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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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衣笠妙見神社(今治市・大西地区)
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衣笠妙見神社(今治市・大西地区)

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妙見・尊真親王・この地に刻まれた祈りの記憶

今治市大西地区・山之内の小高い丘の上に、「妙見さん」と呼ばれ、地域の人々に守り継がれてきた一つの神社があります。

それが「衣笠妙見神社(きぬがさみょうけんじんじゃ)」です。

「妙見社」だけではなく、「衣笠神社」とも呼ばれてきたこの神社は、一般的な妙見神社とは異なる由来を持ち、この地に刻まれた歴史や信仰を今に伝えています。

「妙見とは」星への信仰の起源

妙見神社(妙見社)は全国各地に見られ、「北辰(ほくしん)」、すなわち北極星と北斗七星を神格化した星の神を祀る神社です。

古代における星への信仰は、さらにさかのぼれば古代オリエント世界にまでその源流を求めることができます。

まだ科学的な知識が存在しなかった時代、人々にとって天に輝く星々は、理解の及ばない神秘そのものでした。

しかし同時に、星は決して無秩序に存在しているわけではありませんでした。

夜空を観察し続けるうちに、人々はそこに一定の規則性があることに気づきます。

星は日々同じように動き、季節ごとに決まった位置に現れる。

その変化は偶然ではなく、何らかの「法則」によって支配されているように見えました。

この気づきが、「天には秩序がある」という認識を生み出します。

やがて人々は、さらに一歩踏み込んで考えるようになります。

もし天が秩序を持って動いているのなら、人間の世界もまた、その影響を受けているのではないか。

こうして生まれたのが、「天の動きは人の運命を映す」という思想です。

この考え方は後に、東西を通じて広がる占星術の基盤となっていきます。

古代バビロニアにおける星の思想

この思想を最も早く体系化したのが、古代バビロニアでした。

バビロニアでは、天体の観測が国家規模で行われており、星や惑星の動きが詳細に記録されていました。

彼らは、月食や日食や惑星の位置、星の異常な動きといった現象を、単なる自然現象ではなく、神からの「兆し」として捉えました。

例えば、ある星の動きが変われば王の運命が変わる、ある天変が起これば国家に災いが起こる、といったように、天と地は密接に結びついていると考えられていたのです。

インドの宇宙観と仏教思想の融合

やがてこの思想はインドへと伝わり、ヒンドゥー教的な宇宙観と結びつくことで『宿曜思想(すくようしそう)』として発展していきました。

インドでは、宇宙は一定の秩序と法則によって成り立っていると考えられていました。

天体の運行もその一部であり、星の動きは偶然ではなく、意味を持つものと理解されていました。

そのため星は、単なる自然現象ではなく、人の運命や時間の流れと関わるものとして捉えられるようになります。

人が生まれた時の星の配置によって、その人の性質や人生の流れが決まると考えられ、星は人生を読み解く手がかりとされました。

こうした考え方は仏教と結びつくことで、より体系的に整理されていきます。

仏教にもともとある因果や輪廻の思想と結びつくことで、人の生と死、そしてその流れを星の運行と対応させて理解する枠組みが形づくられました。

これが『宿曜思想』であり、その内容は『宿曜経』などの経典としてまとめられます。

ここでは星は、時間や運命を示す存在として位置づけられ、人の生き方を知るための指標とされました。

そしてこの思想は、シルクロードを通じて東方へと伝わり、中国で道教的な宇宙観や政治思想と結びつき、大きく発展していくことになります。

「北辰信仰の成立」中国での発展

古代中国では、天と地、人の世界は互いに対応し合うものと考えられていました。

天に現れる変化はそのまま地上の出来事に影響するとされ、星の動きは国家の盛衰や人の運命を示す重要なものとされていたのです。

そのため天体の観測は、単なる知識ではなく、国家を統治するために欠かせない行為とされていました。

皇帝は天命を受けて国を治める存在とされ、天の動きを正しく読み解くことが、政治の正統性にも関わると考えられていたのです。

このような思想の中で、特に重要視されたのが北極星でした。

夜空に輝く星々は時間とともに移動しますが、北極星だけはほとんど位置を変えません。

すべての星がその周囲を巡るように見えることから、北極星は天の中心に位置する特別な存在と考えられるようになりました。

この「動かない」という性質は、単なる天文的特徴ではなく、変わらぬ秩序、絶対的な基準、世界を統べる中心を象徴するものとして理解されていきます。

こうして北極星は「天帝」、あるいは「天皇大帝」として位置づけられ、宇宙全体を支配する存在とみなされるようになりました。

一方で、その周囲を巡る北斗七星は、時間や季節の移り変わりを示す星として重視されました。

北斗七星の位置の変化は暦や季節の指標として用いられ、さらに人の寿命や生死、運命に関わる星としても理解されていきます。

このように、北極星は天の中心として秩序を司る存在、北斗七星は時間や運命の流れと結びつく星々として、それぞれ異なる役割を持ちながらも、密接に関係づけられて理解されていきました。

やがてこの北極星信仰(北辰信仰)は道教の中で体系化され、神として崇められるようになります。

そして、この信仰に仏教思想が取り込まれることで、万物の善悪や運命を見通し、世界を守護する存在としての性格が与えられていきました。

妙見信仰の誕生

ここで生まれたのが「妙見」という考え方です。

「妙見」とは「妙なる視力」、文字通りには「妙なる見識」、すなわち物事の本質を見抜く力を意味します。

それは単に遠くを見る力ではなく、善悪や真理、運命の流れ、さらには目に見えない世界の理までも見通す力を表しています。

宇宙の中心にあってすべてを見渡す北極星の性格に、この「見通す」という意味が重ね合わされることで、北辰は「妙見」として理解されるようになったのです。

さらに、この北辰信仰に仏教の思想が取り入れられる中で、やがて「菩薩」という概念が結びつき、「妙見大菩薩(妙見菩薩・北辰妙見大菩薩)」と呼ばれる尊格が成立していったと考えられています。

こうして妙見信仰は、星への信仰と仏教的な救済観が重なり合う中で形づくられていきました。

妙見大菩薩は、尊星王・妙見尊星王・北辰菩薩など、さまざまな名で呼ばれ、時代や地域によってその姿や解釈を変えながら信仰されていきます。

日本への伝来と飛鳥・奈良・平安の変遷

妙見信仰が日本へ伝わったのは、7世紀頃の飛鳥時代と考えられています。

この信仰は、中国で成立した星辰信仰と仏教が結びついた形で、高句麗や百済などからの渡来人によってもたらされました。

当初は広く民衆に広がる信仰ではなく、宮廷や貴族社会における儀礼の中で重視されていたものです。

北辰、すなわち天の中心にある星を祀ることは、国家の安定や天意を読み取る行為と深く結びついていました。

奈良時代にはすでに妙見菩薩の存在が記録に見られ、正倉院文書には仏像としての妙見が登場しています。

また『続日本紀』にも妙見に関する記述が確認されており、この頃には一定の信仰として定着していたことがわかります。

やがて平安時代に入ると、密教の発展とともに妙見信仰はさらに体系化されていきます。

星曼荼羅を用いた修法や、北斗七星を祀る「北斗供」、妙見を本尊とする「妙見供」などが整えられ、国家や個人の安寧を祈る重要な宗教儀礼として位置づけられるようになりました。

こうして妙見信仰は、宮廷から武士、そして民衆へと広がっていきます。

「軍神としての妙見」武士と妙見信仰

平安末期から中世にかけて、妙見信仰は大きな転換点を迎えます。

それが、武士との結びつきです。

北極星は動かぬ天の中心であり、すべての星がそれを基準に巡る存在です。

この性質は、戦乱の時代において「不動」「揺るがぬ守護」「絶対的な中心」といった意味を持つものとして受け止められました。

特に注目されたのが、北斗七星の一つである「破軍星(はぐんせい)」です。

破軍星は古くから軍を司る星とされ、戦いにおける勝敗や運命を左右する存在と考えられていました。

この思想と結びつくことで、北辰妙見大菩薩は単なる星の神格を超え、戦を守護する「軍神」としての性格を強めていきます。

その結果、武運長久や戦勝祈願を願う武士たちの間で、妙見信仰は急速に広まっていきました。

神仏習合と天之御中主神

中世以降、日本では神と仏を本来同一のものと捉える「神仏習合」の思想が広く浸透していきます。

この考え方の中では、仏は神の本地であり、神は仏の仮の姿として現れるものとされました。

こうした宗教観のもと、妙見大菩薩もまた神として祀られるようになります。

もともと妙見は仏教の尊格でしたが、その性格は北極星という「天の中心」を象徴するものであり、古来の神観とも結びつきやすいものでした。

そのため寺院だけでなく、神社の形式でも祀られるようになり、各地に「妙見宮」や「妙見神社」が成立していきます。

これにより妙見信仰は、仏教と神道の境界を越えた、より広い層に受け入れられる信仰へと変化していきました。

また神社という形をとることで、地域の氏神としての役割も担うようになり、人々の生活により密接に関わる存在となっていきます。

祈願の内容も、国家の安定や戦勝祈願に加え、日常の安全、厄除け、方位除けといった、より身近なものへと広がっていきました。

こうして妙見信仰は、専門的な宗教儀礼の枠を超え、地域社会の中に根づいた信仰として定着していきます。

やがてこの妙見信仰は、日本神話の神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とも結びついて理解されるようになります。

天之御中主神は、『古事記』の冒頭、天地がまだ形をなさない混沌の中に最初に現れる神であり、宇宙の中心を司る存在とされています。

その名にある「御中主」とは、「中心にあってすべてを司るもの」という意味を持ち、万物の根源を象徴する神と解釈されてきました。

一方、妙見信仰の中心である北極星もまた、天の中央に位置し、動かぬ星として宇宙の軸を象徴する存在です。

この「天の中心」という共通の性格から、両者は重ねて理解されるようになっていったのです。

明治時代の神仏分離

さらに明治時代の神仏分離においては、この関係が実際の信仰の形にも影響を与えることになります。

神社で仏である妙見大菩薩を祀ることが難しくなる中で、多くの妙見神社では祭神が天之御中主神へと改められていきました。

これは単なる置き換えではなく、「天の中心を司る存在」という共通の意味を保ったまま、信仰の形を変えて継続するための選択でした。

このように妙見信仰は、時代の変化の中で新たな解釈を取り込みながら、その本質を保ち続けてきたのです。

衣笠妙見神社もまた、こうした信仰の流れの中で「妙見神社」として称されるようになったと伝えられています。

しかし、その由来や祭神については、一般的な妙見信仰の枠組みだけでは語りきれない、この地域独自の歴史と背景が存在します。

衣笠の由来(姫伝承)

「衣笠」という名は、この地に伝わる戦国期の伝承が伝えられています。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の際、この地域にあったとされる重茂山城が落城しました。

その時、城主の姫は落城から逃れるため山中へと身を隠しますが、やがて追手に発見され、最期を遂げたと伝えられています。

このとき姫が身に着けていたとされる菅笠が目印となり、その出来事が後に語り継がれるようになりました。

やがて人々はこの場所を「衣笠」と呼ぶようになり、姫の霊を慰めるために祠が祀られたといわれています。

この祠は後に「衣笠弁天堂」として信仰され、現在に至るまで地域の中で大切にされてきました。

またこの地には、衣笠乳地蔵など「衣笠」の名を持つ信仰の場も残されており、「衣笠」という名は古くからこの土地の歴史と人々の祈りを象徴するものとなっていきました。

そして、衣笠妙見神社に付けられた「衣笠」の名も、こうした伝承と信仰の積み重ねの中から生まれたものと考えられます。

「祭神・尊真親王伝」受け継がれる御霊のかたち

衣笠妙見神社には、もう一つ特別な特徴があります。

それは、一般的な妙見神社のように北辰妙見大菩薩や天之御中主神を祭神とするのではなく、尊真親王(そんしんしんのう)を祀る神社であると伝えられていることです。

伊予国への波及と河野氏の分裂

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政をはじめましたが、武士の不満を抑えることができず、やがて政権は不安定なものとなっていきました。

その中で、幕府討伐に貢献した足利尊氏は次第に後醍醐天皇と対立し、ついには離反して京都に新たな政権を樹立します。

これに対して後醍醐天皇は吉野へと移り、ここに京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ、いわゆる南北朝時代が始まることとなりました。

この争いはおよそ半世紀にわたり続き、全国規模の内乱へと発展していきます。

その影響は地方にも及び、伊予国においても例外ではありませんでした。

伊予国の有力豪族である河野氏一族は、鎌倉幕府の滅亡前後からすでに対立の兆しを見せており、やがて南北朝の抗争の中で二派に分かれて争うことになります。

河野通盛は幕府方として六波羅探題軍に属し、京都での戦いにおいて武功を挙げましたが、一方で土居通増や得能通綱といった支族は後醍醐天皇を奉じて南朝方に属し、元弘の乱(1331〜1333年)や湊川の戦いにおいて果敢に奮戦しました。

このように伊予国では、同じ河野氏の一族が南朝・北朝に分かれて対立し、国全体が南北朝動乱の渦中に巻き込まれていくこととなったのです。

伊予に派遣された三親王

このような情勢の中で、後醍醐天皇は足利尊氏の勢力を各地で食い止めるため、自らの皇子たちを地方へ派遣し、それぞれの地で南朝方の拠点を築かせました。

皇子の存在は単なる軍事的な意味にとどまらず、天皇の血統を象徴することで在地武士の結集を促し、南朝の正統性を広める重要な役割を果たしました。

その一環として、伊予国へも以下の三親王が派遣されました。

  • 尊真親王(そんしんしんのう)
    後醍醐天皇の第六皇子。出家して「蓮明親王」とも称されます。母は藤原氏の出身と伝えられますが、詳細は明らかではありません。
  • 満良親王(みつながしんのう)
    後醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原忠子(中院流藤原氏の出身)と伝えられます。
  • 懐良親王(かねながしんのう)
    後醍醐天皇の第十六皇子。母は阿野廉子(新待賢門院、後醍醐天皇の寵妃)で、正嫡の血筋に属する皇子です。

伊予の大井の浜に響いた南朝の旗

延元元年(1336年)11月、長い船旅を経て三親王一行の船団は伊予へと到着し、野間郡大井浦にある弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)や景島(かげしま、別名:怪島)に船をつけ、その後、大井の浜に上陸しました。

この上陸を迎えたのは、南朝方の伊予国守護であり、河野氏庶流の得能氏に生まれた、得能通綱(河野通綱)の孫、得能通合(河野通合)の嫡男・得能通政(河野通政)でした。

得能通政は大井寺、法隆寺、清林寺を仮宮として整え、伊予へ下向した三親王を丁重に迎え入れました。

北朝方の急襲と三親王の危機

三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王(伊予の南朝方の軍勢)の士気は大いに高まりました。

しかし、北朝方にとっては重大な脅威となりました。

延元元年(1336年)12月19日の夜、増援を募るため各地に散っていた家臣が留守の間を狙い、北朝方の兵三十余名が急襲を仮宮に仕掛けました。

その際、北朝方の急襲を受け、大井寺の義泰法印は、成戒法印(清林寺)や成道法印(法隆寺)らとともに、僧兵さながら奮戦しましたが、力及ばずその多くが討死。

残っていた将兵たちも命を落とし、三親王の陣営は壊滅的な打撃を受けることとなったのです。

幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況となりました。

仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。

そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。

  • 「満良親王」浮穴郡へ退避
    浮穴郡(うけなぐん)へと移り、その地の豪族や在地武士の庇護を受けながら身を隠しました。
  • 「懐良親王」瀬戸内海を渡って九州へ
    その途上、村上水軍の大将・村上義弘によって新居浜沖の新居大島の居館に迎えられ一年間匿われたのち、忽那水軍の大将・忽那義範によって松山沖の忍那島へと移され、さらに三年間にわたり保護を受けました。そして興国3年(1342年)に、豊後水道を経て九州へと送り届けられ、無事に鹿児島へ到達しました。

「尊真親王」この地に残り戦い続けた皇子

このように、それぞれの親王が各地へと移る中、尊真親王は大井醍醐宮を拠点にこの地で戦い続けることを選びました。

四条少将らの忠実な護衛を受けながら、阿波・讃岐両国に勢力を張る北朝方を討ち払おうと軍を整えました。

しかし、負った傷は癒えることなく次第に病のように体を蝕み、思うように戦を指揮することも困難となりました。

それでも親王は南朝方の旗頭として最後まで奮起し続けましたが、延元3年(1338年)3月8日、ついに力尽きて崩御されました。

尊真親王の眠る地と受け継がれる祈りのかたち

親王の崩御後、その亡骸は別当寺であった法隆寺が神主と協力し、藤山(現在の藤山健康文化公園)にある「脇の宮」において丁重に葬られたと伝えられています。

この地は古くから「御陵の山」として知られ、埋葬されたと伝承される場所は「尊真親王の墓・大井陵墓参考地」として宮内庁によって厳重に管理されており、静寂の中に往時の歴史を伝える場となっています。

また法隆寺では、親王の菩提を弔うために阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三尊が造立され、供養が行われました。
その供養は現在も受け継がれ、毎年三月八日には法会が営まれています。

さらに、その御霊は大井八幡宮(大井八幡大神社)に合祀され、現在も地域の人々によって大切に祀られ続けています。

このように尊真親王の御霊はいくつものかたちで祀られ、地域の中に深く根づいていきました。

衣笠妙見神社が尊真親王を祭神としていると伝えられる背景にも、こうした地域における信仰の積み重ねがあると考えられます。

神社に残る十字の痕跡と大西のキリシタン伝承

愛媛県今治市大西地区に鎮座する衣笠妙見神社には、一般的な妙見信仰とは異なる、もう一つの側面が語り継がれています。

それが、この地に残るキリシタン信仰との関わりです。

衣笠妙見神社では、社殿の裏手にある奥の祠の扉部分に、十字架を思わせる形が設けられています。

一見すると装飾の一つにも見えますが、この地域に残る信仰の痕跡を踏まえると、単なる意匠とは考えにくいものがあります。

大西地区一帯には、教会を思わせる石碑や、キリストやマリアを象徴するとされる石造物が点在しており、禁教の時代にあっても人々が信仰を捨てることなく、形を変えて守り続けてきた痕跡が見られます。

その一例が、衣笠妙見神社の近くにある衣笠弁天堂です。

この弁天堂の前庭には小さな石碑があり、かつてその前には姫の墓とともに、十字を思わせる形をした石像が安置されていました。

その石像には人の顔が刻まれ、目や眉、鼻の線が十文字のように見えることから、隠れキリシタンに関わる石像ではないかと考えられてきました。

現在その石像は失われていますが、この伝承は今も地域に語り継がれています。

さらに、この地に伝わる戦国期の姫の伝承と重ねて考えると、城主の娘もまたキリスト教の信仰を受け継いでいたのではないかという見方も生まれています。

こうした信仰の広がりを語るうえで外せないのが、近隣にそびえる重茂山です。

重茂山は「十文字山(じゅうもんじやま)」とも呼ばれ、その名が十字架を連想させることから、信仰を公にできなかった人々が、密かに祈りを捧げた場所であったのではないかと考えられています。

実際にその麓には、キリスト教に関わるとみられる石碑や刻印が残されており、この地域全体に信仰の痕跡が点在していることがうかがえます。

こうした点を踏まえると、重茂山城主・岡部十郎がキリシタン大名であったのではないかとする説も、この地域に残る複数の痕跡を背景として語られてきたものといえるでしょう。

衣笠妙見神社に見られる十字を思わせる意匠もまた、こうした歴史の中で生まれた可能性があります。

それは、信仰を公にすることが許されなかった時代においても、祈りを絶やさず、形を変えながら受け継いできた人々の記憶の表れなのかもしれません。

現在へと受け継がれる祈り

衣笠妙見神社は、平成13年(2001年)の水害により社殿が崩壊するという大きな被害を受けました。

しかしその後、地域の人々の手によって再建が進められ、平成15年(2003年)5月には現在の社殿が再びこの地に甦りました。

妙見信仰、姫の伝承、そして重なり合うさまざまな祈りのかたち。

それらすべてを抱えながら、衣笠妙見神社は今もなお、地域の人々にとって大切な祈りの場であり続けています。

神社名

衣笠妙見神社(きぬがさみょうけんじんじゃ)

所在地

愛媛県大西町山之内1129

主祭神

尊真親王・伝

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