藤山健康文化公園に残る皇子の伝承と記憶
藤山健康文化公園。
自然豊かな憩いの場として親しまれるこの公園ですが、実はこの地には、あまり知られていない古代と中世の記憶が眠っています。
藤山(現・藤山健康文化公園)は、古くから地域の人々に尊ばれてきた聖域で、「御陵の山」とも呼ばれてきました。
園内には、妙見山古墳群や藤山古墳をはじめ、数々の歴史遺跡が残され、この地が古くから特別な場所であったことを今に伝えています。


そしてもうひとつ、この地には皇室とも深い関わりを伝える場所があります。
それが、後醍醐天皇の皇子・尊真親王(そんしんしんのう)の墓と伝わる大井陵墓参考地(尊真親王陵墓参考地)であり、奈良文化財研究所では「尊真親王古墳」ともされる場所です。

なぜ、遠く伊予の地に、後醍醐天皇の皇子の墓所伝承が残されているのでしょうか。
その背景には、日本を二つに分けた南北朝動乱という大きな歴史のうねりがありました。
藤山に眠る皇子・尊真親王
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、古代の律令制を理想とした中央集権政治「建武の新政」を始めました。
しかし、恩賞の配分に不満を抱いた武士たちの支持を失い、やがて有力武将・足利尊氏が後醍醐天皇と対立。
1336年には尊氏が京都に光明天皇を擁立して北朝を開き、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れて南朝を立てました。
こうして、京都の北朝と吉野の南朝が対立する「南北朝時代」が始まります。
南朝は皇統の正統を主張しましたが、軍事力では北朝・室町幕府に劣り、天皇や皇族は各地を転々としながら抵抗を続けることとなりました。
伊予国への波及と河野氏の分裂
南北朝の争乱は遠く四国・伊予国にも及びました。
伊予国の有力豪族である河野氏一族は、鎌倉幕府の滅亡前後からすでに対立の兆しを見せており、やがて南北朝の抗争においても二派に分かれて争うことになります。
河野通盛は幕府方として六波羅探題軍に属し、京都での戦いにおいて武功を挙げましたが、一方で土居通増や得能通綱といった支族は後醍醐天皇を奉じて南朝方に属し、元弘の乱(1331〜1333年)や湊川の戦いにおいて果敢に奮戦しました。
このように、伊予国では同じ河野氏の一族が南朝・北朝に分かれて対立し、国全体が南北朝動乱の渦中に巻き込まれていくこととなったのです。
伊予に派遣された三親王
このような情勢の中で、後醍醐天皇は足利尊氏の勢力を各地で食い止めるため、自らの皇子たちを地方へ派遣し、それぞれの地で南朝方の拠点を築かせました。
皇子の存在は単なる軍事的な意味にとどまらず、天皇の血統を象徴することで在地武士の結集を促し、南朝の正統性を広める重要な役割を果たしました。
その一環として、延元元年(1336年)11月、伊予国へも以下の三親王が派遣されました。
- 尊真親王(そんしんしんのう)
後醍醐天皇の第六皇子。出家して「蓮明親王」とも称されます。母は藤原氏の出身と伝えられますが、詳細は明らかではありません。 - 満良親王(みつながしんのう)
後醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原忠子(中院流藤原氏の出身)と伝えられます。 - 懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐天皇の第十六皇子。母は阿野廉子(新待賢門院、後醍醐天皇の寵妃)で、正嫡の血筋に属する皇子です。
征西将軍と精鋭武士
三親王は、後醍醐天皇から四国・九州の平定を託される「征西将軍(せいせいしょうぐん)」に任命され、朝廷の命運を背負う精鋭の家臣団を従えて伊予国へと渡りました。
その一行の中には、岡部忠重(のちの重茂山城主)、神野頼綱(のちの怪島城主)、神野十郎通頼(のちの弓杖島城主)といった、親王が最も信頼を寄せる側近たちを含む四十人余りの屈強な武士たちが名を連ねていました。
これらの武士たちは、単に親王の身辺を守るだけでなく、伊予の国人を南朝方へと巻き込み、反撃の矢面に立って戦線を切り拓いていく実戦部隊としての重責を負っていたのです。
その中でも筆頭とされたのが、篠塚重広(しのづか しげひろ・篠塚伊賀守広重)です。
重広は篠塚に生まれ、新田義貞の鎌倉攻めで勇名を轟かせ、新田四天王の筆頭に数えられるほどの武将でした。
超武辺者として当代随一の武勇を誇り、その豪勇は敵味方を震え上がらせたと伝えられます。
伊予においても三親王の軍を支える柱石として、南朝方の拠点形成と軍事行動を主導しました。
これに並ぶのが、大館氏明(おおだち うじあき)です。
氏明も新田義貞に従い鎌倉攻めに参戦した歴戦の将であり、伊予においては軍略の中枢を担いました。
篠塚の猛勇と大館の冷静な指揮と戦略眼が合わさり、南朝方の軍勢は大きな力を発揮しました。
伊予の大井の浜に響いた南朝の旗
延元元年(1336年)11月、長い船旅を経て三親王一行の船団は伊予へと到着し、野間郡大井浦にある弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)や景島(かげしま、別名:怪島)に船をつけ、その後、大井の浜に上陸しました。


この上陸を迎えたのは、南朝方の伊予国守護であり、河野氏庶流の得能氏に生まれた、得能通綱(河野通綱)の孫、得能通合(河野通合)の嫡男・得能通政(河野通政)でした。
得能通政は大井寺、法隆寺、清林寺を仮宮として整え、伊予へ下向した三親王を丁重に迎え入れました。
「大井寺」
大井寺は、現在は今治市大西地区山之内に所在する古刹ですが、かつては法隆寺の場所に建立され、その後、大井八幡大神社付近に移設されたと伝えられています。
「清林寺」
清林寺は、行基菩薩によって大井寺(明堂菩薩本寺)が創建された後、その流れを受けて宝亀10年(779年)8月に「明堂菩薩本寺清林寺」として開創されたと伝えられます。
大井寺と同じく清林寺も、当初は特定の宗派に属さない「無宗」の寺院であり、衆生済度を目的とした道場的な性格を強く備えていました。
宗派の枠にとらわれず、地域社会に広く開かれた祈りと救済の場であったと考えられます。
「法隆寺」
法隆寺は、大井八幡大神社に隣接する寺院で、弘仁6年(815年)、弘法大師(空海)が四国巡錫の折に創建したと伝えられています。
空海は当地で地蔵菩薩を自ら刻み、本尊として安置したとされ、そのため庶民救済の祈願寺として篤い信仰を集めました。
さらに、貞観元年(859年)には大徳行教上人によって伽藍の整備が進められ、地域における宗教的拠点としての姿を整えました。
詳細は不明ですが、元々は宮脇の寺谷の場所に建立されていたとされ、後の時代に現在の場所に移されたとされています。
北朝方の急襲と三親王の危機
三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王(伊予の南朝方の軍勢)の士気は大いに高まりました。
しかし、北朝方にとっては重大な脅威となりました。
延元元年(1336年)12月19日の夜、増援を募るため各地に散っていた家臣が留守の間を狙い、北朝方の兵三十余名が急襲を仮宮に仕掛けました。
その際、北朝方の急襲を受け、大井寺の義泰法印は、成戒法印(清林寺)や成道法印(法隆寺)らとともに、僧兵さながら奮戦しましたが、力及ばずその多くが討死。
残っていた将兵たちも命を落とし、三親王の陣営は壊滅的な打撃を受けることとなったのです。
幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況となりました。
仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。
そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。
「満良親王」浮穴郡へ退避
まず、満良親王は浮穴郡(うけなぐん)へと移り、その地の豪族や在地武士の庇護を受けながら身を隠しました。
浮穴郡は、かつて伊予国を構成していた郡の一つで、現在の松山市南部、伊予市、東温市、上浮穴郡久万高原町、伊予郡砥部町、喜多郡内子町の一部にまたがっていました。
山岳地帯から平野部、さらに海に面する地域までを含んでおり、また松山や伊予の平野部にも通じる戦略的な土地であったため、北朝方から身を避けるには格好の場所とされていました。
「懐良親王」瀬戸内海を渡って九州へ
次に、懐良親王は瀬戸内海を拠点とする有力な海賊衆の庇護を受けることになります。
村上水軍の大将・村上義弘は、新居浜の新居大島に居館を構え、そこに懐良親王を迎え入れ、一年間にわたり厳重に警護しました。
その後は忽那水軍(くつなすいぐん)の大将・忽那義範が松山沖の忍那島に迎え、三年間にわたり匿いました。
この両水軍は瀬戸内を支配する強大な勢力であり、親王を守り抜くことは南朝方にとっても大きな意味を持っていました。
やがて興国3年(1342年)、14歳に成長した懐良親王は、豊後水道を経て九州へと送り届けられ、無事に鹿児島へ到達しました。
この決断は後の南朝再興に大きな道を拓くことになります。
「尊真親王」この地に残り戦い続けた皇子
一方で、尊真親王は大井醍醐宮を拠点にこの地で戦い続けることを選びました。
四条少将らの忠実な護衛を受けながら、阿波・讃岐両国に勢力を張る北朝方を討ち払おうと軍を整えました。
しかし、負った傷は癒えることなく次第に病のように体を蝕み、思うように戦を指揮することも困難となりました。
それでも親王は南朝方の旗頭として最後まで奮起し続けましたが、延元3年(1338年)3月8日、ついに力尽きて崩御されました。
そして、親王の崩御後、その御霊はこの地の人々によって厚く祀られ、その記憶は尊真親王陵の伝承として受け継がれていきました。
地域に受け継がれた尊真親王の記憶
尊真親王の亡骸は、別当寺であった法隆寺(ほうりゅうじ)が神主と協力し、藤山(現・藤山健康文化公園)にある「脇の宮」で丁重に葬られたと伝えられています。
法隆寺ではさらに、阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三尊を造立し、親王の御霊を慰める供養を行いました。
この出来事を後世に伝えるため、法隆寺では毎年三月八日に法会を営み、尊真親王への供養を続けています。

そして、尊真親王の御霊は大井八幡宮(大井八幡大神社)に合祀され、皇子をお祀りする社として、今も篤い崇敬を集めています。
その御神威は時を超えて受け継がれ、南北朝の動乱を伝える由緒ある神社として、人々の信仰を集め続けています。

清林寺(大井醍醐宮)の旧跡は「明堂」と呼ばれ、後にその地には小堂が建てられました。
地域の人々からは「明堂さん」と親しまれ、この小堂には聖観世音菩薩(または阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩)が安置されました。
尊真親王の菩提を弔うために祀られたこの尊像は「明堂本尊」「明堂菩薩(明堂観音菩薩)」とも呼ばれ、今なお人々の信仰を集め続けています

また、衣笠妙見神社は妙見という名前ですが、一般的な妙見神社のように北辰妙見大菩薩や天之御中主神を祭神とするのではなく、尊真親王(そんしんしんのう)を祀っていると伝えられています。

皇室ゆかりとして守られ続ける尊真親王の記憶
大西地区に受け継がれてきた信仰や墓所伝承は、近代に入ると新たな意味を持つことになります。
明治13年(1880年)には、愛媛県でも古墳や皇室関係の墳墓伝承地について調査を命じる布達が出され、翌14年にも、皇室関係者の墳墓と伝えられる場所の現状調査が進められていきました。
その流れのなかで、地域に伝えられてきた尊真親王の墓所伝承も重く受け止められ、明治33年(1900年)6月1日、尊真親王陵は宮内省によって陵墓参考地に指定され、用地は宮内省の所管となり、保全工事も施されました。

こうして尊真親王の記憶は、伝承としてだけでなく、公的保護のもとに守られる歴史として、今に受け継がれてきたのです。
そして藤山健康文化公園は、歴史と信仰が積み重なった聖域として、今もその長い物語を静かに伝え続けています。



