綱敷天満と名のつく神社は、桜井の志島ヶ原にある「綱敷天満宮」の方がよく知られていますが、徒歩5分圏内になる古国分に「古天神」「古天神社」「古国分神社」と呼ばれるもう一つの綱敷天満神社が存在します。これら二つの神社は、共に桜井地域に残る菅原道真公の伝説と歴史に深い繋がりがあります。
では、なぜ同じ地区に綱敷天満神社が二つ存在するのでしょうか。それは、神仏習合の時代に起きたある出来事がきっかけです。まずは、綱敷天満神社の歴史から振り返ります。
神輿は出させない!?神社と仏教の摩擦
菅原道真公が太宰府へ左遷される途中、壬生川沖で大嵐に遭い、地元の人々に助けられた伝説に由来します。道真公は、志島(現在の今治市桜井地域)の東端に避難し、地元の人々が漁船の綱を敷物としてもてなしたことから「綱敷天満神社」と名付けられました。道真公は、その地で自ら木を刻み、御尊像を残し、この像が神社の御神体となりました。
代々の国司からの厚い崇敬を受けてきた須賀神社は、今治藩主にとっても重要な信仰の対象となり、毎年の大祭には藩主自らが参拝するのが恒例とされていました。
江戸時代に入っても、この伝統は引き継がれ、綱敷天満神社においても、祭礼は途切れることなく順調に続けられ、地域の人々にとって重要な宗教行事としての地位を保ち続けていました。
しかし、正徳3年(1713年)に大きな問題が発生することになります。この時代は、神道と仏教が一体化した「神仏習合」が一般的でしたが、これが原因でトラブルが起きてしまったのです。
その年のお祭りの日、特に悪意もなく神主が神前に一尾の鰡(ぼら)を供えました。しかし、その瞬間、神社を監督していた国分寺の僧侶たちの表情が硬直してしまいました。なぜなら仏教の教えでは殺生は禁忌とされていたためです。
そしてこれに激怒した僧侶たちは、享保4年(1719年)までの7年間、綱敷天満神社での宮出し(神輿を出す儀式)を禁止してしまいました。かつて賑わいを見せたお祭りの日、お神輿は出せず、社殿は静まりかえってしまいました。
この事態に頭を悩ませたのが、桜井村(現:桜井)や旦(現:旦村)の氏子の方々でした。お神輿が出せないままでは、村の伝統あるお祭が途絶えてしまいます。そこで、彼らはある決断を下しました。それが古国分村(古国分)の天満神社から分離と、新たな神社の設立でした。
さっそく氏子の方々は、志島ヶ原にあった荒神社に太宰府天満宮から御分霊を勧請し、「荒神天神」として祀り始めました。これが桜井の綱敷天満宮の誕生になります。これまで綱敷天満神社として親しまれていた古国分の神社は、次第に「古天神」と呼ばれるようになっていき、桜井の綱敷天満宮は「新天神」として、地域に二つの天満神社が並び立つ現在の形になりました。
「古天神と新天神」新旧が共存する地域の信仰
このような経緯で分社することになった古天神ですが、寂れることはなく「郷社(ごうしゃ)」に、新天神は「県社(けんしゃ)」としてそれぞれ発展し、地元で親しまれる存在となっていきました。
「郷社」とは、地域社会に根付いた中級の神社で、地域の守護神として住民から信仰を集める神社を指します。一方、「県社」は、より高い格付けを持ち、県全体で重要視され、広範囲にわたる信仰の中心となる神社を意味します。両社は、それぞれの地位に基づき、地域社会に欠かせない存在として成長していきました。
二つの綱敷天満神社の境内は、学問の神様である菅原道真公を祀っており、多くの受験生が合格祈願に訪れる場所として親しまれています。特に春になると、道真公が愛した梅林が一斉に咲き誇り、参拝者や観光客がその美しさを楽しみながら参拝に訪れます。
ぜひ二つの神社を訪れて、その歴史の息吹を感じてみてください。