「八千矛神社(やちほこじんじゃ)」は、かつて来島村上氏が難攻不落の水城「来島城」を築き、海上統治の拠点とした来島(くるしま)に鎮座する神社です。
この島は、今治市の沖合わずか240メートル、来島海峡の激しい潮流に浮かぶ、周囲約850メートルの小さな島。瀬戸内海の交通の要衝に位置し、古来より戦略的にも信仰的にも特別な意味を持つ「神の島」として崇められてきました。
「二柱の主祭神 」 国を創り、国を治めた神々
八千矛神社には、二柱の主祭神が並び祀られています。
それが、大己貴命(おおなむちのみこと)と、日本磐余彦命(やまといわれひこのみこと)です。
大己貴命
大己貴命(おおなむちのみこと)は、日本神話において国づくりを担った重要な神であり、「大国主神(おおくにぬしのかみ)」としても広く知られています。
神話によれば、まだ国のかたちが整っていなかった古代の時代、大己貴命は少彦名命(すくなひこなのみこと)とともに国土を整え、人々が暮らせる豊かな世を築いたと伝えられています。
このような神話にもとづき、大己貴命は農業や医療、商業、さらには縁結びに至るまで、暮らしのあらゆる面にご利益をもたらす「人々の守り神」として、全国の神社で深く信仰されてきました。
そんな大己貴命には、もうひとつの名前があります。
それが「八千矛神(やちほこのかみ)」です。
この呼び名は、『古事記』に登場する求婚の神話、北陸の姫・沼河比売(ぬなかわひめ)との物語の中に見られます
「八千」は“数多(あまた)”を、「矛(ほこ)」は“武器”という意味で、「多くの武器を携えた武の神」という意味が込められています。
つまり、大己貴命はただ優しく国をつくる神であるだけでなく、いざというときには力をもって人々を守る、たくましい神様でもあるのです。
八千矛神社も、これに由来しています。
とくに海上交通の要衝であり、戦乱とも無縁ではなかった来島という場所において、大己貴命は、災いを祓い、敵を退ける強き守護神として、荒ぶる魂「荒魂(あらみたま)」の姿で厚く信仰されてきました。
日本磐余彦命皇
一方、日本磐余彦命(やまといわれひこのみこと)は、のちに神武天皇として即位する、日本初代天皇とされる人物です。
『古事記』や『日本書紀』によれば、神武天皇は日向(現在の宮崎県)を出発し、瀬戸内海を経て大和の地に進軍。各地の勢力と戦いながら、最終的には国家を治める初代天皇として、大和の地に即位したと伝えられています。
この「神武東征」と呼ばれる神話において、神武天皇は陸路だけでなく、水軍を率いて瀬戸内海を航行したことが記されています。
宇和海、豊後水道、安芸灘などを経由しながら進軍したという記述があり、とりわけ『日本書紀』には、「大伴部を水軍にして進軍せり」と明記され、海からの征服という戦略的な動きが強調されています。
このことから、神武天皇はまさに「海を越えて国を開いた王」とされ、航海・制海・国家統一を成し遂げた存在として、日本における海の王権を象徴する神格を持つ人物と見ることができます。
そんなしん神武天皇が、来島という瀬戸内の要衝に祀られていることは、単なる天皇家の祖神という意味を超えて、水軍の守護、海での絶対的な影響力、そして正統な統治者としての権威付けの意味合いをもっていたと考えられます。
「神の島」二柱の神をともに祀る意義
大己貴命と日本磐余彦命の二柱が並び祀られていることには、深い意味があるのではないでしょうか?
- 大己貴命は、国土を築き、人々の暮らしを整えた「国を創った神」。
- 日本磐余彦命は、海を越えて東征を果たし、国を治めた「国を統べた神」。
この二柱がともに祀られる来島は、まさに神々が交わり、国のはじまりと広がりが交差する場所「神の島」としての意味が、そこに息づいているように思えます。
実際、来島は古くから神聖な島として大切にされてきました。
島内では犬や猫など四足の動物を忌み、獅子舞も行われず、墓地を設けることも禁じられていました。
死者の埋葬はすべて、対岸の大浦で行われていたと伝えられています。
また、「黙って矢を切ると腹が痛くなる」といった言い伝えも残されており、来島城が難攻不落とされたのも、優れた築城技術に加え、神の加護があったからだと信じられていたそうです。
【創建①】1186年 河野通助の築城と八千矛神社の始まり
八千矛神社の創建については、いくつかの伝承が語り継がれています。
そのひとつが、文治2年(1186年)、伊予国を治めていた河野家の当主・河野通助(こうの みちすけ)と、その子である頼久(よりひさ)の父子が、箱潟の島に城を築いた際に、その守護神として八千矛神社を奉祀(ほうし)したという説です。
箱潟の島=来島
この「箱潟の島」は、来島(くるしま)を指すと考えられます。
江戸時代の地誌『伊予国野間郡波止浜開発略記』には、「来島の南方に当たり浅き大湾あり、箱潟と称す」と記されており、来島周辺にはかつて浅瀬や干潟を多く含む広大な湾=箱潟が広がっていたことがわかります。
実際、この箱潟の西岸にあたる波止浜(はしはま)では、江戸時代以降に広大な塩田の開発が進められ、地域経済を支える重要な柱となりました。
箱潟に面したこの地域は、波が静かで日照時間も長く、潮の干満が安定しているという自然条件に恵まれていたため、天日塩の製造に理想的な環境だったのです。
来島はその湾内にぽつんと浮かぶ島であり、地形的にも“箱潟の中の島”であったことから、「箱潟の島」と表現されたと考えられます。
河野家の当主・河野通助
河野通助(こうの みちすけ)は、古代伊予の豪族・越智氏の流れを汲む河野氏の一族であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将です
平安末期、日本は源氏と平氏が覇を競う動乱の時代に突入していました。
伊予国内では、東部を中心に新居氏(にいし)という平氏と親密な関係をもつ一族が勢力を広げており、これに対抗する形で、河野氏は源氏方に味方しました。
養和元年(1181年)、平家方の侵攻により、通助の父・河野通清が籠もる高縄城(現在の松山市周辺)が攻め落とされ、通清は戦死します
しかし、四年後の寿永4年(1185年)、通清の子である河野通信(みちのぶ)が一族を率いて源義経と共に出陣。屋島の戦いや壇ノ浦の合戦において水軍の先鋒を担い、源氏方の勝利に大きく貢献しました。
伝承によれば、まさにこの戦乱の年、河野通助が来島に築城し、その守護神として「八千矛神(やちほこのかみ)」を奉じたとされています。
この奉斎は、単なる信仰儀礼にとどまらず、軍事・政治・信仰を結びつけた統治基盤を築くための象徴的な行為であったと考えられます。
来島村上の祖「頼久」
河野通助の子・頼久(よりひさ)は、伊予の名門・河野氏の血を引きながら、やがて瀬戸内海に勢力を張る「海賊衆」との関係を深めた人物として伝えられています。
当時、伊予から瀬戸内一帯の海域では、「海賊衆(かいぞくしゅう)」と呼ばれる武士団が、海を舞台に独自の軍事勢力を築いていました。その中でも特に強い影響力を誇ったのが、のちに村上水軍と呼ばれる村上氏でした。
村上氏の祖とされる村上定国(さだくに)は、保元の乱(1156年)後に瀬戸内へ進出し、淡路島を経て讃岐の塩飽諸島に居住。
しかし、平治の乱(1159年)を経て平家が海上統治を強化すると、定国はさらに西へと移動し、永暦元年(1160年)に伊予の越智大島(現在の今治市大島)に拠点を移しました。
この移住の背景には、定国の祖父・村上仲宗と、河野氏の当主であった河野親経(ちかつね)とのあいだにあった古くからの協力関係があり、これが村上氏の伊予進出を後押ししたと考えられています。
それを裏づけるように、定国の嫡子・村上清長(きよなが)は河野氏の家臣となり、大島の亀老山山頂に隈ヶ嶽城(くまがだけじょう)を築いて、水軍としての基盤を固めていきました。
その子・村上頼冬(むらかみ よりふゆ)もまた河野家に仕え、源平合戦では源氏方として数々の武功をあげたと伝えられています。しかし、頼冬には実子がなかったため、後継者の確保が課題となりました。
そこで河野通助の子・頼久が養子として迎えられたとされ、頼久は「村上左衛門太夫頼久(のちに日向守)」と名乗りました。こうして、河野氏と村上氏は血縁的にも結ばれることになったのです。
この系譜は、頼泰(よりやす)→ 頼員(よりかず)→ 義弘(よしひろ)と続き、やがて一族は来島村上氏と称し、来島城を拠点に瀬戸内海にその名を轟かせる水軍勢力へと成長していきました。
そんな頼冬が来島の八千矛神社の創建に関わっていると考えると、考え深いものがあります。
信憑性と史料上の課題
一方で、頼久の存在や活躍に関する記述の多くは、後世の軍記物や家譜資料に基づくものであり、その実在を裏づける同時代の一次史料は確認されていません。
たとえば、『予陽河野家譜』には、承久の乱(1221年)の際、頼久が河野通信とともに高縄山城に拠って幕府軍と戦ったという記述がありますが、それを証明する記録は現存していません。
また、『予章記』には、「天慶の乱のころ、村上と名乗る者が新居大島に流嫡され、年久しく住んだ」との記述も見られますが、これが頼久を指しているのか、別の系統を示しているのかは明らかではありません。
さらに、頼久やその子孫たちが中世前期に活動した系譜は、後の「村上海賊御三家(能島・因島・来島)」とは区別される場合もあり、研究者の間では彼らを「前期村上氏」と呼ぶことがあります。
これに対し、室町時代以降に確かな史料に登場する村上氏を「後期村上氏」として整理する見方もあります。
とはいえ、頼久が来島に城を築き、神を祀り、河野氏と村上氏を結びつけた象徴的な人物として後世に語り継がれていることは、瀬戸内海の信仰と海上統治のはじまりを理解するうえで、欠かせない要素であることに変わりありません。
【創建②】1419年〜
もう一つの説として、時代が進み湯築城の河野氏が来島城の守り神として八千矛神社を建立したとも伝えられています。
この説では最初の説と時系列がかわってきます。
湯築城は建武年間(1334~1338年)、河野通盛によって築かれ、来島城は応永26年(1419年)、村上吉房によって築城されました。
来島城築城と河野氏の関係性からたどります。
海の道と瀬戸内の海賊衆
中世の瀬戸内海は、日本と中国・朝鮮半島を結ぶ重要な海上交通路であり、経済・文化・外交・軍事すべてを支える「海の道」でした。
この海域を行き交うのは交易船だけでなく、遣明船や武家の軍船も含まれており、海を制する者が地域の安全と繁栄を握る時代でもありました。
この重要な海域で早くから影響力を持っていたのが、伊予(現在の愛媛県)を本拠とする海賊衆で、村上家はその中でも特に大きな力をもっていました。
「村上御三家」
応永26年(1419年)、村上家は能島村上氏(現在の今治市宮窪町)、因島村上氏(広島県尾道市)、そして来島村上氏(今治市)の三家に分かれました。
来島では、村上義顕の三男・吉房(よしふさ)が来島に渡って分家し、来島村上氏を称して来島城を築きました。
「来島城」島そのものが城郭
来島城は、来島全体を要塞化したもので、南北約220メートル・東西約40メートルの範囲に広がり、最北部に本丸、続いて二ノ丸・三ノ丸が南へと続く梯郭式の中世城郭でした。
島中央には来島氏の居館が構えられ、東南部には出城も築かれました。さらに、岩礁には船を係留するための桟橋の柱穴が今も残っています。
来島城を守った海の防壁“潮”
来島海峡の潮流は、最大で時速約18km(10ノット)にも達するなど、非常に速く複雑に変化し、鳴門海峡、関門海峡とともに「日本三大急潮流」のひとつとして知られている。
多くの海城の岩礁には、高低差のある潮の満ち引きに影響されず、いつでも船が係留できるように、陸から海に
向かって柱が立ち並んでいた。
村上水軍はその潮流の動きを知り尽くし、この海域で無敵の強さを誇っていました。
来島城は、この激しい潮流に守られた天然の要害であり、まさに普通の城でいう内堀・外堀の役目を果たしていた。対岸の大浦からは約300メートル離れており、弓矢や旧式の鉄砲では弾丸すら届かない。
たとえ船で攻め入ろうとしても、潮流を知り尽くし、荒れ狂う海で鍛えられた来島水軍の操船術には、誰ひとり敵わなかったという。
来島村上氏と河野氏「海の家臣」としての絆
この時代、伊予国(現在の愛媛県)を統治していたのが、河野氏(こうのし)です。
河野氏は鎌倉時代から南北朝・室町時代を通じて、伊予の守護大名として長く君臨し、瀬戸内海交通の要衝を掌握する上で、水軍の力を不可欠なものとしてきました。
その中でも特に重用されたのが、村上水軍の一派である来島村上氏です。来島村上氏は河野氏の被官(家臣)として、海上警護や通行の管理、さらには軍事行動にも従事し、陸と海から河野政権を支える重要な戦力とされていました。
“運命共同体”としての結びつき
河野氏の本拠・湯築城(現・松山市)から見て、来島は芸予諸島のちょうど中央に位置し、東西・南北の航路をにらむ要地でした。
この戦略的な島を本拠地とした来島村上氏は、能島・因島と並ぶ村上海賊御三家の一角を占める中でも、とりわけ河野氏に最も近い立場にあり、河野水軍の中心戦力でもありました。
河野通直や通宣といった河野当主が大内氏・細川氏・毛利氏などと争った際にも、来島水軍が海上輸送・兵站・直接戦闘などで大きな働きを見せた記録が残っています。
こうした軍事・政治の両面で密接な関係を築く中で、来島村上氏の存在感は次第に高まり、やがて河野家の後継問題にも深く関わるようになります。
「天文の内訌(伊予の乱)」
天文11年(1542年)、河野通直は男子の跡継ぎに恵まれなかったことから、娘婿である村上通康を後継者としようとしました。
しかしこの決定は、河野家の重臣団や、予州家の当主・通存(みちまさ/河野通春の孫)との間に深刻な家督争いを引き起こし、「天文の内訌(伊予の乱)」と呼ばれる騒乱に発展しました。
このとき、通康は主君・河野通直を来島城に迎え入れ、反対勢力に対して徹底抗戦を展開。堅固な防備と来島水軍の力により、城はついに落とされることはありませんでした。
後継者としての地位は得られなかったものの、来島村上氏はこの一件を通じて河野氏との結びつきを一層強め、河野一族の家紋「折敷に揺れ三文字」の使用と、祖先・越智姓を名乗ることを許されたと伝えられています。
来島城の守り神「八千矛神社」
来島村上氏はその後、来島城を拠点に6代・約160年にわたり日本中にその名をとどろかせました。
その存在は、単なる従属ではなく、伊予の安定と瀬戸内海の秩序維持を共に担う、まさに“運命共同体”とも言うべき関係にあったといえるでしょう。
こうした深い信頼関係のなか、河野氏が来島城の守り神として「八千矛神社(やちほこじんじゃ)」を奉斎したことも、来島村上氏への厚い信頼と、特別な絆を象徴する出来事だったのかもしれません。
裏切りと再起、村上水軍の最期
しかし、戦乱の時代の中で河野氏の力は次第に衰え、来島村上氏と河野氏の蜜月ともいえる関係も突如として終わりを迎えることとなります。
「信長の四国攻め」毛利氏と支援を失った河野氏
天正5年(1577年)、織田信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を中国地方遠征軍の総大将に任命し、中国地方の覇者である毛利元就(もうり もとなり)に圧力をかけ始めました。
当時の毛利氏は広範な勢力を誇っており、伊予の河野氏と同盟を結んで四国でも戦っていました。
この頃の河野氏は、四国統一を目指す土佐の長宗我部元親(ながそかべ もとちか)と戦いを繰り広げていました。
河野氏はこの毛利氏の援助を受けることで、かろうじて長宗我部氏に対抗する力を保っていたのです。
しかし、信長の本格的な中国侵攻が始まったことで、毛利氏は河野氏を支援する余力を失い、伊予への援軍を送ることが困難となりました。
毛利氏との連携を失った河野氏は次第に勢力を削がれ、長宗我部軍の攻勢の前に劣勢を強いられるようになります。
当主・来島通総の葛藤
こうした厳しい情勢の中、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ・村上通総) は、一族の存続と未来を見据え、重大な決断を迫られました。
ここまで来島村上氏は河野氏と連携し、土佐の長宗我部氏やその他の敵対勢力になんとか対抗し続けてきました。
しかし、もし織田信長の軍勢(羽柴秀吉率いる軍)が四国にまで侵攻してくれば、もはや太刀打ちできないだろう。
そんな最悪の想定が現実味を帯びる中、通総は「このまま河野氏に従い続けることは一族を滅ぼすことになるのではないか」という危機感を強めていったのです。
さらに、来島村上氏の中には河野氏に対する不満もくすぶっていました。
実は、通総の父・来島通康(くるしま みちやす・村上通康) は河野氏の娘と婚姻し、かつて河野本家を継ぐ約束を取り付けていました。
しかし、河野氏内部での家督争いや分家との対立による抗争が起き、その約束は反故にされてしまったのです。
この屈辱的な出来事も、河野氏との関係を考え直す要因の一つとなっていた可能性があります。
また、通総の母は河野氏の出身でしたが、実家が河野氏内部の抗争の中で分家に乗っ取られ、その勢力を失っていました。
そのため河野氏とのつながりに執着することはなく、むしろ時代の流れに乗り、天下統一を目指す織田信長に従うことを支持していたと伝わっています。
「村上水軍の分裂」来島村上氏の裏切り
天正9年(1581年)、こうしたさまざまな要因が積み重なる中、来島村上氏の当主・来島通総は、ついに一族の存続を優先し、長年にわたって忠誠を誓ってきた河野氏との関係を断ち切る決断を下しました。
通総は羽柴秀吉との同盟を選び、村上水軍の一角を担う来島村上氏は織田軍の勢力に加わることとなったのです。
一方、村上水軍の他の御三家である能島村上氏・因島村上氏 は、これまで通り毛利氏、つまり河野氏と共に歩む道を選びました。
こうして来島村上氏が織田方に、能島村上氏・因島村上氏が毛利氏・河野氏方に属することとなり、かつて瀬戸内海を制した村上水軍は、ついに分裂の時を迎えたのです。
「裏切りの代償」来島村上氏の敗北
天正10年(1582年)、来島通総はついに旧主君・河野氏に対し兵を挙げ、攻撃に踏み切ります。
四国をめぐる戦国の覇権争いの中で、この行動は村上水軍の立場だけではなく、伊予国の統治体制を大きく揺るがしました。
また、この「反逆」とも言える行為には、河野氏だけでなく、中国地方の覇者・毛利氏も激しく反発しました。
毛利氏にとって村上水軍は瀬戸内海の制海権を支える不可欠の存在であり、来島村上氏の裏切りはその体制を根底から揺るがす重大事だったのです。
毛利氏はすぐに河野氏と連携し、毛利水軍を率いて来島へ進軍を開始。
このとき、因島村上氏・能島村上氏も「来島村上氏の裏切りは断じて許されぬ」として毛利の旗のもとに結集しました。
毛利水軍は強力な海上戦力で、来島村上氏を包囲しました。
瀬戸内海の制海権を巡る戦いは、かつて共に村上水軍として海を制した同族同士による、壮絶な内乱の様相を帯びることとなったのです。
激しい攻撃の前に、来島村上氏は次第に追い詰められ、さらに河野軍の追撃を受けたことで、ついに滅亡寸前にまで追い込まれます。
この危機的状況の中で、当主・来島通総は、ついに重大な決断を下します。
それは、拠点である来島を放棄し、毛利・河野の包囲を突破して豊臣秀吉のもとへと逃れるというものでした。
そして通総は、毛利・河野の連合軍による海陸からの厳しい包囲網の中、命からがら包囲を突破し、瀬戸内海を南下して秀吉の陣営へと身を寄せました。
こうして、伊予を去ることとなった来島村上氏ですが、この時の決断が、その後の命運を大きく左右することとなります。
「秀吉の四国攻め」河野氏と他の御三家の衰退
この頃、信長軍は天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が家臣・明智光秀に討たれたことで、四国攻めは一時中断を余儀なくされていました。
しかしその後、実権を握った秀吉は信長の志を引き継ぎ、天下統一を目指して勢力を拡大。
天正13年(1585年)、ついに四国制圧を決断し、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを指揮官に据え、水陸合わせて10万ともいわれる大軍を四国に派遣。
いよいよ秀吉による四国攻めが始まったのです。
このとき、伊予では河野氏が最後の抵抗を試み、湯築城に籠城しました。
しかし圧倒的な豊臣軍の前に抗う術はなく、小早川隆景の説得を受け降伏。
こうして、河野氏による長きにわたる伊予統治の歴史は終焉を迎えました。
一方、土佐を本拠とする長宗我部元親は、すでに四国のほぼ全域を統一し、四国の覇者として君臨していました。
しかし、各地で豊臣軍に圧倒され、讃岐・阿波・伊予の諸城は次々と落城。
最終的に土佐に追い詰められた元親もまた降伏し、四国は完全に豊臣政権の勢力下に入ることとなったのです。
海賊行為の禁止と来島村上氏の繁栄
天正16年(1588年)、瀬戸内海の秩序を確立した秀吉は、海上交通を統制するため、全国に向けて「海賊停止令(海賊禁止令)」を発布しました。
これにより、私的に海上で武力を行使すること、すなわち海賊行為が全面的に禁じられ、瀬戸内で強大な勢力を誇っていた能島村上氏や因島村上氏は、従来のような独立した水軍勢力としての活動を制限され、急速に弱体化していきました。
その一方で、いち早く秀吉に従った来島村上氏は、例外的に水軍大名としての存続を許されるという特別待遇を受けました。
実は、来島村上氏は秀吉の四国攻めの中で、秀吉軍の水軍戦力の中核を担い、瀬戸内海での豊臣軍の補給線を確保し、上陸作戦や沿岸制圧を強力に支援していたのです。
秀吉はこの功績を高く評価し、村上水軍の中で唯一、来島村上氏に水軍大名としての存続を認め、さらに伊予風早郡(現:愛媛県松山市北部)に1万4,000石の領地を与えました。
これにより、来島村上氏は豊臣政権公認の大名家としてその地位を確立し、鹿島(旧北条市鹿島)の鹿島城(かしまじょう)を居城とすることとなりました。
「朝鮮出兵」来島通総の戦死
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原征伐を終えて関東の北条氏を滅ぼし、全国の大名を服属させることで 事実上の天下統一 を成し遂げました。
しかし、秀吉はこれにとどまらず、次なる野望として明(中国)への進出を目指し、その足がかりとして朝鮮半島への侵攻、いわゆる 朝鮮出兵(文禄・慶長の役) を開始します。
この朝鮮出兵において、来島通総も水軍を率いて従軍しました。
しかし、慶長2年(1597年)、鳴梁(めいりょう)海戦で朝鮮水軍の名将・李舜臣(り しゅんしん)の反撃を受け、壮絶な戦いの末、36歳の若さで戦死してしまいました。
通総は、かつて瀬戸内の海を自在に駆け、伊予の地で一族の繁栄を支えてきたその生涯を、遠く異国の地・ 朝鮮の海 で閉じることとなったのです。
「関ヶ原の戦い」来島村上氏の決断
その後、当時わずか16歳だった来島康親(当時の名は長親)が当主となり、若くして一族の命運を背負うこととなります。
康親はすぐに朝鮮出兵に自ら志願して従軍し、勇敢に戦いました。
この朝鮮出兵は、秀吉が天下統一の余勢を駆って開始した大規模な海外遠征でしたが、慶長3年(1598年)、秀吉の死去に伴って戦は終わり、康親も帰国。
伊予風早郡・野間郡の地を治めることとなりました。
しかし、帰国からわずか2年後の慶長5年(1600年)、天下を二分する「関ヶ原の戦い」が勃発します。
康親は当初、豊臣家や旧主である毛利家との関係を重んじ、西軍に与する意志を示しましたが、情勢の変化を見極め、決戦直前に東軍に内通しました。
関ヶ原の戦いでは、東軍の勝利により西軍の大名たちは厳しく処分され、所領を没収されるなど、日本の勢力図は大きく塗り替わりました。
康親は直前で東軍に転じたことで、一旦は本領安堵を受けますが、最終的には所領を没収され、やがて鹿島城も廃城となりました。
森藩の藩主としての道
その後、来島村上氏の家臣たちは、漁師となる者、他藩に仕える者、各地の村で新たな生活を始める者など、それぞれの道を歩んでいきました。
康親自身は数名の家臣とともに京都・伏見に身を寄せ、再起の道を模索。やがて大阪へと移り住み、必死の思いで復権の機会を探り続けました。
そうした中、妻の伯父であった福島正則の口添え・取りなしを得て、ついにその努力が実を結びます。
慶長6年(1601年)、康親は豊後国(現:大分県)の玖珠郡・日田郡・速見郡にまたがる1万4,000石の所領を与えられ、森藩(後の豊後森藩)の初代藩主となり、来島村上氏は新たな地で大名家としての歩みを再び始めることとなったのです。
その後、2代藩主・通春(みちはる)の代に至り、元和2年(1616年)、家名を「来島」から「久留島(くるしま)」へと改め、豊後森藩の名跡は新たな時代とともに後世へと受け継がれていきました。
村上水軍の歴史の終焉
来島村上氏が移された豊後森藩は、内陸に位置していたため、かつてのような海での生活はできなくなりました。
瀬戸内海に面した鶴見村(現別府市)と辻間村内の頭成(現日出町)を領地として与えられたものの、これらは小規模な沿岸地域に過ぎず、かつてのような水軍としての活動を維持するには不十分だったのです。
また、能島村上氏と因島村上氏は、関ヶ原の戦いで伊予への復帰を悲願に、毛利氏の支援を受けて伊予へ侵攻しました。
しかし、加藤嘉明の居城であった松前城(現・愛媛県伊予郡松前町)を攻略しようとした際、留守部隊の夜襲を受け壊滅。
その後、能島村上氏と因島村上氏は毛利氏の下で長州藩に仕え、藩の船を管理する「船手組(ふなてぐみ)」としての役職に就き、生計を立てるようになりました。
こうして、かつて瀬戸内海に君臨した「村上水軍」はその歴史に幕を閉じたのです。
戦の記憶とともに…八千矛神社が見守る来島のいま
来島では、城主を失った多くの家臣たちが漁民となり、やがてこの島は軍事の拠点から、海に生きる人々の島へと姿を変えていきました。
かつては武具と船が並んでいた入り江には、やがて漁網と干した魚が干されるようになり、帆を張った軍船の代わりに、漁に出る小舟が静かに海に漕ぎ出す風景が日常となっていきます。
戦を支えた者たちは、今度は魚を獲り、潮を読み、季節の移ろいに耳を澄ませながら、家族とともに静かな暮らしを営むようになりました。
来島は、目の前に広がる来島海峡の好漁場に恵まれ、多くの漁師たちでにぎわいました。かつては人口も70人を超え、小中学校も島内に設けられていました。
しかし時代の流れとともに少子高齢化が進み、学校は閉鎖され、今では数えるほどの人々が静かに暮らす島となりました。
それでもなお、八千矛神社は島の人々に篤く信仰され続けています。
かつては海の戦を見守り、今は漁の安全と暮らしの平穏を願いながら、神々のまなざしとともに、この島に生きる人々の心に寄り添い続けているのです。