「湯の窪神社(ゆのくぼじんじゃ)」は、イオンモール今治新都市の近くにある、本格天然温泉施設「清正乃湯(きよまさのゆ)」の駐車場に作られている小さな神社で、加藤清正公と地元の神様を祀っています。
温泉施設「清正乃湯」
清正乃湯は、戦国時代の武将「加藤清正公(かとう きよまさ こう)」に由来する、平成11年に愛媛県今治市にオープンした本格的な温泉施設です。
イオンモール今治新都市のすぐ近くにあり、JR今治駅から車で約10分、今治ICから車で3分という好立地で、アクセスが非常に便利です。駐車場も約300台分のスペースがあり、無料で利用できます。
この温泉施設の最大の特徴は、アトピー性皮膚炎や皮膚病に対して特に高い効果があるとされていることです。
清正乃湯の泉質は、「含放射能泉(ラドン温泉)」「ナトリウム泉」「炭酸水素塩泉」の3つが組み合わさっており、これらの成分が皮膚に優しい「ヌルヌル感」を生み出します。
このヌルヌルした湯は、保湿効果が非常に高く、肌の潤いを保ちつつ、湯冷めしにくい特徴があります。
さらに、当温泉は24種類もの効能を有し、虚弱児童の体質改善や子どもの皮膚病に対しても効果的とされており、西日本でもトップレベルの療養温泉として高く評価されています。
また、施設内には、障害者専用の個室風呂や皮膚病専用の個室風呂が設けられており、誰もが快適に利用できる環境が整えられています。
さらに、清正乃湯では、神経痛、筋肉痛、冷え性、疲労回復、関節痛などにも効果が期待できるため、幅広い年齢層の利用者に支持されています。
館内には広々とした浴場や快適な休憩スペースがあり、季節を問わずリラックスできる施設となっています
熊本の守護神「加藤清正」の功績
加藤清正は、名古屋出身で、豊臣秀吉に仕え、数多くの戦で活躍した名将です。九州の熊本では「清正公(せいしょうこう)さん」と呼ばれ非常に親しまれています。
加藤清正が築いた熊本城は、その頑丈な構造と美しいデザインで「日本三名城」の一つとして有名です。
現在もその存在感は失われることなく、たくさんの人に愛されています。特に地元熊本の人々にとって、熊本城はただの観光地ではなく、地域の誇りであり、心のよりどころでもあります。
熊本城は、地震などで大きな被害を受けたときも、市民が一丸となって復興を支える姿が見られました。
「熊本城が元気を取り戻すことが、熊本全体の再生につながる」と多くの人が感じています。
このように、熊本城は熊本の人々にとって特別な存在で、長い歴史の中で築かれた絆が今も続いているのです。
また、熊本でのもう一つの重要な功績が、洪水対策です。
当時、熊本は頻繁な洪水に見舞われており、農業や住民の生活に大きな被害をもたらしていました。
清正は、堤防の強化や灌漑(かんがい)システムの導入に積極的に取り組みました。
この対策により、洪水被害が軽減され、農業の生産性が大幅に向上し、熊本の経済発展にも大きな貢献を果たしました。
清正の死後、熊本では「土木の神」「治水の神」として称えられ、加藤神社が建立されました。
現在も清正は熊本の守護神として祀られており、地元の人々は「清正公」として深い敬意を払い続けています。
加藤清正公が授けた癒しの温泉
こうした清正公の御神徳は、熊本だけにとどまらず、遠く離れたこの地の人々の心にも届いていました。
明治時代、蒼社川はこの地域の暮らしを支える恵みの川である一方、度重なる氾濫は村人たちの生活を脅かし、農作物や住まいだけでなく、安心して暮らせる日々そのものを奪っていました。
今治を治めてきた歴代の領主たちも、こうした水害を食い止めるためにさまざまな治水対策に取り組みました。
しかし、自然の猛威の前にはその努力もむなしく、蒼社川の氾濫は繰り返され、村人たちの暮らしは幾度となく大きな打撃を受けました。
特に、蒼社川に隣接する高橋村(現在の今治市高橋町周辺)では被害が甚大で、人々は不安と絶望の中、心のよりどころを求めていました。
そして高橋の村人たちが頼ったのが、熊本で治水の神として広く信仰されていた加藤清正公だったのです。
村人たちは相談を重ね、選ばれた村の代表たちは熊本まで赴き、加藤清正公の御神体を譲り受け、無事に村へと持ち帰りました。
そして、村人たちは心を込めて御神体を迎え入れ、村の一角に小さな祠(ほこら)を建立してお祀りしました。
以降、村人たちは日々祠に手を合わせ、清正公の御加護を願い、平穏な日々が戻ることを祈り続けました。
祠は村人たちの心の支えとなり、洪水の恐怖の中にあっても希望をつなぐ存在となったのです。
やがて長い年月が経ち、風雨にさらされた祠は老朽化してしまいました。
しかし、村人たちは清正公への感謝と信仰の心を失わず、再び力を合わせて祠を建て直しました。
この出来事の後、不思議な奇跡が村を訪れることになります。
それからしばらく経ったある晩、一人の村人の夢枕に加藤清正公が現れ、穏やかな表情で村人に語りかけました。
「雨に濡れておったのに、お前が祠を建て直してくれたので、褒美をやろう」
その言葉に村人は驚き、「褒美とは?」と尋ねましたが、清正公はただにこやかに微笑むだけで、静かに姿を消しました。
目覚めた村人は、夢の中の清正公の言葉がどうしても心に残り、あれこれと考えを巡らせました。
やがて、この地が「湯の窪」と呼ばれていたことを思い出し、「もしやこの地には温泉が眠っているのではないか」と考えたのです。
そして試しに祠の脇を掘り進めたところ、驚くことに天然の薬湯ともいえる良質な温泉が湧き出しました。
この奇跡のような出来事に、村人たちは大いに驚き、清正公への感謝の気持ちを新たにし、その恩恵を大切に受け継いでいくこととなりました。
こうして湧き出した温泉は、加藤清正公が授けた癒しの湯として、長く人々に親しまれていくことになります。
この出来事が、のちに「清正乃湯」の起源と語り継がれることとなったのです。
「清正乃湯」と「湯の窪神社」の由来
「清正乃湯」という名前は、清正公が子どもたちの守り神として信仰されていることと、授けてくれたとされる温泉の成分が虚弱児童の体質改善や子どもの皮膚病に特に効果があるとされていることに由来しています。
さらに、「湯の窪神社」はこの地域が「湯の窪」と呼ばれていたことから名付けられました。
この地域には「高橋湯ノ窪遺跡」が発掘されており、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が確認されています。
遺跡からは竪穴住居跡や溝、土坑などが見つかっており、古代の人々がこの地で生活していた証が残されています。
もしかしたら、古代の人たちもこの場所で温泉を楽しんでいたのかもしれません。