「瑞光寺(ずいこうじ)」は、かつて瀬戸内海で勢力を誇った村上水軍の御三家のひとつ「来島村上氏」と深い関係を持つ寺院です。
また波止浜の塩田の歴史とも密接に結びついており、製塩業に尽くした人々の祈りや営みを静かに見守ってきました。
海とともに生きた人々の歴史と信仰が交わるこの地は、今も地域の心の支えとして大切にされています。
来島村上氏と瑞光寺
その歴史は、戦国時代にさかのぼります。
永禄元年(1558年)、瀬戸内海を支配した来島村上氏の当主・来島通康(くるしま みちやす)は、自身の第3子・村上宗桂のために、波方町養老に寺院を建立しました。
曹洞宗・大雄寺の11代住職・嘯室宗虎(しょうしつ そうこ)和尚を招き、山号を「万松山(まんしょうざん)」、寺名を「長昌寺」とし、来島村上氏の菩提寺として一族の繁栄と安寧を祈る場としたのです。
来島村上氏、伊予国から豊後へ
しかし、時代の激しい変化の中で、来島村上氏はこの地を去らなければいけなくなります。
関ヶ原の戦い(1600年)、来島村上氏は初めは西軍に属しましたが、情勢の変化を見極め、決戦直前に東軍へ内通しました。
戦後、一旦は本領安堵を受けたものの、最終的には所領を没収され、豊後国森藩に1万4,000石で移封されました。
新たな領地である森藩は、現在の大分県玖珠郡周辺に位置し、山間の地形が特徴的な内陸の土地でした。
この転封により、来島村上氏は、代々一族が築いてきた伊予国(現在の愛媛県)での歴史と、水軍として海を自由に駆け抜けた栄光の時代に終止符を打つこととなりました。
そして、来島村上氏は「久留島(くるしま)」と改姓し、内陸の陸上領主として新たな道を歩み始めました。
その後、日本は約300年にわたる平和な江戸時代へと移行していきました。
波止浜の塩田と西宝院の歴史
江戸時代に入った頃、波止浜は松山藩の所領として瀬戸内海に面した重要な港町として発展していきました。
松山藩は、関ヶ原の戦いの功績によって伊予国に封ぜられた加藤嘉明を初代藩主とし、その後、蒲生忠知を経て、寛永11年(1634年)以降は松平家が藩主となり、幕末まで統治を続けました。
松平家は徳川家と親しい家柄で、幕府から特に信頼されていた大名家です。
藩は領内の産業を振興し、財政を支えるためさまざまな政策を進めました。
そんな松山藩が注目したのが塩でした。
波止浜の港周辺には「筥潟(はこがた)湾」と呼ばれる広大な入り江が広がっており、この地域は遠浅の干潟が特徴的であり、その地形が塩作りに理想的な条件を備えていました。
塩は生活必需品であると同時に、藩の財政を支える重要な現金収入源となり、波止浜の港は塩の積み出し港として栄えていったのです。
波止浜塩田の開祖・長谷部九兵衛
この波止浜の塩田開発と港町の整備において、重要な役割を果たした人物のひとりが、後に波止浜塩田の開祖とされる「長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ)」です。
九兵衛は代々松山藩に仕える家に生まれ、塩の名産地として名高かった広島県竹原に足を運び、厳しい封建社会の中で密かに塩田技術を学び取りました。
当時、塩の製造法は藩の重要な機密であり、他藩の技術を盗むことは命がけの行為でした。
そこで、九兵衛は身分を隠して労働者として潜入し、過酷な労働に耐えつつ技術を学び、こっそりと絵図を記して故郷に持ち帰ったのです。
帰郷後、松山藩はその努力と熱意を認め、塩田開発の計画を正式に許可し、藩の支援を受けながら九兵衛は塩田建設に取り組みました。
また当時、郡奉行兼代官を務めていた園田藤太夫成連(そのだ とうだゆう なりつら)も、この塩田開発が地元(波止浜)の繁栄に貢献すると信じ、積極的に開発に協力しました。
「龍神社」塩田の成功と地域の繁栄を祈願
塩田開発が着実に進んでいく中で、塩田の成功と地域の繁栄を祈願するための神社が必要とされるようになりました。
そこで、海流や自然の調和を司る神として古くから信仰されてきた龍神信仰に基づき、「八大龍神宮」が波止浜の地に勧請されました。
天和3年(1683年)、社殿が完成し、厳かな儀式のもとで御神体が本殿に遷座されました。
この神社は後に「龍神社(波止方)」と改称され、塩田と波止浜の町の発展を見守る守護神として、また地域の象徴的存在として深い信仰を集めるようになりました。
「瑞光寺」塩田で働く人々を支える寺院
同じ天和3年、波止浜の塩田もついに完成を迎え、南北約270間(約491メートル)に及ぶ大堤防による入浜式塩田の運用が始まりました。
この工法は潮の満ち引きを利用し、自動的に海水を塩田内に引き入れる画期的な仕組みで、波止浜の塩田は当時最先端の製塩施設の一つとなりました。
波止浜は本格的な塩の生産拠点として歩みを始め、この塩田の成功は松山藩の経済を支える重要な基盤となりました。
波止浜の塩は瀬戸内海を通じて各地へと広がり、港町は塩の生産と流通の拠点として大きく発展していったのです。
その一方で、塩田で働く人々や町民の精神的な支えとなる寺院の存在が強く求められるようになりました。。
この中で、貞享元年(1684年)に塩田経営の政策の一環として、園田藤太夫の指導のもと長昌寺は「瑞光寺」と名を改め、波方村から波止浜へ移築されました。
この移築により、瑞光寺は来島村上氏の菩提寺という立場を離れ、一般の檀那寺(だんなでら)として新たな役割を担うこととなりました。
当時の波止浜では、塩田開発が進められており、労働力の定住と地域の安定が求められていました。
瑞光寺の移築は、信仰の場を提供することで住民の精神的な支えとなり、塩田の円滑な運営を図る目的があったと考えられます。
さらに、塩の生産は天候や潮の満ち引きに左右されるため、信仰の力を借りて成功を祈願する意図もあったと推測されます。
波止浜の形成と瑞光寺の役割
瑞光寺が波止浜に移された後、塩田はさらに拡大を続け、天明3年(1783年)には、商業集落である波止町と塩田集落の浜分が合併し、「波止浜」という地名が誕生しました。
文政元年(1818年)から天保5年(1834年)にかけて、波止浜はさらに大規模な塩田地帯へと発展し、塩田を基盤とす地域経済が確立しました。
これにより、瀬戸内屈指の塩の生産地として繁栄を極めていった波止浜は、自立できるほどの力をつけ、明治13年(1880年)には波方村から正式に分村し、「波止浜村」として独立。
さらに、明治22年(1889年)の町村制施行により、杣田村、高部村、来島村と統合され、明治41年(1908年)には町制を敷き、「波止浜町」となりました。
しかし、時代の変化とともに塩田産業は衰退し、その代わりに造船産業が発展。やがて、昭和30年(1955年)には波止浜町は今治市に編入合併され、現在の波止浜地区となりました。
波止浜の歴史を見守り続ける瑞光寺
長い歴史の中で、瑞光寺は波止浜の移り変わりを静かに見守り続け、今もその歴史を伝える貴重な存在となっています。
境内には、かつてこの地の塩田経営を支えた大沢家、矢野家、村山家といった有力者たちの立派な墓が残されており、波止浜が塩の生産で繁栄していた時代の面影を今に伝えています。
当時、塩は日本全国で欠かせない貴重な資源であり、この地で生産された塩は瀬戸内海を経由し、全国各地へと運ばれていました。
その物流を担ったのが、海運業や廻船業であり、波止浜は商業の拠点として発展していきました。
歴代の藩主の位牌が安置
瑞光寺にはかつて歴代の藩主の位牌が安置されていました。
このことから、波止浜の塩田が藩の財政を支える重要な事業であったことがわかります。
残念ながら、時代の流れとともに、武士の時代に祀られていた多くの位牌は失われていきました。
しかし、現在もなお、村上水軍の名将・村上通康(むらかみ みちやす・来島通康)の第3子である村上宗桂の位牌が瑞光寺に祀られています。
この位牌は、来島村上氏の歴史を伝える貴重な遺産のひとつであり、戦国の世を生きた村上水軍の面影を今に伝えています。
「長昌寺」ではなく「東照寺」?
瑞光寺の前身とされる寺院(長昌寺)が波方町養老に建立されたことから、一説には「長昌寺」ではなく「東照寺」であるとする記述も存在します。
しかし、この説にはいくつかの疑問が残ります。
まず、瑞光寺は曹洞宗の寺院であるのに対し、東照寺は天台宗の寺院であるため、宗派が異なります。
また、開創に関わった嘯室宗虎和尚は曹洞宗の僧侶であり、同じく曹洞宗である「野間寺」の中興の祖ともされています。
このことから、瑞光寺が天台宗の東照寺を引き継いだとは考えにくいと言えます。
また、この時代の武士や豪族などの在地勢力は、平地に館(居館)を構え、その近くに八幡宮を祀り、さらに菩提寺や祈祷寺を建立するのが一般的でした。
波方町養老にあったとされる「養老館」の敷地内には王子八幡宮が祀られ、また、来島村上氏の祈祷寺として東照寺が設けられていました。
この中で瑞光寺は菩提寺として機能していたと考えられます。
また、東照寺という名前は、瑞光寺の前身となる寺院を指すのではなく、「波方町波方字東照寺」という地名を指している可能性も考えられます。
この場合、東照寺という名前は、特定の寺院ではなく、その地域にあった寺院を指す地名として使われていた可能性もあります。
これらのことから、当サイトでは瑞光寺の前身は長昌寺であるという説が最も信憑性が高いと考えています。