古墳の里に残る祈りと義勇、宮脇を守った偉人が静かに眠る
大西町宮脇の一帯は、現代の暮らしのなかに古代の記憶が息づく場所として知られています。
桜の名所としても知られる藤山健康文化公園の頂上には、国の史跡に指定されている古墳時代初期の貴重な前方後円墳、藤山妙見山古墳があります。
また園内には他にも藤山古墳が残されており、後醍醐天皇の皇子である尊真親王の墓所と伝えられ、宮内庁が管理する陵墓参考地も所在しています。
藤山健康文化公園からおよそ八百メートル南西には、かつて衣黒山と呼ばれた小さな丘陵があり、その周辺には十基ほどの衣黒山古墳群が広がっていました。
現在では衣黒団地として開発され、古墳の姿は失われましたが、かつて多くの御霊が眠っていた聖域として、地域に静かな記憶をとどめています。
また、藤山健康文化公園のすぐそばには、地域の歴史を物語る丸山墓地があります。
ここには、近代において伊予ネルの製造で名を馳せ、地場産業の発展に大きく貢献した矢野七三郎の墓が静かに佇んでいます。
そして、この丸山墓地の近くには、もう一人、地域で深く伝承されてきた人物が眠っているといわれています。
その人物こそが、指切り九郎兵衛として知られる「山本九郎兵衛(やまもとくろべえ)」です。
村を救った庄屋・山本九郎兵衛
山本九郎兵衛は慶長9年(1604)、宮脇村(今の今治市大西町宮脇)の庄屋・山本家に生まれました。
江戸時代初期のこの地域は、松山藩の統治下に置かれており、農民たちは「六公四民」といわれる重税に苦しめられていました。
名目上は収穫の六割を年貢として差し出すことになっていましたが、実際にはさまざまな附加税や臨時の課役が重なり、実質的には七割近くを取り上げられる過酷な状況でした。
宮脇のように田畑の少ない地域では、農民たちの生活はますます困窮していったのです。
庄屋で村人を守る立場にあった九郎兵衛は、人々を救うため、租税の対象外であった綿花の栽培を奨励しました。
温暖な気候と土地の条件に恵まれた宮脇では綿がよく実り、農民たちの暮らしを支える大きな助けとなっていきました。
綿への課税と指切りの逸話
延宝年間(1673〜1680)のある年、松山藩から派遣された役人が収穫量を査定する「検見(けみ)」にやってきました。
田畑の様子を確認するうち、見事に育った綿畑に目を留めた役人は、「これほど収穫があるのなら、綿にも税を課すべきだ」と言い出しました。
これに、九郎兵衛は即座に反対します。
「これまで綿花には税がかけられたことは一度もございません。どうか村人たちをお救いください。」
しかし役人は取り合わず、「無税である証拠があるのか」と突きつけました。
当時、租税の免除を証明するような書類は存在せず、九郎兵衛は追い詰められました。
「村人たちの生活を守らねばならない…」
そう覚悟を決めた九郎兵衛は一旦奥の部屋に下がり、ほどなくして白布に包んだものを持って戻ってきました。
そう言って差し出された布包みを開いた役人は、思わず息を呑みました。
中には、鮮血に染まった九郎兵衛自身の指が収められていたのです。
自らの身体を賭してまで村人を守ろうとするその覚悟に、役人は圧倒され、ついには綿への課税を断念しました。
この出来事に村人たちは深く感謝し、九郎兵衛を「指切り九郎兵衛」「指切さん」と呼び、その勇気と責任感を末永く讃え続けました。
九郎兵衛の最期と顕彰
延宝8年(1680)、九郎兵衛は77歳で生涯を閉じましたが、生前の正義感あふれる行いから「義の庄屋」と慕われ、死後も地域の人々に讃えられました。
大西町宮脇の丸山墓地入口に墓が作られ、正面には「南無遍照金剛」、側面には「山本氏先祖九郎兵衛墓」と刻まれています。
この墓は里人から「指切地蔵(ゆびきりじぞう)」と呼ばれ、今もなお人々の信仰を集めています。
また、九郎兵衛は隣接する法隆寺(真言宗豊山派)においても供養され、寺の祀りを通じて地域精神を支える存在として顕彰され続けています。
その義勇と責任感は、単なる美談ではなく、宗教的・文化的な記憶として今に息づいているのです。
山本九郎兵衛から絵師・山本雲渓へ続く系譜
山本九郎兵衛は、伊予の豪族・河野家の一族である重茂山城主・左兵衛尉通定の子孫であったと伝えられています。
さらに、その血脈は江戸時代後期の絵師・山本雲渓(やまもとうんけい、1780~1861)へと受け継がれました。
雲渓は九郎兵衛から五代あとの子孫にあたり、医師として人々を癒やす一方で、森派の画法を修めた画人としても活躍しました。
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)や大井八幡大神社をはじめ、今治地方のみならず伊予国内外の寺社に多数の絵馬を奉納し、その作品群は現在も各地に伝わっています。
雲渓は文久元年(1861)に82歳で没し、山方町の観音寺(かんのんじ)に葬られました。
その墓碑は今も静かに佇み、九郎兵衛から続く山本家の系譜と、地域社会に根ざした歴史と文化の継承を象徴する存在となっています。



