「男山八幡大神社(おとこやまはちまんだいじんじゃ)」のはじまりは、元寇としても知られている弘安の役までさかのぼります。
元寇に勝利した武士たちが祀った神社
弘安の役(1281年)は、元(モンゴル帝国)と高麗の連合軍による日本侵攻の一環であり、1274年の文永の役に続く第二次侵攻です。1275年に元の使者杜世忠が日本に服属を要求しましたが、鎌倉幕府はこれを拒否し、杜世忠を鎌倉竜口で斬殺しました。元は南宋を滅ぼした後、日本再征を決意し、1281年1月に遠征を開始しました。
当時の日本の武士たちは、筑前国(現在の福岡県)にある筥崎八幡宮で、モンゴル軍の敗北を祈願しました。その後、彼らは見事に勝利を収めました。この戦勝を神々の御神徳とし、感謝の意を表すために、後宇多天皇の御代である弘安5年(1282年)8月15日、伊予国守の河野対馬守通有と河野備後守通純によって、伊予国(現在の愛媛県)の道前道後周辺に28社の八幡宮が勧請されました。その一つがこの男山八幡大神社です。ただし、当時は樹下鎮守八幡宮という名前でした。
男山八幡大神という名前に変わった理由は、八幡神からきています。八幡神は武運長久の神として、武士階級にとって重要な存在でした。暦応二年(1339年)、武将の鳥生貞実が八幡神を男山八幡大神として祀り、鎮守としたことで、男山八幡大神社となりました。
大水害からの復興
実は、現在の男山八幡大神社は、当初のものではなく再建されたものです。
明治26年(1893年)10月14日午前4時頃、数日来の風雨と豪雨により、蒼社川、頓田川、谷山川などの河川が決壊し氾濫、全市域に壊滅的な被害をもたらしました。この大水害により、男山八幡大神社の社殿も壊滅的な被害を受け、一時的に三嶋神社・祇園神社に合祀されました。
地域の人々の信仰心は衰えませんでした。明治37年には、わずか24戸の氏子たちが協力して社殿を再築しました。その後、昭和15年には紀元2600年記念として境内が拡張され、平成13年には市道新設に伴う境内の模様替えが行われました。これらの再建と拡張を通じて、男山八幡大神社は地域の守護神としての役割を再び果たすようになりました。
そして男山八幡大神社は今もなお、地域の守護神として親しまれ、例年の祭事では多くの地域住民が参拝し、神社の伝統と文化を守り続けています。