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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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FEATURE

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【越智氏の系譜】越智氏の祖・乎致命と二千年の系譜
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大祝屋敷跡・鳥生屋敷跡(今治市・立花・鳥生地区)
MONUMENT 史跡と遺跡を辿る

大祝屋敷跡・鳥生屋敷跡(今治市・立花・鳥生地区)

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今治から忘れられた、古代伊予国と大山祇神社の歴史の鍵が眠る聖域

近代以降、日本各地では都市整備や交通網の発達にともなって、土地利用が大きく変わっていきました。

高度経済成長期には住宅需要が急増し、山林が団地へ姿を変え、集落に寄り添っていた古墳が造成によって削り取られて住宅地となるなど、各地で長く受け継がれてきた歴史的景観が失われていきました。

また、年代を重ねた住まいや屋敷に残されていた古文書や記録類が、解体の過程で十分に調査されぬまま処分され、地域に伝わる口承の記憶も次第に薄れてしまう例が全国的に増えています。

老朽化対策や維持管理の問題といった現実的な事情がある一方で、歴史や文化が静かに姿を消していくという課題は、現代の日本社会が抱える大きなテーマとなっています。

そして、この流れは今治も例外ではありません。

かつて伊予の歴史を支え、地域の暮らしとともにあった建物や土地が再開発によって姿を変え、そこに何があったのかを示す痕跡が失われつつあります。

鳥生地区の大祝屋敷跡(おおほうりやしきあと・おおはふりやしきあと・鳥生屋敷跡)もまたその一つであり、政治・宗教・軍事の中核と深く結びついていたにもかかわらず、実像は少しずつ人々の記憶から遠ざかりつつあります。

伊予国一宮を支えた神職と氏族「大祝氏」

伊予国(現・愛媛県)において、古代から中世にかけて政治・宗教・軍事の中枢を担ってきた存在がありました。

それが、伊予国一宮・大山祇神社を中心に活躍した「大祝(おおほうり・おおはふり)」氏です。

神の依り代となった最高神職「大祝」

「大祝(おおほうり・おおはふり)」とは、古代から中世にかけて神社に置かれていた神職の一つで、特に重要な神事を主宰し、祭祀全体を統括する高位の役職でした。

神職には、神に祝詞を捧げる「祝(ほうり・はふり)」、日々の神事や社務を補佐する「禰宜(ねぎ)」、神社の管理運営を担う「宮司(ぐうじ)」などの職掌がありますが、大祝はその中でも最も高位に位置づけられた特別な存在として重要な神事を主宰し、祭祀全体を統括していたのです。

たとえば、日本最古の神社の一つとして知られる長野県の諏訪大社では、「大祝」が神社全体の祭祀を統括していました。

諏訪大社は上社と下社に分かれており、特に上社における大祝は、神職であると同時に、神が人間界に降臨するための「依り代(よりしろ)」としての性格を持っていました。

すなわち、大祝自身が社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)の化身、あるいは神そのものとして信仰の対象とされていたのです。

そして、伊予国(現在の愛媛県)においても、「大祝」は極めて重要な存在でした。

大山祇神社の祭祀を統括した「大祝」

愛媛県大三島に鎮座する大山祇神社は、「日本総鎮守」と称され、伊予国一宮として古代から神々を祀る信仰の中心地として信仰されてきました。

祭神である大山祇命は、日本神話において山と海を司る神とされ、瀬戸内海の航海者や漁業者、農業に携わる人々から篤く信仰されてきました。

また全国の山岳信仰とも結びつき、島全体が神の領域とみなされる特別な場所として、瀬戸内海の島々や沿岸地域だけでなく、全国各地から参拝者を集めてきたのです。

こうした宗教的中心地において、「大祝(おおほうり)」は祭祀を統括するだけでなく、地域の精神的・政治的中核を担う重要な存在でした。

越智氏が継いだ最高神職「大祝」を名乗った一族

大山祇神社における大祝は、伊予国一宮の神職として非常に重要な存在であり、伊予国全体に大きな影響を与える立場にあったため、古代からこの地域を治めていた豪族「越智氏」の一族がこの役職を代々世襲していました。

越智氏族の中で、神社の神主さんのことを「お祝(ほうり・はふり)さん」と呼んでいましたが、大山祇神社の神主は別格のため、大の文字を付けて「大祝(おおほうり)さん」と呼ぶようになりました。

そして、大山祇神社の神主を代々務めていた一族は、「大祝」を自身の家名として名乗るようになり、社家として「大祝家」または「大祝氏」として知られるようになりました。

歴代の大祝は神壇(しんだん)を住まいとし、「半大明神(はんだいみょうじん)」と称され、弓矢などの武器を持たず、国境を越えることもなく、日々の神事と祈祷に専念する生活を送っていたと伝えられています。

「半大明神」とは、完全な神ではないものの神に準じる特別な尊称であり、大祝が神の顕現者(現人神)として人々の信仰を集める存在であったことを示しています。

俗世から距離を置き、神に仕える生活を貫くことで、その神聖性を保ち続けてきたのです。

神職であり統治者、水軍の指揮官でもあった存在

当時、大山祇神社は単なる宗教施設ではなく、地域の政治的・経済的中心でもあったため、大祝は政治的な決定にも深く関与していました。

地域社会における秩序の維持や、領地の管理、経済的発展にも貢献し、実質的な統治者としての地位を確立していたのです。

さらに神職として、地域の信仰と祭祀を取り仕切る一方で、戦時には水軍の指導者として活動するという特殊な立場にありました。

これは、大山祇神社が航海や水軍の守護神である大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀っていたためで、神社を最高責任者である「大祝」が宗教的な権威だけでなく、軍事的な指導力も求められていたためです。

この中で大祝氏は三島水軍の長として、伊予の水軍を率いる河野氏(越智氏の末裔)と深い繋がりを持つようになりました。

また、この繋がりは単なる軍事的なものにとどまらず、両家は同じ祖先である「越智氏」を通じて血縁関係にあったため、その結びつきはとても強いものとなっていました。

「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」鶴姫伝説

このような歴史的背景の中で今に語り継がれているのが、大祝家に生まれ、水軍を率いて戦ったとされる「鶴姫(つるひめ)」の伝説です。

鶴姫は戦国時代の大永6年(1526年)、大祝氏が別名村塔本に居住していた頃、大祝三十一代・大祝安用(おほうりやすもち)とその妻・妙林とのあいだに生まれました。

幼いころから武芸に励み、さらに琴や笛などの雅やかな芸事にも親しみ、武家の気風と社家の教養を兼ね備えた女性として育てられたと伝えられています。

天文12年(1543年)、中国地方の大大名・大内義隆が家臣・陶隆房(のちの陶晴賢)に命じ、瀬戸内海の制海権をめぐって河野領への侵攻を開始します。

大祝氏も戦火に巻き込まれ、大三島の三島水軍は劣勢に立たされます。

陣代であった兄や、恋仲とも伝わる同族の越智安成までもが戦死し、指導者を失った水軍は危機に陥りました。

この窮地に立ち上がったのが、当時18歳の鶴姫です。

甲冑を身にまとい、大薙刀を振るって敵将を討ち取ると、名乗りを上げて出陣し、「われこそは三島大明神の使いなり」と高らかに叫びながら奇襲をかけ、大内軍を撃退することに成功しました。

その後も鶴姫は大三島を守るために再び出陣し、死闘の末に大内軍の進攻を再び食い止めますが、最愛の安成を失った深い悲しみに耐えきれず、ある夜、ひとり舟を漕いで海へと消えたといわれます。

これが大山祇神社に伝わる鶴姫伝説です。

今日、大山祇神社には鶴姫が着用したと伝わる女性用の甲冑が残されており、「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」として、その勇敢な生涯は今なお語り継がれています。

大祝氏と深い縁で結ばれた伊予の武家・河野氏

大祝氏の歴史をたどると、必ずもう一つの有力氏族の姿が浮かび上がります。

それが、伊予国の中世史を語る上で欠かすことのできない武家、河野氏です。

河野氏は、古代以来この地域を支配してきた豪族・越智氏の末裔とされ、大祝氏とは同じ祖をもつ同族関係にありました。

血縁のつながりに加えて、大山祇神社を中心とした宗教的結びつき、さらに瀬戸内海の水軍活動における軍事協力を通じ、両家は宗教・政治・軍事の三面で互いを支え合う強固な関係を築いていきました。

河野氏が歩んだ伊予の歴史

河野氏の歴史は、平安中期の藤原純友の乱で水軍を率いて戦功を挙げた河野好方に始まります。

鎌倉時代には源平合戦で源頼朝方に参戦したことで勢力を伸ばし、その功績によって伊予国内の地頭・守護としての地位を確立しました。以後、数百年にわたり伊予国の中心勢力として君臨していきます。

南北朝・室町時代には湯築城を本拠とし、瀬戸内海の制海権を握る水軍を背景に、四国でも屈指の有力国人として広く影響力を及ぼしました。

しかし戦国末期、豊臣秀吉による四国攻め(四国征伐)に降伏し、ここに長く続いた河野氏の歴史は幕を閉じることとなりました。

伝説から繋がる河野氏と大祝氏の起源

そんな河野氏の始まりは、越智氏から続く伝説的な系譜が語り継がれています。

七世紀半ばの朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗の三国が激しく争っていました。とくに新羅は中国の大国である唐と手を結び、強力な連合軍を組織して百済を滅ぼそうとしていました。

百済は古くから日本と深い関係を結んでいた国であり、仏教をはじめ先進的な文化や技術を日本にもたらしていました。そのため日本は百済を重要な友邦とみなし、危機に際して継続的に支援を行っていました。

やがて百済は日本に本格的な援軍を求め、日本は国家の威信をかけて大規模な救援軍を派遣することを決定しました。

この遠征が天智二年(六六三年)の白村江の戦(はくすきのえのたたかい)です。

この戦いは海戦であり、大規模な水軍戦力が必要不可欠でした。

そこで白羽の矢が立ったのが、瀬戸内海を拠点として高い水軍力を誇った伊予水軍であり、その指揮を執っていたのが越智守興です。

白村江河口付近で、日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍は激突します。

守興の率いた水軍も先陣として奮戦しましたが、数と装備に勝る唐・新羅連合軍の前に、日本側は大敗を喫し、多くの船が焼き沈められる結果となりました。

この敗北によって百済は完全に滅亡し、日本は半島における政治的影響力を失うことになります。

伝承では、守興はこの戦いの中で新羅あるいは唐の捕虜となり、遠く大陸の地へ連行されたとされます。

その後の物語は、歴史というよりは伝説に近い色合いを帯びていきますが、ここからが越智氏の後世の物語に大きく関わる部分です。

白村江の戦いで敗れた越智守興(小千守興)は、新羅(あるいは唐)に7名の仲間とともに捕らえられ、捕虜として南中国に連行されました。

異郷の地で囚われの身となった守興でしたが、次第に現地での生活にも順応し、越(えつ)の国の王女と出会います。

「越(えつ)」は現在の中国浙江省周辺にあった国で、新羅・唐連合軍と協力していました。

敵として出会った二人でしたが、言葉や文化の違いを越えて心を通わせ恋に落ち、やがて二人の子どもが産まれました。

しかし、幸福な日々は長くは続きませんでした。

戦も落ち着き、王女は唐の軍勢とともに自国(越)へ戻ることになったのです。

別れ際、王女は一寸八分(約5.5cm)の黄金の観音像を守興に手渡し、こう告げました。

「どうかこれを、私だと思ってください」

それから守興は、その観音像を大切に祀りながら、日本へ帰国できるように毎晩のように祈り続けていました。

そんなある日の夜、守興の夢の中に観音様が現れ、こう告げました。

「皆で力を合わせて船をつくりなさい。そして私をその船の船首に祀りなさい。そうすれば、無事に日本へ帰ることができるでしょう」

目を覚ました守興は、すぐさま仲間たちに夢のお告げを伝え、皆で協力して密かに船を造り上げると、隙を見計らって観音像を船首に祀って海に出ました。

一行は数々の嵐を乗り越え、ついに現在の福岡県の海岸に辿り着きました。

この時、天智天皇も福岡にいたため、守興はすぐに参上し、これまでの経緯を報告しました。

天智天皇はその無事の帰還を喜びましたが、守興の胸には大きな心残りが残っていました。

実はこのとき、子どもたちは現地に残されたままだったのです。

命懸けの航海に連れ出すことをためらったのか、あるいはすでに越の国の人々として育っていた子どもたちの未来を思ってのことだったのか、その理由は伝えられていません。

ただ、守興の胸にどれほどの葛藤があったかを想像させる話です。

帝はこの話に心を動かされ、守興の故郷である伊予の地に観音堂を建て、その観音像を航海の守り神として祀ることを許しました。

この観音は後に「船玉様」と呼ばれ、東禅寺や高龍寺に伝わることになります。

その後、天智天皇から現在の朝倉地区を治めるよう命じられ、守興は越智氏の大領として朝倉を拠点とし、さらに桜井の地へと勢力を広げていきました。

さらに時代が下り、守興の子である玉興(たまおき)が家督を継いでこの地を治めていた頃、ある事件が起こります。

修験道の開祖として知られる役小角(えんのおづぬ・役行者)が、呪術によって一言主神を縛ったとして、伊豆大島へ流される事件が起こります。

小角が三島明神を深く信仰していた縁から、三島社(大山祇神社)の祭祀を司っていた玉興もまた、この件に関わることになりました。

玉興は一時、無実の疑いによって都へ召されますが、後に潔白が証明され、帰国を許されます。

しかし、玉興の胸には流刑の身にある小角への深い憐れみがありました。

そこで玉興は難波(現在の大阪)へ立ち寄り、小角との再会を果たします。

「伊豆へ下る前に、どうしても大三島へ参詣したい」

小角の切実な願いを受け、玉興は船を手配しようと奔走しました。

しかし、どの船主も引き受けようとはしません。

万策尽きたかと思われた時、一隻の見慣れない唐船(外国の船)が現れます。

事情を話して頼み込むと、船主は快くこれを引き受けてくれました。

「伊豆へ下る前に、どうしても大三島へ参詣したい」

こうして一行は、大三島へ向けて船を進めました。

船頭の兄弟は異国の人であったため、互いに言葉は通じませんでした。

しかし漢字を書いて意思を伝えることができたため、玉興は紙と筆を用い、筆談によって問いかけます。

すると、兄弟は「父・守興をたずねてはるばる日本までやってきた」と綴りました。

さらに、その兄弟から差し出された一通の手紙に目を落とした玉興は、息を呑みます。

そこに記されていたのは、紛れもなく父・越智守興の自筆だったのです。

これによって玉興は、目の前の二人が父を同じくする腹違いの弟たちであることを悟りました。

予期せぬ奇跡的な再会に大いに喜び、二人を温かく迎え入れると、兄には「玉守(たまもり・玉男)」、弟には「玉澄(たますみ・玉純)」という名をそれぞれ与えました。

さらに、二人が越の国から海を渡って来たことにちなみ、それまで用いられていた「小千」「乎致」といった表記を改め、「越知」(のちの越智)の姓を授けました。

この兄弟のうち、弟の玉澄は宇摩や越智郡の大領を任され、伊予国風早郡の河野郷に居を構えたことから「河野玉澄」と名乗りました。

やがて年老いた玉澄は、次代へとその使命を託します。嫡男である越智益男(河野益男)には河野家の家督を譲り、武家としての「河野氏」の系譜が始まりました。

一方で、次男の越智安元(河野安元)を三島大社(大山祇神社)の大祝(おおほうり)に任じ、神職としての「大祝氏」を立てたのです。

こうして、越智玉澄(河野玉澄)を始祖として、伊予の軍事・政治を担う「河野氏」と、大山祇神社の社家「大祝氏」という、伊予を支える二大氏族の歴史が幕を開けることとなりました。

「河野」という地名・姓が示す自然環境とのつながり

「河野」という姓については、越智玉澄が河野郷に居を構えたことに由来するという説のほか、この地の自然環境に基づく由来も伝わっています。

伊予国は瀬戸内海に面し、川と海に恵まれた水の豊かな地域です。

この自然条件が家名の背景にあるとする説では、豊富な水源や河川が「河野」という名の由来になったと考えられています。

また別の伝承では、越智氏が京から伊予へ下向する途中、高縄山で水を得ようと剣を地に突き立てたところ、その根元から清らかな水が湧き出たといいます。

この霊験に感じ入った越智玉澄が、地の水の恵みを讃えて「河野」と名付けたとも語られています。

いずれの説においても、「河野」という名には、この地域がもつ水の豊かさと自然との深い結びつきが色濃く反映されています。

大祝氏が暮らした日高地区・高橋郷別名村

このように、河野氏と大祝氏は異なる役割を担いながらも、同じ越智氏を祖とする血縁関係を基盤に協力し合い、伊予国における政治・軍事・宗教の安定を支え、大山祇神社の神事を司る家柄として代々その重責を担ってきました。

では大祝氏は、実際にはどこに暮らしていたのでしょうか。

意外なことに、大祝氏は当初大三島には居住していなかったとされています。

このことは、大山祇神社の先代宮司であった三島敦雄氏が、各地に散在していた古記録や系譜資料を収集し、大祝家の歴史を整理して編纂した三島大祝家譜資料に記されています。

同資料によれば、大祝家の宗家は、初代・大祝安元の頃、伊予国越智郡高橋郷、現在の今治市日高地区にあたる別名村の塔本(塔ノ本)に屋敷を構えていたとされています。

別名に眠る大祝一族の墓所

つまり、歴代の大祝たちは別名村で暮らしながら、神事の折には舟を出して海を渡り、大三島へ向かっていたと考えられています。

その暮らしの痕跡を今に伝えているのが、「端谷五輪塔群(はしたに ごりんとうぐん)」です。

端谷五輪塔群は、かつてこの地に居住していた大祝家の墓地と考えられており、現在は今治市の指定有形文化財にも登録されています。

これらの五輪塔はかつて山中に散在していましたが、地元有志の尽力によってひとつずつ丁寧に収集され、整備が進められたことで、現在のように整然とした姿へとまとめられました。

今も静かにこの地に佇み、大祝氏が別名村に暮らした時代の面影を伝え続けています。

御鉾の森に鎮座した古社・御鉾神社

この地一帯はかつて「御鉾の森」と呼ばれ、高い石段の上に小泉村と別名村の両地域が共同で祭祀を行っていた鉾(ほこ)という名前がついた、御鉾神社(みほこのじんじゃ)が鎮座していました。

その境内には、大祝氏の墓所が置かれており、それらが後世まで残されたものが「端谷五輪塔群(はしたにごりんとうぐん)」になります。

御鉾神社には次の二柱の神が祀られていました。

  • 八千矛神(やちほこのかみ)
     大国主命の別名ともされ、豊穣をもたらす農耕神。
  • 猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)
     天孫降臨の際に道案内を務めた、導きの神。

いずれも、農耕・開拓・道の守護を象徴する神として知られ、山の社にふさわしい組み合わせでした。

御鉾神社の祭礼や神事は、近隣の大熊寺が別当寺として取り仕切っており、神仏習合のもとで両者は深い結びつきを保っていました。

しかし、明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されると、長く続いてきたこの関係は公的に断たれ、御鉾神社の信仰体系は大きな転換を迎えます。

さらに、明治四十二年(1909年)の神社合祀政策によって御鉾神社は分祀され、三島神社・小泉(今治市小泉)と天満神社・小泉(今治市別名)の両社で境内社として祀られる形に移されました。

こうして御鉾神社は独立した社としての姿を失いましたが、祈りそのものは絶えることなく、今もそれぞれの地域で守り神として静かに受け継がれています。

「越智益躬・小千益躬」御鉾神社を創建した越智氏の英雄

御鉾神社の創建は、古代伊予を代表する氏族・越智氏の一人、越智益躬(小千益躬・おちのますみ)によるものと伝えられています。

益躬は、「鉄人」と呼ばれた国外からの侵略者を討ち倒し、国を救った英雄で、その伝承は今治の各地に残っています。

大山祇神社、鴨部神社、東禅寺、御鉾神社(玉川地区)、三嶋神社・東村、三島神社・登畑、三嶋神社・祇園神社、光蔵寺……。

多くの場所で益躬ゆかりの物語が語り継がれており、地域の開拓や信仰の基盤づくりに深く関わった人物であったことがよくわかります。

中でも、玉川地区に鎮座する御鉾神社の創建には、まさに「鉾」を由来とした次のような伝承が残されています。

推古天皇の御代(6世紀末〜7世紀初頭)に越智益躬(小千益躬)が訓見郡徳威の宮から、神聖な神器「天之逆矛(あめのさかほこ)」を大三島宮(現・大山祇神社)へ奉納するという、重要な神事を任されていました。

奉納の道中、益躬は現在の玉川地区にしばらく滞在した際、天之逆矛の神威を後世に伝える必要を感じ、小さなお社を築き「御鉾の宮(みほこのみや)」として祀ったと伝えられています。

御鉾の森にかつて鎮座した、同じ「鉾」という名前をもつ同名の御鉾神社。

もしかしたら、同じ起源をもち、同時期にこの地に祀られたのかもしれません。

「大祝屋敷の誕生」武家への転換と本拠の移転

大祝氏は長らく別名村を本拠として、大山祇神社の神事に奉仕しながら平穏な日々を送っていました。

しかし、やがて時代は大きく動き出します。

戦乱の時代の中で、大祝氏にも神職としての務めだけでは立ちゆかない変化の波が押し寄せてきました。

その転換点となったのが、大祝安世(やすよ)の代です。

武士になった大祝「大祝安世」

元弘2年(1332年)、大山祇神社の大祝職に就いた安世は、代々の慣習に従い、日高地区の屋敷から船で大三島へ渡り、神事にあたっていました。

しかしその一方で、時代は急速に動き始めていました。

この頃、日本は鎌倉幕府の崩壊を経て、南北朝の内乱期へと突入しようとしていました。

伊予国内でも南朝方・北朝方の勢力が拮抗し、各地で戦火が広がるなど、情勢は混迷を極めていきます。

こうした動乱のただ中で、安世は神職としての務めだけでは家を守れないと判断したのでしょう。

大祝職をわずか四年で息子の安頭(やすかしら)に譲り、自らは武器を手にして武士としての道を歩み始めました。

そして足利尊氏の要請に応じ、北朝方の武将として各地の戦いに参戦していきます。

さらに、勢力を拡大しつつあった北朝方の足利尊氏の要請に応える形で、一族の分家を立てて、祇園町(愛媛県今治市祇園町2丁目3−2)に新たな拠点を構えました。

これがのちに「大祝屋敷」と呼ばれるようになる屋敷です。

「鳥生屋敷」大祝安世=鳥生貞実

大祝屋敷は「鳥生屋敷」とも呼ばれていますが、これは武士・鳥生貞実(とりゅう さだざね・越智貞実)がこの屋敷に居住していたことに由来すると考えられています。

鳥生貞実は南北朝時代に足利尊氏の北朝方として戦った武士であり、その活動時期や、大祝一族の系譜に連なるとされる点などから、実は大祝安世が武士として名乗った名前、すなわち同一人物であったとみられています。

鳥生貞実(大祝安世)は、各地において戦功を挙げただけでなく、男山八幡大神、仏城寺、広紹寺など、今治市内の数多くの神社仏閣の創建や整備にも深く関与したと伝えられています。

これらの神社や寺院は、鳥生貞実(大祝安世)が単なる武人ではなく、神職の家に生まれた者として信仰の大切さを理解し、地域の祈りと平安を重んじていたことを今に伝えているのです。

大祝安人の婿入りと鳥生への本拠移転

その後、別名・塔の本に居を構えていた大祝氏宗家(本家)は、一族の継承をめぐって大きな転機を迎えました。

宗家の長男・大祝安人が、鳥生に居住していた同族の大祝氏へ婿入りしたことで、塔の本の宗家は後継者を失うことになったのです。

この事情から、天正5年(1577年)、塔の本の大祝家は鳥生側へ合流し、その居館である大祝屋敷(鳥生屋敷)に本拠が移されました。

以後、代々の大祝は鳥生の地を活動の中心とし、神職としての務めや一族の伝統をこの地で受け継いでいくことになります。

江戸時代の幕開けと伊予の藩体制がもたらした変化

やがて時代は江戸へと移り変わり、慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を開くと、日本各地では城下町を核とした「藩」制度が整えられ、地域ごとの統治体制が明確に築かれていきました。

伊予国も例外ではなく、山城である松山城を中心とする松山藩と、瀬戸内海に面した海城・今治城を中心とする今治藩が、それぞれ独立した領国として編成されました。

これにより、伊予地域の政治・社会は安定し、幕藩体制のもとで新たな秩序が形づくられていきます。

今治では、藤堂家の転封にともない、松平(久松)定房が伊勢・長島から入封しました。

定房は徳川家康の同母弟である松平康元の孫にあたり、父・松平(久松)定勝の五男として生まれた人物です。

さらに、兄の松平定行は松山藩主を務めていたことから、この時期、伊予国の二つの領国が偶然にも久松松平氏の兄弟によって治められる体制が整い、地域政治の安定に重要な役割を果たすこととなりました。

こうした藩政の安定は、古来より地域の宗教的権威を担ってきた大祝家の動向にも大きな影響を与えます。

延宝3年(1675年)、今治・松山両藩主の合意のもと、当時の当主であった38代大祝安期が鳥生を離れ、当時は松山藩であった大三島・宮浦へ移住することになりました。

これにより、大祝一族の中心は鳥生から大三島へと移され、のちに40代大祝安躬の代に家名も「大祝」から「三島」へと改められます。

大祝姓はここでひと区切りを迎えつつ、その流れは新たな名のもとで脈々と受け継がれていきました。

一方で、安期の弟である安質は今治城下に留まり、今治藩二代藩主・松平定時に七石二人扶持で召し抱えられ、以後は河上姓を名乗るようになります。

後に蒼社川の治水に多大な貢献を残した河上安固は、この河上氏の系譜を継ぐ人物として知られ、今治の治水史に重要な足跡を刻むこととなります。

屋敷跡に残る大祝家・河上安固・千家一族の史跡と歴史的価値

現在の大祝屋敷(鳥生屋敷)は更地となっていますが、敷地内には当時を語る史跡が静かに残されています。

かつての大祝氏の面影を残す三島大祝霊碑や墓石、そして蒼社川の改修に尽力した河上安固の墓もひっそりと佇んでいます。

また、茶道の祖・千利休の一族に連なる「千家墓地跡」も、この地の歴史を物語る貴重な遺構です。

利休は豊臣秀吉の怒りを買って切腹となり、一族も各地に散らばることとなりましたが、その一部が国分城(国府城・国分山城・府中城・唐子山城)へ入城していた福島正則を頼って今治に落ち延び、大祝家の庇護を受けて暮らしたと伝えられています。

やがて千家の後裔である次郎左衛門が大祝家の娘と結ばれ、この地に定住したことで、大祝屋敷(鳥生屋敷)の敷地内には千家一族の墓所が築かれることとなりました。

今日まで受け継がれてきた墓所は、今治と千家の静かな歴史的結節点として、重要な意味を持ち続けています。

御鉾社の歴史と三嶋神社・祇園神社へ受け継がれた大祝氏の信仰

三嶋神社・祇園神社にも、大祝屋敷(鳥生屋敷)の名残が受け継がれています。

かつて鳥生屋敷の敷地内には、大祝氏の祖霊を祀っていた御鉾社(みほこしゃ)とよばれる社がありました。

その祭祀を担っていたのは、近隣にあった大熊寺で、神仏習合のもと両者は深い結びつきを保ちながら、長い年月この地の信仰を支えてきました。

しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令(神仏判然令)により、大熊寺は別当寺としての役割を失い、御鉾社との関係は制度的に断ち切られます。

続く明治39年(1906年)の神社合祀令によって、多くの小社が整理・統合されるなか、御鉾社も合祀の対象となりました。

その結果、御鉾社は今治市祇園町一丁目の祇園神社(現在の三嶋神社・祇園神社)に合祀され、独立した社としての姿は消すこととなります。

とはいえ、その祈りが途絶えたわけではありません。

現在も三嶋神社・祇園神社の境内社として静かに祀られ、鳥生屋敷に息づいていた大祝氏の信仰の記憶を、今日まで伝え続けているのです。

史跡名

大祝屋敷跡・鳥生屋敷跡(おおほうりやしきあと・とりゅうやしきあと)

所在地

愛媛県今治市祇園町2丁目3−22

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