奈良原神社(ならはらじんじゃ)は、愛媛県今治市玉川町の標高1,042メートルの楢原山(ならばらさん)山頂に鎮座する神社で、長い歴史と数多くの伝承に彩られています。
奈良原神社の起源
奈良原神社の歴史は、持統天皇の御代である690年(持統天皇4年)に始まります。この年の4月、伊予国の国司であった小千宿禰玉興(おちのすくねたまおき)が修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)を大和の葛城山から招き、当地を開山しました。この際、楢原山の山頂に伊佐奈伎命(いざなぎのみこと)、宇気母知命(うけもちのみこと)、大山積命(おおやまづみのみこと)、予母都事解男命(よもつことさかのおのみこと)の四神を奉斎したのが奈良原神社の起源とされています。
別当寺「蓮華寺」
奈良原神社はその後、文武天皇の時代においても重要な信仰の地として位置づけられました。701年(大宝元年)、文武天皇の勅願により、山中に神護別当「蓮華寺 清浄院」が建立されました。
蓮華寺は、同じ年に建築された「光林寺(今治市・玉川地区)」の末寺とされ、奈良原神社の宗教的な重要性を象徴する施設として、地域の信仰を集めました。
現在、蓮華寺は廃寺となり、その建物や遺構は残されていません。しかし、かつて蓮華寺が存在していた鳥居前にある駐車場のそばには石碑が建てられており、蓮華寺の歴史を後世に伝える記念の場として静かにその存在を示しています。
歴代天皇が崇めた聖地
淳和天皇(在位:823年~833年)、朱雀天皇(在位:930年~946年)、後朱雀天皇(在位:1036年~1045年)の時代にも、奈良原神社は勅願所として崇められ、朝廷からの深い崇敬を受け続けました。
このように、奈良原神社は単なる地方の神社を超え、国家的な重要性を持つ存在として位置づけられていたのです。
雨乞いの儀式と神仏習合
奈良原神社は、古くから修験道の重要な拠点として知られています。修験道とは、神仏習合の信仰形態であり、山岳信仰を基盤とし、山中での修行を通じて霊的な力を得ることを目指す日本独自の宗教です。奈良原神社が鎮座する楢原山は、その険しい地形と豊かな自然環境から、修験者にとって理想的な修行の地とされ、「伊予の御嶽」と称されました。
奈良原神社における修験者の歴史は、文永3年(1266年)に始まります。この年、楢原山の南方約1.1kmに位置する「古権現山(ふるごんげんや)」で、雨乞い祈願が行われました。この祈願を契機として、古権現山には社殿が建設され、その社殿は仏教の「権現」という概念に基づき「奈良原権現」と名付けられました。
この出来事を契機に、古権現山と楢原山は宗教的中心地としての役割を担うようになり、多くの修験者がこの地を訪れるようになりました。
「奈良原権現(奈良原神社)」で行われた雨乞いの儀式は、修験道の伝統に基づく参籠型の修行でした。この儀式では、祭司を務める仏僧や神職が山頂にある奈良原神社へ登り、数日間にわたって厳しい修行を行いながら祈念を捧げました。修験者たちは断食や浄化の修行を通じて、山そのものが持つ霊的な力と一体となり、降雨という恵みをもたらすよう祈りを捧げました。この雨乞いの儀式は単なる降雨の祈願にとどまらず、自然との共生や感謝、そして畏敬の念を表す行為でもあり、地域社会にとって重要な宗教的行事でした。
その後、文保元年(1317年)には社殿が造営され、信仰の基盤がさらに強化されました。この時期の楢原山は鎌倉時代を通じて修験道の行場として繁栄し、地域の霊山として広く認識されていました。文保年間(1317年~1319年)には、奈良原権現(奈良原神社)と別当寺である蓮華寺には38人の修験者が常住しており、厳しい修行が行われていました。
慶安3年(1370年)には社殿が改修、健徳二年(1371年)には、本殿の傍らに石造宝塔も建立されました。当時25人の修験者が常住していたことが記録に残されています。このような記録から、奈良原山が修験道の修行の拠点として重要な役割を果たしていたことがうかがえます。
水源としての信仰
楢原山は、今治市の蒼社川(そうじゃがわ)の源流を擁する重要な水源地として、古くから地域社会において特別な位置づけをされてきました。少雨地帯である今治市において、蒼社川の水は農業や生活を支える命の恵みそのものであり、その源である楢原山は、地域の人々にとって欠かせない存在でした。
奈良原神社の境内には、この水を守り、地域に分け与える神々を祀る「壬生川上神社(みぶかわかみじんじゃ)」と「水分神社(みくまりじんじゃ)」との2つの境内社があります。これらの神社は、水源地としての楢原山の霊性を象徴し、水の恵みに感謝し祈りを捧げる場として重要な役割を果たしてきました。
壬生川上神社
壬生川上神社は、別名「勝手明神」とも呼ばれ、修験道の信仰が篤かった神社です。この神社には、後醍醐天皇の皇子である満良親王(みつよししんのう)の足跡が残されています。満良親王は征西将軍として南朝再興を目指し、当地でも活躍したことで知られています。そのため、壬生川上神社は勝負事や戦の神様としても崇敬を集めてきました。
「勝手明神」の「勝手」は、古語で「入り口」や「始まり」を意味し、物事の始まりを守護する神として信仰されました。
さらに参道を登ると、水分神社が鎮座しています。この神社は、地域の水源を守る神として「水配(みくまり)」の信仰を受けてきました。また、「みくまり」の音が「みこもり(子守)」に通じることから、子授けや安産の神としても信仰が広まりました。
水分神社
水分神社には、長慶天皇の皇子である尊聖皇子(そんせいのみこ)や、皇姫である観子姫命(みこひめのみこと)が御祭神として祀られています。これらの神々は、家庭や子供の健やかな成長を願う人々から厚い信仰を受けています。
壬生川上神社の勝手明神と水分神社の子守明神は、吉野地方の修験道の影響を受け、夫婦神としても信仰されています。勝手明神は男神、子守明神は女神とされ、その関係性から地域の守護や家庭円満、さらには戦や競争での勝利を願う人々の心の支えとなってきました。
長慶天皇の伝説
南北朝時代の文中2年(1373年)9月、高野山に潜伏していた長慶天皇(1343年~1394年)が北朝軍との戦いに大敗し、愛媛県玉川町へと逃れたという伝説が伝わっています。この際、長慶天皇は牛の背に乗り、楢原山の奈良原神社へ避難しました。その深い森に身を隠しながら命をつないだとされ、この出来事は奈良原神社にまつわる重要な伝承の一つとして地域の人々に語り継がれています。
この伝承をきっかけに、奈良原神社はさらなる神格化が進みました。長慶天皇の御霊が奈良原神社に合祀されると、神社は地域社会における精神的支柱としての地位を一層高め、信仰の広がりを見せました。
特に、この伝承以降、奈良原神社は「牛馬の守護神」としての性格を強め、農業が主要産業であった地域の農民たちの間で深く信仰されるようになりました。当時、牛馬は農作業に欠かせない貴重な労働力であり、その健康と安全を願う人々の祈りは切実なものでした。この信仰は、奈良原神社が地域社会に欠かせない存在であることを確固たるものとしました。
また、奈良原山の水源と結びついた信仰は、農業を支える「奈良原さん」として広く県下にその名を知られるきっかけとなりました。牛馬の安全と繁栄を祈る奈良原神社は、地域の農業や暮らしを支える象徴的な存在となり、多くの参拝者を引き付ける神社として重要な役割を果たしました。
このように、長慶天皇の入山伝承は奈良原神社の神格化を促し、農業の守護神としての位置づけを決定づける出来事となりました。
牛馬と農業を守る神様
戦国時代に入ると、奈良原神社は武家勢力の保護を受け、その信仰がさらに強固なものとなりました。竜岡幸門城の城主である正岡右近大輔経政が社殿を再建し、神社の維持と発展に力を注ぎました。正岡氏の支援によって、奈良原神社は地域の重要な信仰拠点としての役割を維持し、周辺住民からの信仰を深めました。
江戸時代に入ると、奈良原神社への崇敬はさらに広がり、藩主や城主から厚い保護を受けるようになります。元禄元年(1688年)、今治城主の松平駿河守定陳公が本社および児守明神(子守明神)を再建し、その後も代々の今治城主によって社殿の修理や造営が行われました。これにより、奈良原神社は地域の守護神としての地位を確立し、諸侯からも深い崇敬を受ける存在となりました。
特に江戸時代中期以降、奈良原神社は牛馬の守護神としての信仰が大きく広がりました。農家にとって牛馬は不可欠な労働力であり、その安全と繁栄を祈願するための「万民耕作家畜繫栄講」などの講組織が近隣市町村から島嶼部にかけて作られるようになりました。これらの講の活動により、奈良原神社は地域全体の農業と生活を支える重要な存在となり、昭和30年代まで多くの信仰を集めました。
雨乞いと牛馬の守護神
また、奈良原神社は引き続き雨乞いの神社としても広く知られていました。江戸時代の元禄期には、蓮華寺と同じく奈良原神社の別当寺であった「光林寺」の住職・光範(こうはん)が、雨乞い祈祷において高い霊験を示しました。
その霊験は藩主からも認められ、今治藩や松山藩の藩主より「牛馬安全の守り札」を配布することが許可されました。この功績をきっかけに、牛馬の安全と繁栄を祈願する講が次々に設立され、奈良原神社の信仰を拡大させる大きな原動力となりました。
明治維新期には神仏分離政策により、奈良原神社の宗教的な位置づけにも変化が生じましたが、それまでに講の活動は大いに発展していました。明治4年10月には奈良原神社が末社となり、その後、光林寺が明治19年(1886年)に「繁栄講社」を設立。大正時代には「萬民耕作家畜繁栄講」、昭和に入ると「奈良原大権現繁栄講」と名称を改め、信仰の基盤を維持し続けました。
明治42年には、神社、門脇神社、大己貴社、天王社、山神社、今宮社が奈良原神社に合祀されました。昭和2年12月には本殿が改築され、さらに昭和5年(1930年)頃、奈良原神社は信仰をさらに強固なものにするため、地域の信者たちが結集して「講(こう)」と呼ばれる組織、「奈良原講」を結成しました。このような組織化の結果、昭和30年代には約400の講が設立され、奈良原神社の信仰は最盛期を迎えました。
奈良原神社の講は原則として10人で構成され、旧暦8月の丑と午の日に例祭が行われました。この祭りでは、講員や代参者に対して、繁栄や家内安全、そして牛馬安全を祈願する儀式が行われました。また、祈願の証として木札やお神酒が授与され、これらの活動は新居浜市や西条市をはじめ、愛媛県内全域に広がりました。
昭和以降も奈良原神社の活動は続きましたが、独立峰である楢原山の厳しい自然環境による風雪の被害が重なり、平成13年(2001年)10月には再び本殿の改築が行われました。この年には奈良原神社創建1300年を記念する祭典も行われ、地域の人々がその歴史を祝いました。
雨乞いの儀式も近代においても重要視されており、2017年(平成29年)の愛媛国体の際には、ボート競技で使用する玉川ダムの水量を増やすための雨乞いが行われました。この祈願は成功し、「あっという間に増えるほどの雨が降った」と話題になり、奈良原神社の霊験あらたかさが再び注目を集める結果となりました。
奈良原神社の信仰衰退
このように、奈良原神社は古くから水・そして牛馬の守護神として愛媛県全域で広く信仰され、特に農業において重要な存在として人々の生活に根付いていました。しかし、昭和30年代後半になると、社会の変化に伴いその信仰は次第に衰退していきました。
昭和30年代後半、日本の農業は急速に機械化が進みました。トラクターやコンバインなどの大型農機具が普及し、農作業における牛馬の役割が大幅に縮小されました。これにより、牛馬を飼育する農家の数が急激に減少し、それまで牛馬の安全や繁栄を願うために行われていた奈良原神社の信仰も、次第に薄れていきました。
奈良原神社の信仰を支えていた「講」も、この時期に活動が衰退しました。講は農家や地域の人々による信仰団体で、牛馬の安全を願い、例祭や祈願を通じて神社との結びつきを深めてきました。しかし、牛馬がいなくなることで講の活動の意義が薄れ、昭和30年代にはほとんどが解散に追い込まれました。
別宮大山祇神社への分霊
さらに、奈良原神社を代々守り続けてきた木地部落の氏子の人々も、近代化によって生活環境や産業構造が大きく変化し、生活の安定を求めて今治市内へ全員が移住しました。
元々、楢原山の風雪の影響を受けやすい立地にあったため、社殿の修繕を必要とする状況を生み出し、その維持にかかる費用や人手の不足が深刻化していました。さらに、木地部落の全員が移住したことにり、奈良原神社を支える基盤が失われる事態となり、神社存続の危機が訪れました。
こうした状況を受け、昭和47年(1972年)3月、奈良原神社は楢原山から今治市内の別宮大山祇神社の境内へ分霊されることとなりました。
分霊後の奈良原神社は、別宮大山祇神社の大鳥居をくぐってすぐ右手に位置する境内社として新たに祀られることになりました。
別宮大山祇神社は、愛媛県今治市において地域信仰の中心的な存在であり、その境内に分祀された奈良原神社は、新たな信仰の場として再びその役割を果たしています。楢原山の神聖性はそのままに、移転後の奈良原神社はより多くの人々が訪れやすい場所でその歴史を伝える存在となりました。
玉川町に美術館に眠る遺産
昭和9年(1934年)8月26日、奈良原神社の境内で雨乞いの準備のために清掃を行っていた際、偶然にも地中から経塚(奈良原山経塚)が発見されました。この発見は、奈良原山が長年にわたって地域の信仰の中心地であったことを物語る重要な出来事となりました。
経塚からは、銅製宝塔や経筒、銅鏡、檜扇、刀子(たんす)、鈴、そして大量の古銭など、多数の遺物が出土しました。その中でも特に注目すべきは、全高約70センチメートルの銅製宝塔です。この宝塔は、塔身、屋根、相輪(そうりん)から構成されており、塔身には法華経の種子曼荼羅や仏教真言が細かく線刻されています。その工芸技術の高さから、京都鞍馬寺の経塚出土宝塔と並び称されるほど評価されています。
経塚の中に納められていた銅経筒もまた、貴重な仏教美術品です。経筒の内部には写経が収められていましたが、発見時にはすでに腐食しており、その内容を確認することはできませんでした。これらの遺物は、平安時代末期に仏教教典を後世に伝えるために埋納されたものであり、当時の宗教的儀礼や工芸技術を知る上で極めて重要な資料となっています。
発見された大量の古銭は、中国からの渡来銭であり、最古のものが621年、新しいものが1433年に鋳造されたものです。これらの銅銭は、お賽銭として奉納されていたと考えられ、奈良原神社が長い間、信仰の対象として人々から深く崇敬されていたことを物語っています。
これらの遺物は昭和13年(1938年)に重要文化財に指定され、その後、昭和31年(1956年)には国宝に指定されました。
現在、これらの出土品は今治市にある玉川近代美術館に収蔵されており、春と秋の特別展で一般公開されています。この公開は、地域の歴史と文化の価値を広く知ってもらう機会となっています。
阿弥陀如来像と光林寺
別当寺であった光林寺には、かつて楢原山の山頂に祀られていた貴重な阿弥陀如来像が安置されています。この阿弥陀如来像は、1373年に楢原山の山頂に奉納されたもので、奈良原神社の神仏習合時代を象徴する存在として、長い間、地域の人々の信仰の中心となっていました。
この像は、山岳信仰と仏教が融合した「奈良原権現」の時代において、楢原山の霊的な象徴として、農業や生活、そして自然の恵みへの感謝を表す祈りの対象でした。地域の人々が山頂を訪れ、祈念を捧げる姿は、当時の奈良原神社と楢原山がいかに深い信仰の対象であったかを物語っています。
しかし、時代の変遷とともに阿弥陀如来像は山頂から移され、鈍川木地の方々の手によって山を下ろされ、今治市内へと移されました。その後、長い年月を経て像は劣化が進んでいましたが、近年京都において大規模な解体修復が行われました。この修復作業により、阿弥陀如来像は当時の美しい姿を取り戻し、新たな生命を吹き込まれました。
現在、修復を終えた阿弥陀如来像は光林寺に迎えられ、そこで新たな祀りの場を得ています。
新たな時代への祈願
令和(2019年)、平成天皇(上皇)の退位と令和天皇の即位を記念すると共に、日本が戦争のない平和な国であり続け、さらに力強い国となることを祈願して、神明鳥居が新たに建立されました。この神明鳥居は、奈良原神社に新たな歴史の節目を刻むものであり、地域の人々にとっても新しい時代への祈りの象徴となっています。
伝統を重んじつつも、現代における平和と繁栄への願いを込めた奉納は、奈良原神社の信仰が時代とともに形を変えながら継承されていることを象徴しています。新たに奉納された神明鳥居は、訪れる人々に未来への希望と、歴史のつながりを感じさせるものであり、奈良原神社の精神的な価値をより一層高める存在となっています。
楢原山の魅力
奈良原神社が鎮座する楢原山の山頂は強風や積雪、さらには時折の大雨といった厳しい自然環境にさらされています。このような過酷な条件は、山頂に鎮座する奈良原神社の建造物や装飾品に対して大きな負荷を与えます。これに対応するため、奈良原神社では、入り口の鳥居や紙垂(しで)にステンレスを採用するという特別な工夫を施しています。
一般的に鳥居は木や石、紙垂は和紙で作られることが多いですが、これらの素材では、楢原山のような厳しい環境下での耐久性に限界があります。風雨や雪による劣化を防ぎ、長期間にわたり美しさと機能を維持するため、耐久性に優れたステンレスが選ばれました。
ステンレス製の鳥居は、伝統的なデザインを保ちながらも、現代の技術を取り入れることで自然環境に適応しています。その光沢は、澄んだ山頂の空気の中で美しく輝き、神聖な雰囲気を一層際立たせています。
また、楢原山は信仰の対象としてだけでなく、その豊かな自然と歴史が調和する特別な場所としても訪れる人々を魅了してやみません。
山頂付近には「子持杉」と呼ばれる巨大な杉の木がそびえ立ち、その威容は楢原山の象徴ともいえる存在です。初代の子持杉は幹の直径が10メートルを超え、樹齢1000年とも言われる圧倒的な大木でしたが、時の流れの中で枯れてしまいました。現在の2代目子持杉も直径約6.65メートル、樹齢約400年とされ、その堂々たる姿は、楢原山の自然の力強さを感じさせるものです。
また、楢原山はかつて桜の名所としても知られ、昭和20年代頃までは山中を覆うようにヤマザクラが咲き誇り、その美しさは全国的にも高く評価されていました。この桜は、南北朝時代に長慶天皇がこの地に潜幸したことを偲んで植えられたと伝えられています。その歴史的背景から、桜は楢原山の文化と自然を象徴する存在として、多くの人々に愛されました。昭和11年(1936年)には歌人の吉井勇がこの地を訪れ、「大君の櫻咲きけりかしこみて千疋峠の花をおろがむ」と詠んだ歌が現在も頂上に歌碑として残されています。
しかし、昭和30年代に桜は全て枯れてしまい、かつての壮麗な景観は失われました。現在では、峠付近に数本のソメイヨシノやヤマザクラが残るのみですが、それでもかつての景色を彷彿とさせる姿を今に伝えています。峠を訪れる際には、神子之森側から整備された道を使うことで、安全にアクセスすることができます。
楢原山の自然は、歴史とともに地域の人々の記憶に深く刻まれています。子持杉や桜の物語は、この山がいかに特別な存在であるかを示し、訪れる人々に自然の神秘と地域の文化遺産の大切さを感じさせてくれます。楢原山は、自然と人間の営みが調和し続けた場所として、今もなお多くの人々に愛されています。