小千命から千年以上受け継がれる信仰
愛媛県松山市勝岡に鎮座する「勝岡八幡神社(かつおかはちまんじんじゃ)」。
瀬戸内海を望むこの神社の参道には、巨大な鳥居がそびえ、参拝者を迎えています。
古くから地域の人々の信仰を集めてきたこの神社。
その歴史をたどると、伊予のはじまりを伝える壮大な物語が浮かび上がってきます。
勝岡八幡神社に祀られる神々
勝岡八幡神社には、八幡信仰の中心となる神々が祀られています。
- 応神天皇(おうじんてんのう):第15代天皇。別名・品陀和気命(ほんだわけのみこと)。全国の八幡神社で主祭神として広く祀られています。武運長久・国家鎮護の神として知られるほか、厄除けや開運、産業振興など幅広い御神徳を持つ神として篤く信仰されています。
- 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう):第14代天皇。別名・帯中日子命(たらしなかつひこのみこと)。応神天皇の父にあたります。神功皇后とともに祀られることが多く、皇室の祖先神として崇敬されています。
- 神功皇后(じんぐうこうごう):別名・息長帯日賣命(おきながたらしひめのみこと)。応神天皇の母とされ、三韓征伐の伝承で知られる人物です。安産・子育て・家内安全・開運などの神として古くから信仰されています。
- 日賣大神(ひめのおおかみ):多岐津姫命(たきつひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の宗像三女神を総称した神です。海上安全や航海安全、豊漁、五穀豊穣などを司る神として広く崇敬されています。
いずれも古くから八幡神として広く信仰されてきた神々です。
さらに、この神社には八幡神とともに、伊予の古代を語るうえで欠かすことのできない一柱の神がお祀りされています。
それが、小千命(おちのみこと)です。
伊予を開いた伝説の人物・小千命
小千命は、史料や伝承によって越智命・乎致命・乎知命・小千御子、白人明神小千命など、さまざまな表記で記される伝説的人物で、孝霊天皇の御孫、または饒速日命(にぎはやひのみこと)の神孫とも伝えられています。
古くから伊予国造として伊予の統治や開拓に尽力した人物として語り継がれ、越智氏の祖神として篤く崇敬されてきました。
その信仰は現在も県内各地に残されています。
大山祇神社には、神武東征に先立って伊予へ渡り、大山積大神を祀ったという創祀伝承や、「乎致命御手植の楠」が伝えられています。
また、大浜八幡大神社や岩崎神社にも小千命にまつわる伝承が残されており、伊予各地にその足跡を見ることができます。
兇賊討伐と「勝岡」の地名の由来
4世紀後半の応神天皇の御代(別の伝承では、神武天皇が東征を行うよりも前に伊予へ渡ったとも伝えられる)、小千命は、伊予国造に任じられ、伊予へ下向しました。
そして、伊予へ下向した小千命は、現在の勝岡八幡神社が鎮座する地にあった白人(うらと・うらど)城を拠点として、伊予各地の統治にあたりました。
ちょうどその頃、堀江方面から「鬼」とも形容されるほど強大な勢力を持つ兇賊がこの地へ襲来し、人々の暮らしを脅かしていたといいます。
小千命は直ちに白人城から軍勢を率いて出陣し、兇賊との激しい戦いに臨みました。
激戦の末、小千命は兇賊を打ち破り、捕らえた賊を白人城へ連行しました。
こうして人々は脅威から解放され、再び平穏な暮らしを取り戻したとされています。
この武功によって小千命は朝廷から恩賞を賜り、勝ち戦にあやかって白人城の地は「勝岡」と名付けられたと伝えられています。
白人宮の創建と伊予国最初の祭礼
小千命による兇賊討伐から、およそ百年後。
小千命の徳を深く敬った人々は、現在の太山寺(四国八十八箇所第五十二番札所)がある小山(松山市太山寺町)に社を創建し、「白人宮(うらどのみや・中野山若宮神社)」として小千命を祀るようになりました。
白人宮では、小千命が兇賊を平定した八月七日を祭日と定め、盛大な祭礼が執り行われていました。
この祭日は「伊予国最初の祭日」とも伝えられ、祭礼が終わるまでは伊予国内の他の祭りを行うことができなかったとされるほど、特別な意味を持つ神事として受け継がれてきたといいます。
しかし、永享年間(1429~1441年)の戦火によって、白人宮の神殿や社記、宝物はすべて焼失してしまいました。
白人宮から勝岡八幡宮へ
それでも小千命への信仰は絶えることなく、文明年間(1469~1487年)にこの地の人々は白人城跡である現在の勝岡の地へ御神体を遷し、現在の勝岡八幡神社の裏山にあたる高月山へ遷宮したと伝えられています。
その際、宇佐神宮から応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・日賣大神の八幡神が勧請され、小千命とともに祀られるようになりました。
こうして神社は「勝岡八幡宮」と称され、新たな信仰の中心として地域の人々から篤く崇敬されるようになります。
実は、今治市の大浜八幡大神社には、小千命の偉業をたたえ、その御霊を八幡神として祀ったとする伝承が残されています。
勝岡もまた、小千命が白人城を拠点として土佐の兇賊を平定したゆかりの地です。
そのため、勝岡八幡宮においても、小千命の武功を顕彰する信仰が八幡信仰と結び付き、小千命が八幡神とともに祀られるようになった可能性も考えられます。
また、勝岡八幡神社では、宇佐神宮の祭神には含まれない仲哀天皇が祀られていることも特徴の一つです。
その理由は明らかではありませんが、仲哀天皇は応神天皇の父であるとともに、小千命の大伯父にあたると伝えられています。
そのため、小千命との系譜的なつながりを重視し、八幡神とあわせて祀られるようになった可能性も考えられます。
「勝岡八幡神社」への改称
時代は進み、明治を迎えると、日本の神社を取り巻く環境も大きく変わっていきました。
明治維新後、政府は神仏分離政策を進めるとともに、全国の神社制度を整備し、神社の名称や祭祀のあり方も新たな時代に合わせて見直していきます。
そうした時代の流れの中、明治3年(1870年)、神社は「勝岡八幡神社」へと改称されました。現在も地域の人々の篤い崇敬を集めながら、その歴史を今に伝えています。
勝岡八幡神社を支えた人々と社
勝岡八幡神社の歴史は、御祭神だけでなく、神社を支えてきた人々や地域の信仰によって今日まで受け継がれてきました。
「柳原霊社」七代の神職を祀る
境内に鎮座する柳原霊社には、元禄10年(1697年)から明治15年(1882年)まで、およそ二百年にわたり七代にわたって勝岡八幡神社に奉仕した柳原家歴代神職の御霊が祀られています。
柳原家は、『柳原家記』によれば、藤原氏の祖・藤原鎌足の流れをくむ公家・柳原家の一族であると伝えられています。
室町時代、権中納言・柳原資光の子孫が風早郡へ移り住み、「柳原殿」と称したことが始まりとされ、その後、慶長年間(1596~1615年)頃から勝岡八幡宮の神職として奉仕するようになりました。
初代・柳原出雲守安長以来、七代にわたって代々神職を務め、祭祀を執り行いながら地域の信仰を支え続けました。
なかでも七代目・柳原好丸安細は、天賦の才能に恵まれ、人格・識見・手腕に優れた神職として人々から深く敬われたと伝えられています。
しかし、明治15年(1882年)9月7日に逝去し、柳原家による神職の歴史は幕を閉じました。
その後は武智家が神職を継承し、現在まで勝岡八幡神社の祭祀が受け継がれています。
昭和57年(1982年)、七代にわたって神明奉仕を続けた柳原家歴代神職の功績を顕彰し、その御霊をお祀りするとともに、その由緒を後世へ伝えるため柳原霊社が建立され、今日まで大切に祀られています。
「たごり神様」病気平癒の信仰
「たごり神様」は、もともと地域の民家に祀られていた小さな祠でした。
伝承によれば、風邪による激しい咳(たごり)が止まらなかった孫のために、祖母が三日間参拝を続けたところ、病が快癒したことから、人々の信仰を集めるようになったといいます。
その後、昭和57年(1982年)に現在の境内へ遷座されました。
現在では、病気平癒、とりわけ咳や喉の病に御利益があると伝えられ、多くの参拝者が健康回復を願って訪れています。
「白石龍神社」海と人々を見守る境外末社
白石龍神社は、勝岡八幡神社の境外末社として松山市高浜町白石に鎮座しています。
御祭神は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)の三柱です。
創建年代や由緒は明らかではありませんが、古くから五穀豊穣や漁業繁栄を守護する神として篤く崇敬されてきました。
伝承によれば、社殿の修築は和気郡が担い、祭礼には和気郡代官が出向いて奉行を務めるなど、地域において重要な信仰の場であったとされています。
江戸時代には、寛政7年(1795年)に社殿の修理が行われ、文化9年(1812年)には暴風によって大きな被害を受けたため、官の許可を得て社殿が再建されました。
明治4年(1871年)には無格社となり、明治23年(1890年)には本殿が現在地へ移されるとともに鳥居が建立されました。
旧社殿があった場所は、現在も「元社」と呼ばれています。
その後、昭和7年(1932年)に拝殿が建立され、昭和26年(1951年)には宗教法人として登録されました。
しかし、平成3年(1991年)の台風19号では本殿や鳥居が倒壊する大きな被害を受けます。
翌平成4年(1992年)には社殿や鳥居、境内の復旧工事が完了し、現在も地域の人々の厚い信仰のもと、大切に守り継がれています。
勝岡八幡神社の秋祭り
勝岡八幡神社では、古くから受け継がれてきた神事が今も秋祭りで執り行われています。
なかでも「一体走り」と「川狩り」は、この神社を代表する神事として、多くの人々を魅了しています。
神輿一体が駆け抜ける「一体走り」
勝岡八幡神社の秋祭り最大の見どころが、「一体走り(いったいばしり)」です。
七体の神輿が次々と参道を駆け抜けるその姿は、県内でも類例の少ない勇壮な神事として知られ、昭和48年(1973年)には松山市指定無形民俗文化財に指定されています。
しかし、一体走りは単なる神輿の競走ではありません。
その背景には、古代から受け継がれてきた勝岡の歴史と、人々の祈りが息づいています。
その起源は、平城京の時代にまでさかのぼると伝えられています。
当時の勝岡は遠浅の海が広がり、良質な食塩の産地として知られていました。
勝岡八幡宮は朝廷から厚く崇敬され、宮号とともに菊花紋章を賜り、特産品である食塩を朝廷へ献上していたと伝えられています。
その際、和気浜沖に停泊した御用船まで、裸の若者たちが神輿や辛櫃(からひつ・唐櫃)を担いで遠浅の海を走り渡ったことが、一体走りの始まりになったといわれています。
また一説には、小千命へ奉納する五穀や海の幸を納めた辛櫃を、潮の満ち引きを見計らいながら若者たちが勇ましい掛け声とともに運んだことが起源とも伝えられています。
いずれの伝承も、海とともに生きた勝岡の人々の暮らしと信仰を色濃く伝えるものです。
こうした神事は江戸時代にも受け継がれ、宝暦4年(1754年)の『和気郡代官所日記』には「勝岡八幡宮宮出走込み」と記されており、少なくとも江戸中期には「走込み」として行われていたことが史料から確認できます。
現在では、秋季例祭の宮出しの後、各地区から選ばれた神守(しんもり)と呼ばれる十人ほどの青年たちが、鉢巻・襷・褌姿となり、一体ずつ神輿を担いで約100メートルの参道を一気に駆け抜けます。
一体走りで最も重要なのは、速さではありません。
神輿を上下左右に揺らすことなく、美しい姿勢のまま水平を保って走ることが理想とされています。
激しく疾走しながらも絶妙な均衡が保たれた瞬間には、神輿に付けられた神鈴がほとんど鳴らないともいわれています。
まるで神を宿した神輿と担ぎ手の心身が一つになったかのようなその姿は、「神人一体」の境地とも称えられ、勇壮さの中にも神聖さを感じさせる、勝岡八幡神社ならではの神事となっています。
神輿を清める伝統神事「川狩り」
勝岡八幡神社の秋祭りには、一体走りと並んで古くから受け継がれてきた神事があります。
それが「川狩り(かわがり)」です。
川狩りは、安城寺町の青年頭取や神守たちが褌姿となって神輿を久万川へ担ぎ入れ、流水で祓い清める神事です。
その由来は、勝岡八幡神社の旧神職・柳原家に伝わる伝承にあります。
昔、安城寺にあった柳原家の屋敷で祀られていた金無垢の御神体を勝岡八幡宮へ遷そうとした際、神輿は石段の下までは進んだものの、その先へは何度試みても上ることができませんでした。
困り果てた人々は、神輿を川で洗い清めてから再び担ぎ上げることを思い立ちます。
すると、それまで全く動かなかった神輿が、不思議なことに容易に石段を上ることができたと伝えられています。
この故事にちなみ、安城寺の人々は久万川を「祓川(はらいがわ)」とも呼び、以来、神輿を流水で清める川狩りが神事として受け継がれるようになりました。
しかし、昭和42年(1967年)、久万川の水質悪化により川狩りは中断を余儀なくされます。
それでも地域の人々は、この伝統を絶やしてはならないとの思いから復活を願い続けました。
その願いは実を結び、平成12年(2000年)、「愛媛県ふるさとの川づくり事業」により専用の川狩り斎場が整備され、33年ぶりに川狩りは復活を遂げました。
現在では、一体走りが終わった夕刻、神輿を担いだ青年たちが川へ入り、水しぶきを上げながら神輿を清める姿が秋祭りの名場面となっています。
流水を浴びながら神輿を担ぐその姿は、神を迎えるために身も神輿も清めるという、日本古来の禊の精神を今に伝える貴重な神事でもあります。
千年以上受け継がれる勝岡の伝統
一体走りと川狩りは、単なる祭礼ではありません。
古代から続く小千命への信仰、海とともに暮らしてきた人々の営み、そして地域の誇りが一つとなって今日まで受け継がれてきた、勝岡八幡神社を象徴する神事です。
勇壮な走りの中に宿る神聖さ、そして川で神輿を清める祓いの儀式。
その一つひとつには、千年以上にわたって受け継がれてきた勝岡の祈りと歴史が、今も静かに息づいています。



