綱敷天満と名のつく神社は、桜井の志島ヶ原にある「綱敷天満宮」の方がよく知られていますが、徒歩5分圏内になる古国分に「古天神」「古天神社」「古国分神社」と呼ばれるもう一つの綱敷天満神社が存在します。これら二つの神社は、共に桜井地域に残る菅原道真公の伝説と歴史に深い繋がりがあります。
では、なぜ同じ地区に綱敷天満神社が二つ存在するのでしょうか。それは、神仏習合の時代に起きたある出来事がきっかけです。まずは、綱敷天満神社の歴史から振り返ります。
「学問の神」菅原道真の栄光と悲劇
菅原道真公は、平安時代の貴族の中でも際立った才能を持ち、学者、漢詩人、そして政治家として多方面でその能力を発揮していました。幼少期から天才的な資質を示し、5歳で既に漢詩を作ったと伝えられています。
道真公は右大臣として醍醐天皇に仕え、国家の重要政策に携わりました。道真公が行った政策は、学問と知識に基づいた理性的なもので、当時の政治に大きな影響を与えました。特に、学問と政治を結びつけた政策が多くの支持を集めました。
しかし、道真公の卓越した才能は、やがて嫉妬の的となります。道真公の力を脅威と感じた藤原時平(ふじわら の ときひら)は、自らの権力を維持し、藤原氏の勢力を拡大するために、道真公を排除しようとしました。
昌泰4年(901年)、藤原時平は「道真が醍醐天皇を廃し、道真の娘が嫁いだ斎世親王(ときよししんのう、醍醐天皇の弟)を擁立しようとしている」と虚偽の告発を行いました。
この告発には何の証拠もありませんでしたが、道真公は弁解する機会も与えられず、道真は「太宰権帥(だざいごんのそち)」という名目で、九州にある筑紫国(現在の福岡県の東部を除く地域)の太宰府へ左遷されました。
「太宰権帥」は、太宰府という古代の役所における副長官の役職で、太宰府は、当時の九州全体を統治・管理するための重要な政治的拠点がありました。
しかし、道真にとってこの左遷は、事実上の流刑と同じ意味を持っており、都から遠く隔離された厳しい運命を強いられたのです。
綱敷天満神社に伝わる救助劇
左遷を命じられた道真公は、家族を都に残して、十挺櫓(じゅっちょうろ)の屋形船に乗り、大宰府へ向かいました。当時の航海は非常に危険で、道真公の乗った船も例外ではありませんでした。
航海中、予州の迫門(愛媛県西条市の壬生川沖)で嵐に遭遇し、船が沈みそうになります。この海域(桜井沖)は潮の流れが速く、難所として知られていました。
その時、広川修善(綱敷天満神社の宮司の先祖)と地元の漁民たちが道真公一行を見つけ、急いで救助に向かいました。一旦、道真公を志島の東端に運びましたが、急を要したため敷物がなく、漁船の綱を丸めて敷きました。この出来事が後に「綱敷天神」という社名の由来になります
また、道真公が濡れた烏帽子や冠、装束を近くの岩に干したことから、その岩は「衣干岩」と呼ばれるようになりました。
無事に一命を取り留めた菅原道真公に対して、地元の人々は小魚を献上し、道真公の無事を祝いました。
地元の人々から温かいもてなしを受け、その感謝の気持ちを示すため、菅原道真は自分の手で、舵柄(かじづか)」、つまり船を操縦するときに握るハンドル部分を素材として使い、自分の像を作り上げました。
そして「もし私が帰京したら、この像を都へ持ってくるように。しかし、筑紫国で没した場合はこの像を祀るように」と告げ、再び船に乗って太宰府へと出港しました。
太宰府での過酷な生活
その後、なんとか太宰府に到着した道真公でしたが、そこで待ち受けていたのは非常に過酷な生活でした。ここまでの移動費はすべて自費で賄わなければなかず、到着後も俸給や従者は与えられず、政務に就くことも禁じられていました。
衣食住もままならず、与えられた住居は雨漏りする粗末なバラック小屋でした。それでも自分自身を律し、孤独に耐え続けましたが、過酷な現実を前に道真公は心身ともに衰弱していきました。
「いつかまた、都に戻りたい」という強い気持ちを抱き続け、ひたすら過酷な生活に耐え抜いた道真公でしたが、ついにその願いは叶うことはありませんでした。そして左遷から2年経った延喜3年(903年)2月25日、道真公は病に倒れ、太宰府(筑紫国)で亡くなりました。
この左遷は政治的な追放でありながらも、実質的には死刑に等しいものでした。都から遠く離され、厳しい環境の中での生活が心身ともに道真公を追い詰め、最期を迎えさせる結果となったのです。
「綱敷天満神社」の誕生
この悲報を聞いた郡司の越智息利と地元の人々は深い悲しみに包まれ、道真公の功績を偲ぶため、天慶5年(942年)に小さな社(やしろ)を建て、道真公の御尊像を「素波神(そばがみ)」として祀り始めました。
そしてこの小社は、道真公が志島(現在の今治市桜井地域)の東端に避難した際、地元の住民が漁船の綱を敷物としてもてなしたことに由来し、「綱敷天満神社」と名付けられました。
今治藩主との深い結びつき
その後、代々の国司から深い崇敬を受けるようになり、今治藩主にとっても重要な信仰の対象となりました。毎年の大祭には、藩主自らが参拝するのが恒例となり、神社は藩や地域にとって重要な宗教的な中心地となっていました。
江戸時代に入ってもこの伝統は受け継がれ、綱敷天満神社での祭礼は途切れることなく続けられ、地域の人々にとっても重要な宗教行事としての役割を果たし続けてきました。
例えば、延宝3年(1675年)6月4日、今治藩の2代藩主である美作守定時が古国分村を訪れ、引退後の住まい(御隠居所)を視察し、その後に神社(古天神)へ参詣したという記録があります。この訪問は、藩主が地域の重要な場所や神社を確認し、信仰の場を尊重する行動として記されています。
また、貞享元年(1684年)8月24日には、3代藩主である駿河守定陳が古国分の天満天神に参拝したという記録も残っています。この参拝からも、地域の神社に対する敬意を示す行動として、今治藩主たちが宗教施設に積極的に関与していたことがわかります。
神輿は出させない!?神社と寺の摩擦
宝永7年(1710年)には、古国分の神輿の宮出しが始まり、地域の重要な祭礼行事の一環として行われました。神輿の宮出しは、神様が宿る神輿を担いで地域を巡る伝統的な行事で、地元の信仰を象徴するものです。しかし、正徳3年(1713年)には、この祭礼に関連して大きな問題が発生しました。
この時代は、神道と仏教が一体化した「神仏習合」が一般的でしたが、これが原因でトラブルが起きてしまったのです。
その年のお祭りの日、特に悪意もなく神主が神前に2尾の鰡(ぼら)を供えました。しかし、その瞬間、別当寺の(神社を監督していた)国分寺の僧侶たちの表情が硬直してしまいました。なぜなら仏教の教えでは殺生は禁忌とされていたためです。
そしてこれに激怒した僧侶たちは、享保4年(1719年)までの7年間、綱敷天満神社での宮出し(神輿を出す儀式)を禁止してしまいました。かつて賑わいを見せたお祭りの日、お神輿は出せず、社殿は静まりかえってしまいました。
神社の分離と藩の思惑
この事態に頭を悩ませたのが、桜井村(現:桜井)や旦(現:旦村)の氏子の方々でした。お神輿が出せないままでは、村の伝統あるお祭が途絶えてしまいます。そこで、彼らはある決断を下しました。それは、国分寺が鎮座する古国分村(現:古国分)の氏子連合と決別し、天満神社から分離して新たな神社を設立するというものでした。
享保5年6月28日(1720年)、この計画を松山藩に伝えたところ、藩主である松平隠岐守から正式な許可を得ることができました。
この決断の背景には、綱敷天満神社が異なる藩の人々によって共に信仰されていたことが、大きく関係していた可能性があります。
当時、古国分は今治藩の領地であり、桜井や旦は松山藩の領地に属していました。このように、領地が異なる藩にまたがる信仰の管理は非常に難しく、祭礼や神事の運営において藩ごとの利害や管理の問題が発生することもあり、藩境を調整が必要だったのです。
当時、古国分は今治藩の領地であり、桜井や旦は松山藩の領地に属していました。このように、領地が異なる藩にまたがる信仰の管理は非常に難しく、藩境を越えた信仰の調整が必要でした。
「古天神」と「新天神」
藩主から許可をさっそく氏子の方々は、志島ヶ原にあった荒神社に太宰府天満宮から御分霊を勧請し、「荒神天神」として祀り始めました。これが志島ヶ原の近くに鎮座する「綱敷天満神社(綱敷天満宮)」の誕生になります。
これまで綱敷天満神社として親しまれていた古国分の神社は、次第に「古天神(ふるてんじん)」と呼ばれるようになっていき、の志島ヶ原の神社は「新天神(しんてんじん)」として、地域に二つの天満神社が並び立つ現在の形になりました。
新旧が共存する地域の信仰
このような経緯で分社することになった古天神ですが、寂れることはなく「郷社(ごうしゃ)」に、新天神は「県社(けんしゃ)」としてそれぞれ発展し、地元で親しまれる存在となっていきました。
「郷社」とは、地域社会に根付いた中級の神社で、地域の守護神として住民から信仰を集める神社を指します。一方、「県社」は、より高い格付けを持ち、県全体で重要視され、広範囲にわたる信仰の中心となる神社を意味します。両社は、それぞれの地位に基づき、地域社会に欠かせない存在として成長していきました。
二つの綱敷天満神社の境内は、学問の神様である菅原道真公を祀っており、多くの受験生が合格祈願に訪れる場所として親しまれています。特に春になると、道真公が愛した梅林が一斉に咲き誇り、参拝者や観光客がその美しさを楽しみながら参拝に訪れます。
ぜひ二つの神社を訪れて、その歴史の息吹を感じてみてください。