朝倉地区に鎮座する「矢矧神社(やはぎじんじゃ)」は、創建年代こそ定かではありませんが、「朝倉総社」または「朝倉社」とも称され、古代から続く由緒ある神社として知られています。
「朝倉宗廟本社朝倉の宗廟
社伝によれば、矢矧神社は「朝倉宗廟本社(あさくらそうびょうほんしゃ)」と称され、「二名の州(ふたつなのしゅう)の主」、すなわち四国を統べたとされる古代豪族・越智氏の祖乎千命(おちのみこと)の御子、小千の天狭貫王(おちの あめのさぬきのおう)を祀る廟として創建されたと伝えられています。
また、矢矧神社は現在の場所ではなく、高大寺川の旧河道とされる「八幡窪(八幡ヶ窪)」に祀られていたと伝えられています。
その後、朝倉宗廟本社(現:矢矧神社)は、斉明天皇の戦勝祈願を受けて、社名を「朝倉宮(あさくらのみや)」へと改称されることになりました。
白村江の戦いと「朝倉宮」の誕生
660年、朝鮮半島において百済が新羅によって滅ぼされました。
百済は当時、日本にとって重要な友好国であり、文化や技術の交流を通じて深い関係が築かれていました。滅亡後、百済の遺臣たちは国の再興を目指して日本に救援を要請します。
これを受けた斉明天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)らを率い、百済再興のために水軍の派遣を決断。この戦いが、663年の「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」です。
伊予水軍と小千守興の登用
戦の準備が進められていた661年、斉明天皇は、瀬戸内海を拠点とする伊予の豪族・小千(越智)守興(おちの もりおき)を水軍の大将に任命しました。
守興は、飛鳥の宮中に仕える衛士としても知られ、卓越した航海術と軍略の才によって天皇の信任を得ていた人物です。
伊予水軍は、当時の瀬戸内海における交通の安全確保、交易品の輸送、防衛活動など多方面で重要な役割を担っており、斉明天皇はその統率力を大いに期待していました。
朝倉郷での戦支度と戦勝祈願
天皇一行は、飛鳥の難波津を出港し九州を目指す航海の途中、伊予国・朝倉郷に立ち寄りました。この地は小千守興の拠点でもあり、警備や物資の面でも安全性に優れた場所だったと考えられます。
守興は周囲の警戒を厳重に行い、斉明天皇が安心して滞在できるよう環境を整えました。
およそ2か月半から3か月に及ぶ朝倉郷での滞在中には、軍勢の整備や物資の確保が進められるとともに、戦勝を祈願して神社や寺院の建立が積極的に行われたと伝えられています。
「朝倉宮」への改称と八幡三神の合祀
このとき、斉明天皇は当地の朝倉宗廟本社(現・矢矧神社)に参拝し、戦勝の祈願を行いました。
さらに、征韓戦勝の神として崇敬される「八幡三神(仲哀天皇・神功皇后・応神天皇)」の霊を合祀し、神社に「八幡宮」の号を授けたとされます。
これにより、神社は「朝倉宮」と改称され、国家的な戦勝祈願の場としての格式を帯びるようになったのです。
寺院「車無寺」との関係
同じ頃、斉明天皇の命によって「両足山安養院車無寺(現・無量寺)」が創建されました。
この寺院は後に朝倉宮の別当寺としての役割を担うようになり、神仏習合の思想に基づいて、神社と寺院が一体となって地域の信仰を支える体制が築かれていきました、
「朝倉宋廟八幡宮」
弘仁11年(820年)、八幡宮が勧請され「朝倉宋廟八幡宮」と改称されました。
当時、朝倉宋廟八幡宮は、社地は八丁四方にも及ぶ広大な敷地を持っていました。その影響で、現在も「本郷」「宮の窪」「立丁」「新田」といった地名が残っています。
「三社祭」 平安時代を彩った八幡の祭礼
平安時代の伊予国朝倉郷では、「三社祭(さんしゃまつり)」という地域の信仰と絆を象徴する盛大な祭礼が行われていました。
全国に広がった八幡信仰
この時代、日本全国で八幡宮の信仰が広がりを見せる中、朝廷や武家を問わず、国家鎮護や武運長久を祈る神として八幡神を祀る動きが活発になっていました。
特に貞観元年(859年)に、宇佐八幡神を京都の男山に勧請して創建された石清水八幡宮は、八幡信仰の中心として国家的な重要性を持つようになり、その影響は各地に波及しました。
伊予国の朝倉郷(朝倉地区)においても、こうした八幡信仰が広がり、複数の八幡宮が創建または勧請されていきました。
伊予国での八幡信仰の広がりと三社の成立
貞観元年(859年)8月、八幡神(応神天皇)が勧請され、「八幡社」が創建されました。この社は文禄11年(1592年)に「八幡大神社」として社号が改められ、地域の守護神として厚く信仰されるようになりました。
貞観元年(859年)8月に、八幡神(応神天皇)を勧請し「八幡社」が創建されました。この神社は、斉明天皇の伝説を起源とする(真宮明神(旧:白崎宮)に文禄11年(1592年)「八幡大神社」として信仰されるようになります。
同じく、斉明天皇の伝承伝えられる伏原八幡大神が建久3年(1192年)に河野通俊によって創建されました。
また、街之木にあったとされる鴨部大神にも「八幡宮」の称号が与えられ、鴨部八幡神社として地域の守護神として崇敬を集めました。
「三社祭」の誕生
また、別の地域でも八幡神は勧請されており、越智郷大浜では、貞観元年(859年)または延長2年(924年)頃に、大浜大神(大濱宮)へ河野大夫興村が八幡神を勧請し、一緒に祀られたことで「大浜八幡大神社」として広く信仰されるようになりました。
このように、伊予各地で八幡信仰が広がりを見せるなかでも、朝倉宋廟八幡宮、鴨部八幡神社、そして大浜八幡神社の三社は、特に河野氏の祈願所として重要視されるようになりました。
そして、これら三社の信仰が結びつくかたちで、「三社祭(さんしゃまつり)」が生まれました。
三社の神輿と神事
毎年8月15日から始まる「三社祭」では、まず朝倉本郷の本堂寺が旅所(たびしょ)に選ばれ、ここから朝倉宋廟八幡宮・鴨部八幡神社・大浜八幡大神社の神輿が順次出発します。
続いて、越智軍鴨部郷(かんべごう)の重茂山(しげもやま)に設けられた第二の旅所で神輿が合流。ここでは夜を徹して神楽や神事が行われ、神々への祈りが厳かに捧げられました。
翌16日には三社の神輿が高縄山城へと向かい、地域住民や参拝者が見守るなか、壮麗な神輿行列が進行。17日には山上での大祭式典が執り行われ、神輿の奉納・神楽の舞が披露され、地域の安寧・五穀豊穣が祈願されました。
大山祇神社の神官と小千氏の祈願体制
これらの祭礼と神事は、大山祗の神を地御前(じごぜん)として祀る別宮・大山祇神社の神官によって総指揮されました。
その神官は、古代伊予を支配した越智氏の一族・小千氏の出自であり、斉明天皇の行幸や八幡信仰の統一にも深く関わったとされます。
なかでも、朝倉宗廟本社は、小千氏の祖神である天狭貫王(あめのさぬきおう)を祀る廟として、非常に格式高い神社として広く崇敬を集めていました。
室町時代――河野氏の祈願所としての繁栄
室町時代(1336年~1573年)、高縄山城を本拠とした河野氏は、朝倉宋廟八幡宮を自らの祈願所として深く崇敬し、その影響力のもとで祭礼もきわめて盛大に執り行われていました。
当時の「三社祭」では、8月13日と14日に氏子の参詣が行われ、15日には神幸祭が催行。神輿は朝倉上村・中村・下村の三ヶ村を巡行し、旅所は例年通り本堂寺に設けられていました。
また、神輿は重毛山城(玉川町与和木)や霊仙域(今治市宮ヶ崎)へも渡御され、これに合わせて重毛山城や龍門城(朝倉上)からは供奉の武士団・御馬・弓なども供出されるなど、まさに武家と民間の信仰が一体となった壮麗な祭礼であったことが伝えられています。
戦乱による衰退と奉遷
しかし、天正10年(1582年)、伊予を襲った戦乱の波はこの祭礼にも影を落としました。
重毛山城と龍門山城の落城によって、祭礼の象徴であった神輿や社殿、数々の古文書が甚大な損害を受け、社殿の維持が困難となってしまいます。
その後、時を経て慶長18年(1613年)、社殿は現在の場所へと奉遷されることとなりました。
矢矧神社と矢番大明神の合祀
その後、元岡氏が上総国(現在の千葉県)より矢番大明神を当地に勧請し、相殿に祀られました。
そして延宝五年(1677年)、社殿の新造を機に矢番大明神は正式に合祀され、現在の「矢矧神社」と改められます。
以降、矢矧神社は今治藩主・松平家の御祈願所としても崇敬され、再び地域信仰の中心としての地位を確立していきました。
旧鎮座地である「八幡窪」は、元禄6年(1693年)には田地として転用され、かつての祭礼の舞台は静かにその姿を消しました。
現在に続く春の祭礼と「ニワカ」
現在、例大祭は5月2日・3日に行われています。これは、かつて大旱魃が発生した際に、雨乞いの祈願を込めて旧暦八十八夜に近いこの日に変更されたと伝えられています。
5月3日に獅子舞と一緒演じられる「場華芝居」は、全国的にも類例の少ない形式を持つユニークな伝統芸能であり、「朝倉にわか芝居(朝倉ニワカ・ニワカ獅子)」として知られています。
この「ニワカ」は、愛媛県今治市朝倉地区に伝わる唯一の伝統芸能であり、平成12年4月に愛媛県指定無形民俗文化財に指定され、平成14年3月には「ふるさと愛媛創造賞」も受賞しています。
ニワカは即興性を重視した芝居で、台本にとらわれず、その年の話題や世相、地域の出来事を盛り込んで演じられる点が大きな特徴です。「医者と坊主」「身代り地蔵」「計りと斤量」など、ユーモラスで風刺的な演目が多く、観客との掛け合いや笑いを誘う構成が魅力となっています。
さらに、ニワカは獅子舞と一体となっており、矢矧神社の獅子舞を終えた若連中がそのまま役者となって舞台へ登場。芝居が終わると再び獅子に戻るという独自の演出も特色です。
舞台装置や引幕は用いられず、神社の社殿前の空間がそのまま舞台となる簡素な構成は、神事としての厳かな雰囲気と素朴な芸能としての魅力を兼ね備えています。
一時は伝承の危機もありましたが、NHK番組で取り上げられたことを契機に保存会が結成され、公民館や地域の支援を受けて後継者の育成と伝統継承が進められています。
現在も青年団を中心とした若者たちがその継承に励んでおり、越智郡青年文化祭などでも高く評価されるなど、朝倉にわか芝居は地域の誇りとして今なお息づいています。
荒氣神社と」
矢矧神社の境内には、かつて朝倉上・高大寺地区の氏神として信仰されていた荒氣神社(あらきじんじゃ)が鎮座しています。
この神社は、もともと「カンサ屋敷」と呼ばれる場所に祀られていたものを、江戸時代に現在地へと遷座したと伝えられています。
以来、地元の人々から篤く信仰されてきました。
荒氣神社に祀られる神々
荒氣神社では、以下の三柱の神が祀られています。
- 須佐之男命(すさのおのみこと)
災厄を祓い清める神として知られ、古くから農業や家畜の守護神としても広く信仰されています。 - 和霊大明神(われいだいみょうじん)
戦没者や無念の死を遂げた人々の霊を鎮める神として祀られ、地域の鎮魂信仰の中核をなしています。 - 橋三河守(はし みかわのかみ)
かつて朝倉郷中村の外屋ヶ森城を守った武将・橘源蔵久吉(たちばな げんぞう ひさよし)公の霊を祀るものです。
橘源蔵久吉公は、伊予の名族・河野氏に仕えた勇将であり、「三河守」と称されました。
越智玉男の嫡子・正達の直系子孫であり、橘公久の玄孫にあたる人物でもあります。
幼い頃から学問と武芸に励み、特に弓馬に秀で、その武勇は高く評価されていましたが、天正年間(1573~1592年)に外屋ヶ森城が落城した際、奮戦の末に討ち死にしたと伝えられています。
「にわか芝居」の舞台としての荒氣神社
かつて荒氣神社は、矢矧神社の例祭における第一番の旅所として重要な役割を担っており、現在、矢矧神社の拝殿前で上演されている「ニワカ」は、もともとは荒氣神社で演じられてました。
例祭の当日、矢矧神社で神事が進められる間、隣接する荒氣神社では芝居の準備が整えられ、祭礼が終わると、観客たちはそのまま荒氣神社へと移動し、即興的な民俗芝居を楽しみました。
その頃の「ニワカ」は、今よりもはるかに観客が多く、境内を埋め尽くすような賑わいであったと伝えられています。
武将の愛馬を祀る「馬神」
荒氣神社のすぐ裏手には、馬神が静かに祀られています。
これは、橋三河守こと橘源蔵久吉公が生涯を通して深く愛した名馬「谷渡り」の霊を慰めるために建立されたものと伝えられています。
谷渡りは、久吉公が幾度もの戦場で共にした忠実な軍馬であり、主君の危機を幾度も救ったと語り継がれる名馬です。
その死後、主と戦乱を生き抜いたこの名馬の魂を弔うため、神として丁重に祀られるようになったのです。
現在では、馬の守護神として信仰され、競馬関係者や乗馬クラブ、牧場関係者など、馬に携わる多くの人々から厚く崇敬されています。