「和霊神社(われいじんじゃ)」は、愛媛県宇和島市にその総本山を構えており、宇和島藩の家老であった山家清兵衛(やんべ せいべえ)公頼公を祀っています。宇和島の人々からは、畏敬の念と親しみを込めて「和霊さま」と呼ばれています。この和霊信仰は愛媛だけではなく、中四国全域に広がっています。
山家清兵衛
山家清兵衛は、元和元年(1615年)に仙台から宇和島に国替えされた宇和島藩祖伊達秀宗公の家老職を務め、百姓や町人の側に立って善政を敷きました。しかし、藩内の家老桜田玄蕃らとの軋轢が原因で元和6年(1620年)に暗殺されました。清兵衛の死後、その霊が宇和島藩を幾度も危機から救ったとされ、その霊を鎮めるために和霊神社が創建されました。
毎年7月23日と24日に「和霊大祭」を開催し、多くの参拝者が訪れます。この祭りでは、神輿や伝統的な行列が行われ、地域の重要な行事となっています。また、石造りの大鳥居や神幸橋(みゆきばし)などの歴史的な建造物が訪れる人々に感銘を与えます。
「和霊さん」
今治市玉川町にある和霊神社は、「和霊さん」として地域の人々から親しまれています。この神社は、延享3年丙寅六月(1746年7月22日〜8月19日)に、法界寺村の庄屋であった浮穴与右衛門包俊(かねとし)が、宇和島の和霊本社から分霊を勧請し、創建されました。与右衛門は若い頃に病気に悩まされていましたが、和霊大明神の霊験によってその病が全快したため、その感謝の意を込めて神社を建立したのです。
当初、和霊神社は法界寺村の庄屋である与右衛門の屋敷神として祀られ、限られた人々だけが参拝できる神社でした。しかし、和霊大明神の霊験が広まるにつれて、病気平癒の神としてのご利益が知られるようになり、参拝者が増加。さらに、漁業を守護する神としても瀬戸内沿岸地域で広く信仰されるようになりました。特に漁業関係者や航海の安全を祈る人々からは、海上での守り神としての信仰が強く、神社は次第に地域全体の信仰の対象へと発展しました。
参拝者の増加に伴い、和霊神社は法界寺村の庄屋の屋敷から、三島神社へと移設され、より多くの人々が参拝できるようにされました。これにより、神社はさらに多くの信仰を集め、広範囲にその存在が知られるようになりました。
さらに、寛政十一年己未四月(1799年5月17日〜6月15日)には、旧今治藩主であった松平定剛(さだよし)が、和霊大明神に対する深い崇敬の念から、桑坂山の七反(約70アール)余りを免地として寄進しました。この土地は社地として用いられ、現在の地に新たに本殿と拝殿が建設されました。新たに建設された本殿には三柱の大神が祀られ、その信仰はさらに広がりを見せました。松平定剛公は、藩主としての立場から和霊信仰の重要性を認識し、これに対する厚い崇敬の念を抱きながら、神社の再建に尽力しました。
こうして、和霊神社は病気平癒や漁業守護の神としての信仰を広げ、瀬戸内海沿岸地域を中心に、現在のように多くの人々から篤く信仰される存在へと成長していきました。
漁業の神
勧請のいきさつからも分かるように、当初は病気平癒に効験がある神として地域の人々に尊崇されていた和霊神社ですが、次第に漁業の守護神としても瀬戸内海沿岸の人々に信仰されるようになりました。特に広島県の瀬戸内沿岸から愛媛県越智郡の島しょ部に至るまで、多くの人々が信仰を寄せており、今治市内では漁師町である美保町でも厚く信仰されています。
和霊神社の境内には、歴史的な石造物が多数存在しており、常夜燈や百度石、狛犬などが参拝者を出迎えます。また、江戸時代に彫刻された絵馬や石像も保存され、神社の歴史を感じさせる貴重な遺産となっています。さらに、かつては旧参道が存在し、今治市高橋から山越えをして玉川町に至る道が昭和20年代まで使用されていました。この道は、神社へ参拝する際の主要なルートとして多くの人々が利用していたものです。
神社にはかつて立派な参籠殿もあり、炊事場や風呂場などの設備が整い、遠方からの参拝者が滞在できる環境が整っていました。しかし、台風によって建物が損傷し、その後取り壊されてしまいました。
それでも、和霊神社への信仰は今も続いており、地域の人々にとって大切な存在であり続けています。
お祭りと独特の風習
旧暦6月23日には毎年、和霊神社で祭りが行われ、多くの参詣者が訪れます。中には前日から神社にお籠りし、祭りの日を迎える人々もいます。参詣者は団体で訪れ、拝殿での参籠後、神主による御祈祷が行われます。その後、酒宴が催され、地域の人々が集い、カラオケなどの娯楽を楽しむことで、祭りは地域の伝統や交流の場として大切にされています。
この祭りには「蚊帳をつらない」という独特な風習があります。これは、和霊神社の祭神である山家清兵衛(やんべ せいべえ)公頼公の悲劇的な死に由来するものです。山家清兵衛は、元和元年(1615年)、仙台から宇和島に国替えされた宇和島藩祖・伊達秀宗公の家老として仕え、百姓や町人に寄り添った善政を敷きました。しかし、藩内の家老桜田玄蕃らとの対立が原因で、元和6年(1620年)旧暦6月29日に暗殺されました。
暗殺の際、山家清兵衛は蚊帳の中で寝ており、襲撃者たちは蚊帳の四隅を切り落として襲撃したと伝えられています。この無念の最期が、後に和霊神社で祀られる山家清兵衛の象徴的な出来事となり、玉川町の和霊神社では、祭りの日に蚊帳をつらないという風習が生まれました。この風習は、清兵衛の霊を慰めるためのものであり、地域の伝統として今日まで大切に受け継がれています。