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八千矛神社(今治市・来島)

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「八千矛神社(やちほこじんじゃ)」は、かつて来島村上氏が難攻不落の水城「来島城」を築き、海上統治の拠点とした来島(くるしま)に鎮座する神社です。

この島は、今治市の沖合わずか240メートル、来島海峡の激しい潮流に浮かぶ、周囲約850メートルの小さな島。瀬戸内海の交通の要衝に位置し、古来より戦略的にも信仰的にも特別な意味を持つ「神の島」として崇められてきました。

「二柱の主祭神 」 国を創り、国を治めた神々

八千矛神社には、二柱の主祭神が並び祀られています。

それが、大己貴命(おおなむちのみこと)と、日本磐余彦命(やまといわれひこのみこと)です。

大己貴命

大己貴命(おおなむちのみこと)は、日本神話において国づくりを担った重要な神であり、「大国主神(おおくにぬしのかみ)」としても広く知られています。

神話によれば、まだ国のかたちが整っていなかった古代の時代、大己貴命は少彦名命(すくなひこなのみこと)とともに国土を整え、人々が暮らせる豊かな世を築いたと伝えられています。

このような神話にもとづき、大己貴命は農業や医療、商業、さらには縁結びに至るまで、暮らしのあらゆる面にご利益をもたらす「人々の守り神」として、全国の神社で深く信仰されてきました。

そんな大己貴命には、もうひとつの名前があります。

それが「八千矛神(やちほこのかみ)」です。

この呼び名は、『古事記』に登場する求婚の神話、北陸の姫・沼河比売(ぬなかわひめ)との物語の中に見られます

「八千」は“数多(あまた)”を、「矛(ほこ)」は“武器”という意味で、「多くの武器を携えた武の神」という意味が込められています。

つまり、大己貴命はただ優しく国をつくる神であるだけでなく、いざというときには力をもって人々を守る、たくましい神様でもあるのです。

八千矛神社も、これに由来しています。

とくに海上交通の要衝であり、戦乱とも無縁ではなかった来島という場所において、大己貴命は、災いを祓い、敵を退ける強き守護神として、荒ぶる魂「荒魂(あらみたま)」の姿で厚く信仰されてきました。

日本磐余彦命皇

一方、日本磐余彦命(やまといわれひこのみこと)は、のちに神武天皇として即位する、日本初代天皇とされる人物です。

『古事記』や『日本書紀』によれば、神武天皇は日向(現在の宮崎県)を出発し、瀬戸内海を経て大和の地に進軍。各地の勢力と戦いながら、最終的には国家を治める初代天皇として、大和の地に即位したと伝えられています。

この「神武東征」と呼ばれる神話において、神武天皇は陸路だけでなく、水軍を率いて瀬戸内海を航行したことが記されています。

宇和海、豊後水道、安芸灘などを経由しながら進軍したという記述があり、とりわけ『日本書紀』には、「大伴部を水軍にして進軍せり」と明記され、海からの征服という戦略的な動きが強調されています。

このことから、神武天皇はまさに「海を越えて国を開いた王」とされ、航海・制海・国家統一を成し遂げた存在として、日本における海の王権を象徴する神格を持つ人物と見ることができます。

そんなしん神武天皇が、来島という瀬戸内の要衝に祀られていることは、単なる天皇家の祖神という意味を超えて、水軍の守護、海での絶対的な影響力、そして正統な統治者としての権威付けの意味合いをもっていたと考えられます。

「神の島」二柱の神をともに祀る意義

大己貴命と日本磐余彦命の二柱が並び祀られていることには、深い意味があるのではないでしょうか?

  • 大己貴命は、国土を築き、人々の暮らしを整えた「国を創った神」。
  • 日本磐余彦命は、海を越えて東征を果たし、国を治めた「国を統べた神」。

この二柱がともに祀られる来島は、まさに神々が交わり、国のはじまりと広がりが交差する場所「神の島」としての意味が、そこに息づいているように思えます。

実際、来島は古くから神聖な島として大切にされてきました。

島内では犬や猫など四足の動物を忌み、獅子舞も行われず、墓地を設けることも禁じられていました。
死者の埋葬はすべて、対岸の大浦で行われていたと伝えられています。

また、「黙って矢を切ると腹が痛くなる」といった言い伝えも残されており、来島城が難攻不落とされたのも、優れた築城技術に加え、神の加護があったからだと信じられていたそうです。

【創建①】1186年 河野通助の築城と八千矛神社の始まり

八千矛神社の創建については、いくつかの伝承が語り継がれています。

そのひとつが、文治2年(1186年)、伊予国を治めていた河野家の当主・河野通助(こうの みちすけ)と、その子である頼久(よりひさ)の父子が、箱潟の島に城を築いた際に、その守護神として八千矛神社を奉祀(ほうし)したという説です。

箱潟の島=来島

この「箱潟の島」は、来島(くるしま)を指すと考えられます。

江戸時代の地誌『伊予国野間郡波止浜開発略記』には、「来島の南方に当たり浅き大湾あり、箱潟と称す」と記されており、来島周辺にはかつて浅瀬や干潟を多く含む広大な湾=箱潟が広がっていたことがわかります。

実際、この箱潟の西岸にあたる波止浜(はしはま)では、江戸時代以降に広大な塩田の開発が進められ、地域経済を支える重要な柱となりました。

箱潟に面したこの地域は、波が静かで日照時間も長く、潮の干満が安定しているという自然条件に恵まれていたため、天日塩の製造に理想的な環境だったのです。

来島はその湾内にぽつんと浮かぶ島であり、地形的にも“箱潟の中の島”であったことから、「箱潟の島」と表現されたと考えられます。

河野家の当主・河野通助

河野通助(こうの みちすけ)は、古代伊予の豪族・越智氏の流れを汲む河野氏の一族であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将です

平安末期、日本は源氏と平氏が覇を競う動乱の時代に突入していました。

伊予国内では、東部を中心に新居氏(にいし)という平氏と親密な関係をもつ一族が勢力を広げており、これに対抗する形で、河野氏は源氏方に味方しました。

養和元年(1181年)、平家方の侵攻により、通助の父・河野通清が籠もる高縄城(現在の松山市周辺)が攻め落とされ、通清は戦死します

しかし、四年後の寿永4年(1185年)、通清の子である河野通信(みちのぶ)が一族を率いて源義経と共に出陣。屋島の戦いや壇ノ浦の合戦において水軍の先鋒を担い、源氏方の勝利に大きく貢献しました。

伝承によれば、まさにこの戦乱の年、河野通助が来島に築城し、その守護神として「八千矛神(やちほこのかみ)」を奉じたとされています。

この奉斎は、単なる信仰儀礼にとどまらず、軍事・政治・信仰を結びつけた統治基盤を築くための象徴的な行為であったと考えられます。

来島村上の祖「頼久」

河野通助の子・頼久(よりひさ)は、伊予の名門・河野氏の血を引きながら、やがて瀬戸内海に勢力を張る「海賊衆」との関係を深めた人物として伝えられています。

当時、伊予から瀬戸内一帯の海域では、「海賊衆(かいぞくしゅう)」と呼ばれる武士団が、海を舞台に独自の軍事勢力を築いていました。その中でも特に強い影響力を誇ったのが、のちに村上水軍と呼ばれる村上氏でした。

村上氏の祖とされる村上定国(さだくに)は、保元の乱(1156年)後に瀬戸内へ進出し、淡路島を経て讃岐の塩飽諸島に居住。

しかし、平治の乱(1159年)を経て平家が海上統治を強化すると、定国はさらに西へと移動し、永暦元年(1160年)に伊予の越智大島(現在の今治市大島)に拠点を移しました。

この移住の背景には、定国の祖父・村上仲宗と、河野氏の当主であった河野親経(ちかつね)とのあいだにあった古くからの協力関係があり、これが村上氏の伊予進出を後押ししたと考えられています。

それを裏づけるように、定国の嫡子・村上清長(きよなが)は河野氏の家臣となり、大島の亀老山山頂に隈ヶ嶽城(くまがだけじょう)を築いて、水軍としての基盤を固めていきました。

その子・村上頼冬(むらかみ よりふゆ)もまた河野家に仕え、源平合戦では源氏方として数々の武功をあげたと伝えられています。しかし、頼冬には実子がなかったため、後継者の確保が課題となりました。

そこで河野通助の子・頼久が養子として迎えられたとされ、頼久は「村上左衛門太夫頼久(のちに日向守)」と名乗りました。こうして、河野氏と村上氏は血縁的にも結ばれることになったのです。

この系譜は、頼泰(よりやす)→ 頼員(よりかず)→ 義弘(よしひろ)と続き、やがて一族は来島村上氏と称し、来島城を拠点に瀬戸内海にその名を轟かせる水軍勢力へと成長していきました。

そんな頼冬が来島の八千矛神社の創建に関わっていると考えると、考え深いものがあります。

信憑性と史料上の課題

一方で、頼久の存在や活躍に関する記述の多くは、後世の軍記物や家譜資料に基づくものであり、その実在を裏づける同時代の一次史料は確認されていません。

たとえば、『予陽河野家譜』には、承久の乱(1221年)の際、頼久が河野通信とともに高縄山城に拠って幕府軍と戦ったという記述がありますが、それを証明する記録は現存していません。

また、『予章記』には、「天慶の乱のころ、村上と名乗る者が新居大島に流嫡され、年久しく住んだ」との記述も見られますが、これが頼久を指しているのか、別の系統を示しているのかは明らかではありません。

さらに、頼久やその子孫たちが中世前期に活動した系譜は、後の「村上海賊御三家(能島・因島・来島)」とは区別される場合もあり、研究者の間では彼らを「前期村上氏」と呼ぶことがあります。

これに対し、室町時代以降に確かな史料に登場する村上氏を「後期村上氏」として整理する見方もあります。

とはいえ、頼久が来島に城を築き、神を祀り、河野氏と村上氏を結びつけた象徴的な人物として後世に語り継がれていることは、瀬戸内海の信仰と海上統治のはじまりを理解するうえで、欠かせない要素であることに変わりありません。

【創建②】1419年〜

もう一つの説として、時代が進み湯築城の河野氏が来島城の守り神として八千矛神社を建立したとも伝えられています。

この説では最初の説と時系列がかわってきます。

湯築城は建武年間(1334~1338年)、河野通盛によって築かれ、来島城は応永26年(1419年)、村上吉房によって築城されました。

来島城築城と河野氏の関係性からたどります。

海の道と瀬戸内の海賊衆

中世の瀬戸内海は、日本と中国・朝鮮半島を結ぶ重要な海上交通路であり、経済・文化・外交・軍事すべてを支える「海の道」でした。

この海域を行き交うのは交易船だけでなく、遣明船や武家の軍船も含まれており、海を制する者が地域の安全と繁栄を握る時代でもありました。

この重要な海域で早くから影響力を持っていたのが、伊予(現在の愛媛県)を本拠とする海賊衆で、村上家はその中でも特に大きな力をもっていました。

「村上御三家」

応永26年(1419年)、村上家は能島村上氏(現在の今治市宮窪町)、因島村上氏(広島県尾道市)、そして来島村上氏(今治市)の三家に分かれました。

来島では、村上義顕の三男・吉房(よしふさ)が来島に渡って分家し、来島村上氏を称して来島城を築きました。

「来島城」島そのものが城郭

来島城は、来島全体を要塞化したもので、南北約220メートル・東西約40メートルの範囲に広がり、最北部に本丸、続いて二ノ丸・三ノ丸が南へと続く梯郭式の中世城郭でした。

島中央には来島氏の居館が構えられ、東南部には出城も築かれました。さらに、岩礁には船を係留するための桟橋の柱穴が今も残っています。

来島城を守った海の防壁“潮”

来島海峡の潮流は、最大で時速約18km(10ノット)にも達するなど、非常に速く複雑に変化し、鳴門海峡、関門海峡とともに「日本三大急潮流」のひとつとして知られている。

多くの海城の岩礁には、高低差のある潮の満ち引きに影響されず、いつでも船が係留できるように、陸から海に
向かって柱が立ち並んでいた。

村上水軍はその潮流の動きを知り尽くし、この海域で無敵の強さを誇っていました。

来島城は、この激しい潮流に守られた天然の要害であり、まさに普通の城でいう内堀・外堀の役目を果たしていた。対岸の大浦からは約300メートル離れており、弓矢や旧式の鉄砲では弾丸すら届かない。

たとえ船で攻め入ろうとしても、潮流を知り尽くし、荒れ狂う海で鍛えられた来島水軍の操船術には、誰ひとり敵わなかったという。

来島村上氏と河野氏「海の家臣」としての絆

この時代、伊予国(現在の愛媛県)を統治していたのが、河野氏(こうのし)です。

河野氏は鎌倉時代から南北朝・室町時代を通じて、伊予の守護大名として長く君臨し、瀬戸内海交通の要衝を掌握する上で、水軍の力を不可欠なものとしてきました。

その中でも特に重用されたのが、村上水軍の一派である来島村上氏です。来島村上氏は河野氏の被官(家臣)として、海上警護や通行の管理、さらには軍事行動にも従事し、陸と海から河野政権を支える重要な戦力とされていました。

“運命共同体”としての結びつき

河野氏の本拠・湯築城(現・松山市)から見て、来島は芸予諸島のちょうど中央に位置し、東西・南北の航路をにらむ要地でした。

この戦略的な島を本拠地とした来島村上氏は、能島・因島と並ぶ村上海賊御三家の一角を占める中でも、とりわけ河野氏に最も近い立場にあり、河野水軍の中心戦力でもありました。

河野通直や通宣といった河野当主が大内氏・細川氏・毛利氏などと争った際にも、来島水軍が海上輸送・兵站・直接戦闘などで大きな働きを見せた記録が残っています。

こうした軍事・政治の両面で密接な関係を築く中で、来島村上氏の存在感は次第に高まり、やがて河野家の後継問題にも深く関わるようになります。

「天文の内訌(伊予の乱)」

天文11年(1542年)、河野通直は男子の跡継ぎに恵まれなかったことから、娘婿である村上通康を後継者としようとしました。

しかしこの決定は、河野家の重臣団や、予州家の当主・通存(みちまさ/河野通春の孫)との間に深刻な家督争いを引き起こし、「天文の内訌(伊予の乱)」と呼ばれる騒乱に発展しました。

このとき、通康は主君・河野通直を来島城に迎え入れ、反対勢力に対して徹底抗戦を展開。堅固な防備と来島水軍の力により、城はついに落とされることはありませんでした。

後継者としての地位は得られなかったものの、来島村上氏はこの一件を通じて河野氏との結びつきを一層強め、河野一族の家紋「折敷に揺れ三文字」の使用と、祖先・越智姓を名乗ることを許されたと伝えられています。

来島城の守り神「八千矛神社」

来島村上氏はその後、来島城を拠点に6代・約160年にわたり日本中にその名をとどろかせました。

その存在は、単なる従属ではなく、伊予の安定と瀬戸内海の秩序維持を共に担う、まさに“運命共同体”とも言うべき関係にあったといえるでしょう。

こうした深い信頼関係のなか、河野氏が来島城の守り神として「八千矛神社(やちほこじんじゃ)」を奉斎したことも、来島村上氏への厚い信頼と、特別な絆を象徴する出来事だったのかもしれません。

裏切りと再起、そして終焉へ…村上水軍最後の航路

しかし、戦乱の時代の中で河野氏の力は次第に衰え、来島村上氏と河野氏の蜜月ともいえる関係も突如として終わりを迎えることとなります。

「戦国の決断」忠義を捨て、生を選ぶ

天正十年(1582年)、来島村上氏は秀吉の勧誘を受け、織田信長側につき、かつての主君である河野氏を攻撃し始めました。この反逆には河野氏だけでなく、毛利家も強く反応しました。

毛利家は、瀬戸内の海上勢力を維持するために村上水軍の協力を必要としており、来島村上氏の寝返りは、その体制を大きく揺るがす事態だったのです。

そのため、毛利氏は河野氏とともに直ちに来島村上氏への攻撃を開始しました。毛利水軍は、能島村上氏や因島村上氏の協力を得ており、来島村上氏はこれまで仲間であった水軍すら敵に回すことになりました。

瀬戸内海における制海権は完全に失い、さらに河野軍からの攻撃によって、来島村上氏は滅亡寸前にまで追い込まれていきます。

この危機的状況の中で、当主・来島通総(くるしま みちふさ)は、拠点を放棄して毛利・河野の包囲を突破し、瀬戸内海を南下して豊臣秀吉のもとへ逃れました。

そしてこの決断が、来島村上氏の命運を大きく左右することとなります。

天正13年(1585年)、本能寺の変後の秀吉は、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを指揮官とする大軍を四国に派遣。来島村上氏も水軍としてこの戦いに参戦し、瀬戸内海での豊臣軍の補給や上陸作戦を支援しました。

この戦で、長きに渡り伊予を統治していた河野氏は滅亡し、四国は豊臣政権の勢力下に入りました。

秀吉が海賊行為を禁じたことで「能島村上氏」「因島村上氏」は大きく弱体化しましたが、秀吉側についた来島村上氏は例外的に、伊予の大名としてその存続を許されました。

村上水軍の終焉

豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成の対立が深まり、1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いに突入します。

来島村上氏は、豊臣家への恩義から西軍に与して参戦しました。しかし、戦いは東軍(徳川家康側)の勝利に終わり、所領を没収され、大名としての地位を失うこととなりました。

とはいえ、当主・村上通総(みちふさ)の妻の伯父にあたる福島正則のとりなしにより、慶長6年(1601年)、豊後国(現在の大分県)玖珠郡・日田郡・速見郡の三郡からなる森藩一万四千石を与えられ、なんとかお家のかたちは保たれることとなります。

しかし、その新たな領地は、大分湾の頭成港をわずかに飛び地として含んではいたものの、大半は山深い内陸部。かつてのように、海を駆け、潮を読み、瀬戸内の波を自在に越えていた日々は、もう戻ってきませんでした。

海とともに栄え、瀬戸内海から日本各地にその名を轟かせた村上水軍…。

その誇り高き歴史は、こうして静かに幕を下ろすこととなったのです。

戦の記憶とともに…八千矛神社が見守る来島のいま

来島では、城主を失った多くの家臣たちが漁民となり、やがてこの島は軍事の拠点から、海に生きる人々の島へと姿を変えていきました。

かつては武具と船が並んでいた入り江には、やがて漁網と干した魚が干されるようになり、帆を張った軍船の代わりに、漁に出る小舟が静かに海に漕ぎ出す風景が日常となっていきます。

戦を支えた者たちは、今度は魚を獲り、潮を読み、季節の移ろいに耳を澄ませながら、家族とともに静かな暮らしを営むようになりました。

来島は、目の前に広がる来島海峡の好漁場に恵まれ、多くの漁師たちでにぎわいました。かつては人口も70人を超え、小中学校も島内に設けられていました。

しかし時代の流れとともに少子高齢化が進み、学校は閉鎖され、今では数えるほどの人々が静かに暮らす島となりました。

それでもなお、八千矛神社は島の人々に篤く信仰され続けています。 

かつては海の戦を見守り、今は漁の安全と暮らしの平穏を願いながら、神々のまなざしとともに、この島に生きる人々の心に寄り添い続けているのです。

神社名

八千矛神社(やちほこじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市来島字東側571番地

電話

0898-41-9599

主な祭礼

例祭(5月13日)

主祭神

大己貴命・日本磐余彦命

境内社

御先神社・美保神社

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