広紹寺町(こうじょうじちょう)にある「広紹寺(こうしょうじ)」は、今治の有力な武将「鳥生真実(とりう さねざね)」と、同じく有力武家である細川氏が協力して建てられた歴史ある寺院です。
武士の時代に輝いた広紹寺
暦応2年(1339年)、細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、父・細川頼春の菩提を弔うために、鳥生真実を頼り、当時著名な禅僧である夢窓疎石(むそう そせき)を招いて、伊予国守「越智益躬(おち ますみ)」の旧宅跡に寺院を創建したと伝えられています。
広紹寺から東に約500メートルの場所には、鳥生真実が住んでいた「鳥生屋敷」があり、当時の重要な拠点となっていました。この地域は、歴史的に細川氏や鳥生氏といった有力な家系が結びつき、寺院の創建も彼らの影響力の一部として機能していました。。
夢窓疎石(むそう そせき)
夢窓国師(1275〜1351年)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した臨済宗の高僧で、日本全国に禅の教えを広め、文化的にも大きな影響を与えており、特に京都の天龍寺や西芳寺(苔寺)の庭園を設計したことでも知られています。夢窓国師が広紹寺を直接訪れたという記録はありませんが、その教えは今治にも届き、広紹寺はその影響を受けた寺院の一つとなりました。
しかし、広紹寺はその後の長い歴史の中で幾度となく大きな試練に直面し、再建や移転を繰り返すことになります。
復興と東福寺派への改宗
創建からしばらく経つと寺院は次第に衰退していきました。そこで、広紹寺を救ったのが、阿波国(現在の徳島県)にある寺院の管理も担っていた有力者、源頼之(みなもとのよりゆき)でした。
源頼之は、幕府の重要な役職である「管領」を務め、広紹寺の復興に多大な貢献をしました。頼之は、寺の財政的安定を図るため、50町(約50ヘクタール)の広大な領地を広紹寺に寄進しました。この寄進により、広紹寺は永続的な資金を得て、供養や修行の場としての繁栄を続けることができました。
最盛期の広紹寺の境内には、三つの末寺(桑原寺、宝蔵寺、東禅寺)があり、広範な寺院群を形成されたと伝えられています。
ところが、広紹寺の歴史に再び大きな転機が訪れます。戦国時代の天正年間(1573~1592年)、四国全域を制圧しようとした長宗我部元親が伊予国を支配していた河野氏に戦を挑み、攻め寄せてきました。この戦いにより、広紹寺は戦火に巻き込まれ、寺門や堂宇、記録、宝物を含む全てが焼失してしまいました。
広紹寺にとってこの被害は非常に大きく、一時的にその活動が止まってしまいましたが、仏城寺は拙堂和尚(せつどうおしょう)によって復興され、同時に東福寺派に転じ、仏殿には阿弥陀仏が安置されました。
藤堂高虎の築城と広紹寺の移転
広紹寺は、その後の歴史の中でも度々大きな転機を迎えました。
慶長六年(1601年)頃、今治藩主である藤堂高虎が支城を築く際に、広紹寺の伽藍が取り壊され、その建材が城の建設に転用されることになりました。さらに、元和年間(1615〜1624年)には、水利を改善するために寺の敷地が河道に転用され、寺は現在の位置へ移転することを余儀なくされました。
しかし、寺の名前である「広紹寺」は、その歴史を忘れないように、「広紹寺町」として地名に取り入れられ、時代の名残を今に伝えています。
現在の広紹寺
広紹寺の本堂は、戦後復興の一環として昭和28年(1953年)に修理され、その後、昭和49年(1974年)には六地蔵堂と鎮守堂が再建されました。これにより、広紹寺は修復され、再び地域の人々の信仰の場として重要な役割を担うようになりました。
境内には著名な禅僧である夢窓国師(むそうこくし)、広紹寺の復興に貢献した細川頼之(ほそかわよりゆき)、その父である細川頼春(よりはる)の位牌が伝えられています。
また、広紹寺の境内には、「出入輪官」と呼ばれる門があります。この門は、広紹寺の長い歴史を今に伝えるものであり、寺院が地域に根付いて続いてきたことを示す象徴的な存在となっています。
男山八幡神社との関係
当時の日本では神仏習合の思想が広く受け入れられており、神社と寺院が一体となって信仰の場を形成していました。その象徴的な例として、広紹寺のすぐ隣に位置する「男山八幡神社(おとこやまはちまんたいしゃ)」があります。男山八幡神社は、広紹寺の鎮守社としてお寺の守護神とされ、神仏習合の時代の伝統を今に伝えています。