名刀「髭切(鬼切丸)」を抜き、鬼の腕を切り落として難を逃れます。鬼は叫びながら去り、切り落とされた腕だけがその場に残りました。
その後、鬼は策略を巡らせ、綱の伯母に化けて「あなたが倒した鬼の腕を見せてほしい」と綱を騙し、隙を見て腕を奪い返したとされています。この話は、能や歌舞伎でも演じられ、日本の怪談や妖怪伝説の原点とも言える話の一つです。
大江山の鬼退治
もう一つの有名な伝説が、大江山の鬼退治です。
大江山(現在の京都府福知山市・兵庫県丹波篠山市付近)には、酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼の頭領が住んでおり、その一味が京の都を荒らし、姫君を攫うなど悪行を重ねていました。
この鬼を討伐するために、源頼光は四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)を率いて出陣しました。一行は道中で山伏に変装し、大江山の鬼たちの屋敷へ潜入します。そして、鬼たちに毒酒を飲ませて酔わせたところを奇襲し、ついに酒呑童子を討ち取ることに成功しました。
酒呑童子は最期に、「この世で最も恐ろしいものは人間の裏切りである」と言い残して命を落としたと伝えられています。
この大江山の鬼退治の話は、後の時代にも語り継がれ、能・狂言・歌舞伎などでも繰り返し演じられてきました。また、坂田金時は「金太郎」として知られ、童話にも登場するなど、現代にもその影響を残しています。
渡辺綱の出自と「渡辺」姓の由来
渡辺綱は、源融(みなもとのとおる)の曾孫である源宛(みなもとのあつる)の子「源綱(みなもとのつな)」として生まれました。
しかし、父・源宛が亡くなった後、源満仲の娘婿である源敦(みなもとのあつし)の養子となり、母方の縁により、現在の大阪市中央区天満橋付近にあたる摂津国西成郡渡辺津(せっつのくに にしなりごおり わたなべのつ)に移り住みました。
西成郡渡辺は、古代の難波(現在の大阪市周辺)における重要な河港で、「国府の渡し」として知られており、旧淀川(現在の大川)に面したこの渡し場は、人や物資の流通に欠かせない交通の要衝でした。
「渡辺」という地名は、「渡しの辺り」を意味します。この渡し場は、対岸とを結ぶ重要な地点であり、渡し舟を利用する人々で賑わっていました。やがて、この場所を指す言葉が定着し、「渡辺」という地名が生まれたと考えられます。
平安時代、この地に定住した一族が「渡辺」を名乗るようになり、源綱も同じように姓を「渡辺」に改め、「渡辺綱」と改名しました。
「渡辺党」と全国に広がる性
その後、渡辺綱の子孫たちは、摂津国渡辺津を拠点に「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、優れた操船技術を武器に、瀬戸内海の水軍の棟梁として源平合戦では源氏側付き戦いました。
その後、子孫たちは全国各地に広がり、多様な漢字表記の「わたなべ」姓が生まれました。
これは、渡辺氏が嵯峨天皇の子孫である嵯峨源氏の名門であり、この時代も優れた操船技術を持つ一族として、特別視されてきたことが要因の一つだと考えられます。
黒岩城城主「渡部内蔵進」
その中で有名な戦国武将が「渡部内蔵進(わたなべ くらのしん)」です。
渡部内蔵進は、愛媛県今治市菊間町松尾にあった「黒岩城(くろいわじょう)」を拠点にこの地域を統治していました。
黒岩城は、戦国時代の伊予国において要衝の一つであり、標高約250メートルの山の上に築かれた山城で、堅固な守りを誇りました。
しかし、豊臣秀吉が四国征め(1585年)を始めると、豊臣方その圧倒的な戦力の前に、伊予国の諸将は降伏を余儀なくされました。黒岩城も例外ではなく、城は落城し、その後使用されることはなくなりました。
湯之谷山にて社殿を建立
渡部一族のお墓は、菊間町河之内字後山にあり、在住の渡部の一族によって代々祀られ、明治五年(1872年)には、湯之谷山の中腹に移葬し、社殿を建立し、祖霊社「渡部神社」として祭事を継承しました。
現在の「渡部神社」
渡部一族のお墓は、愛媛県今治市菊間町河之内の後山にあり、代々一族によって祀られてきました。
そして明治5年(1872年)には、湯之谷山の中腹に社殿を建立し、祖霊社として「渡部神社」と称して移葬し、祭事が継承されました。
しかし、この社殿は災害によって崩壊してしまいました。
「台風13号」での被害
1993年(平成5年)9月3日、台風13号が鹿児島県薩摩半島南部に上陸し、その後四国・中国地方を通過しました。
この台風は非常に強い勢力で、種子島では最大瞬間風速59.1m/s、宮崎県日之影町では日降水量540mmを記録するなど、各地で暴風や大雨による被害が発生しました。
愛媛県内でも強風や豪雨によって大きな被害があり、渡部神社の社殿もこれによって崩壊してしまったのです。
現在の場所へ移築
その後、一族は再建を決意し、現在の場所に新たな社殿を建立しました。
この際、祖先である源融(みなもとのとおる)、渡辺綱(わたなべ つな)、渡部内蔵進(わたなべ くらのしん)などの御霊を合祀し、祭事を行いました。
これが現在の渡部神社になります。
「三つ星に一文字」
渡部神社では、「三つ星に一文字」(通称:渡辺星)の家紋が神紋として用いられています。
この紋は、オリオン座の中央に位置する三つ星(オリオンのベルト)を表しており、中国ではこれらの星を「将軍星」と呼び、武神として崇拝していました。
そのため、武勇を象徴する家紋として、わたえなべの一族が使用してきたとされています。
失われた町名と残された「渡辺」の名
ちなみに渡辺の一族の始まりの地ともいえる摂津国西成郡渡辺はと言うと、江戸時代になると「渡辺町」と呼ばれるようになり、長くその名を残していました。しかし、昭和63年(1988年)、旧南区・東区の統合に伴い、町名変更の動きが出ました。
この町名変更に対し、全国の渡辺姓の子孫たちが結成した「全国渡辺会」が強く反対し、町名を守るための運動を展開しました。最終的に大阪市は折衷案を採用し、町名こそ消えたものの、大阪市中央区久太郎町四丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すという形で決着しました。
そして現座この場所には天正11年(1583年)の豊臣秀吉の大坂城築城に伴い、移築された「坐摩神社(いかすりじんじゃ)」が鎮座しています。
また、代々宮司を務めるのは渡辺綱の子孫である渡辺家が担っており、渡辺姓との強い結びつきを現在に至るまで継承しています。