千利休の一族はなぜ今治を目指したのか。鳥生から始まった千家の新たな歴史
千利休と今治。
いったい何の関係があるのだろうか。
そう首をかしげる人は少なくありません。
しかし、実は今治には、利休の“血”を引く一族が四百年にわたって暮らしてきた確かな歴史があります。
鳥生の大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)のそばにひっそりと残された「千家墓地跡」は、その静かな足跡を今に伝える場所です。
今治に息づく千利休・千家ゆかりの記憶
千利休(1522–1591)は、堺に生まれた町衆出身の茶人でありながら、織田信長・豊臣秀吉という二人の天下人に茶頭として仕え、茶の湯を精神性の高い「侘び茶」として大成させた人物です。
若き日、堺の北向道陳・辻玄哉、そして武野紹鴎らに師事し、やがて「宗易(そうえき)」を名乗るようになります。
後年、秀吉が正親町天皇に茶を献じた際に勅許を受けたことで、はじめて「利休」の号を授かりました。
「千」の姓は、遠祖に足利将軍家の同朋衆・千阿弥がいたとされることに由来します。
利休が最も重用されたのは豊臣秀吉の時代でした。
秀吉の側近であった大和大納言・秀長とともに「表向きのことは秀長に、内々のことは利休に相談せよ」と評されるほど信任を得ており、茶の湯だけでなく政治運営にも深く関わる存在となっていました。
しかし、晩年の秀吉との関係は徐々に悪化します。
原因は数多く取り沙汰されており、堺の商人勢力との結びつき、政治的影響力の強さ、宗教的象徴性をめぐる対立など、複合的な要因が指摘されています。
そして、天正19年(1591年)2月28日、秀吉はついに利休に切腹を命じ、70歳で生涯を閉じることになりました。
この決定は当時の日本に大きな衝撃を与えただけでなく、千家一族の運命をも大きく変えることになりました。
追われる千家が選んだ生き延びる道
千利休が豊臣秀吉の命によって切腹すると、一家の財産は没収され、妻は獄死し、名門・千家は一転して追われる立場となりました。
千家の存続そのものが揺らぐ未曾有の危機に直面し、一族は離散を余儀なくされます。
この激しい時代のうねりの中で、生き残りを模索したのが、利休の実弟・千宗味(せん そうみ)と、その子・次郎左衛門でした。
宗味は、かつて利休の茶会を裏方として支えた存在であっただけに、利休が処罰されたのちの情勢下では堺の町に留まることすら危険でした。
利休の死後、豊臣政権内では石田三成を中心とする勢力が発言力を強めており、利休に近しい者たちは厳しい監視や政治的圧力にさらされていました。
利休のもとで茶を学んだ大名たちも多くいましたが、死罪となった利休と関わり続けることは大名たちにとっても大きな政治的リスクを背負うことになり、宗味を表立って庇護できる者はほとんどいませんでした。
そのような中で、宗味が頼ることができたのは、利休の弟子ではないものの、利休を深く敬愛し、かつ石田三成と対立していた武断派の大名・福島正則(ふくしま まさのり)でした。
福島正則が開いた“今治への道”
千宗味が頼った福島正則は、豊臣秀吉の近親であり、武勇に優れた大名として知られていました。
豊臣政権の中枢においても重きをなした人物であり、石田三成ら吏僚派と対立する“武断派”の筆頭格としても存在感を放っていました。
天正年間の四国攻めが終わった後、伊予国はその戦功によって小早川隆景に与えられていましたが、隆景は天正15年(1587年)、九州の要所である筑前・筑後へと転封されます。
その後に伊予へ入部することになったのが、九州征伐などで武功を挙げた福島正則でした。
正則ははじめ、松山市にあった中世城郭・湯築城を本拠としました。
しかし湯築城は戦国末期の城郭としては古い構造を残しており、近世的な軍政・城下町運営の拠点としては不十分でした。
そこで正則は新たな政治・軍事の中心地として、今治の国分山に築かれていた国分山城(国分城)へ目を向けます。
天正16年(1588年)、正則は国分城に本拠を移し、本格的に伊予国における領国経営を開始しました。
大祝氏の屋敷で得た安息と、千家の新たな縁
千宗味(そうみ)が松山へ辿り着いた頃、福島正則はすでに国分城(今治市国分)へ本拠を移していました。
宗味は堺を離れたあと、道中で所持していた名物の茶道具を松山で手放し、その売却で得たわずかな資金を頼りに旅を続け、ようやく今治へとたどり着いたと伝えられています。
行き場を失った宗味が身を寄せることになったのは、今治市鳥生村に邸宅を構えていた大祝(おおほうり・おおはふり)氏の屋敷でした。
大祝氏は、大三島・大山祇神社の最高位神職を世襲した名家で、古代以来、越智氏・河野氏といった伊予の中核を担った有力氏族とも深く結びついた、伊予随一の社家として知られています。
その格式は大名にも匹敵するとされ、式日には海を越えて大山祇神社に赴き、祭祀を司り、ふだんは鳥生の屋敷で生活していました。
こうした大祝氏の屋敷は、今治の中でも特別な権威と独自の地位を持つ場であり、しかも当時の今治地域は福島正則の統治下にありました。
利休一門のように「政治的に危険視」されていた者にとっても、大祝氏の格式と庇護の下であれば、他勢力からの干渉を受けにくく、安全に身を寄せることができたと考えられます。
静かに始まった千家再興の兆し
大祝氏の屋敷に身を寄せた宗味は、ようやく命の危険から解放され、ひとまずの安息を得ることができました。
しかしその胸中には、堺で利休を支え続けた日々への深い郷愁が絶えず去来し、今治での生活はあくまで“しばしの避難”にすぎないという思いが残っていたと考えられます。
一方、宗味とともに今治へ落ち延びた息子・次郎左衛門は、父とはまったく異なる心境を抱くようになりました。
瀬戸内の温和な気候、落ち着いた城下の風情、人々の穏やかな気質、そして大祝家の娘との出会いが、若い次郎左衛門の心を少しずつ今治の地に結びつけていきます。
やがて、当時の当主であった三十四代大祝・安任の娘と婚姻し、次郎左衛門は今治の地で生涯を送る決意を固めました。
この婚姻を契機として、千家の命脈は当初の避難先であった今治にしっかりと根を下ろし、この地で新たな歴史を刻み始めたのです。
秀吉の後悔と今治で繋がれた千家の命脈
このころ京都では、千利休が切腹してほどなく、豊臣秀吉の心境に変化が生じていきました。
利休を死に追いやった決断は、政治的にも文化的にも大きな損失であったと秀吉自身が悟り始めたと伝えられています。
失われた存在の大きさを痛感するたびに、秀吉は「利休がいてくれたならば…」と口にすることさえあったといわれます。
こうした後悔の思いは現実の政策にも表れ、利休の遺児・少庵宗淳に対し、かつて没収した屋敷や什宝の一部を返還し、千家の再興が公的に認められ始めました。
とはいえ、豊臣政権内部ではなお石田三成を中心とする奉行衆の影響力が強く、利休に連なる茶の湯文化をめぐる立場も複雑で、千家一門がすぐに京都へ戻り、かつてのような茶の湯の中心に復帰することはできませんでした。
千家の未来を担う利休の孫・千宗旦(そうたん)は当時まだ若く、茶道の道統を確かなかたちで継ぐには時期尚早と考えられていました。
そのため少庵をはじめとする千家の者たちは、京へ堂々と戻ることを控え、宗旦が成人して世間から受け入れられるだけの実力と後ろ盾を得るまで、慎重に時を待つという静かな姿勢を貫いたとされています。
一方、今治に身を寄せていた宗味の胸中でも、故郷・堺への想いは年を重ねるほどに深まっていきました。
息子・次郎左衛門が今治で新たな生活を築きつつある姿を見届けながらも、宗味の心の奥底には、利休とともに歩んだ日々が刻まれた故郷への郷愁が消えることはありませんでした。
そしてついに宗味は、生まれ育った堺に戻り、茶の湯に身を捧げた人生の終焉を故郷で迎えたいと決心します。
息子に今治での安定した未来を託し、別れを惜しみながらも、宗味は静かに今治を後にし、一人で堺へと帰っていきました。
今治城築城と次郎左衛門の宰領役
慶長6年(1601年)、新たに今治藩主として藤堂高虎が入部すると、瀬戸内の要衝・今治では、城下町建設の中核となる一大事業、今治城の築城が本格的に始まります。
海辺の砂地という厳しい条件の下で名城を築き上げるため、周辺の村々からは膨大な数の人夫(作業員)が動員され、領内を挙げての国家的大工事となりました。
この築城事業の指揮系統には、いくつかの中心人物が存在しました。
まず、全体の縄張り(設計)や城郭構造を統括したのが、藤堂高虎の腹心として知られる渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ)でした。
勘兵衛は数々の戦場を生き抜いた名将であると同時に、優れた築城技術と現場統率力を兼ね備えており、今治城の基礎設計から石垣の積み方に至るまで、築城の要となる部分を担っていました。
また、土木工事の実務を仕切ったのが、今治出身の土着武士である木山六之丞(きやまろくのじょう)です。
六之丞は潮の満ち引きや地形に精通し、柔らかい海浜砂地の「地固め」や堀の構築といった最重要工程を指揮し、普請奉行として抜群の采配を振るいました。
のちに民謡「木山音頭」の元となる作業唄を現場で取り入れ、作業の効率化と士気の維持にも心を砕いた人物として今に伝わっています。
こうした上層部の采配のもと、地元から集められた数百・数千の人夫を組織し、日々の作業を進める現場のまとめ役が必要とされました。
そこで白羽の矢が立ったのが、宗味の子であり、大祝氏に迎えられて今治に土着した千家・次郎左衛門でした。
当時の大規模普請は、百姓や町人が総動員される「連帯責任制」で進められ、現場の統率には、地元での信望、人心掌握力、地域社会への理解が不可欠でした。
次郎左衛門は「利休一門・千家の血筋」であるだけでなく、大三島大山祇神社の最高神職家である大祝氏の娘を妻に迎えており、今治において強い信頼と発言力を有していました。
こうした背景から、築城に集められた多数の人夫をまとめ上げ、工事現場の秩序を保ちながら作業を進める役割を担う人物として、次郎左衛門ほど適任者はいませんでした。
そのため、工事現場のまとめ役にあたる「宰領役(さいりょうやく)」に任じられ、築城事業の運営において重要な立場を占めることになります。
次郎左衛門はこの任務に誠実に応え、築城事業の進行を支える要として活躍しました。
宗味が命からがら逃れてたどり着いた今治は、時を経て、次郎左衛門の働きによって“避難の地”から“千家の新たな拠点”へと姿を変え始めたのです。
八郎右衛門による東島生町の開墾と千家の躍進
次郎左衛門から数えて三代目にあたる八郎右衛門は、今治に根づいた千家が大きく飛躍するきっかけをつくった人物として知られています。
八郎右衛門は、今治藩主・久松定房に対して新田開発の許可を自ら願い出ました。
新田の開発は藩政において、年貢増収と領内経済の安定をもたらす重要政策であり、これを直訴することが許されたという事実そのものが、すでに千家が地域において確かな地位と信望を得ていたことを示しています。
許可を得た八郎右衛門は、まず荒れ地の開墾に着手し、その過程で生じた大量の土砂を活用して、鳥生の海岸一帯に広がっていた湿地の埋め立ても進めました。
この巧みな土砂利用によって、荒地と海岸の双方に十数町歩に及ぶ広大な田畑が造成され、千家はやがて今治でも指折りの大地主として台頭していきます。
造成された鳥生海岸の新田は、のちに「浜ノ窪屋敷畑」あるいは「浜ノ達」と呼ばれ、昭和期の区画整理と町名変更を経て、現在の東島生町(ひがしとりゅうちょう)へと姿を変えました。
大祝氏の大三島移住と、鳥生屋敷に残された千家墓地
延宝3年(1675年)、江戸幕府による藩政が全国に定着し、寺社勢力や在地有力家の所在も各藩の支配政策の一環として厳密に管理されていた時代、今治藩と松山藩の協議により、当時の当主であった38代大祝安期が鳥生を離れ、大三島・宮浦へ移住することが決まりました。当時、大三島は松山藩領であり、この移住は両藩の政治的判断にもとづく大きな転換でした。
これに伴い、大祝一族の中心は鳥生から大三島へと移され、のちに40代大祝安躬の代には家名も「大祝」から「三島」へと改められます。これは、大山祇神社の神職家としての拠点を大三島へ一本化するための藩政的整理とも位置づけられます。
しかし、すべてが完全に移されたわけではありません。
大祝屋敷(鳥生屋敷)の敷地内には、一角が「千家墓地」として残されたのです。
豪農としての台頭と繁栄
寛保元年(1741年)、拝志村で農家が潰れ、耕作放棄された田畑が収公された際、その大部分が千家に下げ渡されました。
その広さは十三町歩を超えたと伝えられ、六代目・彦右衛門がこれらの土地を整備して収益化したことで、千家の財力はさらに厚みを増していきました。
また藩が財政難に陥るたび、千家は多額の御用金を差し出して藩政を支えています。
史料には、代々の藩主から命じられて銀七貫目、十貫目といった高額の金子を上納した記録が残されており、こうした献金が続いた背景には、千家が豊かな財力を備え、藩からも確かな信頼を寄せられていたという事実がうかがえます。
八郎右衛門の時代に築かれた経済的基盤は、宗味・次郎左衛門の“避難と定着”の物語を、今治における“千家繁栄の歴史”へと押し広げていく礎となりました。
こうして千家は豪農としての責任と影響力を持つようになり、その存在は今治においてますます大きなものとなっていきました。
宗味が残した足跡と、今治に生き続ける四百年の千家の物語
その後の千家一族の歩みについては、史料が限られており詳しい経緯を追うことはできません。
しかし、わずかに残された痕跡から、千家が地域社会の中で静かにその名をとどめ続けてきた様子をうかがうことができます。
鳥生屋敷跡の一角に残された千家の墓所は、宗味・次郎左衛門から始まる千家の今治での歴史を物語る唯一の「場」であり、明治・大正・昭和と時代が移り変わっても、地域の人々によって大切に守り継がれてきました。
この墓所は、単なる一族の墓というだけでなく、千家が今治でどのように生き、どのように地域社会の一員として受け入れられていったのかを知る上で、極めて重要な遺構といえます。
平成17年には墓域の整備が行われ、「千家墓地跡」と刻まれた大きな石碑が建立されました。
その石碑には、宗味がたどり着き、次郎左衛門が基盤を築き、のちの当主たちが地域に貢献してきた千家一族の歴史を、「後世に絶やさず伝えたい」という強い願いが込められています。
今治という地で、時に苦難に耐え、時に地域とともに歩みを重ねながら脈々と受け継がれてきた千家の歴史。
それは、宗味が堺を追われたあの日から四百年を経た今日に至るまで、静かでありながら確かに息づき続けています。
そして鳥生の一角に建つ「千家墓地跡」の石碑は、今治に根を下ろした千家一族の長い旅路を見守り続ける、ゆるぎない記念碑となっているのです。



