「姫坂神社(ひめさかじんじゃ)」は、その美しい自然環境と歴史的な背景から地域の人々に親しまれています。境内は緑豊かで、春には桜と藤の花が楽しめる素晴らしい場所です。桜の花が咲き誇る時期には、藤の花とともに色とりどりの景色が広がり、訪れる人々を魅了します。
秋には紅葉も見事で、四季折々の自然を感じながら散策することができます。 今治北高等学校のすぐ隣に位置しているため、地域の人々だけでなく、学校の生徒や教職員、またその保護者たちにとっても重要な場所となっています。特に学業や試験の合格祈願に、多くの生徒たちが参拝しに来ています。
姫坂神社のはじまりは「姫宮の地」
言い伝えによると、姫坂神社は日吉郷(現:南日吉町)の泉川のほとりの姫宮の地に鎮座しており、「姫の宮」と称され、大昔から地域の中心として栄え、神聖な場所とされてきました。 泉川は、昔から地域の重要な水源として人々の生活を支えてきました。
姫宮の地は、この川沿いに位置し、豊かな自然と共に栄えました。泉川のほとりに鎮座する神社は、地域の水神信仰とも結びつき、人々の生活と密接に関わってきたと考えられます。
延長5年(927)、平安時代に醍醐天皇の命令によってまとめられた「延喜式」の中で、姫坂神社は全国で351社ある式内大社の一つ「名神大社」に列格されました。延喜式とは、国家の神事において重要な位置を占める神社としての格付けです。
名神大社に指定されたことで、姫坂神社は地域の中でも非常に高い格式を持つ神社となり、国司や守護職、領主といった多くの人々からの崇敬を集めました。特に、姫坂神社が鎮座する日吉郷は、現在の今治市域に相当する広範囲の地域であり、その一番の神社として、姫坂神社はこの地域全体の信仰の中心的存在となりました。 名神大社は国家(朝廷)が直接関わる神事や重要な儀式の場として、その格式を持ち続けました
経済的基盤と社殿の造営
姫坂神社が高い格式を与えられたことから、神社の運営を支えるために、国家や地域から多くの土地や資源が提供されました。これらは、主に農業地や漁業地として使用され、その収益が神社の運営費や祭祀費用に充てられました。
これにより、神社は経済的な安定を確保し、地域の生活や経済にも貢献しました。 また、姫坂神社の格式の高さから、社殿の造営や修理は政府の監督(官営)で行われました。これは、神社が国家的に重要な存在であり、その管理や維持が国家の責任とされていたためです。
広大な神域
この時代の姫坂神社は、6200坪超、つまり約20,460平方メートル、サッカーコート約3面分にも相当する、広大な土地に「神域」を保有していました。 神社において「神域」とは、神が降臨し、宿るとされる神聖な場所です。神域内には、神が降り立つと場所とされる御本殿や、御神木、豊かな自然に囲まれた参道や、長い歴史を誇る建物が点在しています。
今治藩の祈願所
江戸時代になると、姫坂神社は今治藩の祈願所としての役割を担うようになりました。特に雨乞いの祈願が行われるたびに藩主が参拝し、毎年、蔵米が献納されるほどの特別待遇を受けました。
享保18年(1733年)には、今治藩主が江戸で立願(りつがん)を行った際に、代参者として「堀江郡太夫」が姫坂神社に伝えたことがわかっています。
立願とは、神仏に願いごとを託す行為であり、この場合、藩主が江戸で公務を果たす中で、領国の安全や繁栄を祈願するためのものでした。藩主は領国を守るという責務を果たしつつ、自らが不在の間も神仏の加護を求めるために祈願を行いました。
しかし、この時、藩主は自身で神社に赴くことができなかったため、代わりに有力者である堀江郡太夫が代理人として姫坂神社で立願を行いました。これは、藩主が姫坂神社を非常に重要視し、神社への崇敬を厚くしていた証拠といえます。
現在の場所へ移転
江戸時代中期に入ると、現在の場所に移転されました。一説によると、旧社地は町谷村(現:町谷)や上神宮村(現:拝志)だったという主張もありますが、正確な時期や理由についてははっきりしておらず、この説は
山道の石灯籠
また、この時期には、参勤交代に赴く武士たちも、江戸への旅の安全を祈願し、姫坂神社に対して常夜灯を奉納することがありました。常夜灯は夜間に灯りを絶やさずに燃やす石灯籠で、参勤交代の無事や安全祈願の証として神社に奉納されることがありました。
このことからも、姫坂神社が単に藩主の祈願所として機能していただけでなく、武士や一般の庶民にとっても大切な守護神として崇敬されていたことがわかります。参勤交代の旅は命がけの長旅であったため、その無事を祈るために神社に祈願することは、武士にとって重要な行為だったのです。
当時の武士たちが奉納した石灯籠は現在も参道に残っており、その歴史と信仰の証として訪れる人々に受け継がれています。
明治時代に拡大する影響力
明治4年(1871年)には「村社」に昇格し、地域の神社としての重要性が強調され、さらに明治14年(1881年)には「郷社」に昇格しました。郷社は、村社よりも広い地域における信仰の中心となる格式の高い神社です。
これにより、姫坂神社は地域全体の守護神としての役割を強め、周辺住民からの信仰もさらに厚くなりました さらに明治42年(1909年)には、日吉本村の氏神である青木神社が姫坂神社に合祀されました。この際、大穴牟遅神社や大山積神社も一緒に合祀され、神域がさらに広がりました。
また、境内には須賀神社などの末社が鎮座し、地域の守護神としての役割を果たすようになりました。
その後、明治42年(1909年)には泉川町に鎮座していた山王神社も合祀されました。
越智氏との関係
青木神社と須賀神社は、古くから「小千御子(おちのみこ)」を祀る古社として伝えられています。
小千御子は、伊予国にゆかりのある歴史的人物である「小千益躬(おちのますみ)」または「越智益躬(おちのますみ)」の神格化された存在です。
小千益躬は、古代伊予の地で活躍し、外敵から日本を守ったとされる英雄で、後に越智氏(おちうじ)やその末裔である河野氏(こうのうじ)といった有力な一族の祖先とされています。
「県社」に昇格
大正7年(1918年)には「県社」に昇格し、地域における重要な神社としての地位が確立されました。県社は、神社の中でもさらに上位に位置する格式を持ち、その地域の主要な神社として崇敬を集める存在です。
これにより、姫坂神社は今治地域だけでなく、愛媛県全体においても特に重要な神社として認識されるようになりました
今治空襲で全焼
しかし、昭和20年(1945年)の今治空襲によってこれらの全てが失われることになりました。
今治空襲は、太平洋戦争末期に米軍の大型爆撃機B29による3度にわたる大規模な攻撃でした。1945年7月26日未明に始まり、7月28日、そして8月5日から6日にかけての空襲により、今治市は壊滅的な被害を受けました。木造建築が多かった市街地は、B29からの焼夷弾攻撃によって一瞬で炎上し、市内の約8割が焼失しました。家屋、公共施設、歴史的建物を含む広範囲が破壊され、約575人が犠牲となりました。
木造建築が大部分を占めていた市内は特に火に脆弱で、中心部はほぼ全滅し、街の面影は完全に失われました。この中で、多くの歴史ある神社やお寺も大きな被害を受け、姫坂神社も全焼してしまいました。
戦後復興と再建
戦後、日本は急速に復興と成長を遂げ、昭和20年代から30年代にかけて、インフラ整備や経済の基盤強化が進みました。この時期、日本は第二次世界大戦の甚大な被害からの再建を目指し、都市部では戦後の焼け野原からの復興が加速しました。公共事業による道路や上下水道などのインフラ整備が行われ、生活基盤の改善が見られました。
昭和30年代後半から40年代にかけての高度経済成長期に入ると、日本は工業化と都市化が進展し、世界有数の経済大国へと成長しました。この時期は「奇跡の成長期」とも呼ばれ、製造業を中心に経済が急速に発展しました。自動車や電機産業などの重工業が急成長し、それに伴い都市部の再開発や住宅建設も進み、社会全体が活気づきました
昭和22年(1947年)に仮建築されていた姫坂神社も、このような経済成長の波に乗り、昭和43年(1968年)に新たな社殿として再建を果たしました。
そして現在も、姫坂神社は地域の信仰の中心として、その役割を果たし続けています。